抽象とも具象とも言い難い劇であった。私が見た中でのテーマは、「愛」だと思う。それは、親子の愛であったり、それは、家族の愛であったり、それは、恋愛であったり、それは、友達の愛であったりと様々な形で伝わる愛があった。
舞台の色が青が中心となっていて、その中にもオレンジ色などもあったので、家の雰囲気と、湿った雰囲気が作れていたと思った。小道具は白が主で、下のほうは紫の色になっていて長く雨漏りが続いているということが分かった。舞台の上だけでなく、下手の奥のほうや上手の奥のほうも雰囲気に合っていて、ではけの役割を果たすと共に、役や場面の雰囲気を一変させたりしていてとても不思議な劇だな、と感じた。
お母さんが男だったのはとても面白かったし、意外とわからないんだなと思った。それに、上杉さんは犬のはずなのに、人間が演じていると共に途中でみんなの前にでて二足歩行で歩いて話しているのはびっくりした。そして、上杉さんが話すことによりモノローグが始まるんだな、という自分の切り替えもできた。お兄ちゃんと、りょうちゃんの演技が自然で、まるで自分もその家にいるかのような気持ちになれた。
途中から、キーンとした音が流れ、男性キャストが動くシーンは、何を表しているのか気になった。感情を体で表しているのか、明るい会話の中での闇を表しているのか、そこの考えが広がってきて面白かったが、最終的にわからなかったので気になった。そこのシーンは本当に体力を使っているのが、劇場の中が汗の匂いなどから視覚だけでなく他の五感から臨場感が伝わってきた。物語が進むにつれ、皆が表すかゆみと、それぞれの問題が出てきて、明らかになっていく。私の頭の中は、その問題が交差して、絡み合っていた。そして、皆の共通の問題が出てきた時、キーンという不穏な雰囲気になり真相がちょっと見えて、皆が疑心暗鬼になったシーンは、どうなっているんだ?というドキドキが止まらなかった。しかし、最終的に、みぃははたして何者なのか、一人ひとりとどういう関係だったのか、みぃはどうでもいいのか、皆の頭から感情が消えたのか、そして、なぜみんなは最終的にあのような形で終われたのか。という疑問が浮かんだまま、劇が終わった。私だけかもしれないが、劇の中に部分的に(あの不穏のシーンは特に)入り込めなかったし、あっちゃんのことやゆきのことはよくわかったが、後半が中々理解できないところが多かった。
舞台の設定や、擬人化や雨漏りの設定など、興味が出て、とても面白かった。演技も一人一人の個性が出てきていて演技の参考になった。
じめじめ。雨漏りの酷い一軒家、そこへ家族が徐々に集まってくる。
私達の妹は何処に行ったのか。
役者の自然な演技。その場に自分がいるかのような親近感。自分は家族ではないはずなのに、自分自身もまた、みーちゃんに手を掛けてしまったような罪悪感に襲われた。
むずむず、バリバリ、複雑なようでどこか簡潔な人間関係とそれぞれの感情が音となり身体で表現される舞台は私達にとって新鮮であり、胸が高鳴る。幼い頃は駄々を捏ね、叫んで感情を伝えたものだが、滅多に感情を表に出さない大人達が演じるそれは見ていてとても緊張した。
私にも10程離れた兄が2人いる。私が小学高学年になった辺りから、彼らはポンポンと2人は独り立ちしていった。今時々会うと、私はその時から時間が止まったように扱われる。それが嫌で堪らなくて、久々に兄妹が揃った家を飛び出した事もある。
自分とみーちゃんが重なった。もし兄にそんな目で見られていたらと想像すると、気持ちが悪くて仕方がなかった。
このまま水浸しになって、腐っちまえばいいんだよ。
ラストの皆でみーちゃんのケーキを囲むシーンでは前の論争も腹を割って話す事で笑い話となった。
見終わったあとの爽快感は言葉に表せない。
だがしかし、肌に纏わりつく何とも言えぬ空気は会場の外に出ても余韻となって残っていた。
このじめっとした空気を作り出したのはバケツに溜まって蒸発した雨であり、また紛れもなく、蒸発してしまったみーちゃんなのだ。
その空間に一歩足を踏み入れると、しとしとと雨の音が心地良く響き渡っていた。青い照明に照らされた舞台に目をやると、白く浮かび上がる鍋やゴミ箱から水滴の落ちる音が聞こえた。その自然の音は、他には変えられない程静かに、規則正しく鳴り続けていた。
そんな時を忘れそうな空間から舞台は始まる。
物語は、消えた妹「みーちゃん」の話を主に、様々な罪をなすりつけ合う“バカ”な大人達によって進んでいく。彼らの歯に衣着せぬ発言によって、それぞれの持つ問題が段々と明らかになっていく。その際に感情が高ぶると起こる、全身を使った激しい動きはとても面白い。
そ んなズバッと言い放つ言葉の数々の中でも「家族じゃない」という言葉が私の胸にひっかかった。血が繋がっていれば家族といえるのか?ずっと遠くにいた身内 よりも、側にいた隣人の方が家族により近いのではないか?「親子と家族は違う」この言葉が私の心を少し楽にし、そしてより深い思考に突き落とした。家族と しての縁は切れても、親子の縁は切っても切れないだろう。自分に流れている血を全て入れ替えるなんて、不可能であるから。
失うまで大切だと気づかない程近い存在。あの中で蒸発してしまったのはおそらく、溜まった雨水だけでも消えたみーちゃんだけでも無いのだろう。
最後に皆でケーキを囲み、今までのことを笑い話にしながら、雨上がりの空のようにさっぱりと終わる。
が、しかし。そんな爽やかさから覚めると何も誰も明瞭になっていないことに、はたと気付く。
そのモヤモヤ感に浸るのが心地よくもあり、苦しくもあり。でも確かにもう一度味わいたいと思える不思議な感覚に襲われた。
物も壁も床も全て真っ白な舞台。水が上から滴り、容器の中へ。この風景から芝居は始まる。明かりによって舞台は部屋だと分かる。この芝居は、主人公が一体誰なのかわからなかった。一人一人色んなことを抱え込んでいた。とすれば、全員が主人公なのかもしれない。そう見えた。この芝居は簡単にはストーリーを掴ませないように見えた。ただ、何かを伝えたい。そう見えた。題名も、何故「蒸発」なのか、実はわからなかった。
外は一週間も、雨である。みんなのストレスは溜まり、怒りの放ちあいへ。一人一人抱えるものが違うように、一人一人の怒りの矛先と表し方が違った。この芝居の肝なのだろう、ある人は、体を捻りながら、またある人はブリッジの態勢で。その過剰な表現から、一体何を救い取ったらいいのか分からないが、その動きからその人の怒りや苛立ちは、ダイレクトに伝わる。目の前の動作の激しさには無駄があるかと思いきや、「伝える」ことに関しては、全然無駄なんて一つもなかった、と思い直す。展開上、ひっかかる所がない訳ではない。最後はみんなケーキを食べながらの「ハッピーエンド」。はたしてこれは「ハッピーエンド?」と疑問符がつく感じもある。
それにしても芝居の不思議な世界観に拍車をかけるのは「上杉さん」と言う名の犬である。上杉さんは、みんなから撫でられたり、話しかけられたりする。上杉さんも、この芝居の設定について補足したり、展開を促したりする。みんなと上杉さんとどこまで深くつながり、彼女の声をどこまで自分の心に届かせているのだろうか。そもそも、上杉さんは何処からやってきたのだろうか?そしてどこに行くのだろうか。単純に言葉では表すことができない淡い味わいを残す。
その日はいつもよりちょっと涼しい日だった。私自身はいつもと変わらずドキドキしながら劇場に入る。できるだけ客席の真ん中に座り周りを見渡す。舞台は真っ白だった。壁も舞台上も道具も。天井からは水がポツン、と滴っていた。眼の前に準備された、それだけの劇空間に、私はなにが始まるのやらと考え、アナウンスが入ってからも、どんどんドキドキが高まっていくのを感じていた。
白い壁はスクリーンなのだった。音響効果と照明効果が緻密に上手く組み合わさっていて、芝居への没入の度合いは一気に高まる。
役者がぞろぞろと現れ、ではけの際は上手下手に別れるが、役者の待機する様も見せ、緊張感を切らすことなく芝居が進んでいった。 それにしても個性溢れるキャスト。そして役者達の感情の起こし方、感情の切れ目の見せ方、ぶつけ方。私は「凄い」と「面白い」の混ざった気持ちで、見入っていた。ただ、激しい動きによって、音としての声は聞こえるのに何を言っているのか分からない部分が何箇所あり、悔しさとちょっとした寂しさを感じた。芝居は徐々に激しさを増し、エネルギーを見せつけた。役者、照明、音響、演出、最後まで私は、その凄さを一つ一つ確かめるように見ていた。
ただ途中、疑問が―変な所でそれも取るに足らない疑問が―浮かんだのも確かであった。例えば、冷蔵庫からケーキを取り出す際の開けっ放しにされたその扉。はたして、観る者を迷い込ませるような意図があるのだろうか。だとしたら、自分はその意味が上手く理解できなかったのだろうか。
しかし結局は、今演劇シーズン中、私は一番好きな芝居だった。犬の「上杉さん」の存在感と印象の強さが、その理由に一役買っている。
その日はいつもよりもちょっと涼しい日であったにもかかわらず、心から燃えるような熱さを覚え、会場を後にした。
蒸発。タイトルとコピーだけを見てなんだか歪んだハートフルさを感じ、フライヤーの絵の女の子の目が心を締め付けてこれからどうなるのだろうかとどきどきしながら会場へ向かいました。
まずはじめに驚いたのは客と演者の近さです。劇と言えば劇団四季しか見てこなかった僕にとってそれはとても衝撃的でした。演者が一メートルも離れていない場所にいるそれがひとつめの驚き。舞台がはじまるまではじまってからもずっと上から水滴が落ち続けていてその音も空間を彩っていて一言も話さないで聞いておきたかったようなそんな感じでした。ずっと見ていたかった。いられた。
激しい雨の音とコンクリートに映し出される映像。コメディタッチの立ち上がり。距離が近いこともあり一瞬で吸い込まれました。舞台は家、でした。まっしろのバケツやらがおいてあるだけで全く生活感がないはずなのにそこに人がいて生活しているのだとすごくしっくりきました。かけ合いも違和感がなく生きているなあ、生きているなあと思っていたらいきなりの衝撃。音響が激しくなって照明も変わって役者さんの動き
ああ、これがイントロさんの演劇なのだとぴんときました。あきらかにおかしいはずなのに何事もないかのように話は進んでいく。家族、家族。普通の家族だと思っていたのに。家族じゃないじゃん普通じゃないじゃん。みんなちょっとずつ歪んでる。ちょっとずつわかっていく(最後まで曖昧だけど)。時折訪れる音響と照明ががらっとかわるとき、とても怖かったです。あれはキャラクターの心情なのでしょうか。それとも現実?どちらにせよ抉られました。見てるのが辛かった。
みーちゃんはどうしたの?大切な妹がいた。誰も知らない。どうなったかもどこにいるのかも。大切なのになにかを間違えた。この演劇はそれをすべて許しあうための儀式のような気がしました。最後、みんなでホールケーキを食べる。そういえば今日はみーちゃんの誕生日だった。一ピース残してあったのが少し切なく嬉しく。とても醜くそしてきれいな演劇でした。
会場に入ると、スタッフの方に「若い人は遠慮はいらない」と勧められ、前の方で観劇できた。舞台を見ると、鉄格子のような装置や天井につるされた着物があり、青いあかりが舞台を照らしていた。そして一人の男性がゆっくり円を描いて歩いている。アナウンスを合図に、その人ははけて 、照明が落ち、劇が始まる。最初の感情は、ただ単純に「怖い」だった。
私は始まって20分ぐらいの段階では、すぐには理解できなかった。離れ離れに過ごす母子はお互い「訳あり」である。その「訳あり 」を深くなぞるような曲想 、演技、演出。奥の深い井戸をうっかりのぞき込んだ時のような、えも言われぬ迫力。イメージの洪水。訳の分からないまま進んだ前半、それが理解の枠にはまる後半。しかし、依然、迫力はそがれることがない。
派手であったり抑えたりメリハリの利いた衣装。存在感にあふれ、その使い方でさらにそれが増した鉄格子。緻密で肉体訓練のたまものであるさまざまな動き。正直、自分にはこの域にはたどり着けないという思いもあったが、理解をしたのではなく、私はただ単純に「すごい」と思った。
こうして帰路につきながら、理解と不理解の間で高揚感を覚えながらも、芝居中は気にしなかった劇中の作為にあらためて気づき、その気持ちはさらに強くなる。気づきはそのまま、私たち学校の場で芝居を学ぶものにとってはヒントでもあるが、眼前で受けたあまりの迫力にいまだ整理できずに今にいたっている。
※この劇評は8月20日(木)付の北海道新聞夕刊「アート評に挑戦!」にも掲載されました。
この劇場に入った時の空気は、これまで他の劇場とは全然違う空気に感じた。舞台上には一人の男性がゆっくり、ゆっくりと歩き回っていた。吊り物として着物が二、三着ほどぶら下がっており、目の前には木製の格子があった。奥には仏壇らしき物が配置してあった。そしてこの空気。
芝居が始まると、袖からぞろぞろと人が出てくる。着物を着ている人や、セーラー服、学ランなどを着ている人などなど。演者ははほとんど四十代近く、またはそれ以上の歳の人たちなのであろう。正直、このような役者構成の芝居に親しんだことがない。しかし、そこからの先入観に入り始めた自分の意表をついて、動きが「凄い」。キレ、スピード、バランス力。本当のエネルギーとは何かを知る。若いだけでは、到底真似出来ないようなことを目の前で見せつけられたのだった。
空気と衝撃、面白いというよりも、不思議な感覚が先行する。感じるものだから、観た人にしかわからないものではあるが、私は魅了された。
作者の寺山修司さんについて、私は知らない。しかし、彼を知りたいという気持ちがずっと自分に付きまとっている。彼の人となり、演劇界への影響力、作品、そして47歳で若くして亡くなられたこと。今回の「青森県のせむし男」は昭和42年に上演されており、今こうして引き継がれている。いつの時代も彼の芝居を切望し、衝撃を与えてきたという事実。かつて上演された時の空気感は、どのようなものであったのかはわからないが、私が今回観たものは、かつての空気感とそれほど違わなかったのではないかと確信している。
会場に入った瞬間から伝わる舞台の迫力。舞台上では男性が一人、客入れ始まってからずっと同じ動きをしていた。よく見ると男性の体には汗が滴っていた。気づくのは私だけではなかっただろう。その時点ですでに、舞台が人を惹き付けている。
薄暗いあかりの中で芝居ははじまった。まがまがしい雰囲気を持って並びながら出て来る。そのなかでも印象的なのは役者の目であった。瞬きもせず、目で訴えてる感じがして迫力も倍増する。私もそれに負けじと瞬きが出来なくなるほど食いついて観てしまった。
演出は、この芝居は親子の関係が複雑で、母性増悪と父性偏愛のテーマがこの芝居を貫いている。そして、現代のギリシャ悲劇「子殺しなカタストロフィ」で一致している…という。正直私は、観ている最中にはすぐには、理解できなかった。しかし、この芝居がイメージするもの、この先の悲劇…。感じ取るものであふれていた。せむし男は女性の方が演じていた。性別のくびきを意味のないものにする、力のある演技。
私は寺山修司の世界観をのぞいてしまったのだ。恐る恐るではあるが、もう一度その世界観を感じたいと思うようになっている。役者の人物の造形の仕方、芝居の世界観を十分に支える衣装、メイク、セット…。高校で芝居にいそしむ自分にとって学ぶべきところが多かった、という意味でも、もう一度瞬きもせず見たいと思う芝居であった。
恐る恐る芝居を振り返るが、不思議と頭をかすめる一言は、「全て綺麗な芝居だなあ」なのだった。
大人たちが全力で、強引に、豪快に、下ネタを用いて、観客の笑顔を作り出す。
演出家・作家・役者の、その貪欲さに終始釘づけであった。
パインソーのお芝居は何度か観たことがあったが、「れんぞくきかく」を全話制覇したのは今回のフリッピングが初めてで、これは舞台演劇と連続ドラマの良い所取りだと感じた。というのも、同じタイトルの違う話を定期的に続けて公演することで、演劇を身近に感じさせる。さらに1話完結のため、友人にも勧めやすい。特に演劇シーズンでは中高生無料招待というスペシャルチケットがあるため(ありがとうございます)、多くの若者が演劇の魅力を感じることができる。
開演前から期待値をどんどん上げてくれるあらいふとしさんの曲が流れており、各話少し違う舞台セットを眺めながらわくわくする。ここであの従業員たちがどんな面白いことをするのだろうとハードルをグンと上げる。開演。観客の笑顔に貪欲(すぎるほど)な役者の全力な下ネタ。そして映像と音楽とダンスが混ざったポップでカラフルなオープニング。この時点で開場中に上げたハードルは軽く超えられる。あとは、世界観に浸かってありのままに大爆笑、あっという間にカーテンコール。エンターテイメントとして、最高である。
といっても、失礼な話かもしれないが、役者はみな(良い意味で)キチガイである。キチガイという表現が適切でないならば、(あくまで良い意味での)「笑いに貪欲な狂ったおもちゃ」である。第1話の序盤はその役者の貪欲な様に若干ついていくのが大変であったが、すぐにフリッピングの貪欲さに身を任せることができる。これは生の舞台演劇だからなのかもしれない。
とにもかくにも、楽しかった。札幌の多くの若者に「れんぞくきかく」に触れてほしいと強く願う。深夜枠のテレビドラマをみるような、そんな気持ちで。
その日は暑い日だった。スタッフに丁寧に案内されて会場に入場する。観客への細かな気遣い。あらかじめ明りに照らされている舞台。心を躍らせながら始まりを待つ。アナウンスが入る。その瞬間、ワクワクはドキドキに変わる。会場内に流れる曲が高まり、照明が落ちていく。しばらくの静寂ののち、フッと明かりが舞台を照らす。玩具工場。舞台中央で寝ている一人の男性、上手ドアから目を引きつける女性が現れる。舞台上を探索する女性の足音と女性が背負っているリュックにぶら下がる玩具がぶつかり合う音だけが響く。ただそれだけで目や気持ちはすでに惹きつけられている。…私は、劇場に入ってからこの芝居の冒頭まで、小気味よく劇空間に浸っていた。
どんな状況にあっても丈夫な玩具のように「生きてしまう」奇跡の男、持っている玩具が壊れてしまえば現実世界でもその状況を「壊してしまう」女。二人は出会い、倒れかけた玩具工場の再建に力を合わせる。それからというもの、小気味よさは残しつつも、じっくりと人を描きながら進んでいく物語、にぎやかにキャラクターも増え、私は笑ってばかりだった。玩具工場とはただの設定ではない。玩具で繋がる人たち、見え隠れする人生の真実、奥深さに感心しつつ飽きず楽しめる舞台に、私は感動すら覚えた。
一見しての軽みに紛れることなく、台詞と台詞の間のとり方、抑制しつつも観客にしっかり伝わる台詞、役者として私がヒントとすべきことがたくさんあった。最初から最後まで真剣に「笑い/笑わせる」とはなんと凄い劇なのだ、と思う。終演後のスタッフの素早い仕事ぶりを見るにつけ、私はさらにこの芝居と劇団のファンとなり、会場を出て行った。
玩具を壊すと災いをもたらす悪魔の子だと言われてきた社長の娘・風間と、事故や災害に巻き込まれても一人だけ生き残る奇跡の男・染井が、玩具工場で出会い、自分たちの作るものが売れなくとも、誰かを救う力があるかもしれないと信じている…そんな話。
冒頭から、登場人物が二人の掛け合いがとても面白かった。玩具や遊具にはいろいろあるが、それはまるでジェットコースターに乗るかのような。そこから登場人物がどんどん増えてきて、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような、笑いのオンパレード。時々入る下ネタ、そして驚きのアドリブ(ネタバレになるので書けないが、染井がかわいそうになる)。芝居を進める、観客を沸かす、その手数の多さに驚くが、やはり登場人物の個性の多用さ。テンションの高さと低さといった書き分けだけではなく、一人の中に内在するツッコミ気質とボケ気質をしっかりと描き、それらが有機的にからみあい人間関係をあぶりだす。
笑いもさることながら、役者の運動量にも目を見張る。常に舞台の空気を動かしていて、それだけに静寂が効果的であったりするのだが、ただの運動ではなく、演技としての緻密さを感じさせる。「この表現、この動き、このミザンスへの気遣い」を自分たちの芝居に取り入れたいと思うことが多々あった。
今回、観たのは全3話中の1話であったが、きっと2話目も3話目ももっと面白いに違いない。今期間ではすべてを観ることができなかったが、再々演の機会があれば、それらも是非見てみたいと考えている。
夏の蒸し暑い中、会場に入る。そこには涼しい風、そして舞台上にはたくさんのダンボール箱が積まれている。明かりがつき芝居が始まる。一人の男性が舞台の真ん中で寝ている。そこへ入ってきた女性。女性は何か目的があって来たらしいのだが、目的の人はいない。女性は仕方なく男性に話しかけた。そこから90分ギャグコメディーが始まる。この芝居は「在ること・居ること・出会うこと」にじっくりと時間をかけ、一方で小気味よく進み、それらは私を刺激する。
女性がリュックにたくさんつけていた玩具は、彼女の想い出の品、そしてそれはこの玩具工場へ来た理由でもある。彼女の人生は玩具屋の娘でありながら、それを壊してしまうと事故が起こってしまうという皮肉を孕んでいる。そんな彼女がさらに皮肉な人生を送る男性と出会うのである。それだけでワクワクせざるを得ない。
劇の中ではあの手この手の観客を笑わせる手段がたくさん(下ネタもその一つ。決して嫌な思いはしないが)。舞台上がおもちゃ箱なのではなく、我々を含む会場がおもちゃ箱なのである。笑いながらも、ハッとその裏側の深さに気づく瞬間も多い。ストーリーが進むごとに登場人物が増えていくが、決して客を混乱させない人物造形の濃さと深さに私たちには学ぶことがたくさんあった。役者は全身の隅々まで意識をしていて観ていても飽きない。技術に裏打ちされた、その独特な世界観に時間は瞬く間に過ぎて行った。
『この、玩具工場が作るもの…玩具ではありません』。この芝居のキャッチフレーズであるが、人と人とのを繋がりが作られる様を観る芝居でもあると思った。2人から4人、そして5人…。このお芝居は第三話まで続くが、第一話だけでここまで個性的な5人の役者が繋がったのである。第二話、第三話となれば、どこまで繋がりは広がってしまうのか気になってしようがなかった。
私が観劇したのはパインソー「フリッピング」第3話。玩具を壊すことで災いをもたらす能力を持つ、玩具会社「風間製作所」社長の風間を中心に、様々なキャラクターが織り成すコメディ作品、全3話構成の最終話だ。
ひょんなことから製作所に閉じ込められた従業員達を襲う、突然の豪雨。雨は街をも浸食し、危機的状況に晒された彼らに舞い込んできたのは「呪いの人形」の噂。この状況は呪いによるものなのか。彼らの運命やいかに…と、ハラハラドキドキも感じさせる内容だった。
初めは映像を使った賑やかなオープニングで観客を引きつけ、そして大人達が暴れまくる。なんて大人達だ!と思わせんばかりに暴れまくるのだ。テンポの良いやりとりに、劇場は瞬く間に笑いの渦に包まれた。そんな中、シリアス展開を不意に持ってきて観客をより芝居に引き込ませる。感動かと思ったら笑い、というシーンには観客側の気持ちが振り回されるほど。物語後半では、壊れゆく製作所に一人取り残された風間に落ちる大量のネジの演出が、従業員達から「呪いの人形」と謳われた風間の存在を一層不鮮明にした。明転後の舞台上、風間のいた場所に佇む人を模った金属の塊。風間は何者なのか。誰も触れない不気味なそれが、観客に全てを物語っている気がした。風間が度々どこからかネジを落とす場面も、劇中ではさらっと流されるが観終わって振り返るとぞっとする。直接語られないところまで深読みしてしまうような、考え抜かれた作品であった。
そんなシリアスとコメディを交えながら、沢山の登場人物が舞台上をまるで水を得た魚のように動き回る。役者達のドタバタと暴れる音が客席にまで響いてくるのだ。これが本当のドタバタコメディと言うのだろう。時にふざけ、時に真剣。真剣に、ふざける。こんなにパワフルな大人達を今まで演劇で観たことがあっただろうか。大人の本気は良い意味で怖い。際限のない勢いに、私は圧倒されるしかなかった。
あるおもちゃ工場が無くなる。そこの従業員と工場に関わりのあった人達が工場最終日パーティーのために集まってくる。ひょんなことからパーティー参加者一同は工場に閉じ込められ、外への連絡手段も失ってしまう。外は避難警報が出るほどの豪雨である。このままでは工場も洪水で流され、皆死んでしまうというのでやけになった人達はこのひどい状況の原因は今は亡き工場の社長の、従業員として働いている娘、風間の持つ不運を呼ぶオーラであると決めつけ、状況打開のために風間を殺そうとする。しかし、ラッキーな男染井はそれを制止し、逆に風間の力を利用して工場を破壊し、脱出しようと試みる。だが、皆が助かったとき、風間はそこにはいなかった。気候が安定し、皆が風間を探しに工場に戻ってきたときには散乱したゴミと一つの金属塊しかない。ベルトコンベアーの先から現れた風間を発見し、皆安堵した様子で帰っていくが、それはかつての風間ではない。金属塊からチップを見つけたその風間は自分の頭にチップを差し込む。風間の記憶が蘇り、かつての風間を取り戻し、舞台は終わる。
従業員として働いていた風間は実は社長である父親の呪いによって作られた人形だったのだ。その呪いの力のために風間は不運を背負わされた人間(人形)だった。そんな風間自身は工場で働いていたときは幸せを感じていた。しかしその風間も金属塊になってしまう。舞台に置かれた人間味など一切無い、銀色に照るその金属塊はとても美しく、そしてそれがまたとても悲しげだった。「これは本来の私の姿ではない!」と叫んでいるようでもあった。
私はあの金属塊を現代を生きる人々に当てはめることができると思う。自分を見失い、心を病ませてしまうこともそう珍しく無い現代において、風間という形を失い、ゆえに風間という存在を失った金属塊は警鐘のようにも感じられた。