そこにいてもいなくても切れない家族の絆、血のつながりがあってもなくてもそこにいる仲間の絆。家族という面倒で愛着ある人間関係が、美化されず現実的に表現されているのがいい。そして全体を包むもやんと先の見えない閉塞感と倦怠感。同じくintroの「薄暮」を観たときも、もやもやと鬱積した霧が晴れない思いをした。私の中では、この2作だけでイトウワカナ=もやもや描写が得意な作家、ということになった。
それでいて、随所のセリフがズバズバと赤裸々なところは爽快だ。序盤はやや間延びした感じがあったが、次第に秘密を暴き合ったり、非難しあったり、温和な道産子にはあるまじき(?)会話が展開する。これが全編を覆うもやもやの中を閃光のように貫いていて、清涼感がある。
心の動揺、不快感を役者が身体を駆使して表現するのがおもしろい。
家とは何か。家族とは何か。どこが家か。誰が家族か。まあいいや、そんな定義。
事業に失敗して、長年に渡り音信不通になっていた伯父のことを思い出した。母の弟である。親戚の誰一人として行方を知らなかった。「アイツはだめだ」と周囲は言った。父も母も行方を探そうとはしなかった。まるで探さないことが武士の情けであるかのように。10年近く経って、父も亡くなったが、葬式に伯父の姿はなかった。その伯父から母に電話があったのは、あの1995年阪神大震災の直後、神戸で被災した私たち家族の安否を気遣ってのことだった。幸い、私たち家族も家も無事だったが、ライフラインを断たれて不自由な生活だった。食料を買い求めるのが苦労だった。近所の人たちと川からバケツリレーで水を汲んでいると、伯父は飄々として、つい先日会ったかのように現れ、笑顔で片手を上げた。ガスコンロにガスボンベ、土鍋を背負い、グルメの叔父らしく、てっちり食材一式に自家製ポン酢まで持って。母も昨日会ったかのように伯父を迎えて、「重かったやろ」とねぎらった。楽な暮らしぶりではないことは透かし見えたが、自ら包丁を握って振る舞ってくれる伯父の心意気に、私たちは歓声をあげた。どこにいたのか、伯父は来た。線路を歩いて、がれきをまたいで。それだけで十分だった。
本作の「妹」は元気にしているのだろうか。家族との訣別に見合う幸福を得ただろうか、などと思いながら今宵のもやもやに浸った。
きれいなセリフが書ける人だなぁ、というのが、僕が「言祝ぎ」「薄暮」でintroに会い、イトウワカナに会った時の印象だ。今札幌の演劇シーンの中では、まったくタイプは違うが千年王國の橋口幸絵と同じく、大きなイマジネーションで本を書ける稀有なタイプの作家ではないだろうか。橋口が骨太なストレートプレイで大きな物語を提示するのに対して、イトウワカナは、緻密に研いだ小柄のようなセリフを疾走感溢れんばかりに紡いで、パンくずのような小さな世界にこそ存在する、私たち人の裂け目とでもいうべきものを多彩な方法論でしめそうとしているように思う。「蒸発」は、イトウワカナが2011年のTGR札幌劇場祭で実験的に挑んだ劇作で、この年3月に起きた東日本大震災の影響も人物の設定に影を落としている。ダークな家族ドラマでもあり、ミステリーでもある。その熱量の確からしさと演劇と役者に求める想像力の大きさに打たれた。やはり再演で芝居は成長するのだ。
この劇のタイトルになっている「蒸発」は、寺山修司が旗揚げした天井桟敷で「青森県のせむし男」が上演された1967年の流行語であり、社会現象でもある。同年公開の今村昌平監督作「人間蒸発」という映画すら製作された。当時は、高度経済成長期真っ只中。その反動だろうか、何かから逃げるように人々がどこかに消えていた時代があったのだ。
音信不通なること20年(酷い話だが僕も人のことは言えない)、それぞれの事情を抱えて実家にやって来たサトルとリョウヘイの兄弟。今や雨漏りの止まらないあばら家には、レインコートを着込んだ母のテル子が老犬の上杉さんと一人暮らしをしている。兄弟には「みー」という妹がいたらしい。芝居が進むにつれ、みーが近所の幼馴染、スマからいたずらされ、それを兄たちも母も知っていて黙認していた(らしい)という性的虐待疑惑が浮上する。幼い二人の性の秘め事だったかもしれないが、そのスマは拉致監禁までしていた(らしい)ことも明らかになる。結婚して妻ゆきが妊娠したことが分かったばかりのリョウヘイは、みーの下着を盗んで収集していたことがスマから告発される。どんどん境目が希薄になっていく現実。これは劇的な白日夢なのだ。テル子は言い放つ、「あんたたちに、妹なんかいなかったんだよ。あの子はもう、帰っては来ないよ。捨てられたんだよ、私たち」。逆ギレして全員を共謀共同正犯にしてしまおうという腹なのだ。真実を知っているのは、老犬の上杉さんだけ。家族であると思っていることの、誰かとつながっていることの関係性の中にあって唯一正気を保っていた上杉さんは、醜悪な顛末を見届けて、決然として家を出てゆく。ある覚悟とともに...。 文字通り蒸発したのは、妹のみーなのか?登場人物は最後に家ごと水の中に沈み、“蒸発”させられることになる。
かの田中真紀子は、「人間には、敵と、家族と、使用人の三種類しかいない」という名言を吐いた。なんとも彼女の世界観を如実に示す発言だが、「なんだ、当らずとも遠からずじゃないか」と観劇後、そう納得しそうになった。フライヤーのどこかに書いてあった「狂おしく切ない家族の物語」ではまったくないけれども、よくこれだけ共感できないキャラを揃えたな、というくらい自分の都合と正義で動いている嫌な奴ばかりが登場する。そこが家族であり、身内であり、幼馴染なのだ。家族と一悶着ある方、あるいは距離が近すぎて、だからちょっとしたことが見逃せなくって、飲み込めなくてお悩みの方。必見である。
そこらじゅうで重層的に小さな劇や大きな劇が勃発していて、裏設定読みも観客の妄想を膨らませる。役者について書いておきたい。introと言えば女優陣のイメージがあるが、秀逸だったのは男優陣。特にリョウヘイ役の潮見太郎(劇団オガワ)、スマ役の有田哲(劇団アトリエ)。潮見は、登場シーンからもう全身怪しい。パンティフェチをばらされて悶絶するシーンは本当にイッちゃってた。役者魂!有田は体温の低さが大好きだ。最初の溶暗後に舞台中央でゆき役の菜摘と絡んだ“胎児の健康を巡る論争”は笑えたし、初日で少し硬かった役者陣の体温をぐっと上げるエンジンになっていた。
あー、やっぱりこれがintroのお芝居だ、これがイトウワカナのお芝居だ、さすがだなー。
(カーテンコールに応えても良かったのにと思いつつ)席を立ったら、後ろから呼び止められた。振付の東海林精志だった。役者の感情のバイブレーションを身体的表現に変えるという、演出家の初演時の鉄の意思は、ようやく生まれつつある札幌のコンテンポラリー・ダンス・シーンの牽引役の一人、コレオグラファーである東海林の手でより力強く、複雑で、ネガティブな感情のノイズを増幅したものとなって役者の肉体に貼りついて、この芝居の本質を研ぎ澄ますことに成功していた。個人的には、演劇に映像を持ち込むのは好きではないが、映像・古跡哲平、音楽・佐々木隆介、音響・近松祐貴のセンスも作品世界を黒々と染め上げていた。
イトウワカナの心がフェミニンであれば、終幕のショートケーキをめぐるくだりは僕にとっては悪夢でしかない。だが、おっさんの心を持って書いたのであれば、あれはとてもリリカルな余韻を残したと書いておきたい。どちらにしても、もう彼らはもう生きてはおらず、雨漏りの止まらない家の上には鈍い光を放った水が満ち満ちていたのだから。
演出家・イトウワカナが用意してくる舞台装置は、いつも清潔な印象だ。
若い女性らしくポップな配色のときもあるが、概ね白か、もしくはがらんとした空間のが記憶に残る。今回の舞台も基調は白。バケツやゴミ箱や花瓶やコップが散らばっているけれど、イメージはあくまでもクリーン。
役者たちはその世界を壊す不協和音のようだ。男優が演じる「母親」は、当然だがおじさんのようにモッサリしているし、きぐるみの「犬」はどこかボロっとしてる。自称人嫌いだがお節介な「兄」や変態の「弟」、常にクネクネしている家出してきた「従弟」、なぜかつきまとうトゲトゲしく馴れ馴れしい「幼なじみ」……、揃うとあまり麗しい絵面ではない。欠落の象徴か、何かを回避しているのか。
展開されたのは、明けぬ長雨のごとき湿度を抱えた家族の、じっとりぼんやりもやもやとした話だ。舞台はどこにいこうとしているのか判然としないままに進んでいく。観客は一つひとつのセリフを深読みしながら、どこかに行き着くはずの物語を探し出す努力をし続ける。
本作は、「家」に関わる人々の奇妙さや家族が壊れた理由について、説明も暗示もせず、ただそこから逃げ出していくことについて書かれているように思った。それは完全な離陸ではなく、呪縛の尾を引きずりつつ姿を消す、まさに「蒸発」だ。
観客はラストで、本作がそこに登場する家族の物語ではなく、不在の「妹」の蒸発についての物語だと知ることになる。「犬」の言葉は、家族のゆがみのドミノの最後の一枚となって姿を消した「妹」の言葉だ。たぶん、作者の意図はそうだろう。
だが私は「妹」よりも、不在が問題にもされない「父」「夫」が気に掛かった。登場する男たちはいずれもふにゃふにゃで、強度を持って屹立する男はいない。男優が「母」を演じることで、作り手がジェンダーを曖昧にしたがっているようにも感じる。男性性が不在の世界。そのことは、「妹の蒸発物語」を生んだ湿度の発生の、根本的な問題ではないのだろうか? でも、イトウワカナはそこは描かないのだ。一方で、健全な子を生みたがる「弟嫁」を配置している。誰の意見も受け入れない「弟嫁」は、強烈な母性によるゆがんだ家族の再生産の予兆に見える。
「親子は家族ではない」と叫ばせながらも、共に食べることでそれでも繋がる家族めいたものをみせてくるのは何故だろう。ぼんやりと、それでも生きていく、ということか。作品中で起こる非難の噴出は、誰かを傷つける方向には向かない。それは解決に向かわない、ということでもある。暴いているようで暴かない。ぬるりとやさしい。「妹」を蒸発させておきながら、作品中には蒸発させきれないものがどろりと残っていている。
その底をはがせばまた違うものが見えるはずなのに、イトウワカナはそうしない。それが非常に不快で、無視も笑い飛ばしもできなくなる。
『蒸発』はエンターテインメントではない。「快」を越えた楽しみを知る人のための演劇作品だ。皮膚の上、腹の奥に生じる不快感と向き合い、日常では意識しないものを見ようとする、そんなひとときを良しとする人のための作品だと感じた。
追記
本作の登場人物では、松崎修が演じた「従弟」が最もリアルな存在だった。脚本を補填するように演出された内因表現を担うダンス(?)も、松崎の動きが最もクールだった。
クシャミをした役者を見たことがない。
僕の観劇回数が少ないだけだろうか。舞台上で、演技ではなく、プライベートな生理現象として出てしまったクシャミというのは、まだない。
セキはあったような気もするけど、どの舞台の誰が、となると全然記憶にないので、本当は見ていないのかもしれない。ちょっと下品になるけど、オナラとかゲップとか嘔吐とかも見たことがない。
なにを言いたいのかというと、役者は舞台上で、すごくいろんなものを制御してるんだな、ということだ。だって客席と比べてみればいい。観客はクシャミもするしセキもするが、役者は皆無だ。
なんか、こういう風に書き出してしまうと、まるで僕が観た回の「蒸発」で、役者がクシャミをしたみたいに思われそうだけど、全然別に、そういうことはなかった。ただ、見ていて思ったことは、なんか、目の前の役者たちが、今にも普通にクシャミをしそうだし、セキをしそうだし、オナラもゲップも嘔吐もしそうなのだ。
これはすごいことだと思う。これが世に言うintroのヌルヌル感? ぺちょっと感? なのだろうか? 他人の家にポンと放り込まれて、家庭内の生々しいやりとりを見せられている感じ、あの居心地の悪さ(比喩じゃなく、物語もそういう内容だった)。クシャミもセキも制御されてる役者たち、ではなく、今ここにいる人間の、生の会話のようにだんだん思えてくる。
でも、それはけっして、心地いいものではない。むやみに自分と照らし合わせてみたり思い返したりして、嫌な気分にもなる。
そんな僕たちの心をいやしてくれるのは、なんといっても上杉さんだ。ホント、上杉さんがいてくれて良かった……なんて書くと、この舞台を未見の人は、いったいどんな人のことだと思うだろうけど、人ではなく犬なのだ。舞台となる家に飼われている犬、それが上杉さん。大きな体としめった毛、そしてなぜかメガネ。
上杉さんは登場人物たちを、極度に高まった緊張感から、奇妙な鳴き声で解放する。登場人物のほとんどが上杉さんには好意的だ。観客も、上杉さんがいるとホッとするし、いなくなるとさびしい。まるで、あの家の人たちが、末の娘のみーちゃんを思うのと同じように……。
そうやって、いつの間にか観客は、登場人物たちと共犯関係にさせられてしまっていた。怖い舞台だな。