ゲキカン!


ドラマラヴァ― しのぴーさん

 さすがに映画監督が書いた本だ。台詞は簡潔で場転もリズミカルだし、場面場面のパッセージの畳み込み方も映像的で、説明的で分かり易い構造も感じる。だが、一体この劇はなんだろうか。初日の舞台を観て、僕は砂をじゃりっと噛んだような違和感に少々めまいを覚えた。喪失と絶望の物語などと単純に受け止めることができなかったせいもあるだろうし、どのような人物として描かれているにせよ、このゲーシェの精神世界は唾棄すべきもので、登場人物の誰にも共感も感情移入もできなかったからだ。もっとも僕を当惑させたのは、物語が指し示す劇の行方そのものだった。
  1831年にブレーメンで起きた実際の毒殺魔(なんと15人も殺したそうだ)、ゲジーナ・ゴットフリート事件にインスパイアされて、ファスビンダーが戯曲化した作品がこの「ブレーメンの自由」だ。ゲジーナはブレーメンの中央広場で処刑されたとある。当時の女性蔑視の時代を考えれば、これほどスキャンダラスな元ネタもないだろう。だが、ここで僕の思考は停止してしまった。
  今年は奇遇にもファスビンダー生誕70年にあたる。そう、彼はナチスドイツに生まれ、旧西ドイツ時代を生き、ヘロインのせいでわずか37才の短い生涯であっけなく才能を散らせてしまった。その中で反動的、前衛的表現者として活躍したファスビンダーが、なぜゲーシェを生み出したのだろうか。蔑視され、抑圧されていた一人の女性が毒薬という武器を手に実に身勝手ではあるが、女性としての自由、自分の人生を制御できる私自身という道なき道を求めて狂走する。そんな単純な劇ではないはずなのだ。
  初演は1971年。すでにウイメンズ・リベレーション運動は波打っていて、11年後には、キャリル・チャーチルが「トップ・ガールズ」でフェミニズム劇を打ち立てる。僕には、ファスビンダーが女性というジェンダーが今も抱える呪縛に心ひかれたとは思えない。ゲーシェが執着するのは、決して愛ではなく、愛ゆえでもない。ただただ利己的エゴのために手段を選ばない。二人の夫を殺し、母を殺し、子どもを手にかけ、父も殺し、友さえ躊躇しない。そして、それを自己解放の理由として理論武装さえするようになる。自動機械のように死を生み続ける女の物語は、まったく救いようもなく、観客は無意味に目の前で次々起こる殺人を目撃して、どこへも辿りつけない。現実社会で考えれば、常軌を逸した異常なまでの人間性の欠如をひたすらファスビンダーは劇的人物として描いていく。
  実に興味深いことは、悪意のような忌むべき心をゲーシェには感じないことだった。殺意はどんどんと乾いていき、むしろ後半は唐突な記号ですらある。僕には、ゲーシェは人なのではなく、「組織(システム)」なのではないかと感じた。人には心があり、その歪んだ心はその肉体とともに抹殺してしまえる。だが、「組織(システム)」は決して死なない。「組織(システム)」には“こころ”がないからだ。だから、殺し損ねた友人に告発されて逮捕され、処刑されるだろうという進退窮まった場面でもなお、ゲーシェが凛として言い放つ、「私は天国へ行く」という結末が、劇的に得心できるのかも知れないと感じた。演出の弦巻啓太は、この混沌とした世界に自らを主人公として生きなければならない私たちの、その一方でそもそも不自由な存在でしかない人の矛盾した原罪をゲーシェという劇的肉体を通して描こうとしたのかもしれない。
  ファムファタール、ゲーシェ役の宮田圭子。こんな宮田は初めて観た。僕のドラマドクターである岩松了からは、「台詞をしゃべっているところで劇はおきているわけじゃない」と教わったのだが、台詞持ちの芝居はもちろん、話さない場面での目線や表情、肩の震わせ方など演じているというよりも、実在した稀代の毒婦のあやかしを魂に宿し、舞台で生きてみせた。
  札幌座の俳優は少し行儀が良いのでは、と思うところがある。冬シーズンの「蟹と彼女と隣の日本人」での役回りがぴたりとハマるのは、宮田の持ち味ではあるのだろうけれど、役者としては優等生なのかもしれない、と思わなくはなかった。だけれども、5月に弘前劇場の長谷川孝治を脚本・演出に迎え、札幌座として初めて取り組んだドラマリーディング「36枚の声」を“演じる”宮田を見ていて、とてもよかった。素地に凛とした存在感がある役者さんなのだなぁ、と感じた。端正なたたずまいの女優といってもいいのだろう。端正な女の冷酷さは、やはり世界で一番恐ろしい。久々に舞台で見たゲーシェの父、ティム役の山野久治には痺れた。酷い父親ではあるが、この悪魔のごとき娘に最後まで支配と言う名の“愛情”を注ぐ姿は、ある意味で、救済だった。人物の内面を浮かび上がらせる照明がとても美しい。特にゲーシェの諧調表現は特筆すべきだ。赤ん坊の泣き声なのか家畜の呻き声なのか判別がつかない音響効果や、斎藤歩の音楽、また宮田の歌も印象に残った。また、この惨劇を止めようともしないキリストの磔刑像は、舞台美術の一点透視法の消失点に位置して無力な陰鬱さを効果的に醸し出していた。
  改めて僕はこう思うのだ。ゲーシェが心を持たない「組織(システム)」だとすれば、システムと呼ばれている血の通わない何者か、たった一人の存在で、この社会は真っ赤な血に染まる。「ブレーメンの自由」の初演は2013年。そして、この2015年夏での再演。強引な解釈だが、初日は奇しくも終戦の日だった。ゲーシェの狂気的暴走は、より巧妙に私たちを取り巻こうとしているように思えてならない。ゲーシェがまとっている人の空虚さこそ、村上春樹が「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」で描いた“やみくろ”の気配ように、世界中のどこにでもいて、日常の中に溶け込んでいて、いつも、私たちの存在を狙っている。夫婦でも親子でも、兄弟であっても友達であっても、その闇の手から逃れることはできない。そして、ゲーシェとはいつも女の姿をしているとは限らないのだ。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴四半世紀にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。
在札幌米国総領事館職員 寺下 ヤス子さん

本舞台では、単調な抑揚のセリフのやりとりの中、主人公ゲーシェが毒を盛っては「さよなら〜」と歌うというお決まりシーンが繰り返される。それは抑圧に鬱積した感情の爆発による殺人ではない。淡々と邪魔者を排除していくのだ。同情の余地がない。不条理劇か戯画のように繰り返される殺人。ラストシーンで歌うゲーシェ(宮田圭子)は悪びれず悔いもなかった。「そして、わたしは天国に行く」という言葉どおり、何がいけないの?と当惑した子供のような顔をあげて。その顔の残像が美しく浮かび上がる。なんだ、この女? 狂気、冷血、といった言葉では表現しきれない。そこに浮かび上がるのは、神に背いては神に祈る、矛盾だらけの人間。一方で罪を犯しておきながら、一方では神を信仰し、私は天国へ行くと信じている女。一人の人間に見ると異様だが、人類の歴史は、戦争で殺戮を繰り返しては、自分たちの神に祈りを捧げてきた。ある時は神のための戦争だと言い張って殺戮した。現在もそれは続く。自己愛という歪んだ信念のもと殺人を繰り返すゲーシェは、自国愛のもと戦争をする人間の縮図ともとれる。殺人や暴力、姦淫が、舞台中央の大きな十字架の前で行われるのに違和感があったが、それはまさに私たちの生きているこの世界だった。皮肉にもこの殺人鬼の女の抱える矛盾は、人類の抱える矛盾なのだ。ブレーメンの自由は、センセーショナルなタブーの世界を創り出した。

観るまでは、いや、観た直後も、連続殺人を犯した主人公は、女性への抑圧に復讐した女性なのだろう、きっとひどい抑圧を受けたに違いない、と思っていた。出だしは思った通り。ところがなんだか違う。最初は、抑圧による苦悶や殺人に至る葛藤が十分表現されていないのかと考えた(ファズビンダーさん、弦巻さん、ごめんなさい)。が、そうではない。どうやらそれはテーマではないらしい。単純化されたプロットがそれを教えてくれる。だから「なんだ、この女?」なのだ。母親や我が子を手にかける彼女はモンスターだ。ジェンダーを超える。その犯行は社会への反逆どころか、神への反逆。「汝、殺すなかれ」をはじめとする神の掟に背きながら、神に愛されていると信じ、神の審判も無視して天国へ行こうというのだから。そしてこの矛盾は思い当たる。痛烈な、目を背けたくなる指摘だ。ゲーシェの動機や人間関係より、殺しては祈る、滑稽とも見える繰り返しのプロットが鍵なのではないか。演出家(弦巻啓太)の言う「削ぎ落とした」演出でなければ、「女性」に囚われてたどり着かなかったと思う。

余談ながら、本作が演劇シーズン2015夏の最後。今回の演劇シーズンの5作品中、3作品、「青森県のせむし男」「12人の怒れる男」「ブレーメンの自由」は旧時代、女性の自由が制限されていた女性差別の時代が背景だ。「青森県・・」ではレイプされた嫁が自由を得たのは夫と姑が死んでから。「12人・・」ではもちろん陪審員に女性はいない。女性証人は真実より自分の外見を気にする人間として描かれ、女というものは着飾り化粧するもの、という語り口。「ブレーメン・・」に至っては女性は奴隷のように夫に仕え、家事と育児をしていればよく、仕事などできるはずなし、という社会。逆に、他の2作品は現代を写し、「フリッピング」では女性が会社を再建するし、「蒸発」の妹は家出して自由を得たようだし、嫁は強い主張をもっている。女性を取り巻く環境は大きく変化したことを思い知る。明日生み出される作品は、30年後、50年後、どのような女性史を刻んでいるだろう。

寺下 ヤス子
在札幌米国総領事館で広報企画を担当。イギリス遊学時代にシェークスピアを中心に演劇を学んだ経験あり。神戸出身。
ライター 岩﨑 真紀さん

『ブレーメンの自由』の舞台は、女に意志・意見・欲望があることが認められておらず、男に奴隷のように仕え庇護されることが強いられていた時代・地域。

冒頭では、夫による支配と蔑みが常態となっている主人公ゲーシェの生活が示される。夫の性愛を求めつつ、屈辱的な愛撫に顔を歪めるゲーシェ。そして夫の病。ゲーシェが医者を呼ばないのはなぜか。

夫の死後、ゲーシェは恋人を作り、献身する。けれど婚姻関係にない性交は宗教的に不道徳だと、父母や「世間」に咎められる。恋人は、「前夫との子どもたちがいる家庭など考えられない」と結婚を拒否する。

何が悪いっていうの? 私は愛し合いたいだけなのに。それが間違っているとは思えないわ…。

この流れ、普通ならゲーシェの生身の欲望や葛藤、あるいは意志に共感して感情移入できるパターンなのに、私は話が進むにつれて、ゲーシェが嫌いになった。愚かさが感じられたなら哀れんだし、強さやしたたかさが感じられたなら声援を送っただろう。しかし演出の弦巻啓太は、そのどちらへの仕掛けも施さない。

男が女を、人が人を、無自覚に蔑み支配する、ということ。そこから目覚めることの「自由」と「不自由」。これには現代に繋がる普遍性があるが、弦巻演出の肝はそこではない。

弦巻はあえてゲーシェを、セリフの後ろの意志・感情がうかがい知れない人物として演出している。つまり、脚本の「女が意志ある人間として生きるために起こさざるを得なかった事件と、手にした武器の制御を失って破綻する物語」という面ではなく、「欲望のために人を殺す自由を行使した不気味な女を題材としたサスペンス」としての側面を強調している。並べたコーヒーカップの数を減らしていく演出もそのためだろう。

幕開け、家畜のうめきのごとき赤ん坊の泣き声が胸苦しさをかき立てる。人が苦悩も葛藤もみせずにあっさりと人を殺す不気味さ。死を深く悲しみはしても殺害を後悔はしない恐ろしさ。その回を重ねるごとに増していく舞台の陰鬱さ。ゲーシェの賢さも愚かさも、不理解との戦いも、殺人を糧として築いた経済的自立も、不可思議な事件の顛末の背景にすぎない。ラスト、闇の中に浮かび上がるゲーシェの顔…!宮田圭子の演技が光る。このシーンも含め、照明の使い方が実に効果的で印象に残った。

それにしても、ゲーシェを取り巻く人間たちはひどいものだ。隷属と引き替えの庇護に安住し、その他の生き方を否定・攻撃する女たち。女を平気で殴り、身体と金をむさぼったあげくに都合が悪くなれば捨てる男たち。作品の中で描かれている世界には救いようがない。宗教的道徳と家父長制に生きる人たちの盲目にも、愛や哀しみやいたわり合いや、信念の清らかさがあってもよさそうなものなのに。

私にとっての救いは、山野久治が演じたゲーシェの父・ティムだった。価値観の違いは動かしがたくとも、そこにゲーシェへの愛がある可能性を感じさせてくれた。

岩﨑 真紀
フリーランスのライター・編集者。札幌の広告代理店・雑誌出版社での勤務を経て、2005年に独立。各種雑誌・広報誌等の制作に携わる。季刊誌「ホッカイドウマガジン KAI」で観劇コラム「客席の迷想録」を連載中。
シナリオライター 島崎 友樹さん

血も涙もない。

って、常套句がある。「血も涙もない奴だ!」とか、「あいつは血も涙もない演出家だ!」とか(どこの劇団のこと?)。札幌座『ブレーメンの自由』は、まさに血も涙もない話。19世紀初頭に実際にあった連続殺人事件を元にしていて、人がバッタバッタと死んでいく。

さらにこの舞台、ホントに血も涙も出ない。殺害方法は毒殺。被害者はとても苦しむのだけど、血が出ることはない。登場人物たちは泣くことはあっても、涙は流さない。だから、グロテスクで見るに堪えないものを見せられる、というわけじゃないから、安心して観に行って大丈夫。

むしろこの舞台は、まとまりのある優れたものだ。物語はシンプルな展開で、テンポがある。演技も、過剰になりすぎず、抑制がある。何より主役の宮田圭子さんはハマり役だ(喫茶店をやったら繁盛すると思う。毒ぐらい入ってても飲む人がたくさん訪れそう……かな?)。

いい舞台……なのに、観終わったあとに残る、この違和感はなんだろう。なにかとんでもないものを、知らないうちにそっとバッグなのかそれとも心の中なのか、入れられてしまっていたような感覚。

その正体を、ぜひ『ブレーメンの自由』を観て、見つけてほしい。僕は恐らく「液体」に謎を解くカギがあると思う。「コーヒー」は液体だし、あるいは冒頭のキーワード「血も涙もない」……そう、血も涙も液体だ。というわけで、みなさんシアターZOOに観に行ってください、22日までです。で、観終わった方は以下の文章を読んでもらえると幸いです。

……というわけで、僕の違和感は液体、それも体液。この劇、けっこう感情の出るシーンはあるのだけど、血も涙も出ない。汗も出ない。エロス的なシーンもあるのだけど、体液はもちろん出ない。そう考えると、人間って感情が高ぶると体液が出る生き物なんだな。

でもこの舞台ではそれがない。血も涙も出ない。出してしまうとグロテスクになって、きっと観ていられないだろう。あるいは彼女・ゲーシェへの嫌悪感、感情的な拒否につながって、殺人やこの劇自体をやめてほしいと思うかもしれない。

ところが、おぞましい連続殺人事件を「無液体化」すると、殺人が全然、見ていられるようになる(怖いね)。シンプルな物語展開の中で、1人また1人と毒殺されていく。手際もドンドン良くなって。

だから観客は、目の前で行われる殺人に不快な気持ちを抱かずに、むしろ次の殺人を予測し始める。あ、そんなこと言ったらマズいよ、その人の言うこと聞かなかったら……「コーヒーはいかが?」ってほらやっぱり! という風に。

しかも観客は、殺人が、失敗するとは思わない。次から次へテンポ良く殺されていく行程を、じっと観てるだけだ。さらに、ここがこの舞台の白眉だと思うけど、彼女の殺人が、途中で失敗するとは思わせない演出がある。

元の戯曲にあるのだろうか(それとも演出?)、殺人のたびに1つずつ減っていくコーヒーカップだ。その意味に気づいたとき、ゾッとした。おいおい、あといくつ残ってんだよ、って。あのカップがまだ残っている以上、殺人は続く。途中で終わることはあり得ない。劇中の殺人が最後まで続くことを示唆したあのカップは、本当に素晴らしい。

無液体化された舞台で、連続殺人の嫌悪はなくなった。ゲーシェへの嫌悪も生まれない(役者の良さも大いにある)。観客は、彼女が「自由」あるいは「天国」に向かって、サクサクと殺人を行う姿を、嫌悪感なく観てしまうのだ。これを「恐怖」と感じればいいのだろうか。それとも、彼女の「無垢」さを感じればいい?

彼女はたぶんあのあと、死刑になるのだろう。無事(?)に天国に行けたのだろうか? でも、そもそも天国なんて、あるのだろうか? ……なんて言ったら、血も涙もないよね。

島崎 友樹
シナリオライター。札幌生まれ(1977)。STVのドラマ『桃山おにぎり店』(2008)と『アキの家族』(2010)、琴似を舞台にした長編映画『茜色クラリネット』(2014)の脚本を書く。シナリオの他にも、短編小説集『学校の12の怖い話』(2012)を出版。今年、2作目の小説を出版予定。
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