ゲキカン!


ドラマラヴァ― しのぴーさん

 優れたお芝居とはこういうものだ。文句なく面白い!実にキャスティングの勝利だと唸った。このクオリティの芝居を札幌で、しかも道外からの客演を交えて札幌の錚々たる役者たちで上演できることを演劇ファンとして喜びに思う。やるな、イレブンナイン。
 「12人の怒れる男」は、後述する映画の影響が大きく、よく、正義とはなにか、人が人を裁くこととはどういう意味かを問いかける作品だ、などと形容されることが多い。しかし、この劇の核心は同時にあぶり出される12人の陪審員の男たちの内面のドラマである。そして、それは人間社会とは一体何者なのかという普遍的な問いでもある。演出で陪審員番号6番として出演もしている納谷真人は、おそらく、初演ではもっと台詞のある役をしていたと想像するのだけれど、再演では、それぞれ深い奥行きを与えられている人物をより彫り込むことに専念したと勝手に想像した。キャストも初演から一部入れ替えた。再演の面白さ、凝縮の仕方のお手本のような見事な舞台だった。プロデューサーとしての心境著しい、小島達子のプロデュースワークも賞賛されるべきだろう。
 納谷は海外戯曲の読解力の高さに定評がある。冬シーズンでは、笑劇を書かせたらこの作家の右に出る人はいないレイ・クーニーの「ラン・フォー・ユア・ワイフ」(重婚をしているタクシー運転手が二人の妻の間で板挟みになり苦闘する爆笑コメディ)原作に「あっちこっち佐藤さん」を見事に料理してみせた。
 原作は、あまりにも有名なレジナルド・ローズ作、シドニー・ルメット監督、ヘンリー・フォンダ主演の20世紀のマスターピースの一本に数えられるだろう「12人の怒れる男」である。スラム街の札付きのワル(少年)が飛び出しナイフで父親を殺した。決定的と思われる目撃者が二人もいて、状況証拠もなにもかもが容疑者を真っクロだと示している。しかし、評議の冒頭早々でたった一人の陪審員が無罪と発言したことから始まる暗転のない2時間ノンストップの重厚な法廷サスペンス。正直言って、物語の結末は分かっているので手に汗握ることはない。だが、出ハケのない俳優にとって舞台もまた密室であることが、蒸し暑い空気感と相まってヒリヒリとした緊張を陪審員席に見立てた客席に座っている観客に伝えている。
 ローズは実際の陪審員経験をもとにテレビ映画(テレフィーチャードラマ)の脚本を書いた。これが高い評価を受け映画化されることになるのだが、主演のヘンリー・フォンダは放送を見ていてとても気に入ったようで、映画のプロデューサーとしても名を連ねている。その舞台化版がこの原作となっている。つまり、ローズは、テレビドラマを書き、映画の脚本も書いて、舞台の戯曲も手がけた。同じ作家の手によって濃縮されているだけに、演出家の読解力と役者の力量が試される本でもある。
役者について書きたい。原作ではフォンダが演じた陪審員番号8番がアメリカ的良心と言える陰影を与えられている。久保隆徳(富良野GROUP)の深い彫り込みと孤高とも言える佇まいが、この劇の揺るぎない重しとなっている。9番の山田マサル(パインソー)は劇の流れを変える役割を担っているのだが、実にキレが良かった。社会の実相を象徴する役どころでは、登場から目が据わって殺気立っている10番の小林エレキ(yhs)。社会への憤怒と差別意識を毒々しく薄刃のカミソリのように吐き出して独壇場だった。父と息子の葛藤性という物語の通奏低音を劇後半からラストまで一気にひっぱっていく3番の平塚直隆(オイスターズ)の演技も印象深い。戦火を逃れて自由の国に移民して来た11番の杉野圭志(ELEVEN NINES)、調子のいい広告屋の12番、明逸人(ELEVEN NINES)は原作映画の人物を彷彿させる熱演だった。さっさと有罪を評決してナイターに行きたいがさつなセールスマン、7番の有門正太郎(飛ぶ劇場)はリアリティあるアクセントとなっていたし、人の意見にころころと左右される、あやふやで陰の薄い2番の江田由紀浩(ELEVEN NINES)は持ち味全開だった。映画では、個性派の名優マーティン・バルサムが素晴しかったが、4番の河野真也(オクラホマ)はその目線高なキャラクターに果敢にチャレンジしていた。書き切れない役者たちもいるが、俳優陣全員に大きな拍手を送りたい。重ねて言うが、キャスティングの妙に尽きる再演だったと信じるからだ。
 陪審員評議室に唯一空いた窓(実際にはなく、見立てられている)、 対角線に置かれた椅子の演出も実に素晴しかったと書いておきたい。ラストに久保と山田が、一瞬、真実に触れた人間同士の心の交流とでも言うべき間を見せるシーンがある。これは戯曲にはないが、映画のラストシーンを引用したアイデアはよかったと思う。一つだけ。終幕前の一瞬だけ暗転して、犯行に使われた凶器のナイフが天井から落ちてきて評議室のテーブルに突き刺さる場面がある。このエンドの打ち方は、「お約束事」的に格好良すぎだし、かつ観客が恐らく気がつくだろう想像力を狭めてしまうもので、個人的には蛇足だと感じた。最後に退出する久保が、空になった評議室をじっと去り難く見つめる余韻で十分味わい深く成立していたと思うのだ。つまり、容疑をかけられた少年はあくまで推定無罪であって、実際には真犯人なのかもしれない。獣を取り逃がし、社会に放つことになったかもしれないのだ(しかも、一事不再理の原則で、同じ容疑で裁かれることはない)。
 この劇は、奇跡的な逆転無罪を導いた単なる正義の芝居ではない。人間の真実とは一体なにか、法が支配する民主主義における人間の実存となにかを静かに問いかける、いわばヒューマニティへの深い洞察を私たちに呼び覚ますことがマスターピースたる所以ではないか。僕は、この再演で、納谷はそこへ辿り着こうとしていたと思うのだ。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴四半世紀にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。
ライター 岩﨑 真紀さん

札幌の小劇場で上演される演劇には、歌やダンスや「笑い」を多用するものが多い。いや、わかるのだ。歌やダンスが入れば展開にメリハリが付いて盛り上がる。「笑い」は、お約束さえ知っていれば頭を使わずとも楽しめるし、観客の反応が伝われば作り手は安心、テンションも上がって気持ちがいいだろう。だが、それらはいわば変化球の芝居だ。

『12人の怒れる男』は「笑い」ではなく「怒り」が見せどころ。笑いとは違い、観客の反応は作り手に伝わり難い。ましてや、ある事件について男たちが意見をすり合わせようとしていく会話劇だ。力が足りなければ、キャラクターの違いが不明瞭になり、展開は単調となり、観客は居眠りを始めるだろう。脚本は世界に認められた名作なのだから、そうとなれば言い訳はできない。つまり原作の路線を守るなら、生半可な覚悟で挑める作品ではない。

イレブンナインプレゼンツ『12人の怒れる男』は、直球ど真ん中の演技・演出で勝負している作品だ。初演時には、劇団の枠を越えて力量ある俳優を揃えたことで、上演前から「札幌演劇界オールスター」的な様相への期待が盛り上がった。そして初日から、十分以上の球威を見せつけて、連日チケット完売の大当たりに。今回はその再演、これはもう、面白くないほうが嘘だ。

初演時は、全体にテンションが高めの演出だった。わかりやすくはあったが、それぞれの俳優の怒り表明のパターンや強さが似ており、その点には粗さを感じた。
今回の上演では、怒りの演技は控えめにスタートし、要所で跳ね上がってくる。怒りという形を作るのではなく、内側の表現、つまり怒りの種類や大きさ、役柄の性格によった表現を重視していると感じた。原作は映像作品であり、抑えた演技もカメラワークなどがフォローしているのだから、演劇としては難しいところへの挑戦だ。良く食らい付いている。重厚で良質な演劇を観た満足感は初演以上だ。

道外から2名の俳優を迎え、競演の豪華さもアップ。初演と同じ役を演じる人、違う役を演じる人、それぞれの比較も楽しめる。道外ゲストが存分に活躍できるよう、本作の演出家でイレブン☆ナインを牽引する役者でもある納谷真大が、左翼守備的ポジションで演じている点も心憎い。

この作品は、きっと千秋楽に向かってさらに凄みを増していくに違いない。時間が許すならもう一度観たいところだ。もっといえば、毎年は無理でも数年に一度、上演してほしい。札幌の俳優の力量・成長を楽しむにふさわしいし、メンバーの入れ替わりで新たなスターの誕生を喜んだり、今回のように他地域の俳優を知る機会となったりするだろう。メジャーな演目を札幌の名物作品として育てることで、新しい演劇ファンも増やせるかもしれない。
そんなことを考えてしまうくらい、ズシンと重たい響きが心地よい作品だった。

岩﨑 真紀
フリーランスのライター・編集者。札幌の広告代理店・雑誌出版社での勤務を経て、2005年に独立。各種雑誌・広報誌等の制作に携わる。季刊誌「ホッカイドウマガジン KAI」で観劇コラム「客席の迷想録」を連載中。
在札幌米国総領事館職員 寺下 ヤス子さん

EXILEじゃないが、男優さん12人集まると壮観。かっこいい。裁判所風に設えた四角い舞台が新鮮。三方から観るかたちなので、どこから観るかによってかなり景色は違う。シアター奥側の1列目で観た。ここは結構おすすめ。とはいえ、女性客の中には、お気に入りの俳優さんが舞台上のテーブルのどこに座るのかしらと悩んでいる人もいた。場所によっては好きな彼の後ろ姿ばかり見ることになるので、お席選びは慎重に。

ゲスト俳優さんたち、特に有罪派の陪審員3番(平塚直隆)、7番(有門正太郎)、10番(小林エレキ)らの見せ場が多く印象に残った。初日の終演後トークを聞くと、再演に際してじっくり練られたキャスティングだったよう。それが功を奏して知的なしぶい芝居に作り上げられている。ただ、アメリカ劇ではあるが、フィートやインチは日本では馴染みが少ないので、メートルとセンチで言ってほしかった。頭の中で換算していたが計算に弱いのだ。観る側の知性も試されますねえ。

ご存知、1957年のアメリカ映画の名作。陪審員12名の審議の様子を描いたもので、ロケが必要なく制作コストの安さでも有名だ。Rotten tomatoes(腐ったトマト)というサイトがあるのをご存知だろうか。アメリカの映画やテレビドラマのランク付けをしているサイトだ。単なる視聴者の投票だけではなく、れっきとした数十名の批評家たちの見立てで信頼がある。さてこのサイトで「12人の怒れる男」は100%フレッシュ、つまり満点を得ている。1997年のテレビドラマでのリメイクはオリジナルには及ばず、それでも92%と高得点だ。移民大国であるアメリカ社会が浮き彫りにされる見事な作品。この日本版舞台では詳細には触れていなかったように思うが、裁かれるのはプエルトリコ系青年であり、アメリカにある人種差別、偏見を背景に、それぞれが自分の意見を言う「権利」を行使する。日本人なら「義務」と感じるのではないか。無関心や横暴、私的感情の持ち込み、逮捕されたんだから犯人なんだろうという思い込み、他人にすぐ影響される思考停止状態といったネガティブな面が噴出する一方、アメリカは正義をあきらめない。レジナルド・ローズの人間観察力に敬服した。ついでに言うと、昔のアメリカの女性蔑視もよく表れている。

自分の信念だけで11人相手に闘えるかというとまったく自信がない。説得、論破するスピーチ力も大声に屈しない冷静さも、ふやふやだ。まして、蒸し暑かったら・・。ああ、こんなことではいけない! 

寺下 ヤス子
在札幌米国総領事館で広報企画を担当。イギリス遊学時代にシェークスピアを中心に演劇を学んだ経験あり。神戸出身。
シナリオライター 島崎 友樹さん

12人のうち、自分はだれに一番近いんだろう?

みんな言うこと聞いてくれなくて、ふて腐れる陪審員番号1番? 自分の意見を言えずオロオロする2番? あるいはずっと怒り続けてる3番?

……とここまで書いて、結局、全員自分の中にいることに気がついた。ビリー・ミリガンは24人いたけど、僕の中にも12人くらいいるってことだ。

だから、そう、あの陪審員番号10番も、僕の中にいるんだ。映画版が古典的名作として知られてる『12人の怒れる男』だけど、映画では10番は中ボスクラス、ラスボスは3番、4番で、ここをいかに攻略するかという話だった(いや、ゲーム的に言えばね)。

ところがこの舞台版、特にこのイレブンナイン版『12人の怒れる男』は、10番とどう向き合うか、という内容だった。物語が始まって、序盤からすでにこの10番はおかしい。正直、彼とは議論にならない。彼には議論する気がないのかもしれない。自分の意見以外は聞く耳を持たず、他者への寛容さはかけらもない。

いったいこの人は、どういう人なんだろうと思ってしまう。なぜこんなにも怒っているのか。いや、怒りというよりも嫌悪だ。なにかを異様に嫌悪している。その理由が、嫌悪の元がわからないまま劇は進んで行く。だから彼については、不可解で、気持ち悪い。

そしてついに、彼の嫌悪の元があかされた時、この古典的な物語が、なぜいま上演されなければならないのかが、わかる。彼の中にあった、移民してきた他人種への嫌悪、差別感。底なしの憎しみがあきらかにされた時、ゾッとする。

だけど、もう一度書くけど、僕の中にもきっと10番はいる。僕だけじゃない、だれの心の中にもいるはずだ。僕たちは普通に日々を過ごす中で、わけもなく差別心をむき出しにして叫び出すことはない。

だけど考えてほしい。もし隣に引っ越してきた外国人が、朝からうるさい故郷の音楽を流し始めたら? ゴミのルールを守らずに不衛生で臭いもキツくなってきたら? 自分の仕事が外国人にとられてしまって無職になってしまったら? そういう時に陪審員(日本では裁判員)に選ばれて、被告が、日ごろイラッときていたのと同じ国籍の人間だったら?

その時、僕たちは予断なく被告を見つめられるだろうか。隣の嫌な奴を思い浮かべずに、仕事を奪ったあいつのことを思わずに、議論できるだろうか。自分の心の中にいる12人のうち、いったい何人が、10番と同じ意見になってしまうのか。

さいわい、劇中で同調するものはいなかった。1対11。ただし、そうだ、評決は全員一致でなければならないんだ。物語では、最終的に、被告が有罪か無罪かは、全員一致の結論に至る。だけど10番は結局、差別心に関してはその後なにも語らないまま舞台を去る。1対11のままだ。この裁判は、まだ終わってはいない。


……最後に、役者について。「舞台は役者のものだ」と誰かが言っていた。この舞台も役者のものだった。特に、10番を演じた小林エレキの怪演。狂気を感じた。2番を演じた江田由紀浩の繊細さと、4番、河野真也のエレガントなセリフ回しと巨体。2番と4番のやりとりは映画版にはなく、戯曲版の奥行きの深さを感じた。ラストに至っては、2人にほのかな友情というか同士感すら覚える(演出の妙だ)。貧民街出身の5番を演じた大川敬介は、若く粗野な肉体労働者風で、心の揺れ動きがたくみだった(映画版を越えてると思う)。実質主役の8番を演じた久保隆徳は、端正な演技でセリフも聞きやすく、個性派揃いの役者陣の中で堂々と主役を張っていた。

ちなみに客席は3つに分かれていて、入り口を入ってすぐ左側の客席は、8番の背中と後ろ頭をずっと見ていることになる(そのせいか、自分も8番のようにみんなを説得してる気にもなるのだけど)。もし8番の表情を見ていたい人は、左以外の客席に座ることをオススメします。

島崎 友樹
シナリオライター。札幌生まれ(1977)。STVのドラマ『桃山おにぎり店』(2008)と『アキの家族』(2010)、琴似を舞台にした長編映画『茜色クラリネット』(2014)の脚本を書く。シナリオの他にも、短編小説集『学校の12の怖い話』(2012)を出版。今年、2作目の小説を出版予定。
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