連携企画「文化芸術は誰のもの?おかわり」がスタート!

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 8月2日(火)に開催したシンポジウム「文化芸術は誰のもの?」にご参加いただいた皆様、特に若い人たちから「もっと議論ができる時間が欲しかった」「議論の時間が短すぎる」という、うれしいお叱りの声を多数いただきました。
 ならば、議論を継続していける場を設けようと考えた企画。それがこの「文化芸術は誰のもの?おかわり」です。
 8月31日(水)にはシアターZOOにて19:00から2時間、一杯目の「おかわり」を開催。2日のシンポジウムに参加した10代~30代の若者たちと、「北海道シアターカウンシルプロジェクト」の事業として行う「地域と舞台をつなぐクリエイティブ講座」(https://s-e-season.com/jlyp2022/news/20220711.html)の受講生に声をかけたところ、おなかをすかせた14名が集まってくれました。当日の様子は、演劇情報サイトd-SAP(https://d-sap.com/)に紹介されていますので、ぜひご覧ください。
 こちらでは、d-SAPでは紹介しきれなかった、一杯目の「おかわり」参加者の感想をお届けします。皆さんも、めしあがれ。
 「北海道シアターカウンシルプロジェクト」は、「舞台芸術を起点に文化全域を俯瞰しながら北海道に必要とされる支援のあり方を地域とともに広く柔軟な発想で考え、試行するプロジェクト」です(https://s-e-season.com/jlyp2022/program/tc/)。「おかわり」もその連携企画。走りながら考え、「おかわり」をしながら、次の日の晩御飯のメニューを考えていたりします。次の展開にもご注目ください。

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「文化芸術は誰のもの?おかわり」一杯目(8/31[水]19:00~21:00 @シアターZOO)参加全14名。
以下、いただいた参加者の感想です。


●Aさん
例えば、絵画一つの作品に対しても、それが芸術だ!と気づく人、理解できる人がいない限り、ただの絵として埋もれてしまっている作品があるのかもしれない。であれば、その作品の良さを知るきっかけというのは、世に芸術が根付くために、物凄く大切な事というのは言うまでもありません。必要となってくるのは、芸術に触れるきっかけがあること。その芸術の魅力、見どころがわかること。その芸術のクウォリティーが確かなこと、なのではないでしょうか。
評価に関しても、その分野に関わる人しか見ないものではなく、ミシュランのように、一般の人が良い芸術を知りたいと思ったときに、気軽に手にとって見れるようなもので、内容も専門家でも一般の人でも参考になり楽しめるもの、SNSなどの信憑性が怪しいものではなく確かな評価の芸術版のミシュランがあったら、また、いろんな層の人々が、芸術鑑賞をするようになるのではないだろうかと思っています。


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●Bさん
今後のテーマごとの開催も参加が楽しみなのと同時に、今回のように思っていることをありのままに発言できるフリートークに近い回も継続して参加したいです。若い世代の方の率直な意見を聞く機会がなかなかないので、もう少し詳しく聞いてみたいと思いました。

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●Cさん
同業者同士の文句交換会にならないことだけ祈っています。そしてぜひみなさんがよろしければSNSなどのグループがあればとても良いと思っています。ぜひみなさんとたくさんお話ししたいと思っています。


●Dさん
私の入ったグループは、音楽、美術、演劇と異ったジャンルで活動している者が「芸術ってなんだろう」という、そもそものところの話ができて、とても有意義でした。
そもそも「芸術って?」「文化って?」という問いを、コロナ禍になって表現に関わる者はみんな問い返したと思います。公の支援政策、そのあり方についての多かれ少なかれ言葉にした。その時に、改めて言葉の定義や、社会の中での意味を考える必要があったと思う。それらを共有し洗練させる場がたりないと、私は思っていたところがありました。先日のシンポジウムでも取上げられていましたが、文化芸術基本法や、いわゆる劇場法を読み返すような作業は、もっとあっていい。
他のグループから、「文化や演劇が根付いていないのでは」という意味の指摘がありました。私もそう思う。ただそれは、文化や演劇そのものではなくて、その言葉、役割、現代的な意味が共有されていないということではないかとも思える。すると、嗜好品のように扱われかねない。
「文化」や「芸術」が根付く、芽を出す、育つ、花開くといった場合、ではその土壌はなんだろう?
「生活」や「社会」といったところだろうか。でも、「文化」が土壌そのものではないか。文化があって、その上に「生活」や「社会」があるのでは。(あえて階層的にすればですけど)そうイメージする。
「文化」の核になるものとして、おそらく言語がある。私たちは、言語によってコミュケーションを行い、社会を作る。無意味なおしゃべりから、対話、約束、議論、契約、法律まで、自治や政治や国家といったものも言語によって行われる。芸術が、祝祭や儀礼と共にあった時代は、言語と同じように、その集団を維持、形成する土台や道具だったはず。今は、祝祭や儀礼から離れてしまったのかもしれないけど。どうだろう。
でも、全く離れてしまったわけでもない気もする。私が、「文化」は土壌そのものではないかとイメージするのは。例えば、芸術が、それはエンターテイメントとしてでもいいのだけど、地表に花を咲かせるとしたら、自然の生態系がそうであるように、その花が土に還ることも含む。食物を栽培するように、地表の花や実を刈り取って、それを収穫物として喜ぶだけではいけない。(AFFなど、公的支援策の多くは、この収穫物を求めているだけなのかもしれない)。それを繰り返せば、やがて土は痩せ細る。人工的な肥料を入れなくては、作物も育たなくなる。地表も地中も、多様な生態系が維持されて、はじめてそこに何かが生まれる。科学や産業、経済も、その何かじゃないのだろうか。だから「文化」を土壌や地層とイメージする時、最も表層にあるのはエンターテイメントかもしれないけど、だからといって「不要」ではない。
文化は、もっと動的なものとして捉えるべきなのかもしれない。
とりとめなく書いてしまいましたけど、そんなことを、ひと晩寝て、ぐるぐる考えました。

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●Eさん
このような参加者同士が話し合う機会はもっと知られてよいという指摘がありました。また演劇(芸術)を生活の一部にすることについての意見が挙がりました。これらの点についての私の考えは単純でどういう形でも「継続」することなのだろうと考えています。なぜ「継続」なのかという答えについては、長くなるので一旦置いておきましょう。
さて、私たちは何か問題設定をすると、たとえば、演劇を生活に根ざすために、あるいは演劇を継続するために「どうするべきか」を考えがちなのですが、おそらくこの方向性はあまりうまくいかないだろうと直感します。一般的に「どうするべきか」についての議論は、手がかりが少なくて深まらず、とおりいっぺんのものになりがちだからです。むしろ、現状は「どうなっているのか」について調べて共有したりするほうが筋がよいかと思いました。 


●Fさん
まず、シアターZOOがどこにあるのか?さえ、ごく最近初めて知り、しかも階段をおりて奥へ入るのは初めてでワクワクでした。スタジオに輪になって座る演出に、なるほど…と唸り、自己紹介を隣の席の人と急にペアになって制限時間内でインタビュー取材した成果をすぐ発表、後半では、必ず違う相手とグループを組んで話し合う、という工夫に、通常の「座講」と違う目的意識も実感しました。受講者の中にたった一人の知人もいない僕に「おかわり」で早速、計3人の「顔見知り」ができました。
今回の「おかわり」に参加している高校生クンと、僕はきちんと対話して刺激を受けてみたいけれど、同じメンバーが毎回固定で受講つづけるとは限らないんですね。だからこそ、顔を名が一致する仲間を一人ずつ確実に増やして、学べる内容も深めていきたいです。それくらい、定年退職後のコロナ空白期を脱したい僕にとってこの講座は、未知の別世界の異星人が集まる、貴重な場です。


●Gさん
同じ文化芸術のはずなのに、知らないことや新しいことが多すぎて、頭が処理しきれず、いざ感想を送ろうと思ったら2日経っていました。
「おかわり」は前回のシンポジウム同様、私にとっては楽しいものではなかったと思います。むしろ考えなければいけない、と強く思いすぎるあまり、ワクワクするような未来を描いたり話したり出来なかったと感じています。ただ、(大変おこがましいですが)このシンポジウムや「おかわり」に参加した人がたくさんいる、ということ自体が価値だと思っていて、私のように一つ一つ立ち止まり立ち戻りで考えてしまう人だけではなく、色々な考え方の人たちがこの課題について考えているというのがとても嬉しいです。今後もゆっくりでもいいので続いていってほしいです。

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●Hさん
いろいろな知見を持ったメンバーによるグループでの話し合いにより、新たに学んだことも多く、大変有意義な時間であった。特に日本の補助金助成の問題点や、ヨーロッパにおけるアーティストに対する支援の違い、また、演劇に対する一般的なイメージと、演劇当事者の演劇観では隔たりがあることもわかった。
さらに、自分が長年密かに思っていた、批評がないため、内輪褒めに終始してしまう札幌演劇界の構造について話したところ、同じグループで参加された役者の方からも賛同を得られたのは大きな収穫であった。
一方で気になったのは、自己紹介の時間の配分である。どんな方が参加されているのかより詳しく知ることで、お互いの内面がわかって意見が言いやすくなるのはわかるが、そうなると、メインとなる「文化芸術は誰のもの?」のディスカッション時間がどうしても少なくなってしまう。「文化芸術は誰のもの?」についての話し合いがメインであるなら、ディスカッションの時間の方をより長めに確保した方が良いように感じた。どうバランスをとるかは難しい面もあるが、ご一考いただきたい。
そして、月一くらいの継続開催を望む。可能なら、内容をレポートにしてアウトプットして、より多くのフィードバックを得られるようにする工夫も必要ではないだろうか。このような内容をわざわざ時間をとって集まって話し合う機会は貴重なため、参加者以外の人にも伝わる工夫がいっそう求められる。


※参加者の感想は本来の意味を損なわない範囲で、一部省略または追記させていただいておりますので、予めご了承ください。