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「文化芸術は誰のもの?おかわり」企画
映画「アートなんかいらない!」・シンポジウム「文化芸術は誰のもの?戦後ドイツ・日本では」講評

飯塚優子(レッドベリースタジオ代表)

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8月2日(火)に開催したシンポジウムでの議論を継続していくためにスタートした「文化芸術は誰のもの?おかわり企画」。定期的な意見交換会のほかに、映画の上映会やさらなるシンポジウムの開催で、文化芸術への視野を広げ、議論を深める機会を設けました。
「私たちにとって芸術文化とは何か」「社会における芸術文化とは何か」。そんな根本的な問いに向き合うところからはじめた「北海道シアターカウンシルプロジェクト」。その連携企画として行った映画「アートなんかいらない!」の上映会や、藤野一夫さん(芸術文化観光専門職大学 芸術文化・観光学部教授)を講師に迎えたシンポジウム「文化芸術は誰のもの?戦後ドイツ・日本では」は、参加者に何をもたらしたのか。両企画に参加したレッドベリースタジオ代表の飯塚優子さんに講評をいただきました。また、1980年代の札幌のアートシーンを牽引したフリースペース「駅裏8号倉庫」の運営や北海道演劇財団の設立に取り組んできた飯塚さんに「北海道シアターカウンシルプロジェクト」の今後も展望していただきました。
以下、原稿。


「北海道ってなんだ?足元を掘ることからはじめよう。」
飯塚優子(レッドベリースタジオ代表)

2022年春の年度はじめに、「JAPAN LIVE YELL project in HOKKAIDO」の一環として「北海道シアターカウンシルプロジェクト」(以下「シアターカウンシルP」)を立ち上げます、とうかがった時、それはどういうものなのか、よく分かりませんでした。1年が経過し、活動の内容を見て、なるほどこれは「あたらしい革袋」なのだな、と理解しました。

北海道・札幌では、戦後間もなく1950年代から60年、70年に及ぶ活動を続けてきた方々が今もお元気です。また民間による演劇振興を積み重ねてきた私たち戦後生まれ世代も、高齢者とはいえ、未だチャレンジを続け、場数を踏んだ分だけついあれこれ語ってしまいがちです。そんな中、未来を担う20代、30代の人たちが、独自に芸術文化について考え、これからの北海道にどんな文化支援が必要か、考える材料、実践する機会を提供する場として「シアターカウンシルP」が準備されたのだろうと思います。
おかわり企画と称する自由討論の場で、若者たちはどんな会話をしているのでしょう。
「新しい葡萄酒は新しい革袋に盛れ」清新な動きが立ち上がることを心から期待します。

プロジェクトが開催した上映会、シンポジウムに参加して、私自身、長い間答えが出ないまま抱えてきた課題のいくつかに、そうだったのかという回答や、自分なりの考えのようなものが見えてきました。

「アートなんかいらない!」この映画で取り上げられた膨大な事例の多くが、大規模プロジェクトで取り組まれ、広く報道され、国際的に評価され、大きなお金が動き、物議をかもした、といったものが多かったように思います。そんななかで私が興味をひかれたのは、ホピ族のカチーナ人形、秋田のなまはげ、盆栽、恐山、またラブドールなどでした。お借りした映画のパンフレットに見つけた言葉によれば「アートとアートでないものの境界線上にあるもの」ということになります。
縄文に魅せられ「アート不感症」になった山岡監督が、「世間で言うアートと、自分が考えるアートは違うのかもしれない」という違和感から取り組んだこの作品は、あまりにも目配りが広く、問いかけが多様で、何を受け取るかは人それぞれとしか言えないのですが、
私は二つのことを考えました。まず「アート」という言葉の背景について。また、私がアートの意味について最近考えることを、以下に書いてみたいと思います。

「アート」という言葉についてですが、大学1年の春、指定図書として購入した数冊の中に、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」がありました。原題は「The Art of Loving」。この「Art」は「芸術」ではなく「技術」の意です。「Art」という言葉がこのように使われることの意外性が長く心に残りました。
また新渡戸稲造が初代学長を務めたこの学校では、欧米の伝統にならって「リベラルアーツ」を重要な柱としていました。日本では教養科目と訳され、専門性や実益を欠くような印象で軽んじられる傾向がありますが、西欧におけるリベラルアーツは、古代ギリシャ由来の、文系理系を問わず人間の知性の根幹をなす概念です。ここでは哲学も、論理学も、音楽も、数学も、天文学も、アートです。聞きかじりの知識によれば、ルネッサンス期には、ArtはNatureに対置されるものとされ、また近代以降はfine artの意味がartの主たる意味となるなどアートの概念は変遷します。
Artとは何か、何がArtか、という問いは、それだけで「美学」や「芸術学」といった巨大な学問になるほど、一筋縄ではいかない問題で、英語圏の人がArtと言うとき、多かれ少なかれ、これらのことが言葉の背景にあり、前提となっているはずです。

一方日本では、明治維新で欧米から入ってきたArtという概念に芸術という訳語を充てました。移入したすべての文物を日本語に翻訳し、該当する概念自体が日本に無い場合は新しい言葉を創って充てるという翻訳文化は日本特有のものです。Artもその一つで、西周によって「芸術」もしくは「美術」と訳されましたが、芸術という言葉そのものは江戸時代からあり、現在とは意味が異なりました。この話は面白いのですが長くなるので割愛。

もうひとつ、映画をきっかけにあらためて考えたアートの意味についてですが、私は1999年から2016年まで、札幌学院大学で「演劇とアートマネジメント」という授業を担当しました。毎年、最初の授業でこんな問いかけをしていました。
「人間はどんな状況で、どんな原因で死ぬか」。病気、事故、災害、自殺、戦死などなどの状況と、餓死、溺死などの死因と、ありとあらゆる死の状況を事細かに、黒板を埋め尽くすほど挙げてもらいました。そして次に、この中で人間の努力で回避できるものはどれか、考えてもらい、そして最後に人間の力ではどうしようもない死があることを確認しました。「かつては疫病、なんていうのもあったよね」とのんきに話した数年後に、まさか小説で読んだような状況にみまわれるとは想像もしませんでした。
学生に考えてもらったのは「人間の力でどうすることもできないことに出会った時、人間はどうするか」でした。その最たるものとして「死」に直面した時、あるいは死を免れようとするとき、人はどうするだろうか、想像してもらいました。
おそらく人は「祈る」しかないだろう。祈りは無力かもしれない。それでも人は祈るだろう。ひとりではなく寄り集まって祈るだろう。その時、声を出したり、何か音を出したり、身体を動かしたりするのではないか。アートというのは、そういうところから始まったのではないか。そんな話をしました。

友人の三上敏視さんによる「神楽ビデオジョッキー」は、日本各地の山間などで数百年にわたって受け継がれている「神楽」を丹念に踏査、撮影し、解説とともに上映するものです。人間の命を左右する自然、「恵み」と「脅威」、両方を与える自然との折り合いをどうつけるか、それが各地の神楽に共通して込められた意味であるように思います。10年あまり見続けてきて、人間にとってアートと呼ばれるものの原型はここにあると感じています。

またシェークスピアの翻訳で知られる松岡和子さんは、弦巻啓太さんとの対談でこんなことを言っています。
人間の究極の願望は、「死んじゃった人にもう一回会いたい」だと思うんですね。心残りだし、一言ありがとうって言うだけでいいから、ごめんねって言えるだけの瞬間でいいから生き返ってほしいというのが、人間の究極の願望じゃないかと思う。シェイクスピアのロマンス劇とか、『十二夜』みたいなお芝居の中では、それが実現するんですよね。

世阿弥の夢幻能がいつの時代にも目新しくひとの心を打つのも、やはり死んだ人の想いに耳を傾け、もう一度会いたい願いをかなえる構造をもっているからでしょう。

東日本大震災について、失われた命と失われたまちの記憶について、たくさんの表現活動がありますが、私が知りえただけでも、陸前高田のまちの変遷に寄り添った瀬尾夏美さんの「二重のまち」、「花の寝床」ほか(絵と文章)、東北学院大学震災の記録プロジェクト金菱清ゼミナールによる「呼び覚まされる霊性の震災学―3・11生と死のはざまで」、畠山直哉の一連の震災関連写真など、これらはアートだけが担える人間にとって重要な仕事だと思います。

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藤野一夫氏の講演では、西脇秀之さんもレポートしていますが、戦前戦後日本の文化政策に関する動向、諸説について解説していただいたことが非常に印象に残りました。
1940年 三木清による「文化政策論」
1947年 文部省教育刷新委員会による「文化省」への改組提案
またこれらが棄却された経緯など、初めて聞く内容でした。
「文化」は「社会教育」の中に封じ込められ、正面切って「文化」を社会に据えることはタブーとされた。なるほど、そういうことだったのか、と腑に落ちるとともに、遠い記憶がよみがえりました。

昭和30年代、テレビのない時代、私たちはラジオを聴いて育ちました。
夕方6時、NHK第1放送で「子どもの時間」が始まります。5分間の「子供ニュース」のあと、放送劇がふたつ続きます。「三太物語」「1丁目1番地」などのホームドラマや、「新諸国物語・笛吹童子」等の娯楽作品と共に、「アンクルトムズキャビン」「巌窟王」「にあんちゃん」「コタンの口笛」といったプログラムが思い出されます。自由や差別について教える意図で制作されたにちがいないこれらの番組は、当時日本の名だたる演劇人が多数関わって制作されたことが、戦後ラジオドラマに関する資料から読み取れます。GHQが民主化政策の一環として、日本人再教育のための放送番組指導を行ったことが知られています。その教育的効果がどのように根を下ろしたか定かではありませんが、主題歌の歌詞とメロディーは、60余年経ついまも、一部不明ながら私の中に刷り込まれています。

「♪ ふるさと知らない私でも、長い裾にはホウセンカ、衿にはさんだ夏の(茄子の?)花、オシロイバナの紐付けて」(「にあんちゃん」1959年放送 原作:安本末子、脚色:筒井敬介)
「♪ ランランピシカンコンカニペ、金の滴よ来て(みて?)おくれ、わしらの近くにコタンのカムイ ~金の滴を降り注ぐ」(「コタンの口笛」1958年放送 原作:石森延男、脚色:矢代静一、語り:芥川比呂志)

もう一つ思い当たることは、30年ほど前になりますが、1996年の北海道演劇財団設立のいきさつです。当時、文化に関わる財団法人は北海道教育委員会に設立許可を申請することが一般的でした。しかしこの頃、全国的には、教育委員会ではなく知事部局が直接関与して文化振興に取り組む事例が散見されるようになりました。1990年開館した「水戸芸術館」では、毎年度、市の予算の1%を芸術館の管理運営に充てる、という画期的な方針が打ち出されました。そして北海道でも1994年「北海道文化振興条例」が公布され、道による文化への取り組みが始まりました。このような流れから、北海道演劇財団は、より幅広く「教育」の枠を超えた活動も出来るように、「北海道」と「北海道教育委員会」の両方に申請手続きを行い、共管法人としてスタートしたのでした。

長くなりましたが、ささやかな思い出話が、歴史を身近に感じる手がかりになったらいいな、と思い書いてみました。


最後に、北海道の文化政策を考えるうえで「北海道シアターカウンシルプロジェクト」が今後、取り組んだら良いのではないかと思うことを考えてみました。

ひとつは、これまでも多くの演劇人が取り組み、ライブアートツァーで楽しい実績が積まれていますが、私たちがいま北海道に住んでいることの足元、その歴史を、立場にとらわれない目で、新たな視点から、掘りおこし光を当てる作業を続けること。

ドラマシアターどもの安念智康さんに「かまどがえしの系譜」という作品があります。かまどを返す、つまり身上をつぶした、家業に失敗して北海道に渡った人々の物語で、ご自身の父祖がモデルとのことです。
先日、道新に掲載された池澤夏樹さんのエッセイにも次のような一節があります。 
「かつては内地という言葉に実感があった。つまり自分たちがいるところはその外という意識があった。開拓地であり、はっきり言えば植民地である。流刑囚、田畑を持たない次男三男、戊辰戦争の残党、その他の食い詰め者、などなど根のない人々が来て、困難の中でなんとか根を下ろした。」
貧農の長男だった私の祖父は、家業を捨て家督を弟に譲って医学校に通い、庄屋の長女だった祖母と共に千葉から北海道に移住しました。ブラジルへ行きたいと思ったけれど、それだけはやめてと親族に請われ北海道になったといいます。一方、父方の祖父は茨城つくば山麓の造り酒屋の三男でしたが、札幌農学校に進路を定め、これまた長女だった祖母と共に札幌に来たといいます。こうした話は、私たちの側が掘り起こさない限り、送り出した側の人たちは「そういえば、むかし北海道に渡った人が居たみたいですね」くらいの関心しかありません。
祖父母はなぜ故郷を離れたのか。最期に自分の選択をどう回顧したのか。そのような思いを書き残したものは未だ見つからず想像するのみです。

お正月に見たドキュメント特集「新幕末史」は見ごたえがありました。薩長新政府軍と奥羽列藩同盟による戊辰戦争に、イギリス、フランス、プロイセンなど欧米列強がどの様に関わったか、現存する資料から詳細に読み解かれています。北海道はプロイセン(後のドイツ)の領土となる可能性もあったそうです。「坂の上の雲」的な明治礼賛でもなく、逆に300年続いた江戸時代は素晴らしい的な話でもない、明治維新が深く関わる北海道だからこそ、新たな視点に目を開かれる思いがしました。
移住、植民地、侵略、といった視点で、世界の歴史があらためて検証されようとしている現在、多くが移住者の末裔で構成され、さらに新たな移住者を迎え入れようとしている北海道の内実を多面的にとらえることは、アートの重要な仕事だと思います。

そして、そのような土地だからこそ生まれる発想や、この土地特有の感性で紡ぎ出される物語や人物像を生み出すことができれば、それこそが北海道演劇と呼べるものでしょう。最近「札幌演劇」という言葉を見かけることがありますが、私はこの言葉を使いません。単に札幌で上演されている演劇の総称として「札幌演劇」と呼ぶのはいかがなものでしょう。


以下、ちょっとしたアイデアをふたつ。

1.仮に「おしかけレジデンス」と呼びましょうか。
札幌在住の演劇人(劇作家、俳優など、もしくは劇団など集団)が北海道内市町村に滞在してその町の生活を実体験し、地域の人々と交流する機会を設定するのはどうでしょうか。アーティストインレジデンスという事業形態がありますが、この場合、滞在中に作品を創造することが条件となると思います。「おしかけレジデンス」ではそこまで厳格に作品づくりはしなくとも、1週間なり10日なりその町に滞在させてもらい、買物をして食事をつくり、出来れば何らかの仕事に参加させてもらい、車が無ければ暮らせない交通事情を知り、真の暗闇と星空を体験する。そこから札幌とは異なる感覚と手ごたえを持ちかえることができたら、創造につながるのではないかと思います。
(「全国小劇場ネットワーク」が実施している「シアターホームステイ」みたいなものです)

2.道内市町村をめぐる コミュニティFMラジオ、もしくはインターネットラジオ番組制作
1986~88年頃、AirG(FM北海道)でサッポロビール提供「お~い!北海道」というインタビュー番組をつくっていました。内容はいわゆる町ネタですが、月~金毎日10分間なので、けっこう取材に追われました。時々、道内各地に出かけ、まとめて10回分位を取材しました。
増毛留萌からオロロンラインを稚内まで、北見網走紋別、釧路根室、十勝日高、伊達室蘭、等々、けっこう道内くまなく出かけたことが、現在も土地勘となっています。
これを、みんなで手分けして、どこかのコミュニティFM、インターネットラジオ、ポッドキャストなどの媒体で展開したら面白いかな? 
あ、今なら映像も手軽に撮れるのですから、映像の番組も可能かな。