「文化芸術は誰のもの?おかわり」三杯目・四杯目レポート
久々に「おかわり」企画のご報告です。
「おかわり」企画とは8月2日に開催したシンポジウム「文化芸術は誰のもの?」にご参加いただいた方、特に若い人たちから「もっと議論ができる時間が欲しかった」「議論の時間が短すぎる」という、うれしいお叱りの声を多数いただき、ならば、議論を継続していける場を設けようと考えた企画です。参加対象者は39歳以下のシンポジウム参加者と「地域と舞台をつなぐクリエイティブ講座~企画力を磨く~」の受講生です。
これまで8月と9月に希望者が集まり、文化芸術について自由に語り合う機会をつくってきたほか、10月23日には映画「アートなんかいらない!」を上映、11月4日にはシンポジウム「文化芸術は誰のもの?戦後ドイツ・日本では」を開催。それらを踏まえ、11月19日、12月17日には久しぶりに希望者が集まり、これまでの取り組みを振り返りつつ、これからの北海道に必要な次なる企画について考えてみました。
12月17日の「おかわり」企画で話題提供をする栗山町地域おこし協力隊の土屋綺香さん
参加者からは人口減少や札幌一極集中、老人介護、自己責任ばかりが求められる生きづらい社会等々、さまざまな課題が出されましたが、話を進めていく中で一番の課題は「興味のあることにしか関心を示さないこと」なのではという意見が出ました。確かに、文化政策に関するシンポジウムをやっても参加するのはそもそも文化施策に関心がある人が圧倒的。本当は観光や福祉の世界にいる人にこそ来ていただき、何かヒントをいただきたいのですが決してそうはなりません。いくら連携が必要だと叫んでみても、分野を超えた交流は現実にはなかなか難しい。ましてやネット社会。求める情報が自分の興味があることや自分に都合のよい情報だけに偏ってしまいがちないまこそ、意図しない偶然の出会いを作り出すような「場」が必要なのではないか、そんな声があがりました。
参加者のひとりが「誤配」という言葉を教えてくれました。「誤配」とは文字通り「誤って配られてしまう」ことで、誤配されたものはそもそも求められているものではないわけですから、多くの場合、受け取った人にとっては役に立たない無駄なもののはずです。しかし、一見無駄に見えるものが、思わぬ思いつきを与え、次のイノベーションにつながるかもしれない、それが「誤配」の考え方です。
必要なものは「誤配」を生み出すことのできる場所なのかもしれません。例えばそれは、書店に行って買いたい本を探していたら、全く違う本を見つけ、手にとってみたら意外に面白くて、探していた本を買わずに、違う本を買ってしまったというような意図しない偶然の出会いが起こりえる場所です。そんな場所を札幌につくることはできないか。文化芸術があらゆる人やモノをむすびつける接着剤になって偶然の出会いを生み出し、化学反応を起こしてイノベーションのきっかけを作り出す。。。おぼろげながら企画の方向性がぼんやりと見えてきました。
話題提供の中で土屋さんは「少子高齢化、人口減少、過疎、仕事がない、といった課題は都会から見たステレオタイプの地域の課題に過ぎない」とし、「スタバのようなチェーン店はないが、なくても不便さを感じることはないし、チェーン店よりも個人のお店の方が楽しい。チェーン店は資本主義の産物。栗山に暮らすことで消費社会の中に組み込まれてマーケティングのエサになることが減った」と現在の暮らしについて語ってくれました。また、その一方で地域の課題としては「農家同士の交流はあるが、農家と会社員といった分野を横断した交流がない」ことなどを挙げました。さらに、都市と地域の連携については「都市と地域の接点をどう作っていくかが課題。貨幣価値で測れるものはごく一部なのにもかかわらず都市が地域に提供できるものは貨幣価値が中心。地域はどこを貨幣価値に変換し、どこをそうではない豊かさとして保っていくのがいいのかを考えていかなければならない」と指摘。分野を横断した交流がないことは、11月19日の「おかわり」でも提起された課題であり、都市・地域に共通した課題と言えるかもしれません。また、貨幣価値で測れない豊かさこそが本来、文化芸術が持つ力とも言えます。
札幌と地域が連携し、北海道全体の文化力を高めていくために、文化芸術にできることはまだまだありそうです。11月・12月の「おかわり」企画はそんなことに改めて気づく機会となりました。