「ライブアートツアーin栗山」参加者レポート③

沢田石誠さん(札幌市在住:ライター、札幌オオドオリ大学スタッフ)

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 「ライブアートツアーin栗山」参加者レポート第3弾は、札幌在住の沢田石誠さんのレポートです。栗山町は札幌から車で約1時間。距離的には近い関係にありますが、実際に足を運ぶ機会はあまりなく、札幌市民にとって栗山町は近くて遠いまちといえるかもしれません。今回のツアーには札幌からたくさんの皆さんに参加していただきました。沢田石さんもそのひとり。札幌から参加した方々がこのツアーに何を感じたのか。気になるところです。沢田石さん、ご協力ありがとうございました。
 以下、レポートです。

沢田石誠(札幌市在住:ライター、札幌オオドオリ大学スタッフ)
「歴史の宝庫としての栗山町」

 正直に告白すると、「ライブアートツアーin栗山」というツアーの正体がよくわからず
、最初は参加するつもりはなかった。これまで栗山町と人生でさしたる接点がなく、日本ハムファイターズの栗山英樹前監督が同じ名字という縁で家があるのを知っていたくらいである。しかし、ツアーの約一ヶ月前に行われた「ライブアートツアーin栗山」のzoomによるオンライン取材に何気なく参加したことで、野外劇を通して栗山町の歴史と文化を学ぶことができるという、一風変わったツアーとわかり、なんとなく面白そうに感じた。主催者の一人、斎藤歩氏の熱弁によって、心が大きく動かされたのも大きかった。
 当日の朝はさわやかな秋晴れで、参加者の年齢も幅広く、予想よりも人数が多かった。ツアーはガイド役の磯貝圭子さんが芸能レポーターよろしくマイクを持ち、カメラに向かって実況中継しながら進んでいった。ツアーバスの車窓からは、豊かな田園風景が広がり、その美しさに心を打たれた。
 初めに訪れたのは、夕張川の川岸である。この川岸は室蘭方面からやってきた開拓民が初めて栗山町に足を踏み入れた地点であり、栗山町の歴史がスタートした場所である。ツアーのガイドから説明が成されるやいなや、ボロボロの和服を着込み、重苦しい荷物を背負って息も絶え絶えに疲れ切った4人が、草むらの奥からのそのそと歩いてくる。彼らこそ、栗山町の開祖として歴史に名を残す泉麟太郎ら開拓民と案内役のアイヌ人である。先頭を歩くのが、浅野の妻という栗山町に歴史上初めて足を踏み入れた乳飲み子を連れた和人女性である。「おぉ!こうやって野外劇が要所要所で展開されていくのか!」とその仕掛けと演出の巧みさにすっかり魅了された。浅野の妻ということしか名前が伝わっていない、一人の女性から栗山町の歴史が開始したのは、歴史という運命のタペストリーがいかに無名の人々によって紡ぎ出されているかを示す証左と言えるだろう。

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 こうして始まったツアーは、映画「幸せの黄色いハンカチ」のロケ地、開拓記念館、泉記念館、The北海道ファーム直営店(アイスクリーム屋)、谷田製菓、雨煙別小学校コカ・コーラ環境ハウスのアイヌ舞踊、小林酒造と、次から次へと濃密な濃さを伴って進んでいった。
 ツアー開始直後にバスで手渡された朝食のおにぎりやThe北海道ファームで食べたアイスクリームとプリン、昼食のお弁当といった食事やスイーツは、全て栗山町の安心安全な食材が使われており、どれも新鮮で大変なおいしさであった。道民なら誰もが知っているおやつの「きびだんご」が、栗山町に本社がある谷田製菓で製造されているというのも今回初めて知った。夕張の炭鉱員は、ポケットに「きびだんご」を忍ばせ、過酷な労働の合間に糖分補給食として食べていたという。工場内部では「きびだんご」の製造工程、できたばかりのきびだんごを次々とオブラードと包み紙にくるむ職人技を見ることができた。
 ツアーのクライマックスは、明治11年に創業し、現在は4代目小林米三郎が社長を務める栗山町屈指の名門、小林酒造である。ここの生家である古民家「小林家」にて、四代目社長の姉に当たる千栄子さんが波瀾万丈の人生模様を語ってくれた。名門家庭に生まれたがゆえに味わった苦悩、祖母から聞いた祖父(2代目社長)の放蕩による耐えがたい苦労話と経営難など、140年以上に及ぶ歴史には、厳しい時代を生き抜いてきた強靱な女性たちの物語があったのだ。その話のすさまじさに、参加者一同、心が締め付けられるようなショックで放心状態に陥ってしまった。そのショックから覚めやらぬ中、バスはスタート地点のJR.栗山駅に戻り、ツアーは終了した。
 こうして振り返ってみると、栗山町は歴史の宝庫である。ツアーの野外劇や谷田製菓の社長、小林酒造で学んだまちの歴史は、オーラルヒストリーによって直に歴史を学ぶ、生々しいまでのリアリティーがあった。栗山町に浅野の妻や泉麟太郎らが入植して以来、飢えや寒さ、台風や洪水のような天災、戦争や産業構造の変化など、想像を絶する困難を乗り越え、甚大な犠牲を払いながら、今日に至るまで、膨大な人間ドラマが存在した。開拓の苦闘、挫折と敗北、経済的危機、不治の病、それらの試練を乗り越えた先につかみ取った栄光と名声、その後の没落と華麗なる復活劇。その陰には渦巻く愛憎劇、後継者争いなど、栄枯盛衰の物語があった。身内の恥として決して表に出ることのないお家騒動、隠し子や愛人の存在など、闇に葬られた事実や、記録から抹消されて二度と復元されることのない歴史もおそらく存在することだろう。そのような物語は決して教科書に載ることもなく、小説化、映像化されて人口に膾炙することもない。それでも十分に大河ドラマたりうる栄華と零落が幾度も繰り返され、歴史に翻弄されながらも栗山町の人びとは逞しく生きてきたのだ。今も栗山町民は、歴史の濃密な一端を、自身の人生を町の歴史に重ね合わせながら生きている。
 もちろん、わずか一日のツアーだけで、栗山町の全貌を学び尽くすことなどできるわけもない。だが、ツアーで語られた恐ろしく濃密な栗山町の歴史物語は、深く心に刻まれた。

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 しばしば、北海道には歴史がないという、やや紋切り型的な、時には侮蔑的な意味合いを伴って歴史の浅さが形容されることがある。それは伊勢や出雲、京都のような、太古の神話時代から登場する地域と時間的な指標で比較されるからに過ぎず、栗山町一つとっても濃密な歴史ドラマがある。これが北海道全体となると、179市町村それぞれに開拓から始まった歴史という物語が確かに存在するわけだ(当然のことながら、和人が入植する以前にもアイヌ人の暮らしがあるので、それらを巡る物語は「歴史修正主義」に走らずに考察する必要があるのは言うまでもない)。
 残念なことに、179市町村の歴史を個別に学ぶ機会は極めて乏しいのが実情だ。縁もゆかりもないまちにわざわざ出かけるためには、ライブやコンサート、講演会、スポーツの試合といったイベントや、温泉や飲食店に出かけるような、何かしら動機付けとなる施設が必要とされる。単に歴史を学びたいからといって未知のまちを訪れることは、そうあることではない。だが、野外劇のツアーを楽しみながらまちの名産品に舌鼓を打つのであれば、期待を遙かに上回る面白いコンテンツとして成立する。
 ツアーの実現には、関係者の説得や台本作り、衣装や食事の準備など、関係者たちの途方もない苦労があったことは、物見遊山のように気持ちで参加した自分の目から見ても容易に想像が付く。主催者の苦労は本当に頭が下がる。ツアーの参加者が新たに栗山町の「関係者人口」として、その歴史が血肉化されたことは間違いない(ボリュームがありすぎて消化不良かもしれないが)。知られざる北海道の歴史を継承していくためにも、ライブアートツアーを今後も続けて欲しい。ぜひ次の機会があればまた参加したいと心から思う。

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