「きをみずもりをみる」と言うタイトルから連想されるのは、「木を見て森を見ず」ということわざ。「小さいことに心を奪われていて、全体を見通さない」という意味だが、つまりこのタイトルはその逆の「小さいことを気にせず、全体を見る」という意味なのだと推測される。「小さいこと」、「全体」には一体何が当てはめられるのだろうか。
舞台「きをみずもりをみる」は中島公園駅からほど近い、シアターZOOで上演されている。細長い階段を下っていくと広がる静寂と暗闇に心地良さを覚え、好きな席に腰掛ける。スピーカーから何やら機械的な音が聴こえ、舞台奥でほのかに点いている緑色の照明と相まって、近未来を想像させる。舞台の真ん中には椅子2つがポツリ。その周辺には、乱雑に小道具が置かれている。客席の最前列と舞台は地続きになっていて、舞台を観ていることを忘れさせる。なんだか、ミニチュアでも覗いているかの様な感覚に陥った。
本作は、3つの物語と1つのダンスの4作品で構成されている。どの作品も「死」、そしてそこから映し出される「生」がテーマとなっている。全体の上演時間も1時間30分と短いがその密度は非常に高い。
1つ目の作品は、『幽と現のあいだ』。心臓も脳も停止していて医学的には「死」と言う状態にありながらも何故か生きていて、眠ることなく働き続ける女性藤本幽が主人公だ。藤本幽はその身体的特徴故に、政府の実験体として、身体中を調べられたり、複数の男性と体を重ねたりする。「死んでいるのに生きていて、生きているのに死んでいる」状態の彼女の尊厳というのは無視されていて、ロボットの様に扱われる描写にはヒヤッとさせられた。この話はあくまでフィクションだが、「命」を軽視するような行為は近い将来現実でも起き得るかもしれないし、自分がそれに加担してしまう可能性だってあると襟を正される思いになった。役者によっては場面転換がある度に目まぐるしく役が変わっていくため、その身体性にも注目である。
2つ目は、『私の境界』。こちらはダンス作品である。真っ白な衣服を身に纏った4名が不規則に踊る。互いに折り重なった状態から始まり、曲に合わせて徐々に動き出すのだが、滅多にダンサーの踊りが揃うことは無い。各々が各々の人生を生きているのだ。途中何度かぶつかりそうになるが、ギリギリで相手の動きを回避している。相手に引かれ、逆に自分が相手を引っ張る。その繰り返しをしていく中でふと、「結局自分はひとりなのだ」という虚しさに襲われる。そして、最後は眠る様に死んでいく。生きていて、誰もが一度は感じたことがある空虚感を複雑な踊りの中から見出すことが出来た。観る人の心の状態によって解釈が大きく分かれる作品だと感じたが、私は人間の一生を本質的に捉えた作品だと読み解いた。
3つ目は、『最期のプレゼンテーション』。4作品の中で唯一、1人の役者が1つの役のみを演じる作品であり、場面の転換が全く無い一幕劇である。生きることに飽き、死んでみようと思ったお金持ちが、部下に「理想の最期」をプレゼンさせる。ブラックユーモアたっぷりの本作だが、死をエンタメ化して収益化するという行為は、あながちフィクションとも言えないのではと感じた。
最後を締めくくるのは、『ハッピーエンドセンター』。自殺代行施設で働きながら「生」と向き合う主人公を描いた物語だ。ディストピア的要素が詰まった作品で、「命」とは一体何なのか深く考えさせられた。SNSで簡単に「死にたい」という言葉を呟き、それが拡散され得るようになってしまった現代日本では、安楽死の合法化を求めるような声も度々目にする。生きていたら、「死にたい」くらい苦しい思いをしたり、虚無感から漠然と「死」を思考してしまう時期があるかもしれない。しかし、その一時の感情で簡単に「死」を選択できるシステムが導入されてしまったら、希望を抱けたかもしれない未来もシャットアウトされてしまう。ゆくゆくは、「社会のお荷物になっている人は死ぬべき」という安易な発想が、世間を席巻しかねないだろう。誰もがいつかは「死」を迎える運命だからこそ、その重みは失われてはいけないと思わせてくれた。
4作品は、それぞれ違う設定ながらも、同じ世界線に存在している物語なのかもしれない。
さて、タイトルの「きをみずもりをみる」。私なりのアンサーは、「どんな困難な状況や感情に直面しても、とにかく生きて欲しい」というメッセージだ。
終演後にもろもろアナウンスする役者さんも、少しかんでましたね。どこか言いにくそうだった。
いや、タイトルのことです。
パスプア公演「きをみずもりをみる」。
「木を見て森を見ず」が、まあ一般的な慣用句というもの。
その逆を言うのには、心のどこかで「これは違う?」というブレーキがかかって、声に出すとつっかえてしまう。
本来の意味では、細部にこだわって大局を見失うという姿勢の誤りを指摘するものだろうけど、それをひっくり返しているのが今回の劇のタイトル。
誤った姿勢の逆は正しい姿勢なのだろうか。
開演前からそのことでもやもやしてしまった。
舞台は4つの作品で構成されている。
4作品が「死」というテーマで共通していることはすでにフライヤー等で明らかにされている。その上で観客は観ることになるので、演目2の「私の境界」というダンスも「生と死」の表現なのだろうと見当がつく。ここでなぜダンス?という疑問は、むしろ「きをみずもりをみる」という4演目全体を観た時に、その象徴性観念性という点でもっとも作品の性格を表現していると理解した。
演目1「幽と現のあいだ」は、「生きている」はずの人物がじつは死んでいるという設定。心臓と脳が動いていないと診断されるが、それでも「生きている」ため、死体検案書を会社に出していても上司から出勤を求められる。実家の家族に相談すると取り敢えず葬儀を出さねばならないとなって、棺桶の中から弔問客に普通に話しかけたりするところなど、かなりブラックな笑いの連発。
そのうち感染が広がっていって…。
舞台は最小限の道具のみ、役者の肉体や動作が情景を表現している。
この「幽と現のあいだ」が4作の中で一番練り上げられていたようだ。
演目2「私の境界」はダンス作品。4人の役者(ダンサー)による現代的な舞踏。これを観て、ああ「死」がテーマとされているのがこのオムニバス全体であり、どうやら「死」の観念それ自体を表現しようとしているのか、と思った。
「境界」とは生死の境のことだろう。生と死という明らかに異なる2つが、明らかならざる境界に互いに接し合っている現実を描こうとしている。
演目3「最期のプレゼンテーション」は、資産家で企業家の自信満々の男が、さまざまな事業で巨額な富を得てきた最後に、自分の死で大儲けしたいと思いつき、自分の会社の役員にそれぞれ企画させプレゼンさせるというもの。営利の果てに自分の死をもビジネスにせねばならないと思ってしまう本末転倒ぶりを、やはりブラックなユーモアで描く。
演目4「ハッピーエンドセンター」は自殺が合法化された近未来。役所に自殺を実施する部署「ハッピーエンドセンター」が設置されていて、そこで働く高城ゆりえ(田中杏奈)と戸塚圭吾(温水元)が淡々とあくまで仕事、ルーチン業務として他人の自殺をこなしてゆく。
本来不治の病に苦しむ人を救済するために生まれた法律が、人の心にふと浮かぶ自殺願望を簡単に実現させたり、「生きていても意味のない人」に自殺してもらう制度に変質してしまうところは、近未来というよりきわめて現実的な問題を描いている。これはかつてのナチズムだけでなく、日本の優生保護法などの「狂った正気」もこの作品の奥にある「死」の抽象化された姿だろう。
舞台にセットはほとんどなく、小さな箱や椅子があるだけで、ひとつの演目を終えて道具を片付ける動作さえも、もうひとつの象徴劇として見せているところに、演出の面白さを感じた。
さて、謎のタイトルに戻る。この「きをみずもりをみる」というのが何を意味しているのかは観客がそれぞれに考えればいいことだ。
私は、日常にある「死」を仕方がない現実として見ている常識、それを一度消去した後に見えてくる「死」が、実は不知の存在、生者にはまったく理解できないものという気づきがこの作品のタイトルの意味だろうと受け取った。
「死」は文学では最も重要なテーマで、それを描いた作品は珍しくない。というか、「死」をテーマとしない作家を探すことのほうがむずかしいぐらいだ。
詩歌などは特にそう。
「生」は常に「死」を思わせ、「死」は「生」を浮き彫りにする。
たとえば短歌でも
音立てて墓穴ふかく父の棺下ろさるる時父目覚めずや 寺山修司
俳句という最短詩型ではより抽象化される。
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 正岡子規
雪はしづかにゆたかにはやし屍室(かばねしつ) 石田波郷
私の句にも「炎天や母さん死はまだ怖いですか」など拙いながら死をテーマとしてものが多い。詩は「死」を見ずにはいられない。本能的に。
今回の作品はどれも短い。その短さで「死」という捉えきれないものを描いているので、ひとつひとつが詩篇となっていた。手の込んだ本はなく、リアリズムの演技もなく、観るものに「死」という抽象的な観念を見える形で演じることで、私たちは「きをみず」に生と死という「もりをみる」。
物語性の中から死を描くというより、死という観念を舞台に描き出すという試みは、かなり難しい。その困難にチャレンジした脚本家、役者の皆さんの姿勢にも心を動かされた。
それにしても演出家までダンサーとなって踊るんだ! と驚きましたよ。
いっけんすると「死」をテーマにした作品のように思うだろう。でもそれだけじゃない。
パスプア『きをみずもりをみる』は3つの物語と1つのダンスからなるオムニバス作品だ。たしかにいずれも「死」にまつわる話だけど、一貫しているのは重さを取り除いているところだ。
死から重さをなくしたときなにが見えてくるのか、そういうお芝居なんじゃないか。
意欲的な物語、思考実験っぽさは広義のSFのようだし、小気味よくサクサク進むストーリーやヒヤッとするブラックさは星新一や藤子・F・不二雄のSF短編のような味わいがある。
「死」がテーマの重く難しい内容だと思ってしまうと足が遠のくかもしれないけど、「いま」を比喩的に描いた「すこしふしぎ」な短編集だと思うとどうだろう、ちょっと興味がわくんじゃないだろうか。
「死」の重さをなくして、見えてくるものはなんだろう。それこそがこのお芝居のタイトル「きをみずもりをみる」なのかもしれない。「き」には「死」を、「もり」には観た人が好きな言葉をあてるといい。
僕たちは「死をみず」に、べつのなにをみるのか。
4つあるうちの最初の演目「幽と現のあいだ」は、ある日突然死んでしまった女性・藤本幽(吉田茜)の物語だ。医学的には死んでる状態だけど、体は動くし会話もできる。「死」以前となんら変わりはない。そんな奇妙な死に目をつけた政府機関が彼女を利用しようとする。
彼女は生前、ブラック企業で搾取されていたが、死んだあとも政府機関に搾取されようとする。でもなにを搾取されるのだろう。ブラック企業には「命」を搾取されていたように見える。ところが死んだあとも奪われつづける。なにを? たとえばそれが「もり」の部分なのかもしれない。
2つ目「私の境界」はダンス作品。ミニマルなエレクトロニカ風の音楽のなかで4人が触れ合い、影響を与えながら動く。
僕はダンスの見方をまったく知らないんだなあとぼんやりながめていたらしだいに規則性や流れに気がついてもしかして? と思ったらやっぱり物語があったらしい。会場で販売されているシナリオには書かれているそうだ。僕は、体がほぐれて血行がよくなるさまなんだろうと思ったけどたぶん違うだろう。個人的に心地よかった演目。
3つ目の「最期のプレゼンテーション」は、どこぞの資産家(温水元/満点飯店)が自分の死に方の演出を3人の部下(最上怜香/yhs、山田プーチン、ともか/パスプア)にプレゼンさせる。部下のテンションや資産家の娘(曽我夕子/yhs)の態度もいたってふつうで、死に重さはない。途中までは。
「死」という名前の別のもの、僕たちが知っているものとは違うなにかをプレゼントしているような錯覚に陥る奇妙な話。
4つ目の「ハッピーエンドセンター」は安楽死が合法化された社会。藤子・F・不二雄の短編をもじるなら「気楽に死のうよ」になるんだろうけど、コップ1杯の死を提供する安楽死会社の社員・高城ゆりえ(田中杏奈/パスプア)の日常を描く。
コスパで生きることが当然の彼女にとって「死」もまたコスパの対象なのかもしれない。軽くなった「死」の代わりに浮かびあがってくる「もり」はなんだろう。
現実にあるなにかをあえてなくす(変える)ことで、かえって現実の姿が見えてくるという試みは僕は好きだ。
パスプア役者陣の演技と作・演出の小佐部明広はシンプルで清潔感のある舞台をつくっている。ダンス作品の心地よさや、地の文や心の声の多用などから生み出されるリズム感もよかった。
役者のセリフと動きが、空気の流れをつくり観客に届く。はじめは小さな波だけど、規則性や流れによってリズムが生まれる。そのリズムにストーリーが乗って「もり」が見えてくる。通常の物語では「死」によって隠されているものが。
『きをみずもりをみる』
観終えたあとあなたは「もり」になんの言葉をあてはめますか?