ゲキカン!


俳人、文芸評論家 五十嵐秀彦さん

札幌演劇シーズン2024もついに最終演目となった。
全9作品。観る方もマラソンのようで、ようやくゴールに辿り着いたという思い。
トリは「のと☆えれき」公演、「葉桜とセレナーデ」。
能登英輔さんと小林エレキさんの二人芝居と聞くと、もうどこかで安心してしまっている自分がいる。それは演劇鑑賞としてはあまり望ましいことではないかもしれないが、フォーマットがしっかりとした中で繰り広げられる物語は、物語そのものに没入できるので、ありがたい。

場面は産科病院の玄関前の庭。コロナ禍の状況で建物に入るのは厳しく制限されている。妊婦の親族一人だけが、玄関前に置かれたインターホンを通じて受付の許可を得て入館する。急ぎの用件でなければ病院の庭らしき露天に用意された待機場所でひたすら待つ。
舞台にはパイプ椅子が数脚、奥に桜の木、上手にインターホンと消毒用アルコールのボトルが置かれているだけで、ほかには何もない。病院があることも演技の中から感じるだけ。
この作品は肝心なところが舞台に出てこない。
そこが二人芝居の醍醐味だろう。会話と独白から、見えていない物語を観客は観ることになる。
まずエレキさん演じる男(以降エレキ男とする)が出てくる。
この男、きわめて挙動不審(エレキさんの本領発揮)。
次に能登さん演じる男(以降能登男とする)登場。
能登男が病院のインターホンに話している内容から、大石カコという女性が産気づいて入院していて、能登男が夫らしいと分かる。
しかしすぐに能登男はカコのバイト先の居酒屋店主であり、夫でないことがわかる。そして挙動不審のエレキ男が、カコの父だということも。エレキ男には、カコの父だと言えない事情がある。
まあ、このへんネタバレっぽいけど、開演してすぐにわかる内容なので問題ないか。

カコという女性の出産を病院の前で待つふたりの男、という舞台上の世界。
カコを子どものころから知っていて両親に捨てられ苦労してきた彼女を自分の子のように思っている居酒屋店主・能登男(自分には子がいない)と、カコが生まれてすぐに逃げてしまったエレキ男。
生まれてくる子の父親では全くないふたりの男が、ひたすらその時を待っている。
エレキ男は昭和54年生まれであることが会話から分かる。ということは現在で45歳。エレキさんの年齢と同じだね。

能登男はエレキ男を警察だと勘違いする。勘違いするのは、カコの夫が起こした事件というエピソードがあるため。

このふたりの「おじさん」の、どうにもすれ違う会話と独白から舞台は成り立っている。
面白いのは、そんなに限られた狭い舞台に、一度も登場しない人物が何人も現れてそれぞれの人生が絡み合う様子が会話から見えてくるところだ。
カコの母が、祖父が、カコの夫が、カコという女性と共有していた時間が見えてくる。
眼の前にはカコの父であるはずのエレキ男がいるけれど、実はそのカコの人生の中に彼の居場所がない。
能登男は能登男で、カコの家族の物語とは別なところにいる。
この作品がカコの物語であるとすれば、舞台にはそれとは無関係なふたりの「おじさん」が言い争ったり途方に暮れたりしていることになる。

ああ、なにか言いしれぬ徒労感がつきまとうのは、そのせいか。
そしてぼくの経験から言っても、出産を待つ男という存在には確かに肝心の物語の外におかれているような疎外感があるものだ。
仲間外れにされた「おじさん」。
周辺の物語が見えてくれば見えてくるほどに、仲間外れ感が強まる「おじさん」たち。
そのあたりはさすがに「のと☆えれき」、息の合った演技で観客を爆笑させたり、しんみりさせたりしてくれる。お約束の相撲もやっちゃう。(どうして相撲なのかねぇ)

全然合わない男二人の間に、しだいに「おじさん共感」が生まれてくる。
この転調もうまい。
そこで客演のナガムツさんがナース姿で登場する。役があって演技するというのではなく、ひたすらナレーションを続ける。非常に癖のある存在感たっぷりのナガムツさん最高!
ナガムツさんが「なんだか悲しくなりました」と言うと、もう可笑しくて、そして悲しくて。

舞台には物語から疎外された男たちがいて、本当の物語は舞台の外にある。
この物語構造には象徴性があって面白い。
そして実際に「おじさん」というのは、ときにそんな思いにかられる存在なのかもしれない。
これからおじさんになる人。過去におじさんだった人(イマおじいさんのオレ)。身近にそんな孤独なおじさんがいる人。
そんな人たちのための、これは、可笑しくて淋しくて哀しいお話。
「葉桜とセレナーデ」。こんな気取ったタイトルも、終わってみれば、そうだよなぁ、と思わせてくれた。

演劇シーズン2024のラストはシアターZOOで、二人芝居の醍醐味をたっぷり味わってほしい!

さて、途中でいろいろ伏線ぽい小ネタ(密漁、ジーサンズ、秘密のカバンなど)が散らばるのだが、はたしてこの伏線は回収されるのか、されないのか。
これから観る人は、そのあたりもお楽しみに。
ぼくの心の中では「え〜〜!」の声が響いてしまった。

五十嵐秀彦(いがらし ひでひこ)
1956年生れ。札幌市在住。俳人、文芸評論家。
俳句集団【itak】代表。現代俳句協会理事。
北海道文学館理事。
北海道新聞「新・北のうた暦」(共同執筆)、「道内文学時評」執筆。
朝日新聞道内版「俳壇」選者。
月刊「俳句」(角川書店)「令和俳壇」選者。
著書 句集『無量』(書肆アルス)
1995年 黒田杏子、深谷雄大に師事。
2003年 第23回現代俳句評論賞受賞。
2013年 北海道文化奨励賞受賞。
2020年 藍生大賞受賞。
ライター・イラストレーター 悦永弘美さん


舞台に並ぶのは、3脚のパイプ椅子と若葉が出始めた桜の木、消毒液とインターホン。
感染症対策で産婦人科の駐車場に設けた簡易待合所で、二人の男が「その時」を待っている。
札幌演劇シーズンの大トリを飾るのは、のと☆えれき「葉桜とセレナーデ」。

脚本は「チェーホフも鳥の名前」で北海道戯曲賞大賞に輝いた京都のニットキャップシアター・ごまのはえさん。両作品とも初日を迎えたこの日は、まさに「ごまのはえデー」で、私も例にもれず、日中に「チェーホフも鳥の名前」を観て、中島公園のベンチでひたすら余韻に浸り、そのままシアターZOOへと向かった。

「葉桜とセレナーデ」という響きの美しさに、命の誕生を待つ父親の物語を想像していたけれど、始まるやいなや「こうきたのか!!!」とその展開に良い意味で裏切られる。
抱えている二人の「事情」に対する興味の持続と、新しい命の誕生が並行して進んでいくので、まったくもって目が離せない。
事情に関しては、ネタバレになってしまうので触れないが、決して軽いものではなく、限りなくシリアスなもの。
けれど、絶妙な距離感をとる二人の「おじさん」たちの慌てぶり、興奮、滑稽さ、悲哀が入り混じる掛け合いが、どうしようもなくて、面白くて、劇場内は幾度となく笑いに包まれていた。

二人の掛け合いにエッセンスを与えるのは、インターフォン越しの声で登場する看護師を演じたナガムツさん。独特な佇まいの彼女の声が良いスパイスになっていて、慌てふためく「父親」たちの姿をより立体的にしてくれる。

出産を待つ時間の、あの興奮に包まれた緊張感。
女性側の立場は私自身も経験しているけれど、ひたすら待つしかない、という男性側の時間のなんとも長いことか。
この途方もない時間もまた、男性が父親になるために必要な時間なのだろう。

双方の事情によって時に感情をむき出しにしながらも、「おじさん」の社会性で無理やり世間話をしたり、結局盛り上がるのは病気の話だったり。切なさに内包された面白さの中で、二人のおじさんは少しずつ「父親」になっていく。
その決意はひょっとしたら、ひとりよがりかもしれないし、余計なお世話かもしれない。出産という非常事態の中で、目の前に立ちはだかる問題も山積み。それでも、ラストの二人の絶叫に確かな希望を感じた。この終わり方、かなり好きだ。

閉塞感に包まれたあの頃。産婦人科の駐車場の一角で、こんな二人がいたのかもしれない、と思うと、この世界も捨てたもんじゃないかもなって思う。
演劇シーズンのラストを飾る珠玉の作品「葉桜とセレナーデ」、一人でも多くの人に見てほしい。切実に!
8月29日の「チェーホフも鳥の名前」大空町公演の成功も・・!

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。
作家 島崎町さん


哀しきおじさんたちへの賛歌だ。

コロナ禍、産婦人科の駐車場にもうけられた野ざらしの待合室で、おじさんたちふたりがわちゃわちゃする。

十メートル先ではいままさに妊婦さんが赤ちゃんを産もうと奮闘している。あらたな生命の誕生をめぐる崇高な物語と思いきや、じつのところその崇高な奮闘にかかわれない、カヤの外に置いてきぼりにされた男たちの悲哀の物語なのだ。

通常の出産においても、せいぜい「立ち会い」でしかかかわれないのに、本作の舞台はコロナまっただなか。病院への立ち入りは厳重に管理され、桜散る駐車場、パイプ椅子がならぶ一角におじさんたちは放置される。

無力。あまりにも無力。せいぜい「あったかいほうじ茶」をリクエストされおつかいに行く程度の貢献しかできないのだ(近くのコンビニに車で買いに行き[おじさんは歩かない]、がんばってる感を出すのも哀しみを誘う)。

さてそんな無力なおじさんふたりがいったい何者なのか、というのは本編でしだいに明かされていくので、そのおもしろさを味わいたい人はこの「ゲキカン!」を読むのをやめてさっさと劇場に行くことをオススメする。

おもしろさは保証する。笑い満載で、哀しさが胸にチクリときて(おじさんは特に)、とぼけた味わいもたまらなく、人間味にあふれ、豊かな詩情にあふれたすばらしい舞台だ。



ではここからはすこし、前半の展開もふくめて書く。

おじさんのうちのひとりは、出産をひかえ入院している女性の、バイト先の店長だ(能登英輔)。もうひとりは正体を隠し警察と名乗る謎のおじさんだ(小林エレキ)。ふたりめのおじさんの正体は、女性の実の父親だ(序盤で明かされる)。

基本的にはおじさんのふたり芝居なのだけど、出産間近の女性、病院の受付、そして子どもの父親という第三の人物たちも見えないが存在感があり、物語に豊かな輪郭を与える。

ただし病院の受付(ナガムツ/劇団Coyote、吟ムツの会。福地美乃/yhsとのWキャスト)は後半に一度だけ姿を見せる。そこでのおじさんの悲哀を歌いあげる語りは絶品で、演者・ナガムツのキュートなキャラクターとあいまって、なにかおじさんたちを見守る天使のようにも見えた。

この場面は本作の白眉で、コロナ禍や出産にまつわるリアリティーある設定の中で、幻想味を帯びたこの世ならぬ雰囲気もあって、脚本・ごまのはえ(ニットキャップシアター)、演出・横尾寛の力を感じた。

おじさんたちの哀しさは、生命誕生の瞬間にかかわれないという疎外感だけじゃない。父親になりきれない未熟さもある。

小林エレキ演じるおじさんは、実の娘の出産にやってくるのだが、親子の関係は破綻している。親子の悲しきコミュニケーションはこの舞台のタイトルにある「セレナーデ」と呼応している(とアフタートークで作者・ごまのはえが言っていた)。

人が親になるとはどういうことなのか、どうしたら父親になれるのか。その過程を描く本作は、直前まで演劇シーズンで公演していた『わだちを踏むように』と対比してみるとおもしろい。『わだち~』が「そして母になる」物語だと「ゲキカン!」に書いたが、本作は「そして父になる」物語と言っていい。『わだち~』を観た人はぜひ『葉桜のセレナーデ』も観てほしい。

『わだち~』でも、あたらしく父親となる男の無力さが描かれていたが、本作の無力さは際立っている。先述の「ほうじ茶」おつかいだけでなく、終盤で描かれる、感極まったおじさんが精一杯やれることは結局買い物しかないという事実は哀しくもおかしい。

さらにもうひとつだけ、彼らにできることがある。ひたすらな応援だ。彼らは病院の外から妊婦を応援し、道路向こうのグラウンドで野球をする子どもたちを応援する。プレイヤーでない人間が隔てられた場所から唯一できる行為、応援。

しかし応援という無形のものが人の心に届くとき、その人の中ではたしかなものとして実体化するのかもしれない。愛とか勇気とかそういうものとして(アンパンマンの歌詞みたいだけど)。

おじさんふたりは応援する。子どもを産む女性、生まれてくる子ども、少年野球の子どもたち、そして逃げつづける父親にも(なぜ逃げる父親も応援するのかは、男には思い当たる節があるだろう。そういう男の本心すら描くのだ本作は)。

だけど、他者に向けられた応援は結局、自分自身への応援であるかもしれない。しがないふたり、人生も半ばをむかえ、花が散っていった自分たちへのエール。

人を応援し、だれかのしあわせをのぞむことで、枯れはじめた自分をすこしだけ元気にさせる。もしかしたら自分も、もうすこしがんばれるかもしれない。

のと☆えれき『葉桜とセレナーデ』。おじさん賛歌だ。

がんばれおじさん。おじさんがんばれ。

でもそんなにがんばれない。それがおじさんなのだ。

島崎町(しまざきまち)
作家・シナリオライター。近著『ぐるりと』(ロクリン社)は本を回しながら読むミステリーファンタジー。現在YouTubeで変わった本やマンガ、絵本など紹介しています! https://www.youtube.com/channel/UCQUnB2d0O-lGA82QzFylIZg
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