ゲキカン!


ドラマラヴァ― しのぴーさん

 一生のうちに観るべき芝居というものがあるのなら、この「父と暮せば」は間違いなく僕の一作品に挙げられるだろう。作は井上ひさしの名作中の名作である。遅筆で知られる井上だが、この「父と暮せば」は、広島市の原爆資料館に一人泊まり込み、被爆者の手記を一つひとつ写経するように書き写しながら本を書いたと演出の増澤ノゾムが札幌演劇シーズンのリフレットで紹介している。何気ない台詞に膨大な取材に裏打ちされた戦争という究極の暴力性、そして人類史上初めての都市に対する核攻撃である「ピカ(原子爆弾)」の非人道的な有り様が生々しく注ぎ込まれている。芝居のしつらえは実にシンプルだけに、役者はその肉体を通して、生き地獄の惨状を呈したあの日、1945年8月6日午前8時15分。広島を襲った摂氏100万度を越える閃光と放射線、そして爆風を。一瞬にして蒸発した人々は道路に影として焼きつけられた。その惨い光景に観客の想像力を引き寄せる台詞術が求められる。
 初演は2016年12月で、僕が出会ったのは2017年11月の札幌劇場祭TGR2017での再演だった(劇場は同じくシアターZOO)。東京キャストは観られなかったが、松橋勝巳と高橋海妃の2人芝居は圧巻だった。この年、僕はTGR2017の大賞審査員をしていて、増澤が主宰するMAMは「父と暮せば」と「月ノツカイ」の2作品をエントリーしていた。TGR2017は劇団創立20周年作品で挑んだ南参率いるyhsの「白浪っ!」が大賞を射止めた。極めて優れた2作品が奇しくも上演される実に贅沢な今シーズンである。TGRは2017年から俳優賞を設けたのだけれど、「白浪っ!」の櫻井保一と並んで、審査員全員一致で俳優賞を得たのが「父と暮せば」の高橋海妃だった。東京キャストを観られなかったと書いたが、そのキャストが今回、松橋と組んだ松村紗瑛子だった。
 前置きが随分と長くなったが、増澤の演出はがらりと変わったように感じた。松橋演じる「おとったん」は、原爆で生き残ったことを責め続け、「うち、人を好いたりしてはいけんのです」と思い詰めている主人公、美津江が生み出した幻影だ。再演では、のちのちそのことが分かるようになっていて、そこからの芝居の巻き取りだった印象があった。今回は、冒頭から娘の恋の応援団長として現れた幽霊として芝居は進む。広島弁の響きも気持ちよく、芝居もテンポよく陽性に進んでいく。しかし、途中から井上の仕掛けた台詞がじわじわと効いてくる。苦しいくらいリアリティに吸い込まれた。長台詞を吐ききる技量は二人ともそうだが、意外と日替わりが曖昧でほぼ暗転のない芝居の時間軸の中で、松村は主人公の感情の振れ幅を見事にコントロールして全身で溢れさせる芝居が素晴らしかった。松橋のおとったんは実に慈愛に満ち、そして切なかった。お前は生かされているんよ、と娘を諭す言葉になぜか胸を不意打ちされて、涙が頬を伝った。
 美津江が思いを寄せる木下は芝居には一切登場しないのだけれど、やがて確実な肉体性を持って現れる。花を見守り、花が美しく咲くのを見届けてから消える花神にも似て、おとったんと入れ替えるように、芝居小屋の後ろから、まだ荒れ野のような道を、陽炎が立つような熱い日差しの中、美津江のもとへ三輪トラックで近づく木下が感じられる。その木下へ、いや、長く苦しかった自責の念からようやく解き放たれ、かすかに再生した自らの魂へ向かって大きく、ゆっくり手を振り、笑顔になっていく松村のたたずまいがひときわ深い余韻を残した。再演を重ねている芝居ならでは味わいがしばらく僕の体にあった。
 日本人として人生のうちに行くべき場所が少なくとも3つあると僕は思う。被爆都市、広島、長崎、そして先の戦争で唯一地上戦があった沖縄だ。原爆資料館は随分前に訪ねたことがあるが、言葉を失う衝撃があった。亡くなった昭和天皇を責めるつもりはないが、為政者が止められたはずの悲劇ではなかったのかと、歴史を見つめる度にそう感じる。ヒロシマの被爆者の平均年齢は82歳を超えたそうだ。戦後という言葉を聞かなくなって久しいかもしれない。「父と暮せば」は、父娘の二人芝居という切り詰めた劇空間で普遍的な親子の情愛や人を愛する気持ち、そして何より此処から生きていく人の強さを描き出して見事だった。増澤の演出は、井上本の深さとヒューマニティを誠実に、そして静かな情熱を持って彫り出して魅せ心を打たれた。今公演では、増澤自身も舞台に立ち、男優女優9つの組み合わせで上演される。ぜひ、観てほしい。舞台の素晴らしさを改めて発見させられることをお約束しよう。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴27年目にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と故蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。著書に「昭和最後の日 テレビ報道は何を伝えたか」(新潮文庫刊)。
作家 島崎町(しまざきまち)さん

千年王國を観ないやつはバカだ。

と、昔ゲキカンに書こうとしたけど、たぶん怒られると思ってそのときはやめた。だけどいま、あえて言う、千年王國を観ないやつはバカだ。

『贋作者』、タイトルがすでにテーマだ。なにが本物で、なにが偽(にせ)なのか。そもそも本物とはなんなのか、それに偽とは……。

江戸が終わり明治の時代。新しいものが表の顔をし、かつて表だったものが裏になる。社会、地位、文化、人間。狩野派の家に生まれた河鍋鴈次郎(リンノスケ[きっとろんどん])は、家を出て、女郎屋にこもって贋作を作る。いわば裏の世界の絵師。そこへ兄の清一郎(寺田剛史[飛ぶ劇場])が現れる。衰退していく一家を守ろうとする清一郎は、裏になることを拒絶し、必死に表であろうとしている。

大きくうねる歴史という海の中で、必死にもがくふたりの兄弟。絵とはなにか、創作とはなにか、本物とは偽物とは……。かたや裏、かたや表だった存在が、バチバチと火花を散らしながらぶつかりあうことで、ときに立場を越え、いつしか逆転し、ついには融合していく。その圧倒的な熱量と静寂。相反するふたつが同時に存在する、神秘的とも言えるラスト。

これだけのクオリティ、これだけの熱量、これだけのケレン味と迫力をぶつけてくる劇団が、札幌にあり、いま観られる。

熱量、ケレン、なんて言葉を使うと、単ににぎやかだとか音が大きいとか、そういう風に思われるかもしれないが全然違う。場面ごとに動と静が切り替わり、さらに場面の中にも動と静がある。それらがグルグルと渦を巻き、舞台上にグルーヴ感を作りだし、客席をも飲みこんでいく。

ダイナミックでテンポのいい場面のあとに訪れる、澄んだ水のような静寂。揺らぎひとつない硬質な鏡のようなシーンに、ひとつ、波紋が投げかけられ、広がっていく。それがつぎのシーン、つぎの動き、つぎのセリフとなって、いつしか大きな叫び、肉体の鼓動となって動の場面が生み出されていく。見事な構成、これぞ舞台だ。

それを支えているのが、本作でひときわ冷たい光りを発する兄・清一郎を演じた寺田剛史だ。表の顔を取りつくろおうと何重にも塗り固めたその奥に、揺れる内面を悲しく表現する。それでいてときにコメディリリーフにもなる柔軟さ。言葉の伝え方も実に見事で、脚本のよさをひとつも失わず、むしろ輝かせていた。セリフが聞き取りにくい役者もいたが、彼の技術やセリフに対する姿勢は学ぶところが多いだろう。

女郎・吉野を演じた坂本祐以も好演。まだスレた感じはないものの、逆に生命力を感じさせる。ネコのようにひょうひょうと、舞台を楽しく生きている。鴈次郎やその一味を受け止めるエネルギーもあった。

熊木志保(札幌座)は日本初の女性記者を目指す安藤信枝。愚直な一本気さは、いっけん若さゆえに見えるが、内に秘めた執念をも感じさせる。井上ミツコを演じた飛世早哉香(in the Box)は、謎めいた美人ブローカー。あぶなっかしい時代の橋を、スルスルと渡っていくが、ここもやはり一筋縄ではないことが魅力。兄弟の母・河鍋清を演じた東華子は、熱した舞台を一瞬で凍らせる。「やくざの男」とクレジットされている、すがの公(札幌ハムプロジェクト)、妖しくもキュートな存在で、なんとも言えない前説もよかった。

本作は、創作にたずさわる、すべての人に問いかける。本物とはなにか、偽物とは。

今日、こんなニュースを見た。それまでゴッホの贋作だと思われていた作品が、本物だとわかったらしい。美術界は騒動だ。僕には、鴈次郎と清一郎の笑い声が聞こえる。

島崎町(しまざきまち)
1977年、札幌生まれ。島崎友樹名義でシナリオライターとして活動し、主な作品に『討ち入りだョ!全員集合』(2005年)、『桃山おにぎり店』(2008年)、『茜色クラリネット』(2014年)など。2012年『学校の12の怖い話』で作家デビュー。昨年6月に長編小説『ぐるりと』をロクリン社より刊行。縦書きと横書きが同居する斬新な本として話題に。
ライター・イラストレーター 悦永弘美(えつながひろみ)さん

文明開化に華やぐ明治時代と江戸文化の急速な衰退を背景に、父である天才絵師・河鍋暁斎より受け継ぎ、狩野派を支える兄・清一郎(寺田剛史)と、遊郭の一室に篭ってニセモノ師として天賦の才能を発揮する弟・鴈次郎(リンノスケ)。伝統を守る兄と、贋作を描き続ける弟の確執と、それでも互いに惹かれ合う兄弟の生き様をめぐる物語。
まず目を奪われたのは、その絢爛豪華な舞台美術だ。
写楽の大首絵が浮かび上がる静かな場面から始まる、5つの壁がぐるりと回る大仕掛けが圧倒的。艶やかな朱を基調とした廓の一室になったり、はたまた格子に姿を変え雨が落ちる廓の表通りとなったり、清一郎が筆をとる静謐な空間、病に伏せる母の寝室、そして天井から降りてくる掛け軸と、変化する舞台美術がひたすら美しい。
個人的に最も心が奪われた場面は、前述した廓の表通り。雨の中、通りの奥から傘をさした兄の清一郎が現れるシーンだ。舞台上には当然広さも奥行きも制限があるのだが、それを全く感じさせない完成された奥行き観に世界観。廓がひしめく雨の降る薄暗い花街が確かに目の前に広がっていて、思わず「おぉ!」と小さく声を上げてしまった。
圧巻の舞台美術と演出、役者陣の熱量、音楽効果(渋さ知らズオーケストラ好きな私にとって、特に後半は幸福な瞬間でした)が、互いに引っ張り合いながら高め合いながら、熱狂的な舞台を作り上げていく。観客は間近でそれを全身で受け取り、そして生まれるカタルシス。なんて最高な演劇体験だ。
本物とは、偽物とは。
舞台上で問い続けられるそれは、我々が生きる世の中にも向けられていく。本物を正しいと感じていた私だったけれど、兄と弟、母と子、男と女の感情の渦に飲み込まれながら物語に浸るうちに、ニセモンにアイデンティティをもっても良いではないか、と自分自身の心も変化していくのが面白い。劇中前半に鴈次郎が吐く「偽物にはニセモンの本当があらぁ!」という言葉が、クライマックスには明確な強さをもって自分自身の中で響いてくるのだ。
本物とは何なのだろう。
急激な時流の変化の中で、それでも自分らしく生きていきたいと願うことの難しさ、そして尊さを改めて思った。

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。
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