ゲキカン!


作家 島崎町さん


「ひかりごけ」という題名は絶妙だ。

見る者の立ち位置、視点の違いで、ときに光りときに沈黙する生物の名を冠したこの物語。暗く人目のつかない場所で繰り返される生と死の循環という点でも、「ひかりごけ」とおなじなのだ。

ELEVEN NINESの舞台『ひかりごけ』は、見えたり見えなかったりする「ひかりごけ」のように、真実と妄想の狭間を揺らぎながら、人間という不確かな存在の本性を描き出そうとする。

そもそもこの「ひかりごけ」という物語自体が揺らぎのある不確かな存在だ。この舞台『ひかりごけ』、原作となった小説「ひかりごけ」、そして、ノンフィクション版の「ひかりごけ」……。

一般に広く知られているのは、作家・武田泰淳が書いた短編小説「ひかりごけ」だろう。この小説は変わった構成で、前半は作家が人喰い事件を知るノンフィクション風の紀行文、後半が事件の内容を描く戯曲となっている。その中にこう書いてある。

「この事件をどのような形式の小説の皿に盛り上げたらよいのか、迷うばかりです。」
「私はこの事件を一つの戯曲として表現する苦肉の策を考案いたしました。」
武田泰淳「ひかりごけ」(新潮社)より

武田も迷いながら、揺らぎの中で書いたのだ。しかも、武田がはじめて人喰い事件のことを聞かされたときの内容は、尾ひれがついた噂話のようなもので、その後、詳しく知ろうと手に入れた『羅臼郷土史』も、

「ここで筆者は恐るべき想像を作り出す事が出来るのである。」
佐藤盛雄「難破船長人喰事件」(『羅臼郷土史』より)

と、殺人の有無や人喰いの過程は著者の想像として書かれていた。武田の「ひかりごけ」は出発点から噂話や想像がふくまれたあいまいなものだったのだ。

だが、そこから武田が生み出したものは、人の心を揺さぶった。事件とは直接関係ない「ひかりごけ」を作品のテーマに結びつけ、人肉食を行った者には光の輪が出るという神秘的で恐ろしいイメージを描き出した。武田は、実際の事件を緻密に描き出すというよりも、人間という不確かな存在への問いかけとして、フィクションとしての「ひかりごけ」を創造した。

だからこそ、後半は戯曲になるといういびつな構成を採用したのだろう。この戯曲は2幕もので、1幕目は事件シーン、2幕目は法廷シーンとなるのだが、1幕目と2幕目の船長は別人が演じることを推奨し、1幕目と2幕目はつながりのない別の劇と考えてもいいとまで書いてある。

ELEVEN NINESの『ひかりごけ』はこの部分をたくみに汲み取っている。船長はどちらも斎藤歩が演じるが、「1幕目」では不気味で腹の底が見えない人間であったのが、「2幕目」ではあっけらかんとして腹のうちをさらけ出す。まるで対極のような人物像なのに「我慢」というおなじ言葉を口にする。

斎藤歩は前半、作家が事件のことを知るパートでは「校長」という役になり、気さくなんだけどつかみどころのない、不思議な奥行きを持った人物を演じる。そこでも「我慢」という言葉を口にするのだが、この3役が発する「我慢」が『ひかりごけ』全体のキーワードとなっている。

この演じ分けは役者、演出、そして照明の力も大きい。「1幕目」の船長は暗い影のようで、表情もおぼろげだが、「2幕目」になると一転、明るい光の下にさらけ出される。

このように、ELEVEN NINES『ひかりごけ』は、原作小説にあるテーマをよく描き出し、観る者を揺さぶる……だけじゃない。もう1つ、重要な揺らぎがあるのだ。

それは「真実」の「ひかりごけ」だ。終戦間際の1943年12月から1944年1月、冬の羅臼でなにが起こったかだ。

武田泰淳は「ひかりごけ」執筆にあたって、想像の入りこんだ郷土史を材にした。しかし、ジャーナリストの合田一道は船長に直接取材し、亡くなるまでの15年間、拒絶されることもあったが親交を深めた。

その成果が本になっている。最初に出たのが1994年で、その後版元を変え、現在は柏艪舎から『生還 「食人」を冒した老船長の告白』として出版されている。これは船長の独白の形をとり、生い立ちから事件、そして事件後の人生を生々しく語る、船長の「真実」だ。

その内容はすさまじい。『生還』を読むと、人間の「生」について考えざるを得なくなる。突如としてむき出しの自然に投げ出された人間の、圧倒的な弱さ。それでもなんとか生きようとするのだが、生きなければならないという本能が、逆に「死ねない状態」を作り出す。すなわち「生きるために人を喰え」という個人の意思を越えた強制だ。船長はそれに従い人を食べた。『生還』を読み、彼を責める人は少ないだろう。

舞台が終わりカーテンコール。脚本を書いた納谷真大が、斎藤歩から『生還』を勧められ読んだと言っていた。この舞台は、小説「ひかりごけ」と『生還』の間を埋めるような作品でもあった。仮に小説「ひかりごけ」が「虚」、『生還』が「実」ならば、虚実の狭間で物語はスリリングに揺れ動いていた。さらに、劇中劇という多層構造の中で振動を増し、洞窟の中で問いが反響を繰り返していた。

なにが真実なのか、なにが現実なのか、生きるとはなにか、そして人間とは。問いの数だけ、答えの数だけ、「ひかりごけ」は光っていた。

島崎町(しまざきまち)
作家・シナリオライター。近著『ぐるりと』(ロクリン社)は本を回しながら読むミステリーファンタジー。現在YouTubeで変わった本やマンガ、絵本など紹介しています! https://www.youtube.com/channel/UCQUnB2d0O-lGA82QzFylIZg
俳人、文芸評論家 五十嵐秀彦さん

一昨年の初演を観逃していたので、今回が初見だった。
「ひかりごけ」の原作は武田泰淳の同名の有名な短編小説で、読まれることだけを目的に書かれたレーゼドラマとしての戯曲が小説の中に埋め込まれている不思議な作品だ。
これを原作にして劇化するということは、武田が小説の中に書いた劇を劇化するという三重?の構造ということになるのだろうか。
実際に原作そのものが実にクセモノで、随筆形式で「私」が語る導入部からして虚実が入り乱れている。
〈この上演不可能な「戯曲」の読者が、読者であると同時に、めいめい自己流の演出者のつもりになってくれるといいのですが〉という思わせぶりな「私」のひとり言をのこして、第一幕に入っていく構造の小説だ。

さて、この厄介な原作をどう脚本化するのだろうか。
観る前からそれが私の一番の興味だった。ストーリーはすでに知っているのだから、武田が「上演不可能」と釘を刺した(挑発したとも受け取れる)ものをどう舞台にするのかが、関心事でもあり若干の不安でもあった。

幕があいて冒頭ナレーション。
「私が羅臼を訪れたのは、散り残ったはまなしの赤い花弁と、つやつやと輝く紅いその実の一緒にながめられる、九月なかばのことでした」。
あ、これは原作小説の最初の一文が、そのまま使われている!
ということは、原作の持つあの二重構造を採用する道を選んだということだ。
つまり、その構造をまんま劇化する三重構造という難しい設定をあえて選ぶ道を選んだわけだ。
けれど原作では「私」が語る部分と戯曲部分がはっきり切り分けられていた構成であったが、ここでは羅臼に取材に来た作家が土地の中学校校長に案内されてマッケウシ洞窟に現れるところから最後まで一貫して洞窟を舞台にし、作中戯曲部分を登場人物たちがその場で過去に起きた事件を演劇として再現するという形に変えられていた。そのおかげで観客は自然と劇中劇に誘い込まれるのだった。
このやや強引と思える改変は、見事に成功した。

校長は「船長」(斎藤歩)を、作家は船員「西川」(泉陽二)を、校長についてきた若い教員は船員「五助」(菊池颯平)を、郷土史家は船員「八蔵」(納谷真大)を演じるという具合に役が決められ、ひかりごけの洞窟で第一幕が始まる。
時代は太平洋戦争。12月に根室から知床を回り小樽へと軍務を帯びて向かっていた船が機関の故障で航行不能となり、海岸の洞窟に流れ着いたところから劇中劇となる。
冬の完全に孤立した知床の岩場と崖しかない場所で数日生きることも困難な極限状況の中、二か月後に生きていたのは「船長」ただ一人だった。
彼は食料もない寒烈な知床でいったいどうやって生き延びたのか。寒さと飢えで死んだとされた他の船員はどのような状況で死んでいったのか。
そこには「食人」という想像を絶する惨劇があった。

再び最初の場面に戻り、4人は次に「裁判」がどうだったのかを再現しようとなって、第二幕の「法廷」シーンとなるが、これもまた洞窟の中で演じられる。
劇の中にさらに劇中劇が2幕あるという複雑な構造が、洞窟という変わらぬ舞台で演じられることで、観客は構造の複雑さをあまり感じることがない。このあたりが実に見事な脚本であり演出だ。

人肉を食べるという猟奇的な事件を起こした人間は、どんな人物なのか。彼は普通の人と全く違う狂気の人なのか、それとも…。
法廷ではいったい何が裁かれたのか。
殺人か、生きのびるための食人なのか。
人を殺すことと、死体を食うことと、罪はどちらが重いのか。
裁かれるのは犯罪なのか、人間性なのか。
この作品は現実に起こったあまりに悲惨な事件をとおして、人と罪という根源的なテーマを象徴的に演じた力作だ。
見終わって感じたことは斎藤歩という役者の表現力の深さであった。それなくしてこの三重構造という世界を現実に演じ切ることはできなかっただろう。

終演後席を立った私の心には、深い闇の淵をのぞき込んだ後のような、重い感動が残った。

五十嵐秀彦(いがらし ひでひこ)
1956年生れ。札幌市在住。俳人、文芸評論家。
俳句集団【itak】代表。現代俳句協会理事。
北海道文学館理事。
北海道新聞「新・北のうた暦」(共同執筆)、「道内文学時評」執筆。
朝日新聞道内版「俳壇」選者。
月刊「俳句」(角川書店)「令和俳壇」選者。
著書 句集『無量』(書肆アルス)
1995年 黒田杏子、深谷雄大に師事。
2003年 第23回現代俳句評論賞受賞。
2013年 北海道文化奨励賞受賞。
2020年 藍生大賞受賞。
漫画家 田島ハルさん

シアターZOOは波の音が似合う。中島公園傍の小さな地下劇場、シアターZOOの扉を開くと眼前に洞窟が現れた。ほの暗く閉塞的で、まるで長年ここで苔を育んでいたかのようにひっそりと舞台を覆う。劇場に流れる波や風の音、時折聞こえる海猫の鳴き声。換気の風までも臨場感たっぷりに開演までの緊張を高める。

ELEVEN NINES公演「ひかりごけ」2日目の公演を観た。

今作は、太平洋戦争中に知床半島で実際に起きた人肉事件を元に描いた武田泰淳の同名小説を原作にしている。初演は2021年。当時、私はこの公演の存在を知っていたにも関わらず見逃している。「12人の怒れる男」が記憶に新しい劇団イレブンナインの公演であり、錚々たるキャスト、大好きなシアターZOO。行かないと後悔するやつだよな~とも思っていたのに何故観なかったのか。
「だって、怖そうじゃん!!」
そう、生粋のビビりである自分は原作のあらすじを見てもう腰が引けていたのである。当然ながら原作小説も読んでいない。再演にあたり、ようやく引いた腰を真っ直ぐに正して劇場に赴いたのだった。
そして約80分の観劇を終えた今。身構えていた重苦しさとは違う、「心地よい余韻」にどっぷりと浸っている。結論、行かないと後悔するやつでした。やっぱり。

劇中で劇が展開される、物語の形式にまず引き込まれた。仕事のため羅臼町を訪れた小説家が町民の案内により、今は立ち入り禁止になっている洞窟に入る場面から物語は始まる。小説家は町民達とのやり取りの中で、この洞窟で起きた「難破船長人喰事件」を知る。やがて、小説家がこの事件を元に作り上げた戯曲が洞窟の中で繰り広げられる。
知床沖で一艘の船が遭難し、船長と3人の乗組員は洞窟へと避難。 極寒なうえ食料も一切ない状況で、ついに一人が死ぬ。極度の飢餓状態の3人は仲間の死体を前に、その肉を食べるかどうか選択を迫られる。
生きるか死ぬか。その極限状態におかれた人間の欲と業、葛藤。この劇中劇の場面は息をのむほどに圧倒された。その緊迫の劇中劇に反して、小説家と町民の方言まじりの軽快なやりとり(オヤジギャグを含む)に思わず顔がゆるむ。身構えていた緊張がほぐれた。

役者4人の緩急自在な演技やむきだしの人間くささは素晴らしいものだった。西川役の泉陽二さんの仲間の死を前にして表れる葛藤。五助役の菊地颯平さんの死への恐怖。そして、禁忌を冒す船長役の斎藤歩さんと人情味あふれる八蔵役の納谷真大さんの安定感は言うまでもない。肉声のぶつかり合いが生への執念をいっそう濃くしていた。

そして、タイトルにもなっているヒカリゴケ。船員達が避難した洞窟に生えるヒカリゴケは現実に存在する。自生地の一つとして上げられるのが、物語の舞台でもある羅臼町マッカウス洞窟。ヒカリゴケは自力で発光しているのではなく、原糸体のレンズ状細胞が暗所に入ってくる僅かな光を反射することにより、エメラルド色に光って見えるそうだ。 舞台上の洞窟の中でもそれが美しく幻想的にきらめいている。角度によっては見えなくなるほど儚い光が、洞窟の中で起こった凄惨な事件を照らす。最後の場面での舞台上に広がるヒカリゴケの輝きは粟立つほどに美しく、観る者に訴えかける意思のようなものを感じた。

劇中に流れるアコースティックギターの音色はギタリストの山木将平さんによるもの。ぴんと緊張の張りつめた空気を焚き火のようにあたたかく包み、時に、燃え盛る業火のように激しく作品の温度を上げる。情緒あふれる音色が心地よく、上演後も耳に残った。

劇場、役者、季節、時勢も含めて作品の世界が調和しているものは今作ほど無いかもしれない。「舞台はナマモノ」と言う通り、時の流れと共に変化して同じ舞台は二度と観ることはできない。今が旬の作品を逃すことのないよう、気になっている方は是非観ていただきたい。

2日14時回終演後のアフタートークには、1974年から元船長へ15年に渡る取材を行い「生還『食人』を冒した老船長の告白」を出版したノンフィクション作家の合田一道さんが登壇されるそうだ。時間が許すならもう一度観てみたい。

田島ハル
札幌生まれ札幌在住。漫画家、イラストレーター、俳人、文筆家、小樽ふれあい観光大使。
2007年に集英社で漫画家デビュー。
著書に「モロッコ100丁目」(集英社)、「旦那様はオヤジ様」(日本文芸社)他。
朝日新聞道内版のイラストとコラム「田島ハルのくいしん簿」、北海道新聞の4コマ漫画「道北レジェンド!」、角川「俳句」の俳画とエッセイ「田島ハルの妄想俳画」など連載中。
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ライター・イラストレーター 悦永弘美さん

「ひかりごけ」を演じるに最適な土地であり、季節であり、劇場だ。
地下へと誘うシアターZOOの階段を降り、進んだ先にどっしりと佇む洞窟を見てしみじみそう思った。
開場中は扉を開けていて、換気の関係もあってか外気を呼び込む劇場内は少し寒い(本番中は扉を閉じるのでそこまで寒くないですよ!)。波音のSEが流れる中、静かに開演を待ちながら眺めているうちに自ずと心が観劇姿勢に整っていく。贅沢で豊かな時間だ。

武田泰淳の「ひかりごけ」は、実際に起こった食人事件をモデルにした小説だ。
前半は紀行文、後半は戯曲という構成で、その斬新な展開に驚いた記憶がある。とはいえ、読んだのは随分前のことだったので記憶は結構曖昧。
観劇前に読み直そうかとも思ったけれど、せっかくなので新鮮な気持ちで緊張感を楽しもうと物語の船に乗船した。

第二次世界大戦が激化する中、真冬の知床沖で座礁した日本軍の徴用船。
知床半島の洞窟に避難したのは船長と3人の乗組員。
食料はなく、救助の気配もなく、極寒と飢餓による極限状態の中、ついに1人が息絶えた。
残された3人は、仲間の亡骸を前にその「肉」を食べるか否かの選択に迫られる。

小説家の男が取材で羅臼を訪れるという現代から始まった舞台は、劇中劇で戦時下の知床の洞窟や、生き残った船長を裁く裁判へと場面が変わる。
場内の空気を飲み込んでしまう鬼気迫る4人の役者の圧巻の芝居。
決して肉眼で見ることができなかった大昔の事件を、同じ洞窟の中で目撃しているかのような臨場感。
そして心をとらえて離さない「我慢」と「切ない」という言葉たち。
なかでも、「何もかも入れまぜて切ないんだ」という船長の言葉が胸に迫り、膝の上で軽く握っていた拳に力がグッと入る。
劇場全体に走る緊張感、動悸、呼吸。全てが大きな塊のようになって、シアターZOO全体がグワンと揺れる。人間の罪とは、人間の存在とは。強く果てしない問い。
あぁ、凄いことになってしまった!と息を飲んでいると、乗っていた船から突然降ろされるように、ふいに現代へと引き戻されるのがまた最高に面白い。どっと笑いが起こる場面も多々あり、想像していた以上に親しみのある舞台でもあった。
洞窟内で光る「ひかりごけ」。人肉を食したものだけに現れるという光の輪。そして美しいギターの旋律。光や音の演出も素晴らしい。
そして終盤に起こる出来事は是非とも劇場で体感してほしい。
人間の矛盾、虚構と現実の境界、すべてを砕く清々しさに似た感覚と、演劇の強さを改めて身心で感じる瞬間だった。

「ひかりごけ」のモデルとなった事件の船長は、平成元年まで生きたという。
小説の内容がそのまま事実として世間に認識されるなど、あらぬ噂に苦しんだことも数知れないだろう。船長は何を思い、生きたのだろうか。無数の我慢と共にあった人生だったのだろうか。観劇後、舞台の余韻に思い切り浸りながら寒空を歩きつつ、船長のその後を考えた。

2月2日(木)14時回終演後に、モデルとなった船長を長年取材し続けた合田一道さんを交えたアフタートークも行うそう。とても貴重な機会だと思う。著書「生還」も是非読みたい。

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。
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