ゲキカン!


ライター・イラストレーター 悦永弘美さん

結婚し、子供が生まれ、マイホームを購入する。
人生には節目というものがあって、一般的とされるこれらの通過儀礼を経験するたび、人生の終わりが着実に近づいていく小さな不安が自分の中へと芽生えていく。
「子どもが生まれたら、なんとなく人生の主役が自分じゃなくなっていく感覚ってあるよね」なんて、学生時代の仲間と顔を合わせると、時々そんな言葉が飛び交ったりする。
30代の頃に半分冗談めかしていた「もう若くないから」という自虐は、40代になるといよいよ現実味を帯びてきて、発するたびに言葉の重みが心に深い皺を刻んでいくような気にすらなってくる。

そんなアレコレに折り合いをつけながら日々をこなす私に、札幌ハムプロジェクト「黄昏ジャイグルデイバ」はとことん染みた。自分よりも少しだけ歳上の登場人物たちの情熱に、撃ち抜かれた。いやぁ、良かった!

とあるカフェに集まる4人の男女。高校時代の同級生である彼らは、昨年亡くなった仲間を偲びながら酒を飲み、語らっている。
健康の話、親の病気の話に、ばか話。
この年代のあるあるが詰まったたわいのない話は、笑えるし、耳心地が良い。
乾杯の後の謎の拍手がすごく好き(笑)。
場面は変わることなく、ずっとこのカフェ。それがまた良い。

このまま聞いていたいくらいにくつろぎながら舞台上の会話に身を預けていると、ふいにやってくる不穏な言動。差し込まれる風音。ピンと張り詰める空気。
会話はきな臭くなり、怒り、告白、喪失、悲哀が劇場空間を占めていく。
中年たちのとりとめのない会話は、やがて彼らが抱えているさまざまな事情を浮き上がらせ、その痛みは、見ている自分自身の奥底にも響く圧倒的な没入感をもたらす。

そして後半の大爆発だ。
自分の中にすっかりなくなっていたと思っていたかつての情熱の欠片を熱源に、中年たちはエネルギーを爆発させる。
若い頃、夢中になっていたことが、必ずしも社会で役立つものではないだろう。むしろ、ほとんどは無駄なことなのかもしれない。だけど、その情熱は必ず体の一部、どこか深いところにあって、時としてこんなに清々しい爆発を見せてくれるのだ。

たった一晩の飲み会で起こった奇跡のような出来事だ。当然それぞれが抱えているものが劇的に解決するわけではない。このカフェを出て、彼らは日常へと戻っていく。けれど、情熱の欠片が自分達に残っていたという思いは決して消えないだろう。

劇場を出た時、少しだけ足取りが力強くなる。
若い頃、夢中になっていた様々なことの多くが無駄だと感じていたけれど、あの日々もきっと、自分の中に小さな欠片として残っている。そう思えたからなのだと思う。

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。
俳人、文芸評論家 五十嵐秀彦さん

おや? おやまあ!
この劇のタイトルを見て、そう思うのは中年以上の世代か。
ビートルズのアルバム「レット・イット・ビー」の「アクロス・ザ・ユニバース」の歌詞。それがひょっとすると「とっておきのポイント」なのかな、と思いながらコンカリーニョに向かったのだが、開演前から劇場内にあっさりと「アクロス・ザ・ユニバース」が流れていた。
だから「とっておき」というのとは違った。
しかしポイントではあった。しかも最大の。

とあるカフェに集まった4人の男女。45歳になろうとしている。
高校の演劇部で一緒だった顔ぶれらしい。警察官、保険屋、看護師、金融屋。いまはそれぞれの人生を歩んでいる。
集まったのは、少し前に早逝した友人タツオのための「遅くなった送別会」としてであった。
この芝居はそのカフェでの4人の客、カフェのオーナー、2人の女性店員による会話劇で、最後まで店内をいっときも離れることがない。
会話は何気ないものとして始まる。自分たちが中年と呼ばれる年齢であることを互いに確認しあうような会話が続く。
まあ40代になった後の人間がしばしば繰り返すありがちな会話を、ユーモアをちりばめ少しなげやりに続ける。
人生の「黄昏」を感じ始める頃だよな。と、通り過ぎた世代としては痛いほどに「わかる」やりとりだ。
特に友人の思いがけない早死の後に集まると必ず交わされる会話の類型。それを丁寧に拾ってゆくシナリオがむしろ新鮮に感じられた。

しかし、当然そのままで終わるわけではなく、その平凡な会話は保険屋のマコトの極端な提案で崩されてゆく。

結婚もした。子供もできた。家も持った。あとはもう死ぬことしか残っていない。
しかもその死は医療によって無理に生かされた果ての死だ。超高齢化社会はそうやって作られているんだ、と。
それはいやだ。自分の死はもっと自由であるべきだ。死にはもっと価値が与えられるべきだ。そのためには…。
マコトが奇妙な企画を熱心に語り出す。
このあたりのしだいに異常になってゆくマコトを能登さんが熱演。
ここでテーマは安楽死(最近の医療界では尊厳死と言われているが)の問題にも踏み込んでゆく。
マコトの異常な言動によって観客は少し惑わされるが、ある意味でこの安楽死(尊厳死)のテーマもまた「黄昏」を意識し始めた時期のステレオタイプな会話だとも言える。

そんな「中年あるある」の会話が、4人それぞれの抜き差しならない窮状を暴き出してゆく。
この劇の面白いところは、語られることのひとつひとつに観客がおのおの自分自身や自分の周辺の人々のことを重ねてゆくところだ。
舞台は観客にとって、それぞれの記憶を映し出してゆく鏡になっていた。

高校生のころのように未来への夢だけで生きてはいられない。むしろ未来に夢を託すことなどできもしないことに気づいてしまっている。
劇の終盤、高校時代に演劇部で演じた「幕末ジャイグルデイバ」がフラッシュバックする。
このあたりになると、もう開演のときから予言されていたビートルズの「アクロス・ザ・ユニバース」が舞台を熱く駆け巡ることになる。
歌詞の nothing's gonna change my world の意味。
もしこの劇に主張というものがあるとすれば、この歌詞の意味に行き着くのだろう。

これ以上はネタバレになるので書けない。
中年を過ぎてしまった私には共感するところの多い内容だった。
そしてビートルズのこの曲が出てくるだけで、なぜかせつなさに胸がいっぱいになる自分を見つけてしまった。
怒涛の終盤はひたすらこの楽曲の力で押し切ったような内容ではあったが、それでいいではないか。
jai guru deva, om のサンスクリット語の一節があの時代を蘇らせる。
50年以上の時が流れてもビートルズの歌の力は変わらない。すべての世代に何かを感じさせる。
そんなことを考えているとき、ふと気づくのだった。
世代という括りにさほど意味などありはしないのだ、ということに。

nothing's gonna change my world.
「誰もわたしの世界を変えることはできない」のだから。

五十嵐秀彦(いがらし ひでひこ)
1956年生れ。札幌市在住。俳人、文芸評論家。
俳句集団【itak】代表。現代俳句協会理事。
北海道文学館理事。
北海道新聞「新・北のうた暦」(共同執筆)、「道内文学時評」執筆。
朝日新聞道内版「俳壇」選者。
月刊「俳句」(角川書店)「令和俳壇」選者。
著書 句集『無量』(書肆アルス)
1995年 黒田杏子、深谷雄大に師事。
2003年 第23回現代俳句評論賞受賞。
2013年 北海道文化奨励賞受賞。
2020年 藍生大賞受賞。
作家 島崎町さん


一夜の物語だ。それがいい。

高校で演劇をやっていた4人が、定例の、しかし昨年は開かれなかった飲み会を行う。はやい段階で、本当はここにもう1人いるはずなのだけど彼はもういないことが示唆される。彼ら彼女らは歳を重ね、中年あるある話で盛りあがるが、参加しているひとりにはある思惑があって……。

札幌ハムプロジェクト『黄昏ジャイグルデイバ』。タイトルにあるように、人生の黄昏が訪れはじめた4人+αの物語だ。

前半、気心のあった旧友たちがおりなす、たわいもない会話がつづくのだけど、これがずっと聞いてられる駄話といった感じで心地いい。まったりとしたYouTube LIVE を観ているような、手慣れた落語家の力を抜いた一席のような。

しかし、ふいに挿入される不穏な音と照明が、安易なやすらぎをさまたげる。なんだろうこれは、という見事なフック。その後もこれが何度か入るのだけど、現代という風なのか、それとも未来への不吉な予期なのか。

前半の心地よい会話劇はしだいに熱を帯びていき、後半以降ヒートアップしていく。終盤にいたっては暴走にも思える情熱だ。若さゆえの暴走や空回りを人は青春と呼ぶが、中年の空回りはなんと呼ぼう。みっともないと人は言うかもしれないけど、序盤に病気自慢をしていた4人の中に、いまだ消えない情熱のかけらを見られて、すこし胸が熱くなる。

わずかに残っていた情熱のかけらでも、火がつくとここまで燃え上がるのだ。

たとえば居酒屋のとなりに陣取るおじさんおばさんの集団を見て、つまらない中年話が耳に入ってきて、軽蔑したり失望したり、そういう経験があるだろう。だけどその一団にもかつて燃え上がる時代があって、実はいまもまだその熱が残っているのではと思わされる、説得力をもった劇だった。

そしてなにより僕がよかったのは、冒頭にも書いたようにこれが一夜の、とある定例飲み会ではじまり、しがない中年の黄昏として終わっていく、物語のフォルムとしての美しさがあるところだ。

劇中いろんなことがあった。驚くべき真実や、シリアスな展開。だがけっきょくは数時間の飲み会でしかない。日常の片隅に現れた、人生の情熱と燃えかすと、たしかな残り火なのだ。

島崎町(しまざきまち)
作家・シナリオライター。近著『ぐるりと』(ロクリン社)は本を回しながら読むミステリーファンタジー。現在YouTubeで変わった本やマンガ、絵本など紹介しています! https://www.youtube.com/channel/UCQUnB2d0O-lGA82QzFylIZg
コンテンツのトップへもどる
pagetop