なんたってタイトルが長い。
「烈々風玉葱畝る夏至白夜沁みる挽歌に咽ぶ匂ひよ〜烈々挽歌」。
これ、短歌だよね。
一首まるごと題名にしたところにまず注目。
一応俳人の私としては、特に上(かみ)の句に目がゆく。
「烈々風玉葱畝る夏至白夜」。 俳句でも成立するな。
上5と下5が双方名詞なのが気になるので、上5を字余りにして、「烈々風の玉葱畝る夏至白夜」とした方がいいかな…。とか幕が上がる前から、あれこれいじって楽しんでいた。
あ、幕はzooですからありません。
うすぐらい舞台には既に玉葱畑が見えている。
背景も含めて、とても広大な玉葱畑であることが分かる。
タイトルの次に、「烈々風」、つまり「烈々布」の地名について個人的な記憶を探る。
北区の麻生町に住んでいた少年時代。丘珠空港までよく自転車で遊びに行った。
そのとき烈々布神社の前をよく通ったっけ。
不思議な名前だなぁと思った。「レツレップ」。
強い言葉。ただならぬ響きがあった。
そして、今では想像もできなくなってしまったが、当時は見渡す限りの玉葱畑。
遥か遥か、遠くまで畑は続いていた。
かつて世界的な玉葱生産地であった札幌。東区から北区にまたがる烈々布は、私の子どもの頃までは風景としてしっかりとそこにあった。
「入っていいんですか?」
「足もと、気をつけてください」
「今、ライトつけますね」
二人の声が聞こえて、開演。
舞台がライトアップされて玉葱畑がはっきりと浮かび上がる。
舞台奥に向かって整然と植えられた玉葱。
踏みつけないように注意しながら畝をいちいち跨いで歩く登場人物。
この足もとの気になる状況が最後まで何やら象徴的に続く。
「夏至の夜、札幌市東区あたりの玉葱畑に世界へ拡がるインターネット回線を敷設し、その土に天体望遠鏡の三脚を突き刺して、宇宙を眺める物語です」。
この演目の紹介文の最後にこう書かれている。
なんだ、それは?
妙な筋だなと思って観客は芝居が進むのを見ている。舞台は終始静かに進行する。
そこに現れる人々が、玉葱農家夫婦、フードコーディネーター、宗教家(易者?)、宗教家のマネージャー、ソロキャンパー、区役所職員。
ひとりひとりは何の不思議もない人達なのに、夜の玉葱畑に集まるという不自然でぎこちない光景。
札幌特産の玉葱である「札幌黄」が話の中心に置かれている。
(劇中で、「札幌黄」を「さっぽろ き〜〜」と呼んでいるのが笑えた)
在来種で、栽培が難しく生産数が激減しているが、味は格別と言われるこの玉葱。確かに最近見直されている。
どうやら区役所職員の依田(梅原たくと)が札幌黄をピーアールし地域振興に役立てるためにyoutube動画をこれから撮影しようとしているらしい。
夏至の夜に。
動画の「出演者」は、フードコーディネーターの松田花音(西田薫)、宗教家の峯岳山(納谷真大)、玉葱農家の松本夫婦(泉陽二・磯貝圭子)ということのようだが、撮影の始まる前に違和感満載のソロキャンパー早川鞠那(常本亜実)が闖入して畑の中にテントを張ってしまう。
このyoutube動画という設定がどこか納得できないものになっている。
なぜ夏至の夜暗くなってからの撮影なのか。
玉葱「札幌黄」が主役なのだからフードコーディネーターは分かるが、どうして宗教家が出てくるのか。
畑の中にテントを張る若い女性は、いったいなに?
易者風の宗教家を演じる納谷さんと、そのマネージャーの藤井萌を演じる熊木志保さんの息のあった漫才のようなやりとりに観客は引き込まれてゆく。
しかし、登場人物のひとりひとりがどこか噛み合わないのだ。
繋がらない会話。たびたび現れる沈黙。
筋の見えない進行。
突然、持ち込まれる天体望遠鏡。
…。
そう、舞台にいる誰もが不揃いなのである。
不揃いな人々の会話から、「札幌黄」の歴史、そして烈々布の歴史が見えてきて、そして、あれ?玉葱の匂いが劇場に漂うではないか。
なに?これ?
そして観客を驚かせ笑わせるサプライズでシュールな光景が玉葱畑に!
このあたりはどうぞzooに足を運んで、自分の目で確かめてもらうしかない。
劇中に紹介される石川啄木と橘智恵子のエピソードと、啄木の短歌がタイトルの烈々風挽歌につながってゆく。
「石狩の都の外の君が家 林檎の花の散りてやあらむ」
「智恵子〜!」
このやりとりがどうにも心に残ってならない。詩の力を感じさせてくれる芝居でもあった。
青くまっすぐ伸びる葉と、その下に半分だけ顔を覗かせる玉葱。
シアターZOOの舞台上に、規則的に並ぶ玉葱畑、その景色の面白さに着席早々目を奪われた。
連日の暑さが一時的に落ち着き、いくらか涼しい夏の夜。
札幌座「烈々風 玉葱畝る 夏至白夜 沁みる挽歌に 咽ぶ匂ひよ」、公演3日目の観劇だった。
舞台は札幌市東区。日本で初めて玉葱栽培が行われた土地で、目の前の畑で収穫の時を待っているのが我々にとって親しみのある「札幌黄」である。
畑の中に椅子が点在し、カメラを設置し、地域のPRを目的にしたYouTube撮影の準備が進められている。
区役所職員、宗教家とそのマネージャー、農家の夫婦、フードコーディネーター、ソロキャンパーが各々の理由でその玉葱畑に顔を揃えている。
慣れた足取りの人、そろりそろりとおっかなびっくりな人。大切に、慎重に、玉葱畑の中を進む姿がなんとも奇妙で面白い。
今から少しだけ前のコロナ禍真っ只中。マスクをしたり、ソーシャルディスタンスを意識したりと、あの頃の日常が畑の中で習慣の一つとして描かれている。
YouTube撮影を一つの軸に物語は進んでいくけれど、劇的な出来事が起こるわけではない。夏至の夜に、玉葱畑の中で少しずつ語らい、天体望遠鏡で宇宙に接続し、閉塞感に包まれていたあの日々に、広大な畑と果てしない宇宙の気配、連綿と続く歴史を感じながら開いていく。そんな繊細な開放感があって、笑いの散りばめられた会話も空気も、とても心地が良い。
世界が停滞していたあの頃も、玉ねぎは土の中で育ち、地球は当然のように周っている。
土と共に作物を育てる生産者たちもまた、その営みを続けている。
コロナ禍の中で、右往左往していたのは私達だけで、世界は変わらず動き続けているのだ。
だから、止まってはいられない。我々も繋いでいかねばならない。私はそうした「繋ぎ」を深く意識した。
病気に弱く、遺伝子に多様性があるため形が不揃いだという「札幌黄」。
栽培が難しいとされる「札幌黄」は先人たちの惜しみない努力の歴史、そしてそれを受け継ぐ生産者たちの尽力により、守られている伝統の味だ。
一年でもっとも短い夜。
北海道の歴史の一片を宿す札幌黄の畑の中で、果てしない宇宙の中に、この地の歴史、命の誕生や札幌黄の継承を垣間見た。いつもの日常のような、そうではないような。けれど、とてもかけがえのない時間がそこには流れていた。舞台後半には、驚きと笑いを招いた衝撃シーン(これは本当に目撃してほしい!)もあり、玉葱の炊き込みご飯の美味しい香りもあり、大満足。生産者たちの営みの力強さと、過去と未来の繋がりの中で今を生きていることへの実感。余韻の中でそれらをしっかりと噛み締める、幸せな時間だった。
奇妙さと日常が混在した舞台だ。
かなり奇妙な一夜の物語とも言えるし、平凡な日常のある夜の出来事とも言える。
札幌座の舞台。タイトルは長い『烈々風 玉葱畝る 夏至白夜 沁みる挽歌に 咽ぶ匂ひよ ~烈々風挽歌~』。
夏至の夜の札幌。東区の広大なタマネギ畑の真ん中でYouTube撮影が行われる。農家、料理家、宗教家、区の役人、それらが無数に植えられたタマネギの上で、噛み合わない段取りの中、撮影準備を進めていく。
メインストーリーはYouTube撮影のあれこれなんだけど、それがすごい出来事につながるかというとそうでもない。その場に居合わせた人々が、一年で一番短い夜に出会い、一緒にお茶を飲む、というだけだ。
観客は舞台上の、いやシアターZOOに現れたタマネギ畑上の人物たちをみつめる。まったく変化がなく日常を生きる者、最近なにかの変化があった者、そしていままさに変化しようとしている者。
夜の畑はほんとうに奇妙な場所だ。昼間は太陽が照りつけ人間があわただしく動いているが、日が落ちると人は消え、物言わぬ作物がひっそり息をひそめる世界。それは「静」の世界のように見えるけど、土の下では少しずつ少しずつ、作物たちは成長をつづけている。
本作の舞台上にはびっしりとタマネギが植えられ、登場人物たちは地上に伸びたタマネギの葉を踏まないように、またいで移動する。まるで土の上に赤ちゃんが等間隔に寝ているように、絶対に踏まないように、慎重に。異様な空間のようでもあるけど、農家にとっては日常の世界だ。
そんな奇妙さと日常が混在する場所で、ひときわ異彩を放つ存在がいる。本作でもっとも印象に残る人物「まりなちゃん」だ。タマネギ農家の姪っ子でソロキャンプが趣味。畑の真ん中、YouTube撮影が行われる横で、テントを張って寝ようとしている。
彼女はとても背が高く、自分が世間から浮いてると感じている。見た目にもそうだし、なんというか人間としても浮いていると。彼女は自分のいびつさ、ふぞろいさはまるでこのタマネギ畑の「札幌黄」のようだと言う。この人物設定がすばらしいのだけど、舞台の上に説得力を持ってたしかに存在させた常本亜実(札幌座)の好演もすばらしい(失礼、舞台上だけじゃなかった)。
僕がこの舞台でもっとも心を奪われたのは、天体望遠鏡と土星をめぐるある1コマだ。夏至の夜、広大なタマネギ畑の真ん中で望遠鏡を覗くと土星が現れる。1人が覗く、つぎの1人が覗こうとするともう土星はレンズの視界からはずれてしまっている。だから位置を調整する。そのわずかなやりとりに僕は感心した。
地球が動いているのだ。だから望遠鏡の中で星が移動していく。不動のもののように思われて実は絶え間なく動きつづけている。
「静」のように見えて変化が起こりつづけているのは地球だけじゃない。大地の中でひっそり息づく物言わぬタマネギたち、それらに囲まれながら奇妙さと日常を生きている登場人物たちもそうなのだ。
脚本、演出、音楽の斎藤歩はこの劇をコロナ禍まっただ中に書いたという。海外ではロックダウン、外出禁止、日本でも緊急事態宣言、まん防……。演劇も大打撃をこうむった。まるですべてが停止してしまったかのようなそのときに、それでも世界は動きつづけているのだという戯曲と作家の思いを感じた。
奇妙な夜の出来事だ。だが絶え間なくつづく日常でもある。一見地味ですごい出来事が起こるでもないこの劇の中に、人と歴史と大地のドラマがあった。
食べれば身体に心に染み渡る、滋養に富んだ料理のような舞台だった。最後の一口までおいしい。
劇場は中島公園の近くにあるシアターZOO。今年の冬にここで上演されたイレブンナイン公演「ひかりごけ」がまだ記憶に新しい。あの時は真冬日で今は真夏日。地下にある劇場へ続く階段を降りるとひんやりとした空気が心地よく、ようやく汗がひいてきた。
札幌座公演「烈々風挽歌」(原題はすごく長いので割愛します)の初日。劇場の舞台上には無数の玉ねぎがずらりと規則正しく整列している。玉ねぎは本物ではなく手作りによるもの。その数なんと250個以上とのこと。良く見ると形や大きさが一つ一つ違う玉ねぎがなんとも可愛らしい。
札幌市の北東部にあたる、かつて「烈々布」と呼ばれていた実際の地名を物語では「烈々風」と変えている。烈々風の玉ねぎ畑に集う人々の、夏至の日の一夜を描いた物語だ。
下に生えている玉ねぎを慎重に避けながら人が次々と集まってくる。地域のPRのため動画撮影に奔走する区役所職員(梅原たくとさん)、玉ねぎ「札幌黄」を栽培している農家の夫婦(泉陽二さん磯貝圭子さん)、その夫婦の姪っ子で自分探しの旅人(常本亜実さん)、動画のゲストに呼ばれたフードコーディネーター(西田薫さん)、同じくゲストの宗教家とそのマネージャー(納谷真大さん熊木志保さん)。
今より数年前のコロナ禍の最中であるらしい。マスクをする者同士の挨拶はどこかぎこちない空気が漂い、距離をとり、見えない壁がある。やがて人が人を呼び、会話し、少しずつ胸の内が明かされていく。人と人との交流の過程がゆるやかに丁寧に描かれており、観る人にも自分の経験と重なる瞬間があったと思う。どの人もどこか不器用で人間くさくて、愛しい。
胡散臭さが全身から滲み出る宗教家とそのマネージャーのボケとツッコミばりのキレのあるやりとりには笑った。炭鉱で栄えた夕張を舞台にした「郷愁の丘ロマントピア」(札幌座)では祖父と孫の役だったお二人。納谷さんと熊木さんのコンビで二人芝居があったら、それもまた観てみたい。
札幌の歴史が散りばめれていることも今作の魅力のひとつ。日本で初めて玉ねぎが栽培されたと言われているのが札幌の地であり、流通量が限られていながら現在も栽培されているのが「札幌黄」という品種の玉ねぎ。この札幌黄を使った料理「丸ごと玉ねぎの炊き込みご飯」が実際に舞台上で作られ、炊き上がる香りが鼻腔をくすぐり、とてもお腹がすいてくる…。
また、北海道にゆかりのある歌人の石川啄木にまつわる話も興味深く、歌集「一握の砂」に収録されている短歌も紹介される。それをあの宗教家が紹介するのだから面白い。知っているようで案外知らない札幌の歴史が次々と出てくるので、これは是非劇場で味わってほしいポイントだ。
ほどよく肩の力が抜け口元がほころぶラストシーン。素材が良い野菜を最低限の味付けで丁寧にこさえる。それだけで十分においしい料理になる。時間と手間を惜しまずに磨き上げられたモノは心と身体を豊かに満たしてくれるのだ。終演後、舞台に向かって拍手を送る。そっと手を合わせ心の中で「ごちそうさまでした」と呟いた。
劇場から歩いてすぐのレストラン「TAMIS」さんでは、烈々風挽歌とのコラボメニュー「丸ごと玉ねぎご飯の豆カレー」が公演期間中に提供されている。早速観劇後にお店を訪ねてみた。玉ねぎの甘みとうまみが染み込んだご飯にスパイスのきいたカレーが相性抜群。ワンドリンクがついたお得なセットになっている(ゲキカンを書く予定がなければアルコールを頼みたかったが、ぐっと我慢してウーロン茶…)。観劇後はおいしいカレーを食べながら感想を語り合ったり、舞台の余韻に浸ってみてはいかがでしょう。