ゲキカン!


作家 島崎町さん


静かな舞台だ。

章の合間以外にBGMはなく、ふたりの役者のセリフのみ。観客はじっと舞台を見つめて、服がこすれる音すらためらわれる。それくらい、張り詰める。静寂は、1時間数十分徹底される。

OrgofA『異邦人の庭』。死刑囚の女と、接見を重ねる男。連続殺人犯の女は死刑執行を望み、劇作家の男は取材のためにやって来ている。はずだった。

ふたりの役柄はいっけんわかりやすいように見える。死刑囚と話を聞く人。そうこうしているうちに距離が縮まったり、罪とはなにか人間とはなにかが問われるんだろう。

だけど、そんな表層的な期待は打ち砕かれる。

ふたりは複雑だ。シンプルな構図から逸脱する。アクリル板を挟んで交わされる会話は終始手探りで進むが、同時に、このふたりは自分に対しても手探りなのだと気づく。目の前の人物に対して発する言葉が、不確かな自分自信への問いにもなっている。

あなたはだれなのか、いったいなにをしたのか、それをどう思っているのか。

その問いが、感情が、静かな舞台上で交わされ、ぶつかり、反響し、客に届く。今度は、観ている観客の中でふくらみはじめる、その思いが。自分はだれなのか、いったいなにをしているのか、いま観ているこの舞台を、どう思っているのか。

BGMを廃したのは本当にすばらしい。音楽で感情を決めつけず、すべてを観客にあずけた。あの静寂でなければならなかったんだ。

徹底してシンプルに、余計なものを廃した町田誠也(劇団words of hearts)の演出は見事だった。役者もまたすばらしい。死刑囚を演じた飛世早哉香(OrgofA)、劇作家の明逸人(ELEVEN NINES)、共にベストアクト。

終わり方も完璧だった。あれ以上なにかを描くことはできなし、なにも足してほしくないと思った。あのあとどうなるかはだれにもわからない。唯一、観客の中に余韻として残る感情の波紋、それだけでよかった。

だから僕はアフタートークは観ずに帰った。申し訳ないけど、それくらい、余韻を味わっていたかった。帰り道の冷たい空気と街のささやき、それらを共にしていま観た舞台を反芻する。胸のざわめきは収まらない。それだけでよかった。

島崎町(しまざきまち)
作家・シナリオライター。近著『ぐるりと』(ロクリン社)は本を回しながら読む不思議な冒険小説。YouTube「比嘉智康と島崎町のデジタルタトゥー」で楽しい「変な本」を紹介中! https://www.youtube.com/channel/UCQUnB2d0O-lGA82QzFylIZg
ライター・イラストレーター 悦永弘美さん

観客を出迎えてくれるのは、冷たいアクリル板が立つ机と、向かい合う二脚の椅子。
この無機質なアクリル板は立場の異なる二者を隔てる境界線だ。

OrgofA「異邦人の庭」は、一つの上演でビフォアシアターを含む2つの物語が楽しめるという贅沢さ。
ビフォアシアターは3作品あり、私が観た回は「さんかく小屋のフェイ」。演じるのは寺地ユイさんと長谷川健太さんだ。

チカフとカントという姉弟をめぐる断絶や葛藤を描くどこかの国のいつかの話。
パステルカラーの緑の丘や青い空、自由に滑空する鳥、互いの記憶の中にある、ありし日の情景が観客の視界にも広がっていくような、姉と弟のやりとりが可愛らしくて、切ない。
戦争とは、平和とは。アクリル板を超えて心が通う、その兆候を感じ取りながらの終幕。

物語を覗いていた視線が、一度現実へと呼び戻される雑踏のBGM。
車の走行音やクラクション、雑多な街の音を耳にしながらの換気休憩を経て、「異邦人の庭」へ。

外の世界と切り離された閉塞的な拘置所の面会室で、アクリル板を隔てて対峙する男女。
女はSNSで知り合った自殺志願者7人に手を下した死刑囚・詩葉で、男はその支援者・春だ。
ぎこちない初対面の会話から始まり、言葉を交わすごとに、徐々に互いの思惑が見えてくる。
男の真の目的と、それに応える代わりに、女が提示する「結婚」という条件。
そして、死刑囚自らがその日を決めることができるという「執行日選択権」というフィクション設定が、二人の心情により一層のリアリティをもたらしている。

私の座席からは、春を演じる明逸人さんの表情が見える代わりに、詩葉役の飛世早哉香さんは背を向ける形となっていた。
出演者からのメッセージの中に脚本の刈馬カオスさん(刈馬演劇設計社)が本作は「演劇の不利な点を、設定と会話と展開の工夫で乗り越えるという挑戦だった」とあったが、本当にその通りでこの「見えない不便さ」がまた非常に面白く、演劇的。

春を演じる明逸人さんの表情の機微や、指先の微かな震え、詩葉役の飛世早哉香さんの声色や背中。二者の心情や魂の揺れを見逃すまい、取りこぼすまいと、耳をすませ、目を凝らし、気づけばこの男女へ私も心を寄せていた。

ドキリとしたのは、アクリル板に反射した詩葉の表情が、その向こうにいる春に視覚的に重なる瞬間だ。

私の座る場所からの角度や、照明によるものなのだろうけれど、明逸人さんと、飛世早哉香さんの名演の上に起こるこの光景はとても必然的で、重なりを見るたび、動揺した。

立場の異なる二者は分かり合えることができるのか。生きる権利、死ぬ権利とは何か。そして、生きる権利を奪い、償いとする「死刑制度」とは何か。「異邦人の庭」は決して答えを押し付けてはこない。けれど、幾つもの深い問いかけを私たちに投げかける。最後に見えた気がした微かな救いの光を頼りに、考えることをやめない、という自身の決断の芽生えを余韻の中で噛み締めた。

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。
漫画家 田島ハルさん

小劇場BLOCHの舞台上に置かれていたのはアクリル板に隔てられた机と、対峙する椅子二脚のみ。緊張と閉塞、寒々とした空気が上演前の劇場を包み込んでいた。OrgofA公演「異邦人の庭」である。

個人的に上演を待ち焦がれていた今作。人気の作品とあってか、昨年の公演は瞬く間に満席。見事フラれて悔し涙を飲んでいたので、リベンジとも云うべき念願の観劇なのだった(ありがとう、演劇シーズン)。

舞台は殺風景な拘置所の面会室で、死刑因の女と、その面会人の男が向かい合う。アクリル板が隔てる空間で、二人はお互いを探るように話し始める。 男の思惑に気づいた女は、その目的と引き換えに「獄中結婚」を申し込む。 それは女自身の願いも叶える提案。男は、動揺しつつも彼女に同意する。
死刑囚が自ら処刑日を決めることができる「執行日選択権」という架空の制度に、二人の運命は委ねられているのだ。

向かい合う二人を隔てる無機質なアクリル板が、決して二人の肌が触れ合うことのない事実を残酷に物語っている。
しかし、肉体の触れ合いがないことで、言葉が生きてくる。
事件に迫るほど加速し熱をおびていく言葉の応酬。他愛ない話から始まる、まるで初デートのような少し浮わついて掠めて、ぎこちなく触れあう言葉。絶望の淵に立たされた、何処までも孤独な呟き。「知りたい」と思う二人が互いを言葉でまさぐる様はエロティックで印象的だった。

飛世早哉香さん演じる、一見何処にでもいそうで、その上「いい人」そうでもある謎多き死刑囚の女。時折表れる、霧の中をさ迷っている少女のような、瞳の奥にこつんと冷たい固まりが沈む悲歎の表情が切なさを誘う。

対峙する面会人の男を演じる明逸人さん。私の席からは表情は見て取れなかったのだが、沈黙の姿も、葛藤する思いが複雑に絡んだ「大切な人」を思う台詞も、物語の奥行きを深いものにしていた。

物語の終盤、曇天の隙間からわずかながら一筋の光が差す。不確かなものであれ、生きることは希望を持つことなのかもしれない。肉体よりも確かに触れあう二人の言葉の戯れに、図らずも救われる思いがした。
舞台が閉幕し、拍手に包まれながら会場が次第に明るくなる。隔てるものの無い、あたたかな光に溢れる幸福な庭で、いつまでも見つめ合う二人の姿を思い描いていた。

これはまだ観ていない方へ向けた補足だが、公演が始まる前に「ビフォアシアター」という、異邦人の庭と同じセットを使い全く毛色の違う20分の芝居が上演される。軽すぎず重すぎず、メインディッシュに行く前の前菜的な美味しさを味わえる。一枚のチケットで二つの芝居が見れるということ。満足感あります。

田島ハル
札幌生まれ札幌在住。漫画家、イラストレーター、俳人、文筆家、小樽ふれあい観光大使。
2007年に集英社で漫画家デビュー。
著書に「モロッコ100丁目」(集英社)、「旦那様はオヤジ様」(日本文芸社)他。
朝日新聞道内版のイラストとコラム「田島ハルのくいしん簿」、北海道新聞の4コマ漫画「道北レジェンド!」、角川「俳句」の俳画とエッセイ「田島ハルの妄想俳画」など連載中。
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俳人、文芸評論家 五十嵐秀彦さん

舞台は拘置所の面会室。劇は終始その面会室のアクリル板を境として左右に座る死刑囚と面会者の二人の会話で進められる。
この作品は作者の意図・目的の如何を問わず、どうしても死刑制度のことを観るものに考えさせてしまう。
劇中でも語られているように、先進国(具体的に言えばOECD加盟国)で死刑制度が残っているのは日本と米国と韓国だけだ。その中で韓国はもう20年以上事実上死刑執行は凍結されている。
日本は東アジアで中国、北朝鮮と並ぶ死刑執行に対して積極的な国だ。多くの日本人は奇妙なほどにその事実を見ようとしない。
重大な犯罪を抑止するために死刑は必要悪だという、具体的根拠にとぼしい俗論がこの国の死刑制度をいまも支えているし、死刑擁護論はむしろ過去より強まっているようだ。

この物語はそんな日本の死刑制度が奇妙な「発展」をしてしまった近未来を舞台としている。
設定では、令和8年に刑法が改正され、死刑制度に「人権」が配慮された結果、死刑囚に死刑執行日選択権が与えられる。5年間いつ死刑の執行を受けるかを死刑囚自身が決める権利があるというのである。5年が過ぎればその選択権は消失し、死刑は執行される。
そこに殺人の記憶を事件後に事故で失ってしまった死刑囚ヒグチ・コトハがいる。そして彼女に面会に来るニノマエ・ハルという支援者の男性。
選択権は父母か配偶者の同意を必要とするという法律上の決まりが背景にあって、二人の関係は支援者の面会から劇作家による取材、そして契約結婚へと推移していく。
それらの関係性はどれも表面的なものであり、物語の真実は常にその奥に隠れながら二人の会話が進行してゆく。
本当にヒグチ・コトハは7人を殺し、そのことを忘れているのだろうか。
事件の被害者の中に二人をつなぐ人間がいたことがわかってくるなど、いくつもの糸が絡まりあい疑問はつぎつぎと湧いてくる。しかし、死刑執行のモラトリアムという状況はなにも変わることがない。

この国では戦後に刑法が懲罰目的から教育目的へと変わってきた。しかし、それでは死刑とは何だろうか。死をもってなにを矯正しようというのだろうか。刑法は死刑という大きな法的矛盾を抱えている。この劇中の近未来の死刑制度は現状の死刑制度をより誇張することでその矛盾を鮮明化したものだ。

舞台を観て思い出す事件がふたつあった。ひとつは永山則夫事件だ。昭和43年、理由なく4人が射殺された連続殺人事件が起こり、永山則夫という青年が逮捕され死刑判決が下された。彼は長い拘置所生活の中で小説を執筆し作家として認められるようになった。小説「木橋」で新日本文学賞を受賞してもいる。
彼は死刑執行時には全力で抵抗すると生前に宣言していた。時間はじりじりと進み、平成9年8月1日に事前予告なく突然に死刑は執行された。永山は刑場に連行される際、宣言どおりに激しく抵抗し暴れたといわれている。

もうひとつは平成29年に起きた座間9人殺人事件。「異邦人の庭」の設定にはこの事件が直接参考にされているようだ。自殺願望を持つ者をSNSで募り、アパートの自室に連れ込んで殺害する。ロープを使う手口もこの事件を参考にしている。座間事件の犯人には令和3年に死刑判決が出ている。

「異邦人の庭」は日本の死刑にまつわるこれらの事件を背景にして、執行日選択権という近未来の制度下での死刑囚を通し、制度にもとづく殺人そのものへの疑問を観客に突きつけているきわめてシリアスな劇であった。
最後の場面で、なぜ「異邦人の庭」なのかが示唆される。しかしそれは十分腑に落ちる説明とはなっていない。見終わって、片付かない思いが残る。舞台に残されるアクリル板だけが「異邦人の庭」そのものの象徴なのだろうか。

社会性の高いテーマを前面に出しながら、実は「死」という真には理解できないものへの魂の怖れそのものを描いた物語とも言えるだろう。
あるいは、これを異常な恋愛劇と観ることもできる。
飛世早哉香と明逸人による静謐で緊張感に満ち、巧みに省略された会話劇自体が、観る者の心にさまざまな思いを暗い漣のように広げてゆく。
捉え方は観た人それぞれに違うものとなりそうだ。

この劇を見て、あなたは何を感じ考えるだろうか。

五十嵐秀彦(いがらし ひでひこ)
1956年生れ。札幌市在住。俳人、文芸評論家。
俳句集団【itak】代表。現代俳句協会理事。
北海道文学館理事。
北海道新聞「新・北のうた暦」(共同執筆)、「道内文学時評」執筆。
朝日新聞道内版「俳壇」選者。
月刊「俳句」(角川書店)「令和俳壇」選者。
著書 句集『無量』(書肆アルス)
1995年 黒田杏子、深谷雄大に師事。
2003年 第23回現代俳句評論賞受賞。
2013年 北海道文化奨励賞受賞。
2020年 藍生大賞受賞。
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