ゲキカン!


俳人、文芸評論家 五十嵐秀彦さん

ステージ中央から左手にかけて幾何的で重層的な、塔らしきもの。
ステージの右手に大きなスクリーン。

そしていつもながらの「前説」のようなものが始まるのだが、これ自体が今から展開する物語の性格を観客に直観させる導入部になっている。その作り込みが面白い。

と思ったら、開始早々の台詞が「さっぱりわからないのです。人間はわからないことをわからないなりに話すことができ、受け手あるいは自分に押し付けることができます。宇宙の成り立ちを考えるのと一緒です。例えばの話。とある場所、とある町には大きな大きな塔がありました」というようなざっくりとしたモノローグで、これはほぼ「ネタバレ」の奇手だ。
あとはこの数秒に語り尽くされたことがさまざまに、あるいはでたらめに展開してゆく。

言葉、言葉、言葉、言葉…。
ひとつひとつは意味を持ちながら、しかし意味を捨て去るような脈絡の無さでランダムに舞台に躍りだし、ハケてゆく。
カメラが舞台の数ヵ所に設置され、現実の舞台上の風景が複数の視点から二次元化されてスクリーンに投影される。
このスクリーンが舞台という虚の中に入れ子の虚を描き出す。

飛び交う言葉はおしなべて軽く、そしてナンセンス。
笑いを誘いはするが、笑う側もかりそめの笑いと自覚させられていて、観客はその反応を通じてこの演劇空間に参加する。というか参加させられるような、うそ寒さを感じる。
ナンセンスであるがゆえに、空洞の暗さがよぎる。

言葉の断片の中に一組の夫婦が見え隠れしてくる。同時に、この町の架空のアイドル夫婦が重なり、常識や習慣がコテンパンに使い捨てられてゆく。
変わらぬものは、塔だけだ。けれどその塔の意味を知っている者はひとりもいない。疑問や仮定は語られるが、意味の分からないまま最後まで象徴的に聳えている。

「愛」という言葉の空回り、「人生」という言葉の空回り。
やつぎばやに浪費されてゆく言葉の果てに、男女の意味性がいろいろな形で虚像化されてゆく。
言葉によって取り繕われた人と人との関係性が破綻する様子。
ラブドール「姫ちゃん3000」がボタンを押されると言う「海が見たい」という言葉が、乱れ飛ぶ言葉たちの中でひょっとすると唯一信頼できる言葉なのではないか、と錯覚してしまうほどに、劇中の人間関係は全否定されてゆく。
言葉でマスキングされた感情が持つ「ぼうりょく」。

仮面夫婦のようなふたりはどうなってしまうのか。架空のアイドル夫婦は?
そしてラブドール「姫ちゃん3000」の末路は?!

コマ切れに提示された多くのエピソードが終盤ひとつの「概念」のようなものに収斂してゆく様子には、チカラワザの面白さがあった。
そうだ。これはシーシュポスの神話のように、山頂から転がり落ちる岩をふたたび山頂に運び続けることを永遠に繰り返させられる「罰」だ。

人はその罰を「愛」と言い続けているのかもしれない。

五十嵐秀彦(いがらし ひでひこ)
1956年生れ。札幌市在住。俳人、文芸評論家。
俳句集団【itak】代表。現代俳句協会理事。
北海道文学館理事。
北海道新聞「新・北のうた暦」(共同執筆)、「道内文学時評」執筆。
朝日新聞道内版「俳壇」選者。
月刊「俳句」(角川書店)「令和俳壇」選者。
著書 句集『無量』(書肆アルス)
1995年 黒田杏子、深谷雄大に師事。
2003年 第23回現代俳句評論賞受賞。
2013年 北海道文化奨励賞受賞。
2020年 藍生大賞受賞。
ライター・イラストレーター 悦永弘美さん

時間も場所も定かではないその場所に、天に向かって延びていく、大きな大きな塔が建っている。
いつから建っているのか、誰が建てたのか。
その成り立ちも、頂上に何があるのかもわからない塔。

街の住民とおぼしき人々が、塔にまつわる噂話や私見をカメラに向かって話し出す。
塔の造形とそれを照らす照明。舞台美術の美しさに目を奪われていると、そうやって物語は不思議な角度と速度で進み出し、いくつものストーリーや現象が錯綜していく。

「異邦人の庭」のバトンを繋いだのは、パインソー「ワタシの好きなぼうりょく」だ。

ものすごい悲劇を見たような、美しい奇跡を見たような、いやいや下ネタだったような。
観劇後、悲喜が入り混じった名状しがたいものが、自分の内部から突き上がってくるこの感覚。 非常にやっかいで、幸福な観劇体験だ。

劇中、様々な言葉がまるで洪水のように溢れる。
「愛」や「穴」といった繰り返される言葉もある。

受け手や、状況、見え方など、様々な要因によって、言葉たちはその意味も解釈も変わっていく。単純な同音異義語だったり、対極にあると決めつけていたものが実は表裏一体だったり。

哲学的な問いを含めながら、変換されたり、つなぎ合わせたり、意味を変えて、大きく私たちの心を揺さぶってくる。

特にある夫婦が共に生きていくことを決めた会話の断片が、二人の最期の瞬間にぞくりとする言葉の羅列となったあの衝撃。映像の効果もヒリヒリ効いていて、忘れられない光景の一つとなった。

知らないことが怖くて、明確な答えを見つけるために私たちは足掻いている。時にはSNSに深く入り込んでまで、「言葉」を探す日常を生きる私たち。曖昧なものに定義づけなどそもそもできないものなんだ、という虚無と、充実。異なる二つの気持ちを同居させながら、観劇から一晩開けた今も、ずっと考えている。

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。
作家 島崎町さん


愛のぬけがら。

かつて愛だったもの、それが風化し朽ちていく。抜け出した中身はさまよい歩く。愛が終わった人はどこへ向かうのか。

パインソー『ワタシの好きなぼうりょく』は、複数の物語が並行し、ゆるやかに絡み合う構成。

独立した物語の円がいくつも散らばり、ところどころ重なり合う。よく見ると、すべての円が重なり合う部分があって、それが「愛」、しかも「終わってしまった愛」だ。

ほとんどの登場人物が、愛が終わり、愛への余韻は冷め切っていて、余熱はまったく残っていない。電子レンジを開けたら昨日温めたまま忘れていた料理が残されていたときの空しさのような。

かつてそれに情熱を傾け欲していたはずなのに、いまはそこにひとかけらの熱も残っていない。もちろん食べる気はおきないし、かといって捨てればいいのだろうけど、なにか空虚な未練だけが残りつづけている。

そう、この舞台の登場人物たちは、愛が終わり、愛をなくし、もう愛には興味がない、はずなのに、愛のまわりをさまよいつづける。それは物語構造だけでなく、舞台にそびえ立つ巨大な塔、愛のシンボルのまわりを実際にぐるぐるさまよいつづける。

絡み合うような絡み合わないような物語。散逸的で乾いた下ネタ。舞台背景のほぼ半分を使って映し出される舞台上の(やや遅れた)映像。いくつもの要素が拡散され、いつまでもぐるぐると円を描きながらさまよう。観客はいつかどこかに収斂してくれることを願う。行き着く先はどこなのか、最後になにが見えるのか。

クセのある役者たちがひねりのきいたストーリーを熱した舞台で表現する、というのを期待すると肩すかしを食らうだろう。スピード感はあるけど、全体として冷めた気だるさが漂い、不気味さすら感じる。

ああ面白かったな、では簡単にすまされない、消化不良を起こし心の中にとどまりつづける、やっかいな作品だ。

島崎町(しまざきまち)
作家・シナリオライター。近著『ぐるりと』(ロクリン社)は本を回しながら読む不思議な冒険小説。YouTube「比嘉智康と島崎町のデジタルタトゥー」で楽しい「変な本」を紹介中! https://www.youtube.com/channel/UCQUnB2d0O-lGA82QzFylIZg
漫画家 田島ハルさん

一瞬の閃光のようであり、永遠に広がる空間に放り投げられたような。今までに味わったことの無い、不思議な感覚に痺れた一時間四十分。
この世に蔓延る暴力に身を焦がす人間の、正常な「ご乱心」を見届けた。

舞台上には、大きさのバラバラの無機質な直方体が絶妙なバランスで積まれ、天井まで高くそびえ立っている。子どもが積み木遊びで作ったお城のように、脆くて今にも崩れてしまいそうだ。
物語が進むにつれ、それが「塔」であると観客は知る。
とある街のシンボル的な塔。しかし、いつ誰が、何のために作られた物であるか、誰も知らない謎に包まれた塔。

街の住人も、その塔と同じく不安定にゆがみながらも、かろうじて立っている歪な存在だ。

肉体的な暴力によって絆が結ばれている夫婦、国家お墨付きの清く正しい愛の夫婦、肝心な物が欠けているラブドールと空虚な青年…、様々な人の営みが時空を越えて断片的に写し出される。

西田薫さん、横尾寛さん演じる夫婦の、「旅」 を終えた後に思いをぶつける場面は鮮烈な印象。残酷で滑稽だが感動的でもあり、人生が凝縮されている。

生死をめぐる哲学であり、痛みをまとったラブストーリー。と思えば、小気味良いテンポで進む言葉の掛け合いに思わず吹き出す。
笑えるのに、笑えない、笑うしかない。
終盤、皮肉たっぷりに人を食った落とし方には目を見張った。

もし、神様が人間を駒にして遊んでいるなら。高い塔の頂上から、切実に生きる人間を見下ろして「こいつら、ばかだなー」と笑っているなら。
やはり我々は、狂うしかないじゃないか。

田島ハル
札幌生まれ札幌在住。漫画家、イラストレーター、俳人、文筆家、小樽ふれあい観光大使。
2007年に集英社で漫画家デビュー。
著書に「モロッコ100丁目」(集英社)、「旦那様はオヤジ様」(日本文芸社)他。
朝日新聞道内版のイラストとコラム「田島ハルのくいしん簿」、北海道新聞の4コマ漫画「道北レジェンド!」、角川「俳句」の俳画とエッセイ「田島ハルの妄想俳画」など連載中。
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