シアターZOOの階段を上ると、湿った空気が頬を撫で、雨に濡れたアスファルトがこもった匂いを放っていた。遠くで消防車のサイレンがして、黒い車が猛スピードで目の前を通り過ぎて行く。
劇団 風蝕異人街「THE BEE」の観劇後に見たこの匂い、音、光景はしばらく私の夏の記憶となって刻まれることだろう。
震えるほど興奮した観劇の記憶は、劇後の帰り道の情景すらも内包して自分の心に残り続ける。それほどまでに忘れられない、とんでもない作品と出会ってしまったということを、自宅に戻りパソコンに向かった今もなお、しみじみと実感している。
地下深くの舞台上に設けた1970年代の日本。
子どもの誕生日祝いを抱えて帰宅した平凡で善良なサラリーマン井戸を出迎えたのは、自宅前に群がるマスコミと警察の酷い喧騒だった。
脱獄囚の小古呂が井戸の妻子を人質にとり、井戸の家に立てこもっているというのだ。妻子の救出のため、小古呂の妻子を訪ね協力を求めたが拒否されてしまった井戸は、逆に小古呂の妻子を人質にとり、交渉を始める……。
1つの立てこもり事件が起こした、警察もメディアも巻き込んだ想定外の凄まじい波紋。
私が観た3日目は井戸を川口巧海さん、小古呂の妻を三木美智代さん、百百山警部を関戸哲也さんが演じた。
前半はものすごい熱量の中で展開されるコメディだ。特筆すべきは伊達昌俊さんの爆発的な怪演!不気味さと奇怪さの向こう側に到達して、恐怖を背中に背負いながらも幾度もダハハと笑ってしまった。強引な説得力で圧倒的に舞台上に存在する感じがひたすら最高。以前観た「汚姉妹」の果てしない闇とゲスっぷりといい、本当に大好きな俳優さんだ。
川口巧海さん演じる井戸の覚醒っぷりも凄かった。
妻子を思うあまりに常軌を逸した行動に出てしまった男というよりかは、事件をきっかけに眠っていた自分の暴力的で反社会的な「才能」を開花させた感じ。加害者になる理由を手に入れたその様、その狂気。三木美智代さん演じる小古呂の妻との対峙は息を呑む迫力と恐怖で目が離せない。(日によってこの二人の配役が入れ替わるそうで、三木版の井戸、川口版の小古呂の妻もなんとしても観たい!)
異常な熱量と共に加速する狂気。密度の濃さ、鍛錬された身体の動き(蜂の見事なダンスは必見!)、劇場全体を巻き込みながら空間をうねらせ、身体の奥から湧き上がる興奮の連鎖。もう、さすが、さすがの風蝕異人街だ。
そうしてあの後半だ。
舞台上の熱をカクンと下げて、狂気の上に成り立つルーティンの不気味さと恐怖。(隙間から見える関戸哲也さん演じる百百山警部もまた絶望感を煽る)
背筋に冷たいものが走りながらも、釘付けになってしまった永遠にも思えるあの時間。惨劇に飲み込まれながら圧倒され、魅了され続けた70分。どうしてこんなにも風蝕異人街は私を捉えて離さないのだろうか。忘れられない観劇体験に、心が震える夏の夜であった。
時代設定と舞台は70年代日本の住宅街。普通のサラリーマン家庭に突然事件がふりかかる。
ある住宅に脱獄犯が押し入り主婦と子どもを人質にして立て籠っているところに、なにも知らないその家の主人・井戸氏が帰ってくる。
たちまちテレビ局の記者たちに取り囲まれるところから舞台は始まる。
一見平凡な主人公だが、この危機的状況に陥って奇妙なことを考えてしまう。
「私には被害者の適性がない・・・」。
その思いが井戸氏を奇怪な行動に駆り立ててゆく。
脱獄犯の小古呂の家に行き、犯人の妻と子供を逆に人質にするのである。
このあたりはコメディタッチで展開してゆくのだが、なぜかあまり笑えない不気味さがある。
被害者のはずの男が自分から加害者となり立場を転換させようとするのだ。
その異様な展開。いまやどちらも犯人となった井戸と小古呂が警察の用意した直通回線でやりとりを始める。そして互いに加害者であろうとする不条理な構造が無理筋に進行する。
はじめはその役割がはっきりとしているように見えた警察が物語の進行につれて背景に退き、しまいは二人の犯罪者との間のメッセンジャーでしかなくなる。
また、強く抵抗し子を守ろうとしていた小古呂の妻(ストリッパーという設定)もしだいに人間性を失ってゆく。一歩間違うとスプラッタになりかねない危ない筋書きなのだが、そこは舞台の小道具(棒や能面)で観念的にやり過ごされる。
主人公・井戸氏以外の登場人物が次第にその存在を無機的にしてゆく不気味な演出。
井戸という人物だけが舞台を支配する奇妙な世界に観客も投げ込まれ、虚無的な空気に染められてしまう。
これでもかとばかりに肥大化する主人公の加害者意識が行き着く先とはなにか。
私たちはそこで何を目撃することになるのか。
もうすこし具体的に説明したい気持ちになるのだが、それはことごとくネタバレになりそうだ。やはり観客となって劇場ですべてを見てほしい。
この作品は、2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロに触発され作成されたもの。英語版が先にできて2006年にロンドンで初演され、その後日本語版も作られて国内で上演された。
原作は筒井康隆の短編小説「毟りあい」。
9・11というテロに出会い、その奥底にある根本的な人間性の問題に気づき、即座に「毟りあい」という最適なテキストを見つけ出した野田の感覚の鋭敏さに今さらながら感心してしまう。
あの時、アメリカ人が感じた被害者意識。そしてこれまで被害者意識にまみれていた中東の人々が一転して加害者の立場を獲得し、その後、アメリカによる報復で再び被害者となる。そういう暴力の連鎖を見抜いた野田の鋭さ。
脚本はおおむね筒井康隆の原作に沿って書かれている。そこで暴かれたものは、被害者が加害者となり立場を入れ替えることで被害感情を乗り越えようとしてしまう人間性、言い換えれば復讐の正当化が暴力の無限の連鎖となるという人間の癒えることなき病的心理だ。
人は正義という仮面を被ることで病的でグロテスクな素顔を隠そうとする。
ロシア軍が自分達に都合のよい理由をつけてウクライナに侵攻し、被害者となったウクライナ人はロシア兵を殺すことで次の加害者となる。息子たちあるいは父親を殺されたロシア人は次の加害者となり現れるのだろう。復讐として暴力は連鎖してゆく。
舞台の上では、修飾の全てを取り去り人間心理の核そのものとなって暗い暴力の沼に落ちてゆく主人公・井戸の様子が繰り替えされる。
ラストは、これもまたあたかも筒井康隆の「脱走と追跡のサンバ」を思わせる狂想曲のようであった。
演じることがかなり難しい作品と感じたが、世界が戦争の不安に覆われている現在にあって劇団風蝕異人街(演出こしばきこう)が果敢に攻めてくれた。
観客は片づかない思いで見終えることとなったかもしれない。しかしそれもまた演劇の醍醐味だ。
これは、小さな空間で濃密に演じられた人間劇である。
暴力はどこから生まれるのか。
風蝕異人街『THE BEE』は、ある日突然、暴力によって日常を奪われた男の物語だ。脱獄犯・小古呂(おごろ)が井戸の家に押し入り、妻子を人質にとる。井戸は小古呂の妻子に協力を求めるため家に行くが、小古呂の妻子はかたくなに拒否する。すると井戸は小古呂の妻子を人質にとり(!)、小古呂との交渉の道具に使いはじめる。
暴力が暴力を生み出す。被害者だった井戸は、小古呂の家では加害者になった。前半で描かれる暴力の連鎖、相似形の2つの立てこもり事件に客は引きこまれる。『THE BEE』の戯曲が持つエネルギーと、風蝕異人街のアングラパワーが組み合わさって爆発している。
さらに舞台は70年代。昭和感丸出しだ。すべてが過剰にみなぎっているあの時代。客入れから早くも流れる流行歌、被害者にカメラ・マイクを突きつけるハイエナメディア、高圧的で感情的なマンガ的警察、カギを差しこみドアを開ける古い車、辿り着いた小古呂の家では夜の仕事をする妻がネグリジェらしきものを着て、ちゃぶ台みたいな丸テーブルに、黒電話が鳴り響く。
昭和的なガジェットと昭和的な人々があふれ、異常な速度で物語は突っ走る。この迫力はさすが風蝕異人街だ。三木美智代のセリフと身体の融合は群を抜き(僕が見た初日初回は井戸役)、伊達昌俊(クラアク芸術堂)の怪演は狂気にあふれ楽しそう、渡部萌(小古呂の息子)はおびえながら絶品のアワアワ顔を見せつける(あの顔は必見)。
しかし、この舞台がとても怖く、とても奇妙なのは後半だ。熱を帯びた舞台はしだいに温度を下げていき、表現も様式化されていく。そこには、ゾッとする、凍りつく暴力が待っているのだ。
この前半と後半の違いこそが見所だ。暴力を手に入れ立てこもりに成功した井戸は、暴力をコミュニケーションとして使いだす。
井戸の言葉は誰に対しても無力だった。警察もマスメディアも一方的で、井戸の言葉はかき消されていた。ところが井戸が暴力を使いだしたとたん、警察は井戸の言葉をちゃんと聞きはじめる。井戸と小古呂の暴力によるコミュニケーションは、どのやりとりよりもしっかりとたがいの心に響き、どのやりとりよりも長くつづく。
これは恐ろしい舞台だ。客が突きつけられる問いだ。暴力は有効なのか?
ところで井戸家の方、脱獄犯・小古呂が立てこもったその家では、井戸の妻子が監禁されてるはずなんだけど、出てこない。
いったいどんな妻子なんだろう。大会社に勤め、頭がよく顔もいい、子供の誕生日にプレゼントを買って帰る理想的な夫には、理想的な妻と子供がいるのだろう、と思ってしまうけど。
井戸妻子の不在は、僕たちの不穏な想像力に火をつける。小古呂が家に押し入る前、井戸の妻子は絵に描いたようなしあわせな姿だったのだろうか。もしかして井戸の妻子も、井戸に監禁された小古呂家のように、能面のようにすべてを受け入れる妻と、無気力に床に横たわる子供だったら……。
この劇は暴力の連鎖だ。暴力がつぎの暴力を生んだ。だけどそれは新たな暴力が井戸の中に生まれたのではなくて、もともとあった暴力の種が、むくむくと芽を出し花ひらいただけなのだとしたら。
小古呂の妻子を監禁し、家庭を作りあげたあの手法が、彼にとってはいつものパターン、手慣れたものだったとしたら?
蝉の合唱が賑やかな中島公園を抜けて辿り着いた会場のシアターZOO。地下へと続く階段を下りると外の日差しを吸い込むように薄暗く、冷房の冷気とも違うひんやりとした空気が漂い、観劇という別世界へ入る臨場感にわくわくする。そしてこの怪しい雰囲気が相応しいともいえる札幌のアングラ劇団、風蝕異人街の公演「THE BEE」を観た。
上演時間は約1時間10分と短めだが、短い時間ながらも圧倒的にカロリー数の高い作品だ。見応えという点でも役者の力量においても凄まじい熱量である。アップダウンの激しいジェットコースターさながらの、永遠に終わらない地獄を見るように濃密でほんの一瞬の出来事だった。
ストーリーは、1970年の東京の新興住宅街を舞台に、とある一家の妻子を人質にした脱獄犯の立て籠り事件から始まる。突如として事件の被害者になった平凡な会社員の井戸。事件をお涙頂戴の物語にしたいマスコミ、全く信用ならない警官達…と、井戸の前に続々と現れては混乱させていく。
しょっぱなからアクセル全開である、いろんな意味で。
コメディ風味に展開する前半から大きなカーブを描き、後半からは風蝕異人街の十八番とも言うべき役者の身体表現が見所だ。劇中、どこからともなく乱入し、火花のようなステップを散らす「蜂ダンス」が繰り広げられる。蝉や蠅とも違う、怒りの情念を持った蜂が飛んでくる。逃げても逃げても追いかけてくる、井戸の影として執拗に。
ラストに訪れる、無重力で無機質な生活の有り様が印象的。解釈は観客により様々に広げられそうで、これから観る方はお楽しみに。
劇団代表の三木美智代さんの迫真の演技には、「や、殺られる…?!」と客席まで震え上がらせる大迫力。三木さんのひとり芝居「業火」と「業火の果てに」で演じた女の燃え盛るような狂気も素晴らしいものだった。表現者として、強くてぶれない芯のある身体と魂を持った方である(因みに普段はとてもチャーミングな方です。それも魅力)。
私が観た回では井戸を演じていたが、他の回ではストリッパー・小古呂の妻を演じる。今作は4パターンの配役で上演する日替わり仕様だそうで、一度のみならず何度も楽しめる素敵な計らいもされている。
風蝕異人街によって打ち上げられた鮮血色の花火を、かりそめにうっとり観る。そんな夏の過ごし方もまた一興である。