ゲキカン!


作家 島崎町さん


「前に観たし今回はいいや」っていう人に特にオススメします。

だって今回は違うのだから。

ELEVEN NINES『12人の怒れる男』。何度も再演されて観客動員もすごい。札幌演劇シーズンのレパートリー作品で、いまや札幌の演劇を代表する作品といってもいいでしょう。

だから、もう観たよって人も多いはず。僕も3回目の観劇で、ゲキカン!書くのも3回目(!)なんですが、いや、けっこう驚きましたよ。いままでと違う。

キャストの大半が変わったのは大きいです。新鮮な気持ちで観ることができるし、新しい役者を通してその役の意外な面や奥深くを知ることができる。その効果なんでしょう、出つづけている定番の役者たちもこれまでとは違う側面を見せてくれます。これはうれしい。

演出もけっこう意識して変えたんじゃないかと思います。観終わったあとの印象が全然違いました。もちろん、この物語自体が持つ解放感はありつつも、僕はどこかビターな、人間や人生が持つ苦味みたいなものを感じました。

2時間の激論を終え、舞台の熱が静かに冷めていく。12人はそれぞれの世界に散らばっていく。こうやって善が拡散されていくんだ、という胸のすく思いがこれまででした。だけど今回は、それでも生きていこう、というような、混沌とした世界に戻っていく感じがあります。

これまでの『12人~』が、どこか楽観的で、「正しさ」というものがちゃんとあって、事件の「真相」を解明すべく討議を進めているように見えるのに対して、今回は究極的な「正しさ」なんかない世界のようでした。本当の「真相」など彼らには永遠にわからない。だけど自分たちができることをとにかくやる。徹底的にやり遂げるその「過程」こそが大事なんだという意思がありました。

最後、達成感はあるものの徒労感もある。これは膨大な裁判のたった1つのケースで、こうしてる間にもどんどん事件は生まれていってる。そしてまた、見知らぬ12の、名前のない者たちが集められ、「真相」にたどりつかない討論を行っていく。僕はこの舞台から少しだけ不条理劇のにおいを嗅ぎました。

今回の『12人~』がこのように感じられたのは、ふたつの役がいままでと違っているのも大きいでしょう。まずは陪審8号(久保隆徳[富良野GROUP])。いわゆるこの劇の主役です。これまでの『12人~』は、シドニー・ルメット監督版でヘンリー・フォンダが演じた8号の印象が強く、結局この物語は彼が中心となって進み、ほかの11人が彼の「正しさ」に従っていくという構図にも見えました。

ところが今回の8号はほかの11人と同じように感情的で、おなじように苦悩している。彼は決して特別な「神様」のような存在ではなく、ひとりの人間で、本当に、ほかの人よりももう少し話したいと思っただけなのかもしれない。

もしかしたら彼も、最初は「有罪」だと思っていたのかもしれません。そう考えるとひとつ納得できることがあります。この物語がはじまってすぐ、8号はひとり窓の外をじーっとながめています。僕は、いままでの裁判内容を思い返しているんだと思ってました。でも、あれはもしかして、「有罪」だと思ってるのに「無罪」派をよそおうための決心の時間だったとしたら。もう少しだけ話がしたい、そのために……。

8号が絶対的な導き手でなくなったことで、議論は混乱し感情的になります。そこでもうひとり、いままでとは変わった役が出てきます。陪審員4号(河野真也[オクラホマ])です。

有罪派の副ボス的存在。知的でてごわい相手、というのがこれまでの印象でした。しかし今回は、彼の知性や落ち着きが場の混乱を何度も鎮めます。敵同士ではなく、4号と8号は議論を進める両輪として活躍するのです。

8号が導いてきたこれまでの『12人~』から、4号と8号ふたつの軸ができ、物語はさらにスリリングになりました。いままでの『12人~』を観たきた人こそ驚けて、楽しめるはずです。新解釈でさらにアップグレードされるんだ、って。

12人が平等に存在し、事件の「真相」ではなく「議論をすること」が主題になったせいでしょう、陪審員ひとりひとりの内面がより強調されることにもなりました。有罪と思うか無罪と思うか、個人が抱えてるものがかなり影響しているのがわかるようになりました。

感情的な有罪派がその傾向にあるのはこれまでの舞台でもそうでした。ただ今回は無罪派や中間の揺れ動く人たちも、自分が抱える過去のこと、現在のこと、肉親のこと、人間関係や仕事関係、出自や環境に影響され、むしろそれと戦っているように見えるのです。

この舞台のタイトルはなぜ『12人の怒れる男』なんでしょう。白熱した議論をしているから、だけじゃない。彼らは怒っています。なにに? 裁こうとしています。だれを?

いくつもの疑問と答えがこの舞台にはあります。いままで『12人の怒れる男』を観劇した人こそ観てください。もちろん、これがはじめての人もぜひ。

島崎町(しまざきまち)
作家・シナリオライター。近著『ぐるりと』(ロクリン社)は本を回しながら読むミステリーファンタジー。現在YouTubeで変わった本やマンガ、絵本など紹介しています! https://www.youtube.com/channel/UCQUnB2d0O-lGA82QzFylIZg
俳人、文芸評論家 五十嵐秀彦さん

前に観たのは4年前、2018年のやはり同じかでるホールだった。
2014年から今回で4回目であり、札幌の演劇では「古典」と言ってもいい定番作品だろう。上演の都度キャストは若干変更があったものの、今回一番入れ替えが多かったようだ。そのせいか前回とは印象がかなり変わっていた。

ストーリーはアメリカで70年近く前に作られたテレビドラマであり、1957年の映画化によって世界的に有名となった。
私も映画を観たと言いたいところだが、実際は子どもの頃に淀川長治の日曜洋画劇場で観ただけで、その時はなんとなく筋がわかる程度だった。
ただ、本当は犯していない犯罪でも場合によっては有罪となることもありうると知って恐ろしく感じたことを覚えている。

父親殺しの罪に問われた19歳の少年の裁判。
圧倒的多数の陪審員が有罪と判断した中、たったひとりが無罪を主張する。その陪審員たちの議論が評決に至るまでを描いた作品。つまり陪審員室での2時間のやりとりが、映画で言えばワン・カットで演じられるというかなり力技の舞台だ。
そして舞台はその周囲を客席でぐるりと囲まれている。
つまり正面という角度がない。役者の立場でいえばどこを向いても客がいるという中で演技をしなければならない。
その緊張感が観客にも伝わってくる。もう一度言うが、それが2時間ワン・カットで演じられるのである。
思えばおそろしい作品だ。
ストーリーが持つ緊張感と演技の空間が孕む緊張感の両方がビリビリと伝わってくる。

物語のキモはいわゆる「10番目の男のルール」である。
それは9人が同じ意見を言っているときに、10番目の人間は必ず違う意見を言わねばならないというルール。
そうすることで9人はあらためて自分の意見が正しいかどうか再検討することになり、付和雷同を避けることができる。
11人が被告人の有罪を当然のように主張しているからこそ無罪を主張しなければならないと考えた陪審員8号(久保隆徳)が被告の無罪を主張するところから会議は紛糾する。
ナイターを観に行かなきゃならないんだと時間ばかり気にする7号(横尾寛)や、貧民街の住人に強い差別意識を隠さない10号(箕輪直人)、被告人と同じスラム育ちでナイフの使い方に詳しい5号(瀧原光)、冷静に論理的に有罪論を構築しようとする4号(河野真也)、そして感情を爆発させながらかたくなに有罪を主張し続ける3号(納谷真大)など、それぞれが異なる背景を持ちながら、人に反発したり影響されたりして議論は二転三転してゆく。

たしかにひとりが異なる意見を述べたことから、他の人も付和雷同という無思考状態から抜け出しはするものの、各自の思っている「真実」というものがひとつの「事実」を差し示すことにはならず、おのおのの人生というフィルターで見た「真実」にこだわることになってしまう。馴れ合いの合意が崩れた時に現れるエゴとエゴの激しい衝突。

舞台ではあくまでも有罪に疑問を感じ続ける8号と有罪に固執する3号の言動に目が行きがちになるのだが、一番の見どころは2時間を12人がそれぞれに同時に演じ続けているところだ。
口を開かない人物も芝居の外に出ることは許されない。観客は常に12人を同時に見続けることとなる。
そこにこの作品の醍醐味がある。
結論が分かっていても、その群像劇にひきこまれてしまって1号から12号までの人物の内面を見ようと必死になっている自分がいた。
観客は全員、陪審員に対する陪審員のような役割になってしまうのだ。
そして12人のひとりひとりを裁こうとしている自分がいることに気づきゾっとする。

変わらない舞台セットの上で一度の暗転もなく時間的な転換もなく現実の時間の速度で進められる2時間の物語は、1秒も場を離れず演じ通せる役者ひとりひとりの演技力によって支えられていた。

評決の出た後、セットの中に置かれた暗示的な門をひとりまたひとりと陪審員が立ち去る場面は感動的だ。
全ての出演者にブラボー。そしてまた見たいと思う。1号から12号まで、毎回一人に焦点を当ててその120分間を見たいとさえ思う。12回見ても飽きることはないのに違いない。 これはすばらしい人間劇だ。

五十嵐秀彦(いがらし ひでひこ)
1956年生れ。札幌市在住。俳人、文芸評論家。
俳句集団【itak】代表。現代俳句協会理事。
北海道文学館理事。
北海道新聞「新・北のうた暦」(共同執筆)、「道内文学時評」執筆。
朝日新聞道内版「俳壇」選者。
月刊「俳句」(角川書店)「令和俳壇」選者。
著書 句集『無量』(書肆アルス)
1995年 黒田杏子、深谷雄大に師事。
2003年 第23回現代俳句評論賞受賞。
2013年 北海道文化奨励賞受賞。
2020年 藍生大賞受賞。
ライター・イラストレーター 悦永弘美さん

文句なしに面白い舞台に対して満員の客が送る、万雷の拍手。
込み上げる興奮を手のひらにぶつけるように、私も力を込めて手を叩いた。
イレブンナインの「12人の怒れる男」はやっぱり最高に面白い!

過去に約5000人に観劇された同作。10周年を迎えた札幌演劇シーズンのレパートリー作品として4年ぶりの堂々たる再演だ。
客席に4面を囲まれるようにして設けた舞台は、役者にとって一切の逃げ場がない緊張感に満ちた密室空間。座る位置によって見える景色が変わる観客もまた、「この舞台をどう観るか」を委ねられていて、全くもって気が抜けない。劇場全体が一体となって積み重ねていく緊迫の2時間だ。濃密で刺激的、張り詰めた自身の心と、ずっしりと響く余韻。この疲労感がとんでもなく幸せだ。

初演の2014年から実に4回目(!)となる今回はキャストを大幅に変更。これまで積み重ねてきた確かな実績の上に成り立つ、新たな12人が誕生した。
「12人の怒れる男」は、そのタイトル通り12人の男たちが怒る。
12人の男それぞれが、自身の歩んできた人生や経験の中で根付いていった偏見や差別、そして正義を持っていて、議論を重ねていく中で、各々の内側から12通りの「怒り」を放つ。男たちの内面に迫っていく様に、物語の核心があり、醍醐味があると感じているので、キャストの変更は新たな発見や喜びを与えてくれた。(前回観たからなぁ…と観劇を迷っている方は是非とも足を運んでほしいです!是非とも!)

どの位置から舞台を観るか、という面でも印象が大きく変わるだろう。
私の席は7号(横尾寛)が背を向けていて、8号(久保隆徳)が遠くに存在していた。だからこそ余計にただ一人無罪を訴えた際の8号の孤独が伝わってくる。
そして、「ナイターを見たい」と繰り返し、議論に真面目に向き合おうとしない7号に対して向けられる周囲からの呆れた目線は、時に自分の中にも確実にある「7号」と共に作用して、心の余裕が削がれるような苛立ちや居心地の悪さとなって響き、周囲の真剣な様子や言葉が一層に突き刺さってくる。シニカルな冗談を放ちながら議論から目を背け、ナイターの開始時間を気にする7号には、随分と苛々させられて、その背中に自分を重ねて共に裁かれ、そして悔しいほどに夢中になってしまった!(7号は果たしてどんな表情をしていたのだろう?時間が許すならば今度は違う場所から観たい)。4年前に観た時は、10号とどう向き合うかについて深く考えた私にとって、7号に左右された今回は非常に新鮮だった。
1人が話している時の、11人の様子も見応えがある。イライラと足を揺らしたり、眉を顰めたり、呆れたり。態度や仕草、表情から伝わるそれぞれの感情がより一層のリアリティと緊張感を与えていて、圧倒されてしまう。

番号が振られただけで、名前も明かされない12人。全員一致という結論に辿り着かない激論、動かない扇風機、うだるような暑さと湿気。偏見、差別、正義、有罪か無罪か。密閉された異質な空間の中で徐々にイライラを募らせ、環境や感情によって述べられる見解と、そこを乗り越えて他者を理解しなければならないという葛藤、そうして怒りを募らせて人間性を剥き出しにしていく男たち。頼もしい俳優たちによって新たな凄みを増したイレブンナインの「12人の怒れる男」。密室劇の最高峰をこの夏、この地で目撃できたことに、ひたすら喜びと感謝を噛み締めている。ありがとうございました!

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。
漫画家 田島ハルさん

かでるホールの中央、客席を押しのけるようにせり上がった舞台。舞台はプロレスのリングさながらに四方をぐるりと客席に囲まれて置かれている。初日はほぼ満席だった。自分の座席から舞台を挟んだ向こう側の客席もびっしりと埋まっている。ここにいる全員が、この時を待っていたのだ。ホールに充満する熱気に上演前から早くも胸が熱くなる。

2014年の初演から好評を博しているイレブンナイン公演「12人の怒れる男」。かでるホールに5000人(!)を動員した前回の公演から4年ぶりの上演になる。
今までと大きく異なるのは役者の顔ぶれ。以前と比べてどう感じ取るか、過去の上演を観た人にとっては、そこも見所だと思う。

あらすじを簡単に。
陪審員室。部屋には陪審員の12人の男たち。 父親殺しの罪で裁判にかけられた16歳の少年は、有罪が確定すると死刑が待っている。 この審議に12人中11人が有罪で一致しているところ、陪審員8号が無罪を主張する。人の命を左右することに疑問を持った8号は、議論することを提案したのだった…。

一人が投じた一石が、他人の心理を揺さぶり変化していく。浮き彫りにされていく、偏見や差別、矛盾、無関心、先入観…。議論が熱をおびるほど人間の内なる生生しさが露になり、観客は息をするのも忘れて見入ってしまう。誰かが聞き捨てならない発言をすればピリッとし、討論が煮詰まってくるとため息まじりにうなだれる。12人と観客、会場一体がただならぬ緊張感に包まれていた。

怒りの下には、底知れない寂しさが沈殿している。納谷真大さん演じる陪審員3号のラストシーンの叫びは胸に迫る切なさだ。長い議論はついに決着を迎え、陪審員は散り散りに部屋から退室していくが、誰もいない部屋には12人の男たちの寂しさがいつまでも漂っているようだった。

肉声のパンチで殴り合う白熱の戦いは約2時間に及ぶ。暗転なし、出ずっぱりのノンストップ。役者には相当な集中力が強いられていたと思う。
勇敢で思慮深い8号を演じる久保隆徳さんの神々しいほどの立ち姿が印象的。ナイターに間に合うことばかり考える7号・横尾寛さんと優柔不断な2号・梅原たくとさんが8号と席が向かい合うかたちで、8号の孤高の存在を際立たせていた。
納谷真大さん、山田マサルさん、明逸人さんの培われた演技が作品を支える大きな柱になっていた。
河野真也さんは前回から更に深みを増したように渋い。山野久治さんの憎めないおっちゃんっぷりも良い味わいだ。
前回の2号から10号に役が変更された箕輪直人さん。偏見と差別発言ばかりの清々しいほどむかつく奴を切れ味のいい怒声で演じられていた。
菊池拓帆さん、瀧原光さん、泉陽二さんは初参加であるらしい。顔ぶれがリニューアルされたことで新たな役者さんを知るきっかけにもなった。魅力ある役者さんのお披露目の舞台としても、数年おきに定期的に上演を続けてほしいと思っている(作り手は大変だろうけど…)。札幌に新たな演劇ファンを広げ、劇場に人を呼び戻す作品だと期待している。

今作は演劇を初めて観る人にも自信をもっておすすめする。2回目は席を変えて違った角度から観るのも良い。私も時間が許すなら、舞台を挟んで反対側の座席で表情が見えにくかった役者さんの演技をじっくり堪能したい(因みに、1回目に観たチケット半券があれば、2回目以降の観劇が500円引きになる「リピーター割引」が使えておトクに観れます)。
名作は何度観ても良いものだ。

田島ハル
札幌生まれ札幌在住。漫画家、イラストレーター、俳人、文筆家、小樽ふれあい観光大使。
2007年に集英社で漫画家デビュー。
著書に「モロッコ100丁目」(集英社)、「旦那様はオヤジ様」(日本文芸社)他。
朝日新聞道内版のイラストとコラム「田島ハルのくいしん簿」、北海道新聞の4コマ漫画「道北レジェンド!」、角川「俳句」の俳画とエッセイ「田島ハルの妄想俳画」など連載中。
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