ゲキカン!


ライター・イラストレーター 悦永弘美さん

素晴らしい、ひたすら素晴らしい舞台だ。
札幌演劇シーズン2021 冬のラストを飾る、座・れらの「空の村号」。
観劇後のこの気持ちがこぼれてしまわないように、ゆっくりとした足取りで劇場を後にした。これからもずっと大切に思い続けたい、そんな作品だった。

福島の美しい村で暮らす酪農一家の長男・空。
2011年3月11日に起こった東日本大震災、そして原発事故。
家族や村、友人、取り巻く環境が変わっていく中で、空は取材に来ていたドキュメンタリー映画の監督と出会う。
映画監督を目指していた空も、父親のホームビデオを使って撮影に挑むものの、震災後の家族や村の様子を見ているうちに「本当のことなんて面白くない」と感じ、夢がいっぱいでSFで、冒険で本当のことが何一つないフィクション映画を撮ることを決意する……。

椅子と僅かな段差があるだけのシンプルな舞台。
主人公の空を演じた町田誠也さんをはじめ、登場人物の設定年齢と演じる俳優陣の実際の年齢がとても自由。そして、これが全くもって違和感がない。劇中音楽を担当したYukiiさんの生演奏もまた、心に響き、迫ってくる。作品の中に息づく想いに奥行きをもたらしてくれる。

村は美しいままなのに、もう以前には戻れない悲しみ。原発事故を巡って起こる様々な分断。
作品のテーマは決して軽いものではない。しかし、「空の村号」には明るさがある。
苦しい状況下でも、主人公の空やその仲間たちは、震災後も明るい小学生の男の子だ。
だからこそ、仲間達と共に宇宙船に乗り込み、現実の世界を映画の中で超えていこうと必死に撮影していたその「フィクション」の中に、どうしようもない「ノンフィクション」が入り込んでしまう瞬間がより一層切ない。空の妹、海の悲鳴のような作文が忘れられない。
そして、「空の村号」というタイトルに込められた切実な想いに、私は思い切り涙した。

あの震災から10年。
その節目を私たちは今、コロナ禍という非常事態の中で迎えようとしている。
13日の夜。再び東北の大地が大きく揺れた。津波は?原発は?慌ててスマホを手に取り、情報を探る。どうやら東日本大震災の余震だという。

私たちが私たちなりの当事者意識でつくった「空の村号」。
演出の戸塚直人さんの挨拶文にはそうあった。
あの震災を、原発事故を、私たちは被害者として経験していないかもしれないけれど、決して無関係ではない。
目に見えないウイルスと戦いながら、厳格な感染対策を整え、なんとか劇場の扉を開いた今回の演劇シーズン。
この時代を生きる、この世界の当事者の一人として、「こんな今だからこそ、演劇を見にいくべきだ」と声を大にして言いたい。
空の姿は、私たちに光を見せてくれるはずだ。

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。
漫画家 田島ハルさん

劇団劇作家代表の篠原久美子さんによる、第43回斎田喬戯曲賞受賞作。2011年3月の福島の村が舞台になっている。
未曾有の東日本大震災・原発事故から今年で10年になる。恥ずかしながら、この演劇の知らせが届くまでその節目を迎えるということに気づかなかった。多くの命が奪われたあれほどの出来事であっても、月日の流れというのは記憶を薄めてしまう。時間を2011年3月に戻し、作品の世界に入り込もう。

福島で暮らす酪農一家の小学5年生・楠木空。東日本大震災と原発事故で、空の家族や村は大きく変わってしまった。空はある時、取材に来ていた映画監督との出会いをきっかけに映画を撮ることにする…。

劇場の舞台の上には椅子が三つと少し段差のある台、脇にはピアノが置かれているだけの、装飾のないシンプルな潔さ。そして役者は五人の最小限。余計なものを削ぎ落とした中で役者の演技が引き立ち、観客の想像の額縁を広げてくれたと思う。
特に印象的だったのは、主人公の小学5年生の「空」。彼の底抜けの明るさはこの物語の救いであり、彼が喋ると辛い場面でもなんだか和む。演じているのは町田誠也さんというベテランの役者さんである。札幌演劇シーズンのパンフレットの表紙を飾る威勢のよい中年の姿から、「ああ、主人公の父親役なのだな」と思い込んでいたため、劇の開始5秒で町田さんが主人公であると気づき椅子から転げおちそうになったが、観ていると小学生に見えてくるから不思議。その演技力に脱帽した。
また、空とは対極の存在にあたる、空の妹の「海」。周囲の子どもよりも大人びた物の見方と繊細な性格から、震災と事故の後の心の揺れる姿が切ない。海の書く作文のシーンは涙なしでは観れなかった。
物語の作者である篠原久美子さん曰く、この村のモデルとなったのは飯舘村である。福島第一原発から40キロ以上北西に離れた村だが、海からの風に運ばれた放射性物質によって深刻な汚染に見舞われ、行政の問題によって大幅に避難が遅れた。篠原さんはボランティア活動で避難所や仮設住宅を訪れる中で、この戯曲を書き上げたそうだ。
現地の人々の流した涙が演劇という透明のパイプを通して観客に届けられた、3.11と今が繋がる作品であると思う。
大震災・原発事故の作品を安易に舞台に上げることはできないだろう。迷い、悩み、苦しみ、葛藤の末生み出された、輝きのある作品だ。3.11の記憶を風化させず、立ち止まり考える作品として、この演劇が伝えられてゆくことを願っている。

演劇の感想から離れてしまうが、私が観劇する前日の13日夜遅く、福島県沖を震源とする強い地震が発生し、宮城県と福島県で震度6強を観測した。停電した場所もあるそうだ。不安の中、避難所で夜を明かした方がいると思うと胸が苦しい。平穏な日々が一日でも早く訪れるようにと、只々祈るばかりだ。

田島ハル
札幌生まれ札幌在住。漫画家、イラストレーター、俳人、文筆家、小樽ふれあい観光大使。
2007年に集英社で漫画家デビュー。
著書に「モロッコ100丁目」(集英社)他。
朝日新聞夕刊道内版に北海道の"食"をテーマにしたイラストとコラム「田島ハルのくいしん簿」連載中。毎週金曜日掲載。
角川「俳句」では俳画の連載も。
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作家 島崎町さん

あれから10年。

「もう10年」なのか「まだ10年」なのか、人によって思いは変わる。だけど月日が経つにつれ、東日本大震災の記憶はしだいに薄れつつある。僕の中からも、人々の中からも。

だからこそ物語なんだと思う。一過性のニュースではなく物語として出会うことで、生活の中に出来事が生きつづける。あの日の記憶が、言い伝えや伝承、物語として後世に残りつづける。

座・れら『空の村号』は、東日本大震災で被災した村を舞台に、少年・空(そら)が空想を羽ばたかせ、想像力を武器に現実を生きていこうとする物語だ。地震が起き原発が爆発し、放射線の被害におびえる村で、空はあまりに無力だ。現実を変えようもない。それでも映画監督を夢見る彼は、この現実に物語で対抗する。

空が作る映画は大人から見れば稚拙な夢物語かもしれない。だけどそれは、現実と向きあった結果で現実逃避ではない。現実をありのまま見ることと想像力を働かせて見ることに違いはないのだと、この劇は言っている。

劇中、カメラを持つ人物はふたりいる。空と、中東帰りのドキュメンタリー監督だ。ドキュメンタリー監督は村の人にカメラを向けて生の声を撮るが、空は自分の思いを動力にして空想の宇宙戦艦を発進させる。方法は違うがふたりの思いはおなじなのだ。

『空の村号』という戯曲は、劇作家の篠原久美子が被災地でボランティアをしたときに聞いた言葉が「降り積もって」できたものだという。はじめは10分ほどの短編だったが、のちに改作を依頼され長編になった。そのとき「うんと明るい話を書きたいと思った」らしい。そう、本作には明るさがある。それがいい。

この公演も明るさを出そうと奮闘している。初日はまだ緊張感があったが、日を追うごとにこなれていくだろう。新型コロナ対策もあり(万全だ)観客も少しかたくなるかもしれないけど、想像力は自由にはばたかせて物語を楽しんでもらいたい。だからこそ、想像力の飛翔をさまたげないためにも、舞台上のモニターは不要だったように思える。終盤の映像はモニターではなく客の心にこそ映るべきものだろう。

劇中、震災やこの村が忘れられてしまうことへの危惧が語られる。この戯曲は短編が2011年、長編は2012年に書かれた。それから月日が経ってもなお、メッセージは変わらない。むしろ強くなっている。

これは、忘れないための物語。

島崎町(しまざきまち)
作家・シナリオライター。近著『ぐるりと』(ロクリン社)は本を回しながら読む不思議な冒険小説。2021年1月よりYouTube「比嘉智康と島崎町のデジタルタトゥー」開始! これから本や映画、創作について発信していきます!(水曜・土曜更新)
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