ゲキカン!


作家 島崎町さん


演劇は影響されるものだ。

演者も客もおなじ空間。演者の言葉や動きによって空気がゆれる。ときにやさしく、ときにヒリつくその振動は、僕たち客の心に影響をおよぼし、泣いたり笑ったり、人生が変わったりする。

ELEVEN NINE『プラセボ/アレルギー』は、観客の心をゆさぶり、引っ張りまわす。中心にいるのが作・演出・主役の納谷真大で、ひとりのエネルギーがこんなにも情熱的な演劇空間をつくりだすのかと驚かされる。

もちろん納谷だけじゃない。納谷のエネルギーはスタッフ・キャストにも影響し、本作は、いま札幌で観られる最高の演劇と言っていいと思う。

いっぽう、つくり手もまた客の影響を受けるというのが演劇だ。おなじ空間にいるからこそだ。僕がこの舞台を観たのは初日。とんでもなく面白いお芝居だったのだけど、いくつか、笑いを意図した場面で客席は静かだった。

いま、客はやっぱりカタい。芝居を観る前、検温・消毒などいくつもの厳重なチェックがある。もちろんそれは絶対に必要なことで、観劇の安全性や安心感をつくるが、同時に緊張感も生みだしてしまう。

客の緊張は演者にも伝わるはずだ。初日、カタかったのは客だけでなく演者もそうだったと思う。咳がひとつ聞こえただけでピリつきそうな緊張感のなか、いかに面白く、いかに没入させるか、つくる側としてはそうとうな困難をともなっていたと思う。

また、笑いが起こらなかった場面として、ストレートな下ネタや演者の体型を揶揄した箇所だったことも言っておきたい。演劇は影響される。笑いが起きなかった理由が演者や客のカタさだけでなく、“いま“という時代の影響があるのかもしれない。

本作の主要なテーマは「どれもがホントで、全部ウソ」だ。パンフによれば、これは今回の再演にあたって加わったものらしい。この言葉は本作についてだけでなく、ELEVEN NINEの姿勢でもあると思う。

コロナの時代に演劇というウソ(ホント)をつきつづけるということ。存在しない場所のいもしない人たちの物語を描きつづけるということ。ウソも真剣につきとおせば効果がある。それはどんな効果だろう。この舞台を観た人たちにどんな影響があるんだろう。この舞台を観た人生と観てない人生ではどんな違いがあるんだろう。

しかし劇中のセリフにもあるように、ウソはつきつづけなければならない。それが偽薬だとバレてしまっては効果がなくなる。すなわちELEVEN NINEもまたこの劇で高らかに宣言しているのだ。なにがあっても演劇をつづけるんだと。つくりもの、まがいものと言われない最高の作品を、いつまでもつくりつづけるんだと。

だからこそ思う。つくり手は客に影響を与えているだけでなく、影響を受けている側でもある。客から、コロナから、“いま”から。

なぜ客は笑わなかったのか。影響を受け試行錯誤しもがき苦しみながら、作品をつくりつづけなければならない。

島崎町(しまざきまち)
作家・シナリオライター。近著『ぐるりと』(ロクリン社)は本を回しながら読む不思議な冒険小説。YouTube「比嘉智康と島崎町のデジタルタトゥー」で楽しい「変な本」を紹介中! https://www.youtube.com/channel/UCQUnB2d0O-lGA82QzFylIZg

ご来場の皆様へ

ご来場アンケート」で皆様の感想もお届けください。
ご協力のほどよろしくお願いします。

ライター・イラストレーター 悦永弘美さん

いやはや、すっかり入り込んでしまった。
劇場を後にして一番最初にしたことは、演劇シーズンのトレイラー動画の確認だった。後日談のような作りになっているその動画を見て、ほっとしたような、悔しいような、不思議な気持ちに。
ELEVEN NINES「プラセボ/アレルギー」は、賛否が両論した作品とあり、なるほど観劇後の気持ちはどうにも複雑だ。けれど、確実に言えるのは、この複雑な思いもすべてひっくるめて「観て良かった!」ということだ。

工場長とその妹、数人の社員で切り盛りする下町の町工場。春から秋までに期間工がやってくるのだが、今年はいつもよりその人数が多い。夏には工場長がもっとも楽しみにしているお盆恒例の大バーベキュー大会があり、大変な盛り上がりを見せるが・・・。

下町工場を見事に再現した舞台上を、縦横無尽に行き来する役者陣の動きが圧巻!(特に梅原たくとさんの動きが素晴らし過ぎる!)。
伸びやかな動きがあり、生演奏があり、そして勢いの良い会話の応酬。
前半は、陰口や小さな嘘が見え隠れするけれど、客席からの笑い声が絶えないテンポの良い喜劇だ。

雇い主と従業員。正社員と非正社員。話せる者と話せない者。集団の中でのそれぞれの立ち位置や力関係が小さな亀裂や徒党を生む。一つ一つの小さな陰口があるきっかけを得て大きな悪意に育ち、その悪意の上で成り立つ歪な団結。集団意識に属している私たちにも身に覚えがあるこの光景。これを全く関係のない他人事として観る人はどれほどいるのだろうか。

ラストに向かっていく展開は、ひたすら切なくて心が完全に持っていかれてしまう。(とある夫婦の存在が大きな救いで、彼らがいなかったら目を背けていたかも)
それでももう一度見たい!確認したい!と思わせるのがこの作品の巧みなところだ。
あの人は、あれだった!とか、実はあの人が・・・!など、全てを知った上で再観すると、言葉の意味や印象の変化を感じ取れるだろうし、登場人物それぞれの視線に立って観てみると、違った気づきも多々あるだろう。
圧倒的な熱量と、緊張感!喜怒哀楽を超えて胸に迫る「プラセボ/アレルギー」。ここで観た景色、嗅いだ匂い、観劇後の自分自身の気持ち、すべてがこの夏の記憶に深く刻まれる体験だった。

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。

ご来場の皆様へ

ご来場アンケート」で皆様の感想もお届けください。
ご協力のほどよろしくお願いします。

俳人、文芸評論家 五十嵐秀彦さん

用意されていた舞台はコンカリーニョぐらいのスペースがなければ組めそうもないこみ入ったセットだった。
2階にあたる部分や3階もある。
町工場の中だな、というのはすぐわかる鉄と油の臭いのするような舞台セット。

開演と同時に3階でギターを弾く男。
そして舞台に役者がひとり飛び出してきて○と×が書かれている(ような)紙切れを撒き散らし「どれもがホントで、全部ウソ!」と、この芝居のテーマを叫ぶところから始まる。
さあ何が始まるのかと思わせる趣向に早くもひきこまれてしまった。

ハゲ頭にズラを被った工場長オカモチカズオ(納谷真大)とその妹ツキコ(東李苑)できりもりされている町工場が舞台。正社員の古参工員がいて、みんなが家族的なつながりを持ち小さくまとまっている町工場に、今年も繁忙期の期間工がやってきた。いつもより多い8人の新人たち。
「なかよくやってや」と関西弁の工場長の言葉がこの職場の雰囲気を表している。

舞台には18名の人物(一部人間ではないものも含めて)が登場し、物語はコメディの様相で勢い良く進行し、観客はその関西喜劇のような展開に乗せられてしまう。
前半はテンポのよい喜劇だ。
日常どこででも見ることのできる仲間うちの影口や悪口。仲間の笑いを得るためには有効
小さな悪意の会話が、それぞれギャグとなって一見脈絡なくつぎつぎと展開する。

ただし、どうやらその「世界」の人間たちとは少々異質な役柄が何人か配置されていることに観客は気づく。
ひとりは3階でギターを弾く次郎(山木将平)という男(舞台上にはいるのだが他の登場人物には見えていない)、もうひとりはハナコ(内崎帆乃香)という物語の進行に深く関わりながらも他の人たちとはなにかが違う狂言回し的な「少女」、そして実際の工員のひとりなのだが自由に話すことのできない障害を持つ野口(山田マサル)という男。
ギター男はもうすべてを知っているらしい。ハナコはいやな予感に恐れを感じながらちょろちょろと舞台を駆け回る。そして障害をもつ男は、他の人物たちのようには自由に噂話や中傷の場に入っていけない立ち位置を保つ。
三者三様の存在理由の異なる傍観者が、工場長と妹と工員と期間工と業者たちがそれぞれに織り成すコミカルだが小さな闇のある会話を俯瞰している。
舞台セットの構造がその「俯瞰」というものを巧みに表現していた。

とは言え、前半はただただコメディとして進むので観客は安心して笑っていられる。
しかし。途中から少しずつ薄い悪意のベールで覆われだしてゆくのを観客は気づくようになる。そのときには、もう薄いベールではなくなっていた。

人に与えられる都合のよい快楽の「プラセボ」。同時にそれを自然に拒否してしまう「アレルギー」という反応。
ばらばらだった小さな嘘や悪口はしだいにおおきな悪意を育て始める。
職場名物で工場長自慢のバーベキューパーティーが、家族的なまとまりの町工場を象徴すると同時に、人間関係の崩壊がすでに誰にも止められないものになっていることを暗示するシーンとして見事だった。

最後の工場長の思いがけない決断。
一度動き始めたら止められない人間関係の崩壊に、ハナコは「バイバイ!バイバイ!バイバイ!バイバイ!」と、工場長に「うるさい!」と叱られるまで叫び続ける。
これ以上はネタバレになるので書けないのがもどかしいほどだ。

この芝居は、コメディとして思いっきり笑えるし、悲劇としても泣ける。印象的なラストシーンに涙が込み上げた人も多かっただろう。
個人的には、ハナコの「バイバイ!」の連呼のシーンが一番切なかった。

この芝居が何をテーマにしているのか、それは一言では言い表せないし、たとえそこにテーマを見いだしたとしても最後の工場長の選択の意味に納得できるわけでもない。
ここにあるのは、いつの場合にも片づかぬ思いがつきまとう人の感情の哀しさ。
「どれもがホントで、全部ウソ」と言うしかない存在の悲喜劇そのものだ。

この芝居を作った納谷真大が「あいさつ」の中に「(10年前の初演当時に)イレブンナインの中でもエース級に賛否が両論しました」と書いているが、私は迷うことなく本作に「賛」を投じたい。

五十嵐秀彦(いがらし ひでひこ)
1956年生れ。札幌市在住。俳人、文芸評論家。
俳句集団【itak】代表。現代俳句協会理事。
北海道文学館理事。
北海道新聞「新・北のうた暦」(共同執筆)、「道内文学時評」執筆。
朝日新聞道内版「俳壇」選者。
月刊「俳句」(角川書店)「令和俳壇」選者。
著書 句集『無量』(書肆アルス)
1995年 黒田杏子、深谷雄大に師事。
2003年 第23回現代俳句評論賞受賞。
2013年 北海道文化奨励賞受賞。
2020年 藍生大賞受賞。

ご来場の皆様へ

ご来場アンケート」で皆様の感想もお届けください。
ご協力のほどよろしくお願いします。

漫画家 田島ハルさん

劇場を後にした今でも、納谷さんの関西弁と、肉の焼ける匂いが耳に鼻にまだ残っている。観劇後の余韻というより、火種がまだ残っているような、余熱のある感覚に近い。

含蓄に富んだ物語とパワフルな役者達。ガツンと胸に迫る、この夏の酷暑に迎え撃つ熱量のある舞台だった。

観劇前は、フックの効いたタイトルとビジュアルイメージから、アート寄りの難解な舞台かと勝手に思っていた。
ところがどっこい。
ボケとツッコミ、飛び交うハリセン、吉本新喜劇のようなノリとテンポ。
このとっつきやすさ、人懐っこさに、肩の力が抜け、まんまと物語に入りこんでしまった。いいぞ、関西のノリ。

舞台はとある下町の工場。納谷真大さん演じる工場長とその妹、数名の社員で切り盛りする小さな工場だ。そこに、即戦力である若い期間工達がやって来るところから、物語が加速してゆく。

かしましい女子会や大富豪大会、BBQ大会など(遊んでばかりいる工場のようだ)、前半は吉本新喜劇的なワチャワチャのどつきあいを流れるままに楽しむとして、肝の部分は中盤から暗雲が立ち込める、リアルな人間模様だ。ここからまた違った面白さが出てくる。
距離が近くなるにつれて、円満のように見えた関係がいつの間にか歪になっていく様がグラデーションのように自然に描かれている。ターゲットを見つけたら一致団結する集団心理など、笑いを交えて挟み込むので妙に生々しく苦い後味を残す。

そんな愚かな人間達を、少し離れた場所から俯瞰して見るのが、山田マサルさん演じる野口、山木将平さん演じる次郎。
この二人が、いわば物語の大きなツッコミ役を担っている。ネタバレになりそうなので伏せておくが、金言を含んだ台詞に、私は劇場の椅子に正座して観劇したくなった。

物語の合間に流れる、山木将平さんのあたたかい生ギターも今作の魅力。空気を浄化する、ほっと一息つける素敵な音色を奏でている。昨年の冬に上演した舞台「虹と雪、慟哭のカッコウ~SAPPORO’72」でもオイシイ立ち位置だったなあ、山木さん。

自分の許容力を超えて、マイナスの症状を引き起こしてしまうのが「アレルギー」。本来は身を守るはずの反応が、自分自身を傷つけてしまう様は不可抗力ながらも痛々しい。このアレルギーに対して、偽薬の「プラセボ」という「優しい嘘」がどう作用するかは物語の最後に明らかになるはずだ。

エネルギッシュな作品に押され、観劇後は暑さで弱った身体にボディブローを受けたようにクラクラしてしまったが、なんとかこの稿を書いている。あなどれない。

田島ハル
札幌生まれ札幌在住。漫画家、イラストレーター、俳人、文筆家、小樽ふれあい観光大使。
2007年に集英社で漫画家デビュー。
著書に「モロッコ100丁目」(集英社)、「旦那様はオヤジ様」(日本文芸社)他。
朝日新聞道内版のイラストとコラム「田島ハルのくいしん簿」、北海道新聞の4コマ漫画「道北レジェンド!」、角川「俳句」の俳画とエッセイ「田島ハルの妄想俳画」など連載中。
twitterInstagram

ご来場の皆様へ

ご来場アンケート」で皆様の感想もお届けください。
ご協力のほどよろしくお願いします。

pagetop