在札幌米国総領事館職員 寺下ヤス子さん
「ディヴィッド・コパフィールド」(以下、デビコパと略)は、岩波文庫で5巻(各厚さ1.7cm)、ハリー・ポッターのダニエル・ラドクリフ君のデビュー作となったDVDは3時間。初日2時間10分少々の札幌座デビコパは、それでも最短コースと言えよう。
この長い物語のどこをどう切り取るかが、演出の大きな決断。この劇では、デビコパの内面よりは周囲の出来事に重点が置かれている。説明不足となる詳細点はあるが、展開は分りやすい。また海外翻訳作品では、いかに世界共通の普遍的共感シーンを印象強く生み出すかが鍵。私の中ではまず、いずれも養子だが、デビコパを引き受けるベッチー伯母さんや駆け落ちして捨てられたエミリーを探し歩く漁師ダンに描かれる「家族」。そして新天地を求めてオーストラリアへ旅立つ一行が合唱するシーン(ちなみに音楽は斎藤歩氏のオリジナル)で描かれる「人生の再出発と希望」。親不孝娘の筆者には特にダンの優しさがぐっときたし(泣きました)、札幌に転勤してきたわが身には、知らない土地で心機一転ガンバルゾという一行が明るくも切なくもあった。
波乱、不遇に見舞われながら、デビコパは健気にがんばる。原作では克明に描かれているが、マイルドな「おしん」状態。あんなひどい目にあったら、大抵こっちだって性格歪んじまうぜ。
ねじ曲がった醜い悪の部分は、ユーライア・ヒープがデビコパの分身として引き受けているというのが研究者の一説のようだ。ともかくデビコパは不運も理不尽も全て受け入れながら、紳士、作家として、自分で道を切り開き、ハッピーエンドを迎える。
よりよい自分、あるべき自分のための、人生の軌道修正、再出発。そうする力こそ、今ある自分の全てなのだとデビコパは教えてくれる。脱ぎ捨て、はね返し、死守するのだ。
余談ですが、主に40歳以上の元ロックファンの皆さん、ツェッペリンやディープ・パープルと同時代に人気を博したイギリスのロックバンド、ユーライアヒープは、現在も活動中!デビコパからグループ名をつけたとは憎いね。当時は羊の一種かと・・。
デビコパの多くの部分が、ディケンズ氏の自伝。ユーモアたっぷりに重く暗くならないのはさすがだ。しかし私生活では、文豪になってからも、暗い少年時代のトラウマにうなされ涙したという。この作品を書いたことで、ディケンズ氏は過去との決着をつけた。晩年が幸せだったことを祈り、この場を借りて、勝手に私の好きなメイ・サートンの詩を贈りたい。
長いさすらいの実りを
収穫する祝福されたひとよ
大いなる遍歴ののちにようやく
ふるさとへ船を向けた老ユリシーズにも似て
知恵に熟し身丈をのばして
夢見る想いを深く植えるために
デビコパもディケンズも、学生時代、英文学史でこの名を学んだ時は、こんな親しみを感じなかった。 ありがとう、札幌座!
ドラマラヴァ― しのぴーさん
まず最初に一言。この「デイヴィッド・コパフィールド」はぜひ高校生や大学生、20代の若い人たちにぜひ観て欲しいと思います。だから、実行委員会の皆さん、「19世紀のイギリスを舞台に、一人の男の半生を描く壮大な物語」です、なんて説明はやめましょうよ。そういう考え方が演劇の敷居を高くしているのではないでしょうか。観劇で火照ったココロを冷まそうと、美味しいワインでも飲んで無性に誰かと話したくなる。そうだよね、そうなんだ、と。そういう想像力を奪わないで欲しいのです。だって、芝居って観客のものなんですから。僕はこう言いたい。「最後の預かりものを託せるのは、あなただけなの。」こんな、世にも美しい台詞を聞きたくはありませんか、あなた。あなたのお話ですよ。このディケンズの「デイヴィッド・コパフィールド」は。
僕が演劇と呼べるものに初めて出逢ったのは、2000年1月29日の夜。世田谷パブリックシアターで松本修演出のチェーホフ「三人姉妹」でした。脚色の筒井ともみが舞台を戦前の日本に置き換えたのも良かった。東京まで観に行ったのにはちょっとした理由があって、この年、小さな産声を上げた地方局の駆け出しドラマプロデューサーとして、次女(原作ではマーシャ)を演じた風吹ジュンさんに出演のオファーを出していたからでした。終演後、ホワイエで初日乾杯があったのですが、僕は風吹さんに、三姉妹が肩を寄せ合い語るあの有名なラストシーンの台詞に感動したことを無我夢中で伝えていたそうです。
構成・演出の清水友陽がディケンズ資料館まで足運んじゃって、ロンドンの空気吸って煮詰めた、今度の「デヴィコパ」って、なんか新しいよね、と噂を立てておきます。劇作や演出家は問いを立ててはいるのですが、それを理解することが演劇の目的ではありません。初めてお芝居観ます、というあなたの感じ方の方が無垢で、本質をついていることだってあるんです。演出家だって、再演時に「あっ、これはそういうことだったのか」と自分で脚本書いてても新たな気づきが常にあるのですから。イギリスは現代でも、実に階級社会です。でもその善し悪しは別にして可視化されています。21世紀に入ってもう15年も経ったのに、今の日本からどんどん可視化されずに深みに入りつつある若年層の貧困やより不寛容になっていく社会を僕は重ねて観ました。でも、やはり、生きていくことの先には小さくてもいいからともしびや希望の火種はあって欲しいと改めて感じました。世界は善意で出来ていれば、と。
役者を観るのも演劇の楽しみの一つです。「デイヴィッド・コパフィールド」には、バットマンでいうところのジョーカーがいます。ユライヤ・ヒープを演じる作家で演出家でもある弦巻啓太。こういうの大好き。それと、不要な人物のようですが、なにかのメタファーとして現れるベッチー家のディックを演じる山野のおやじ(失礼!)久治。それと、札幌座の高子未来は、最近グッときます。彼女のアグニスには、善きものが宿っていました。
この札幌演劇シーズンの例の涙目のキャッチに「劇的」とあるのを覚えていますか。劇的なるものの表現=ドラマを愛する一人として、僕がいつも演劇だけが決定的だと思うのは、まったく再現性がないことです。俳優という肉体性から発せられると台詞によって支えられている空間と、観客との間に生まれる一期一会の祝祭。「劇的」なものとは、舞台と観客との間に立ち現れる奇跡です。これが、演劇の魅力であり、魔力と言えるものだと思います。それをより多くの人たちに知って欲しい。その思いを「ゲキカン」にぶつけてみたいと思います。
映画監督・CMディレクター 早川 渉さん
「映画のスクリーンから大河ドラマはなぜ消えたのか?」
「札幌演劇シーズン2015-冬」がいよいよ始まった。オープニングを飾るのは、札幌座「デイヴィッド・コパフィールド」である。自分は2012年の初演時にも観ているが、その時の劇場は中島公園のシアターZOO。今回は新さっぽろのサンピアザ劇場である。シアターZOOは舞台と観客席の距離が短く役者の息づかいが手に取るように分かる小劇場。一方、サンピアザ劇場は舞台と観客席の距離が長く、昔ながらの演劇体験が出来る懐かしい雰囲気を残した中劇場。劇場の雰囲気で芝居の見え方が随分と違う。「デイヴィッド・コパフィールド」のような大河ドラマはサンピアザ劇場のような劇場空間がよく似合う。自分が観た1月18日(日)14時からの回は少し中高年の年齢層多いものの、たくさんのお客さんがびっしりと席を埋めていた。
この作品はイギリスの国民的作家であるC・ディケンズの自伝的小説を原作にするもの。原作は太めの文庫本で全4冊にも及ぶ大河小説だ。今回の演劇版「デイヴィッド・コパフィールド」がサンピアザ劇場に似合っているのはこの芝居が、どこか昔観た大河ドラマ的な大作映画「ドクトル・ジバゴ」や「アラビアのロレンス」などに相通じる世界観を持っているからだろう。若い演劇ファンはご存じないかもしれないがサンピアザ劇場はかつて映画館だった。この劇場は映画的記憶を色濃く残している。
一昔前までは、「ドクトル・ジバゴ」や「アラビアのロレンス」といった大河ドラマの映画は上映時間が3時間を超えるのは当たり前で、映画の途中に<Intermission>という休憩を表す字幕が入ったのを覚えている。最近では3時間を超えるような大作映画はほとんど消えた。これは興行的な側面が大きい。劇場の回転率を上げるためには少しでも映画の尺は短い方が良い。どうしても長くなる映画は何作かに分けて上映すればいい。長い原作を無理に2時間程度の尺に収めると原作の要素をかなり削らなくてはならないし、その事によって原作のファンから「原作のイメージと違う!」とたたかれたりする。
映画を作り、観る立場の人間からすると、映画館でじっくりと3〜4時間の大河ドラマを観られなくなったのは少し寂しい。経済効率ばかりが優先され、どっしりとした分厚いドラマを作る力も観る力も削がれていく気がする。
「デイヴィッド・コパフィールド」の初演時、最初の上演台本は4時間くらいだったらしい(今回配布されたパンフ中の演出・清水氏のコメント)。そこから泣く泣くシーンを削り、登場人物を削って2時間強の長さに収めたのが初演の舞台だった。自分がその舞台を観た感想は・・・
「面白いけど、大河ドラマのダイジェストみたいだな。」
今回の上演時間は2時間10分(事前のチラシでは1時間50分当日のアナウンスで上演時間が2時間10分に変更)。初演と大きく上演時間に変わりはないが受ける印象は随分と違う。変わった印象を受ける最大の要因は、演出家が描く基軸が、主人公のデイヴィッド・コパフィールドから周辺の脇役たちに移っているからに他ならない。今回の舞台では、本来の主人公であるデイヴィッドや最後に彼と結ばれるアグニスの印象は薄く、逆に敵役とも言えるヒープやローザの印象が強く残る。今回の感想は・・・
「なるほど、こう来ましたか!」
映画と演劇という畑の違いはあるものの、演出家清水友陽の投げてきた球には少しニヤリとさせられた。大河ドラマの処し方としては悪くない。悪くないけどもベストでもない。それは清水自身が思っているに違いない。いつの日か4時間版の分厚い「デイヴィッド・コパフィールド」を観てみたい。
ライター 岩﨑 真紀さん
「走馬燈のような」という慣用表現を連想した。あるいは「長い長い紙芝居」を。清水友陽の構成・演出の『デイヴィット・コパフィールド』は、不遇の中に産まれた主人公の人生の重大シーンの数々を、小刻みに場転しながら約2時間、提示していく作品だ。
私は原作者のC・ディケンズをほとんど知らないし、原作『デイヴィット〜』も読んでいない。聞くところによればそれは、相当に長大な小説なのだそうだ。さもあらん。芝居の構成のめまぐるしさは「主人公の死によって作品を集約させるため」と、私は途中まで確信していたぐらいだ(笑)。
観劇前は、配布物に掲載されている「デイヴィット・コパフィールド 相関図」を見て、密かに怯えていた。登場人物24名! カテゴリは7つ! それぞれの人物を、きちんと把握してラストまでたどり着けるかどうか? ……が、心配は無用だった。強烈に個性的なキャラクターのそろい踏みで、関係性の脳内混線は一切なし。すごいぞ、ディケンズ。
芝居の大部分では、細分化された場面ごとに、少数の役者が登場して進行した。そのおかげで、なんというか、場面と役者の力量について学ばせてもらった。どうやら「空間を支配する意志を発揮し、場面を牽引する役者」と、そうではない役者がいるようなのだ(すいません、初めて気が付きました)。その在・不在で、場面は人間の深みを感じさせるものになったり、説明的になったりする。うん、私は乳母の故郷のヤーマスに絡むシーンが好きだった。役者比べはこの作品を観る醍醐味の一つだろう。
前半は、デイヴィットの人格形成に影響したに違いないさまざまな出来事、周囲の人々によって与えられた数々の「呪いと祝福」が提示される。けれど、デイヴィットの内面が窺えないままに、周辺人物のみの場面も増えてくる。どうやら「主人公がどのような人物になったか」は、焦点ではないらしい。むしろこの作品は、『デイヴィット・コパフィールドのいた時代』として構成されているのだ。主人公と彼を巡る人々の悲喜こもごもの断片から、その時代の事情が垣間見えるように。
では、「その時代」とは?
私の薄い知識の範囲では、それは『小公女』で『シャーロック・ホームズ』で、森薫のメイド漫画『エマ』の時代だ(笑)。つまり、ヴィクトリア女王の大英帝国時代。貴族とブルジョアジーと労働者という階級差が際立った時代。植民地貿易で投資家が湧いた時代。諸々を振り捨てて新たな人生をつかもうと、新大陸に向かう船に乗った人々がいた時代。一方で、芝居の中のアグニスのように、「キリスト教的な良き精神」を堅持する人も多かった時代。
稼いで食べて生きる、ということ。恋をして結婚し、子をなすこと。普通のことが、運に恵まれなければ当然のように難しい「時代の事情」があるのは、160年前の英国も現代の日本も、あまり変わらない。
構成の清水は、誕生から誕生へと芝居を円環させ、作品中の数々のドラマを「生きるというあたりまえのこと」にあっさりと集約させた。誰の人生も、関わった人々ごと俯瞰してみれば、壮大にドラマティックな普通の人生なのだ。そう、私の人生も、あなたの人生も、デイヴィット・コパフィールドの人生も。
全編が印象的な場面とセリフの連続で構成されたこの芝居は、それ自体が長い予告編のようだった。ユニークで惹きつけられる。語られていないこと・提示されていないことが、山ほどある。原作が無性に読みたくなる作品だった。
NHKディレクター 東山 充裕さん
原作は『クリスマス・キャロル』で有名なチャールズ・ディケンズの代表作で、ハリーポッターのダニエル・ラドクリフ君が主演でBBCのTVドラマにもなっている名作です。
このような名作を観られるのも、演劇シーズンの魅力の一つでしょう。
観てはみたいけど、なかなか自分から探して観に行くことはしないので、演劇シーズンのお勧め作品として上演して頂けるのは嬉しい限りです。
今回の舞台は、岩波文庫5巻、全64章にも及ぶ長編小説を、ギュッと短くしたものになっています。
舞台は1850年頃のイギリス。日本で言えば、今年から始まったNHKの大河ドラマ『花燃ゆ』の時代、つまり黒船がやってくる幕末の頃です。
なるほど、当時のイギリスはこんな状況だったのか、日本の方がまだ良いかもしれないなあ、などと考えながら観ていましたが、はたと、今の日本とあまり変わらないような気もしてきました。
また、今回感心したことの一つは、普段は演出家として活躍している、すがの公さんと弦巻啓太さんが見事な演技を披露していることです。
すがのさん演じる深い温かみのある漁師ダン、弦巻さん演じる悪役ユライア・ヒープ。
お二人とも素晴らしかったです。
ところで、私は演出家なので、この舞台の演出には引っ掛かるところがたくさんあります。
舞台とドラマでは多少違いはあるものの、何故このような演出にしたのか、機会があれば、是非その意図を聞いてみたいものです。
例えば、この「ゲキカン!」のページで、一般のお客さんも参加して議論するのも良いかもしれません。
作り手とお客さんが一緒になって、気軽に演劇についての話ができる場があると、より札幌の演劇界も発展していくのではないかと思っています。