真夏の札幌、「ジョブキタ北八劇場」に雪が降る。
それはときに大雪、ときに猛吹雪。
舞台は真冬、「西線11条」。市電を待つ人たちが停留所で米を炊き、北の幸をおかずに食べはじめる。なんだこの光景は。
札幌座『西線11条のアリア』はマジックリアリズムだ。
今年6月、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』が文庫化されて話題になった。南米のある一族の誕生から消滅までを描く壮大な物語だ。
『百年の孤独』は虚構と現実が混在して不思議なできごとが当然のことのように描かれる。それがマジックリアリズム。
市電の停留所で米を食うこの不思議な劇は、いわば「札幌のマジックリアリズム」だ。
おかしな事件や不思議な出来事が起こる舞台はいくつもある。しかし札幌座の、斎藤歩作の舞台はひと味違う。
舞台の上で虚構が生き生きとしている。登場人物たちは不思議な出来事に総じて“のんき”で、虚構と共にあることを楽しんでいるようにも見える。
僕たち観客もそういう舞台の空気にどんどん感化されていく。巻き起こる不思議な出来事を、ありえないことではなく、あってほしいことだと思うようになる。
市電の停留所で米を炊く人がいるかもしれない。そこで飯をよそい、おかずがあんなところから出てきてもいいじゃないか。そしてそれらをおいしく食べる人が、むしろいてほしい。
『西線11条のアリア』は観客の楽しみたいという心を刺激して、想像力を味方につけ、舞台上に愉快で不思議な札幌を出現させる。
そのためにいくつもの仕掛けを用意していることは見逃せない。生楽器の生演奏、拡声器を使っての生歌、炊飯器で本当に米を炊きはじめ、リアルタイムに炊きあがっていく。湯気が立ちのぼる、できたてのご飯をかき混ぜよそい、熱々ご飯を食べる。(さすがに本物の雪は不可能だが)膨大な紙吹雪が風に舞う。
大事なのは「生」であること。本来「虚構」であるお芝居に「生」=「現実」をたくみに織り交ぜて、さらにマジックリアリズムな「虚構」を入れこむ。
まるで炊きたてのご飯をかき混ぜるかのように「虚構」「現実」「虚構」……それらが豊かに混ざり合ってできているのがこの舞台なのだ。
構造の話ばかりしてしまったが、僕は物語も好きだ。役者もいい。
終電近くの停留所、東京から出張できた男(斎藤歩)が、おなじように市電を待つ人たちと不思議な夜をすごす。序盤からにおわされていたいくつかの“不思議”がしだいに形になっていき、中盤であっという驚きを迎える。
斎藤歩演じる道外の男は、目の前で起こる「札幌のマジックリアリズム」に対してひたすらツッコむ。だけど停留所で待つ人々や、弟の見送りに来た姉(磯貝圭子)は事態に対して“のんき”だ。
磯貝演じる姉は、マジックリアリズムの手助けをしたり、道外の男と虚構との間を取り持ったり、観客と舞台との橋渡し役でもあったり、実はこの作品の要になっている。
もうひとりあげるとしたら停留所で待つ客のひとりを演じる林千賀子だろう。人なつっこいけど、つっけんどん、「地に足の着いた浮遊感」のようなものを漂わせる役柄は、林のよさをとても引き立たせる。
本作は、市電の停留所という狭い場所でひろがりのあるしみじみとした物語をつむぎだす名作と言っていい。「待ち人」であると同時に「旅人」でもあるという両義性、虚構と現実の豊かな同居、真夏に観る札幌の冬の物語、必見の舞台だ。
蒸し暑い夏の日の夕方、冷房が効いた劇場に足を踏み入れる。まず目に飛び込んでくるのは、駅員の格好をした劇場スタッフの姿。劇場空間は青白い光で包まれていて、その中にポツンとオレンジ色の光が輝いている。停車場の名前を知らせてくれる電灯の光だ。真っ暗な田舎道で灯りが灯っている民家を見つけたときのような安心感がある。どこからともなく繰り返し聞こえてくる「ゴトンゴトン」という市電の音。まるで、自分も市電を待つ1人の客かのように、空間に没入していく。舞台「西線11条のアリア」の話である。
札幌の市電に乗ったことはあるか。私の原体験は、小学校低学年の頃。親から貰った500円玉とお弁当を握りしめ、「中央区役所前」から市電に乗り込み、「中央図書館前」で降りて、中央図書館で休日を過ごすということを良くしたものである。当時は現在の様に環状線では無く、「西4丁目」と「すすきの」が終点であった。舞台「西線11条のアリア」も、同様の設定であり、主人公「横山」が「西線11条」から「すすきの」に行くには、かなりの遠回りをしなくてはいけない。劇中では、「市電ですすきのに行くのは遠回り」ということが繰り返し提示されるが、横山は頑なに市電を待つことを選択する。本作は、彼が停車場で市電を待つ間に起こった、不思議な夜の物語だ。
本作で最も記憶に残るシーン、それは満場一致で「停車場に正座して白飯を食べる」ところであろう。どう見ても異様な光景のはずなのだが、横山以外の登場人物はこの状況を当たり前に許容していて、さらには進んで受容している。横山も、次第にこのヘンテコな設定を受け入れるようになる。私も横山同様、停車場に来た人物が炊飯器のコードをコンセントに差した時点で少々面喰いながらも、その後の展開に胸を躍らせてしまっていた。
「ご飯のお供を白飯に乗せ、黙々と白米を食べる」。ただそれだけの描写なのに、どうしてこんなに心惹かれ、お腹が空くのだろうか。その秘密は、「観客の目の前で白飯を炊き、お茶碗によそい、食べる」という同時性にヒントがあると思う。誰もが人生で一度は経験したことがある、「米を炊く」という行為が舞台上で繰り広げられる。台詞の応酬に気を取られていたら、いつの間にか炊飯器から湯気が出ていて、米が炊けているのだ。そして登場人物がそれを食べるという一部始終を観賞することになるのだが、観客は観ているばかりで白飯を食べられない。私は客席に座っていて、このことに対してある種の口惜しさすら感じた。「生きていればお腹は空くし、ご飯は美味しい」という当たり前のことを、役者が舞台上で米を口にする姿を観て、改めて認識することになるなんて。
劇中、何度か横山に大量の雪が降りかかる。東京から来た横山は期せずして大雪の被害に合うわけだが、ここの描写がまた印象的。商業演劇顔負けの大胆な雪の舞い方に唖然とすること間違いなしだ。炊飯器と言い、観客の予想の斜め上を行く演出には全編通して感動しっぱなしである。
この舞台の表題にも含まれている「アリア」。劇中には、金管楽器を手に持った登場人物たちが突如として現れ、「G線上のアリア」を奏でる場面がある。冒頭と最後の2度演奏されるのだが、この曲のどことなく暖かく、それでいて切ないメロディが物語そのものを象徴しているように感じた。また、この曲を契機に物語が展開され、そして締められることから、「西線11条のアリア」における緞帳の様な役割を果たしていた様にも思う。
劇場を出た後、私の身体に残ったのは、「なんだか奇妙で面白いものを見た。」という感覚。でも、具体的に何を見たのかと問われると、上手く言語化できない。劇場から出た瞬間、ほとんどの記憶が吹っ飛んでしまった。だが、これこそがコメディの醍醐味では無いだろうか。北海道を代表する演出家、斎藤歩さんの手腕を心ゆくまで堪能できた。
オープンしたばかりのジョブキタ北八劇場。小劇場ながら、二階席があるという珍しい構造をしているが、どこの席でもとにかく舞台との距離が近く、舞台を「観ている」という感じがしない。あなたもこの奇妙な札幌の日常(?)の1コマの目撃者になってみてはどうか。
舞台は札幌。市電(路面電車)の西線11条電停。
時代は環状線化する前の、路線が一番縮小していたころのこと。
ちかごろはあんまり利用しなくなってしまったが、個人的には市電に思い入れがある。
子どものころ豊平とか麻生町とかに住んでいて、当時はどちらも市電が通じていた。北は新琴似駅まで、南は定山渓鉄道豊平駅まで、札幌の町を縦横に走っていたころ。
毎日のように利用していた。高校への通学も市電だった。いまでも札幌中心街を走る路面電車を見ると、胸がきゅんとなるものだ。それは50年以上前の個人的な思い出。
芝居の世界ではもっと後の時代。初演の2005年あたり。市電がいまよりさみしかった時代だ。
舞台にはおなじみの市電電停のセット。客席の灯が落ちていない明るい状態で、早くも役者がひとり登場。コート姿でサラリーマン風の男(斎藤歩さん)が所在無げに無言でぽつんと立っているが、芝居が始まっている雰囲気ではない。
そこに前説の女性が登場。普通に注意事項などを語り終えると、手にしたサックスを吹き始める。客席が暗くなり、楽器を持った役者がゾロゾロと現われ小吹奏楽団の体で「G線上のアリア」を合奏。
うらさびしいマーチングバンド風の演奏が芝居の意味において予言的であることを、観客は最後に知ることになる。
サラリーマンと謎の女が西線11条の電停に立っている。かみ合わない会話。女は男を追い払おうとしている様子だ。
この場面での、いきなりの猛吹雪は冒頭の最大の見せ場。
床から天井から大量の「雪」が舞い上がり吹きすさぶ。舞台に黒子(白い服だが)が数名登場し、送風機や団扇を使って人力で雪を吹き付けさせるのだが、これが実に見事で実際の地吹雪が舞台を襲っているように見え、圧倒的だった。
基本的にコメディである。基本的などと言う必要もないほどに、コメディ満載。終始笑いが沸き起こる舞台だ。
そして電停にひとりまたひとりと人物が登場し、あの細長く狭い停留場に並ぶ。
彼らには何か共通点があるようだ。しかしその共通点を東京から出張で来ているサラリーマンは共有していない。
炊飯器を持ってきた男が電停のコンセントを利用して飯を炊き始める。サラリーマンは、何かが決定的におかしいことに気づく。さかんに問いただすけれど、さっぱり理解できない状況で話は進む。そして彼はいろいろあってなかなかススキノ行きの電車に乗れない。
会話はまるでコントで、切れのいいギャグが爆笑を作り出す。
「京極の水」「蘭越のゆめぴりか」「佐藤水産」「北海道新聞」などローカルネタがちりばめられて、交番やハローワークやコンビニなど電停周囲の様子も実際の風景を前提にして語られる。
夜10時前後、もう終電になる時間。電停で炊飯器から湯気がのぼる。まったくナンセンスでシュールな風景。しかしサラリーマンを除く6人にはそれは予定されている風景だ。
6人がそろった段階で、彼らの共通点が分かる。
西線11条駅である理由も、なんとなく納得できる気がしてくる。あの中途半端な、どこか忘れられがちな場所。目立たない場所。
そこに夜更け集まる人々。共通の目的で電車を待つ。
この小さな電停は、此岸と彼岸の境目にあるようだ。
旅人であるサラリーマンは偶然その場に居合わせてしまった。
理性では絶対に受け入れられない状況。
飯が炊きあがる。6人は電停に並んで正座して茶碗によそった飯を食べる。実にうまそうに食べる。
あり得ない場で交わされるあまりに日常的な会話。
不思議な非日常の空気と、どこにでもある日常の空気とがここでは重なっている。
観客は終始笑いながら、生きているということの不確かさを感じる。舞台に飛ぶジョークにも笑いつつ、せつなさに涙が出そうになってしまう。
偶然の結果として生きているいのち。偶然の結果として死んでゆくいのち。
それは悲劇ではない。喜劇でもない。
常識ではありえない風景の中に、当り前のことが描き出されている。
ラストに再び「G線上のアリア」がやや滑稽な音で出演者たちによって合奏される。
全てが分かるのだが、しかし何も分かっていない自分を観客は自覚するだろう。
サラリーマン役の斎藤歩さんの演技は腹の底から笑わせてくれて、同時に間の深さが心の動きをまざまざと描き出していた。おそろしいほどの名演だった。
猛暑の夜。劇場には札幌の冬の匂いがした。
これは名作だ。