ゲキカン!


ドラマラヴァ― しのぴーさん

 クラアク芸術堂の前身である劇団アトリエの最終公演として上演された2016年。密かなアトリエファンだった僕は観に行った記憶がある。作家・演出家である小佐部明広の強い執着心を感じる作家性と才気を発する作品であることは今回でも変わらなかった。「ワールド」を持っている作家はどの作品でもアドバンテージがあると思う。だけれども、この世界観から何を感じればいいのだろうかと、4歳分年老いた僕は少なからず困惑することとなった。「ゲキカン!」は作品をつくり上げる作家や演出家、役者、制作スタッフの皆さんへの尊敬と演劇への愛を持って書いているつもりなので、それを前提に少しおつきあいいただければと思う。
 劇に登場する人物に共感したりする必要は必ずしもなくていいと思うけれど、姉妹であるハル(山木眞綾)とアカリ(僕の観た回は橋田恵利香)の姉妹でしかわからない心象の綾とか互いの立ち位置がどうも分からない。アカリの行動原理が、思いを寄せるユウタ(有田哲)が姉に恋していることへの劣等感や、それを気付きもしない姉の、空気を読めない自由人な振る舞いへの憎しみなのであれば、それはさほど劇的なことではないだろうと思う。物語の語り部である絵本作家になりたいモモ(脇田唯)の物語への刺さりようももどかしい。
 ロード・オブ・ザ・リングのように、物語には森(純粋なもの)と町(穢れたもの)があり、それぞれ住人がいて、モモやケイ(僕の観た回は丹生尋基)のような外界からやってくる旅人がいる。町には邪悪なヤナギ(伊達昌俊。伊達は怪演)、ミーコ(僕の観た回は小森春乃)の一家がいて、ユウタはヤナギの息子だったりする。ヤナギはハルたちをネチネチと破滅させようとする。
 役者が声を張って紡がれる台詞がヒリヒリとした状況をつくり出し、観客をダークサイドに引き込む。観客としては非常に苦い、不快な気持ちを感じるし、息をのんで劇の行方を見つめることになるのだと思う。僕はそこに乗れなかったせいかもしれないが、「役者さん、稽古大変だっただろうな」と余計なことを考えていた。小佐部の役者の追い込みは容赦なく執拗で、それだけでもスリリングだし、この作品の大きな持ち味にもなっている。
 森と町が生み出したカオスは、最後にはハルの涙という海に荒々しく流されていく。魔法で守られた善なる森と呪いをかけられた町という対立は、傍観者であるモモとケイを除いて、すべての命をなぎ倒す。ヤナギに惨殺されたはずのハルが意味を持って再生する、「死なない」という必然性で流れていく一連のシークエンスには力があった。だから、涙の海に浮かぶハルの骸という終幕のタブローはとても美しい。
 話は逸れるけれども、美しいといえば、ハルが手首に巻いている大切なお守りをヤナギが奪って、ライターで火をつけて焼け落ちる瞬間の炎は見事だった。お芝居とはいえ、ヤナギの吸う煙草は独特の香りがして、とても不快だった。だけれども、あの悪意に満ちた炎の美しさに免じて許そうと思う。
 ハルが一つしかない薬で妹のアカリかユウタをどちらかを救う(どちらかを殺す)という究極の選択肢をヤナギに強いられるシーンがあるが、これは平凡な結末に終わる。結局、ハルはどちらも救いたいと薬を半分に割って与えてしまい、救えないどころか、どちらも不具者にしてしまう。劇画チックで、ここは笑いを拾うシーンなのか、それともハルの想像力のなさが何かのメタファーなのだろうかと、現実に引き戻される感じがあった。
 僕は演劇という表現は、メディアでいうところの「考査」が存在していない一番自由な空間だと常々思っている。ケイを流暢に話せない吃音という発話障害を持つ青年という設定にしているけれども、物語に落とし込めていないことはまったく腑に落ちない。吃音に悩まされていたジョージ6世を描いた映画「英国王のスピーチ」を思い出す方もいるだろう。原因はまだよくわかっておらず、発達障害の一つに位置付けられている。自閉症スペクトラム症候群で吃音を併発することもあるそうだ。なぜこういう説明を書いているかというと、人物に一定の瑕疵をつける(例えば、ユウタは片眼が見えず眼帯をしている)ことはよくあることだけれど、吃音の青年がまったく深掘りされていないのはどうしたことか、と思うからだ。どもり、という言葉をどうして台詞に登場させなかったのだろうか。「そんなしゃべり方では」というヤナギの台詞はあったように思うけれど、なにか忖度のように聞こえて、ひどく違和感があった。僕は親族に吃音で悩んでいる人がいるので、劇として触るならば、何となくとか、当たり障りのないあしらいは作家の力量不足だと思ったのかもしれない。そんな設定はファンタジーじゃないと思う。尊敬している劇作家・演出家の鄭義信は在日韓国人の作家で、彼の書く物語には韓国や在日韓国・朝鮮人を差別したり、ヘイトしたりする時に使われる言葉がうじゃうじゃ登場する。自虐的にではなく、劇としての必然があって。鄭だからといってしまえばそれまでだけれど、作家は台詞を生み出すから存在意義があって、だから芝居とは台詞だと言い切れると僕は思う。ケイが劇の最期を絵本の額装の外から眺めて終わるという、寓話として回収される実に素晴らしい「おしまい」を用意しているのであれば、ケイの人物の彫り方はもっと戦ってほしかった。モモの台詞で簡単に溶暗しないところに、作家の非凡さを感じるので。
 「アートとは万人が美しいと感じなければいけない」という考え方は非常に危うい考え方だと思うし、2019年に名古屋市などで開かれたあいちトリエンナーレ内の企画展「表現の不自由展・その後」の中止問題でも表現することへの圧力の時代的な高まりを感じざるをえない。だけれども、「こんな感じではないでしょうか」というところから逸脱して作家が観客という外界に差し出すナラティブが、演劇を含むすべての表現に必要だという立場に僕はいたい。小佐部という作家の行き先をこれからも観続けたい、と整理しきれない読後感に戸惑いながらも、僕はそう思った。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴28年目にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と故蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。著書に「昭和最後の日 テレビ報道は何を伝えたか」(新潮文庫刊)。
ライター・イラストレーター 悦永弘美さん

子どもの頃、大人から聞かされる「むかし、むかし」から始まる物語のほとんどは、道徳や教訓を含むおとぎ話ばかり。悪を取り除けば、全ては解決するというような、勧善懲悪の図式は幼少時より植え付けられていました。

けれど、大人になるにつれて、そうした物語構造に格好良く言えば「疑問」を、自分に正直に言うなれば「退屈」を覚えていました。

クラアク芸術堂『汚姉妹-呪われた少女-』は、貧富や善悪の対立構造の中、目をそらしたくなるような人間の陰を浮き彫りにし、私たちの心をグサグサと刺してくる衝撃作にして、大傑作。
親から言い聞かされ続けた教訓は、人生を照らす魔法か、それとも人生を縛り付ける呪いなのかーー。言葉が持つ力と、その怖さを知っている人だからこそ創り上げられる暗黒童話的な物語です。

いかなる困難が襲おうとも、「泣かずに笑い、楽しく生きる」ハルちゃん。
「お金こそ幸せの象徴だ」と考えるお金もちのおじさん、ヤナギ。

家やお金がなくても、大好きな妹や友人と楽しく森で暮らすハルちゃんのもとに、ヤナギがやってきて、物語に影が差し込みます。

事前情報ほぼゼロで挑んだ私。最初はハルちゃんがポジティブパワーで、ヤナギを倒す!的なシンプルな構図を想像していました。が、「汚姉妹」という不穏なタイトル通り、そんな単純にことが進むわけがなく、後半はもはや怒涛の地獄展開。

こう書くと、私の人格そのものに歪みがあると思われるのでは………という保身が働きそうになるのですが、この地獄展開を迎えた率直な感想は、正直に言いますと「酷(むご)い!えげつない!怖い!全員狂ってる!………最高じゃないか!」でした。

伊達昌俊(クラアク芸術堂)さん演じるヤナギの、果てしない闇とゲスっぷり、素晴らしいです。タバコの吸い方、火の消し方、唾のついた指、ゾゾゾっとする猫なで声など、佇まい、仕草、すべてが不愉快(100パーセントの称賛を込めております)!

山木眞綾(クラアク芸術堂)さん演じるハルちゃんの、眩しすぎて目が潰れてしまいそうな真っ白な光を放つポジティブさの恐怖!影のない光の恐ろしいこと!やめろ!笑うんじゃねぇ!と、もはやヤナギ側に立って、全力で拒否してしまうほどの、破壊力。そして呪いが解かれた様は、切なく、悲しく、美しく、魅力的でした。

う゛あ゛あ゛・・・という濁点だらけのため息はどこまでも深く。
シアターZOOの階段を登る足取りはどうしようもなく重く。
何だか禍々しいものを背負ったけれど、背徳感もあって。
こんな気持ちにさせられる作品って、そうそう出会えるものではありません。

自分にかけられている呪いの言葉があるとしたら何だろと思わず考えたり、無意識に自分も呪いをかけていないかと不安になったり。照明効果の美しさとか、結果として登場人物誰一人嫌いになれない不思議さなど、あなたはこの作品をどう観ましたか?と、観賞後に誰かととことん話し合いたくなる……観劇の喜びを噛み締めることのできる作品でした。

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。
作家 島崎町(しまざきまち)さん

物語の主役は悪だ。

「ヤナギ」というムカつく金持ちの男だ。巨漢、黒づくめ、葉巻を吸い、善良なる人々をおとしめていく。善なるものなど、この世に存在しないのだと、証明するために生きている悪。

演じるのは伊達昌俊(クラアク芸術堂)。みごと! よくやった! という熱演だ。

なに言ってる主役は「ハル」(山木眞綾「クラアク芸術堂」)だ、あのかわいくて明るい無垢な存在だろうという意見はもっともで、まあ、別にそれでもかまわない。

しかし物語を動かしているのはヤナギだ(ヤナギと書いて悪と読んでもらってもいい)。事実、彼が動かなければなにも起こらない。のどかな日常が繰り返されるだけだ。お絵かきして、笑いあう、おしまい。まことに平和な世界だ。僕たちもニコニコしながら劇場をあとにするだろう、いい気持ちで。

だけどヤナギはそれを許さない。彼はこの物語のどの人物よりも行動し、たえまなく努力し、自分の目標へ向けて一歩また一歩と前進していく、悪のために。

そう、古今東西、あらゆる物語において、悪はつねに努力家で勤勉だ。明確な目標を持ち、計画をたて、日々向上心を忘れない。それにひきかえ、善なるものよ……。絵なんか描いてほのぼの生きてるスローライフ。雨にうたれてああ大変、レベルだ。

物語中もっとも善なのが(君たちの)主役・ハルなんだけど、もうひとり、善的な存在がモモ(脇田唯「POST」)だ。彼女は絵を描き、仲間たちと楽しく愉快な日々をすごしているが、ヤナギの悪行三昧に対してまったく無力だ。無力どころかほとんどずっと傍観者だ。一回なにかしかけるが全然ダメで、悪の引き立て役でしかない。

傍観者たるモモは、なにごともなければみんなと楽しくすごしましたとさ、めでたしめでたし、という人生だっただろう。もちろんそれはそれでアリな人生なのだろうが、絵描きとして彼女を覚醒させるのが、ヤナギの行う憎むべき悪行だという事実は注目すべきことだ。

悪なくして、モモは絵を描き人々に物語れる存在になれるのだろうか? 悪が彼女の才能を導いたとしたら? 本作がつきつけてくるこの問いは面白い。

パンフレットにある脚本・演出の小佐部明広の文章には、当時行き詰まり、現状を打破したくてこの物語を書いたとある。その精神状態と、モモが先へ進んでいく展開を重ね合わせるのはやや強引だろうか。それとも案外、合致してるのだろうか。

ところで僕は、パンフレットに書いてある「この物語は『魔法』と『呪い』の言葉の物語だ」という部分には、劇を観てさほど面白みを感じなかった。おまえは悪が面白いかどうかばかり見てたんだろ、と言われるかもしれないけど……もちろん物語構造として、か細い1本の糸がラストに結びついて劇的な展開をむかえるという作りには感心した。逃れようのない呪いに苦しむ心も理解できた(僕だってみなさんとおなじく呪われているひとりだ)。

だけど、この主題はまだ、もっと、濃密に物語と絡み合うはずだし、劇中はしばしに顔を出すべきだと思った。この物語の到達点は、もっと高い位置にあるのではないか。いつか、さらにすごいものとなって、世に現れるのではないか。それを期待させた。

この劇は、(僕たちの)ヤナギによって残酷・非道が行われていくが、客は目をそらすことなく、物語に没入する。それは、たくみで、ときに潔癖とすら思える脚本・演出によって成り立っているが、終盤、物語は怒濤のマジックリアリズム的展開によって自ら調和を破壊する。劇的、まったく劇的。僕が見たいのはこれだった、求めているのはこの瞬間なんだ、そう思った。

圧倒的な悪、まばゆいばかりの善が、ひとつになる瞬間、それを、みんなで見に行こう。

島崎町(しまざきまち)
1977年、札幌生まれ。島崎友樹名義でシナリオライターとして活動し、主な作品に『討ち入りだョ!全員集合』(2005年)、『桃山おにぎり店』(2008年)、『茜色クラリネット』(2014年)など。2012年『学校の12の怖い話』で作家デビュー。2017年に長編小説『ぐるりと』をロクリン社より刊行。縦書きと横書きが同居する斬新な本として話題に。
漫画家 田島ハルさん

シアターZOOは地下に劇場がある。地上と地下を繋ぐ、洞穴のような仄暗い入口がぬぅっと訪れる客を呑み込むように口を開けている。やや急勾配の階段を下りていくと赤い扉がある。シアターZOOの扉は異界への扉。「汚姉妹-呪われた少女-」は、食虫植物が甘い香りで虫を誘惑し補食する様を、初めて眼にした子供の眼を回帰させる舞台だった。怖い。

主人公は明るく前向きな少女ハルちゃん。困難な状況でも笑って歌って幸せそうだ。家族も友人もそんなハルちゃんの姿に元気をもらっている。平和に暮らす皆の前に一人の男が現れ、物語に暗雲が立ち込めていく…。

人生の艱難辛苦をじっくりことこと煮込んで固めて煮凝りにしたようなストーリーで、大人には酒のアテにできるが、子供には味が濃すぎて少々トラウマになるかもしれない。人によっては、懐かしいトラウマを掘り起こされるかもしれない。何気ない一言でもその後の一生を左右する言葉が、己を守り、時に悩ませる。「言霊」という言葉があるように、言葉に宿る不思議な魔力によって人は生かされているのだ。私にかけられた呪いの言葉は何だろう…おっかなびっくり熱燗を呑みながら考えている(煮凝りは食べていない)。

「生きてるって楽しいな!」と満面の笑みで言う主人公はとても怖い。笑い声は泣き声に似ている。

田島ハル
札幌生まれ札幌在住。漫画家、イラストレーター、俳人、文筆家、ラジオパーソナリティー、小樽ふれあい観光大使。
2007年に集英社で漫画家デビュー。
著書に「モロッコ100丁目」(集英社)、「旦那様はオヤジ様」(日本文芸社)、「北海道の法則デラックス」(共著・泰文堂)他。
北海道新聞旭川面に連載「道北レジェンド!」、北広島市役所Webサイトに連載「キタヒロ☆エゾリス家族」など、北海道愛に溢れる作品多数。
2019年11月から朝日新聞夕刊道内版にて、北海道の"食"を紹介するイラストとコラム「田島ハルのくいしん簿」の週刊連載がスタート。
HBCラジオ「サブカルキック」(毎週土曜28:00放送)パーソナリティーとしても活躍中。
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