ゲキカン!


ドラマラヴァ― しのぴーさん

 初演も観ているが改めて、かなり深いところで観客の心を揺さぶる畑澤聖悟の素晴らしい本に敬意を表したい。そして、この芝居を発見し、コンカリーニョプロデュースで札幌の演劇シーンを代表するまったくタイプの異なる劇作家・演出家であるELEVEN NINESの納谷真大(大人チーム)とintroのイトウワナカ(中高生チーム)演出という2つのアプローチで上演してみせた、プロデューサーの斎藤ちずの眼力がまたすごい。
 畑澤は青森県を拠点に活躍する劇作家・演出家で、劇団渡辺源四郎商店を主宰している現役の高校教諭である。この創作のもとになったのは2006年に福岡県筑前町で起こったいじめによる中学2年(15歳)の男子学生の自殺事件だ。この事件は、当時マスコミでも大きく報道された。畑澤の作劇は自責の念すら持たない加害児童たちの酷薄さに向けられているが、事件発覚後明らかになった元担任教師によるいじめの誘発と教師や中学校の卑怯で不誠実極まりない態度への憤りでもあったろう。
 「親の顔が見たい」では、教室で首つり自殺(事件では自宅の倉庫)した女子生徒を新任のクラス担任、戸田菜月(大人チームはELEVEN NINESの宮田桃伽、中高生チームでは大石ともみがともに熱演)が発見した後に、加害女子生徒5人の親たちが学校のとある教室に集まってくるところから物語は始まる。畑澤本は、大人たちそれぞれの人物を見事に彫っていて、劇中まったく姿を現すことのない加害女子生徒たちへの想像を膨らませている。実に演出しがいのある本だし、役者は本と向き合うことを求められる。その点でいえば、中高生チームの初日は、驚くほどのパフォーマンスだった。残念ながら初演時、イトウワカナバージョンは観ることができなかった。再演の納谷演出はより深くなり、達者な役者陣も魅力的だったが、中高生チームの「迫力」と「心当たり感」に心震えた。ポップさを持ち味にしたイトウの演出も切れ味鋭く、中高生たちの潜在力を見事に引き出していた。
 この劇の人物では、学校の大パトロンで同窓会会長でもある森崎雅子(大人チームは小島達子、中高生チームは山下愛生)が自殺した生徒の遺書を二度にわたって隠滅する怪物ぶりと、森崎の行動を見てものの見事に自己正当化し、理論武装して残った親たちをいじめはなかったことにして一致団結しようと扇動する長谷部亮平(大人チームは齊藤雅彰、中高生チームは高田竜弘)が圧巻である。長谷部は妻の多恵子(大人チームは西田薫、中高生チームは山本透羽)ともに教師であるが、実は前述した福岡県の事件同様、心理的暴力、あるいはDVで教室ばかりか、家庭をも支配していた実は最低野郎だった。この難役を演じきった山下と山本のこのリアル感は何なのだろうか。中高生チームではひと際アクセントのある八島操を演じた髙橋桃子の身体性も強く印象に残った。
 リフレットの中で畑澤は、「書きたかったのはいじめそのものではなく、いじめを通して揺らぐ『正義』である」と書いている。この劇は学校、クラスという見えない密室にいる子どもたちの悲劇の物語であるが、その実、その子どもたちを生んだ大人たちの不都合をえぐり出す物語でもあるのだろう。現実世界を見ても、大人の側に正義があるとはどうしても思えない昨今である。そもそも、子どもたちは大人の正義なんて信じちゃいないだろうし。
 終劇がとても印象的だ。戸田が「私が一番あの子たちを殺したい」という自分の娘、孫娘に会いにいく家族たちの姿は哀れだが現実的な手触りがある。残されたのは、自殺した児童の通夜にも行こうとしない、いや、そもそも娘(どうも主犯格らしい)と対面する勇気が持てない長谷部夫妻の嘆息で終わる。「生きていくんだから」と。この台詞は誰に向けて放たれたものだろうか。先日、千葉県で小学4年生の女児が実の父親からDVを受け続け亡くなるという痛ましい事件があったばかりだ。この父親も多分モンスターペアレントだったことは想像に難くない。最大の悲劇は子どもを救うはずの児相の職員が、その恫喝に負けて彼女の必死のSOSをいわば「売った」ことに起因している(と僕は思う)。記者会見でそのことを問われた職員は、「恫喝から解放されてほっとしたという気持ちの方が大きかったです」と淡々と答えていて唖然とした。そして、慄然とした。壊れているのは大人の方なのだ。 
 壊れた大人の「生きていくんだから」は正直響かなかった。中高生チームは本の読解力や芝居でも見事だったが、やはり身の回りの現実に起こっていることとの距離の近さがまったく大人とは違うのだろう。そこへ演出の手を伸ばしたイトウバージョンはより子どもたちの残酷さをリアルに感じたし、大人たちの正義が無力に散り散りと崩れ果てていく有り様に想像力をはせていた。子どもたちの日常がある教室を、あたかも外界から隔絶されたように、それでいて実は現実からリニアにつながっている世界として観客に提示した力量も高く買いたい。この芝居はこれからも大人チームと中高生チームの二つでぜひ観客に見せてほしい。映像的でもあり、国境を超えるナラティブがある。優れた演出家と役者たちによってもっと成長させてほしいと願ってやまない。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴27年目にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と故蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。著書に「昭和最後の日 テレビ報道は何を伝えたか」(新潮文庫刊)。
作家 島崎町(しまざきまち)さん

<中高生チーム>

ホントに、驚くほど違う。

おなじ脚本を、おなじ時代、おなじ場所で作っているのに、こんなに違うなんて。

札幌を代表するふたりの演出家、納谷真大(ELEVEN NINES)とイトウワカナ(intro)が、大人チームと中高生チームに分かれて担当する。演劇とはなんなのか、なにを描き出すものなのか、ふたりの違いは鮮明だ。

納谷担当の大人チームは、前へ前へ、物語を進めていく。どんな場面であっても、退屈さを許さない。苦しいシーンでも悲しいシーンでも、そここそを「面白く」しなければいけないと思っているかのようだ(「面白い」という意味については大人チームのゲキカンに書いた)。

いっぽう、イトウ担当の中高生チームは生々しい。どろりとした人間の存在感や、関係性が生み出すゆがみを、舞台上に作り出す。その空気感こそが演劇なのだと言わんばかりに。

自殺した中学生。いじめていた(とされる)子どもの「親」を、中高生が演じる。しだいに慣れてはくるが、序盤はけっこうめまいのような倒錯を感じる。大人たちが繰り広げる嫌な物語を、彼ら彼女らに演じさせる罪悪感のようなものも、まとわりつく。

だけど生々しさは、そういう大きな構造だけじゃなく、人物たちの行動原理からも感じられる。大人チームと中高生チームを見比べると違いがわかる。

舞台上、親たちは、人がひとり死んでいるのに、真実を歪めようとする。なぜそんなことをするのか。大人チームの親たちは、自分の子どものためだ。子どもを守るという、ひとまずの理由がある。

ところが中高生チームの親たちは、その人自身の人間性が、ボロボロこぼれて落ちてしまっているように見える。子どもを守るためというよりも、こんな状況に直面して、素の人間性があらわになってしまったように。

大人チームでは、どんなに醜悪な姿をさらしても、子どものためという救いや逃げ道があった(それらも終盤ボロボロになっていくのだが)。ところが中高生チームは丸出しだ。言い逃れ、取りつくろい、事実を湾曲する。本当の自分を吐き出していくさまはグロテスクですらある。

だけど不思議だ。中高生チームを観終えたあと、僕は希望を感じた。大人チームではそんなことはなかったのに。もちろん、多くの人が言及してるように、ラストの中高生たちの表情には、やられる。でもそれを除いたとしても、僕はあの親たちと、それから子どもたちのその後を、けっして最悪だとは思わないのだ。

大人チームと中高生チーム、両方観られて本当によかった。ひとつの脚本にどう向きあうのか、なにを作り上げていくのか、それらが鮮明にわかる。どちらのいい部分にも気づけた。『親の顔が見たい』は両チームを観てはじめて完成するプロジェクトなんだ。

島崎町(しまざきまち)
1977年、札幌生まれ。島崎友樹名義でシナリオライターとして活動し、主な作品に『討ち入りだョ!全員集合』(2005年)、『桃山おにぎり店』(2008年)、『茜色クラリネット』(2014年)など。2012年『学校の12の怖い話』で作家デビュー。昨年6月に長編小説『ぐるりと』をロクリン社より刊行。縦書きと横書きが同居する斬新な本として話題に。
ライター・イラストレーター 悦永弘美(えつながひろみ)さん

強い怒りを感じた。果てしなく悔しくて、心が引き裂かれるような痛みが苦しかった。
これが演劇であるということを、何度か忘れそうになりながら、本気で憤った。
握りしめた拳が強すぎて、手のひらにくっきりと跡が残ってしまうほどに。

大きく揺さぶられる自分自身の感情が辛かったし、何よりも凄まじく面白かった。

大人チーム、中高生チームと2日連続で観劇した今季演劇シーズンの大トリ「親の顔が見たい」。一人でも多くの人に確実に観てほしいので、物語の細部の説明を極力避けつつ、自分自身の心の動きを記したいと思う。

我が子を庇い、親のエゴを噴出させるいじめ加害者の親たち。学校との対立、子どもたちの恐ろしい人間関係、やがて明らかになっていくいじめの全容。「親の顔が見たい」は、1人の女子中学生の自殺をめぐり展開される濃厚な密室劇だ。

大人チームの観劇時、腹の底からグツグツと熱くなり、何度も舞台上を指差し声を荒げたい衝動に駆られた。被害者の親に自分を重ね合わせ、死んでいった少女の傷ついた魂を思い、何度も立ち上がって叫びそうになった。

しかし、その怒りはやがて、ある青年の叫びがスイッチとなって焦燥感に変わる。

気づけば私は加害者の親に自分を重ね合わせていたのだ。自分の子供がこんなに酷いことをするわけがない、何かの間違えだ。きっと何か事情があったのだ、相手にだって非があったのだ、と私自身の身勝手な親心が膨れ上がり、あまりにも惨い事実から目を背けようとしてしまった。舞台に、完全に飲み込まれてしまったのだ。

中高生チームでもやはり、私はこのスイッチで視点が切り替わった。
けれど、それは被害者側でもなければ、加害者側でもない。
脳裏によぎったのは、洋服がダサいとか、流行の香水の名前を知らないとか、冗談交じりのくだらない悪口がやがて巨大になっていき、グループを弾き飛ばされてしまったかつてのクラスメイトたちだった。365日、教室のどこかで必ず繰り広げられていた光景を、もう何十年も前のあの頃を、唐突に思い出したのだ。一人うつむきながら給食を食べていた男子生徒や、ゆらゆらと一人ぼっちで移動教室に向かう女子生徒。そして、ほかのグループのいざこざは、まるで関係ないと笑いながら過ごしていた自分自身。

被害者の親として、加害者の親として、当事者として。2日間にわたる観劇がもたらしたものは、これまでに体験したことのない激しい心の動揺と、自分自身の内面を引きずり出されるような感覚だった。そして終演後の中高生チームのピカピカの笑顔に、救われるような思いがして涙が出た。

これから先、たとえそれがネットに流れる数行足らずの短いいじめのニュースだったとしても、私は立ち止まり、この舞台での体験を思い出すことだろう。観てよかった、心からそう思う。凄まじく面白い舞台に出会ってしまったのだ。

「親の顔が見たい」を観る前の日々にはもう、戻れない。

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。
作家 島崎町(しまざきまち)さん

<大人チーム>

これは絶対に観るべき作品だ。

時間がないなど、もろもろ不都合があるとしても、2時間空けて、無理をしてでもコンカリーニョに行くべきだ。

質は、いま札幌で観られる最高峰だ。観劇後、劇場を出て思わずため息が出た。「札幌の演劇は、ついにここまで来たんだ」そう思って。役者、演出、スタッフワーク、それから企画力ふくめ、完成度は群を抜いている。

はじめ、2時間という上演時間を知って、やや尻込みした。だけどその2時間が、こんな2時間になるなんて。正直いま2時間と書いているが、それが正確かどうかもわからない。なぜならあまりに集中しすぎて、時間を観るのも忘れてしまっていたからだ。

この2時間は、異様な2時間だ。幕間もなければ暗転もない、2時間ぶっ通しの劇。本編部分には音楽もない。役者は舞台横のイスに座っていて、出番近くになると袖に入り、舞台に出てくる。そうしてそのときの出番が終わると、また横のイスにもどってくる。つまりずっと客に観られている状態で、役者も観客も、おなじ2時間を一緒にすごす。

こんなに集中して舞台を観たことがあっただろうか。僕はそれくらい、息をつめ、必死に舞台を見つめた。たしかカフカが、「わたしは本を、つまらないとか、ためになるとかで分けたりはせず、夢中になれるか、なれないかで区別した」と書いていた。

この劇は、笑えるとか陽気になれるとか、そういうものではない。もしかしたら、内容が暗そうだからと、観劇を躊躇してる人もいるかもしれない。だけど劇の価値とか観るべき基準は、それだけじゃないはずだ。すべての意識を舞台に集中させて、登場する人たちの言葉を聞く、行動を見つめる、その行き着く先を一緒に体験する。そこに、必ず、なにかがある。

コンカリーニョプロデュース『親の顔が見たい』。自殺した中学生をいじめていた(かもしれない)5人の生徒。その「親」たちが、学校に呼び出され、ひとつの部屋に集められる。自殺のことや、我が子の状況など、わからないことだらけだ。教師から話を聞き、親同士でやりとりしていくなかで、真相がしだいに明らかになっていく……はずだったが。

構造として僕は、『十二人の怒れる男』を思い出す。断片的な情報をセリフで煮詰めていき、真実を追っていくという上質なエンターテイメントだ。もちろん本作と同じく密室劇。

僕は『親の顔が見たい』をたくさんの人に観てもらいたい。だから(注意深く書かなければいけないけど)本作を「暗いまじめな話」という風に紹介したくない。これは、たずさわったすべての人が全力で「面白く」しようとした作品だ。「面白い」というのは、「笑える」とか「にぎやか」とか「心が弾む」以外にも意味がある。劇の間、集中を途切れさせることなく、舞台に、人物に、物語に没頭させ、観終わったあと不満ではなく充実感や満足感を与える。そういう意味だ。

セリフの伝え方、リズム、テンポ、抑揚を見ればいい。いかに努力して伝えようとしているか。ドアの開け閉めひとつ取ってみても、考え抜かれた演出だ。これは、社会派という言葉で退屈さを免罪された劇じゃない。重要な、最重要な物語だからこそ、ちゃんと面白くしようとして成功した、希有な作品だ。

島崎町(しまざきまち)
1977年、札幌生まれ。島崎友樹名義でシナリオライターとして活動し、主な作品に『討ち入りだョ!全員集合』(2005年)、『桃山おにぎり店』(2008年)、『茜色クラリネット』(2014年)など。2012年『学校の12の怖い話』で作家デビュー。昨年6月に長編小説『ぐるりと』をロクリン社より刊行。縦書きと横書きが同居する斬新な本として話題に。
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