ゲキカン!


ドラマラヴァ― しのぴーさん

 いきなりで申し訳ないがパーソナルな前説をさせてほしい。僕は去年の師走に60歳になった。定年退職であり、還暦と呼ばれる心境を迎えた。僕の実家は大阪なのだけど、つい先日、おとうちゃんは92歳になった。日本人男性の平均寿命は80.98歳だから、10年以上長寿である。80歳代後半で脳梗塞で倒れたけれど、あたりどころが良かったのか1週間入院した程度で済んだ。でも、おとうちゃんなりに考えたようで、妹夫婦に人生の最終盤を託そうと、妹夫婦の家から徒歩8分という超ご近所に建った結構なハイクラスの高層マンションを、持ち家を売ったお金で、ノーローン・全額キャッシュで買った。バリアフリーでセキュリティもしっかりしていて、耐震性も最新だ。でも、そのマンションに引っ越した半年後に、2度目の脳梗塞を起こして、ICUに運び込まれ重篤な状態になった。真夜中に妹からの携帯で知った僕は、朝一番の便に飛び乗って、関空に着くなりICUまで駆けつけた。妹から刻々とおとうちゃんの状態を伝えるLINEが来て、本当に胸が苦しくなった。ICU棟に着くなり、担当医から「ご長男さんですか?二人きりでお話があります」とドラマで見たようなシチュエーションになった。こういう時には、妻(つまり僕のおかあちゃん)は外されるのだと動転した。小さな面談室で「今夜が山場です」と言われた時、滂沱のごとく流れる涙に嗚咽がとまらなかったことを、劇を見て思い出した。幸いなことに、元気とはいえない状態だけれど、妹の助けを借りて、ヘルパーさんやリハビリの理学療法士さんたちに支えられて、おとうちゃんとおかあちゃんは何とか暮らしている。僕の心という井戸の底には、はっきりとおとうちゃんの汗ばんだ筋肉質の背中の記憶が刻まれている。多分、3歳になるかならないかの頃。その大きな背中を追い越そうと、僕は生きてきたと言っても過言ではないだろう。
 作・演出の納谷真大がおとうちゃんから勘当されたエピソードは聞いて知ってはいたけれど、ライナーノーツに書かれていた、稽古も佳境という時に危篤の知らせが届き、実家(和歌山)に駆けつけた納谷の腕の中でおとうちゃんが逝ったという話には胸が詰まった。間違いなく、この劇を再演するにあたって影響がないはずがない。そして、ふと思ったのだ。僕も、納谷のようにおとうちゃんの臨終に間に合いたいと。僕もおとうちゃん、おかあちゃんとあることがきっかけで10年間の断絶がある。そもそも、高校を卒業してから実家には年2、3度しか帰省してこなかったのだから、僕の知らない、おとうちゃんとおかあちゃんの人生が確実にあるのだ。失われたかもしれない家族の時間を、最期は思いっきり抱きしめて送ってあげたい、そんな気持ちにしてくれた芝居だった。
 正直言うと、この劇の人物設定は好きになれない。自分勝手に生きて来たサクラダ家の当主、イワオ(納谷真大)。母親が全部違う7人のきょうだいたち。それぞれが、何か欠落したものを抱えている。最後に明かされる三女マツコ(廣瀬詩映莉)の出生の秘密。初演は2012年だが、この5年だけを考えても家族を取り巻く環境は大きく変わった。日本社会の劣化はもう止めようがないほどに進んでしまった。この劇の設定は突拍子もないものだろうか。2018年の僕にはそうは思えない。最近の寝屋川市の事件を見ても、実の娘を20年にわたって監禁し餓死させる両親がこの世に存在するのだ。現実の家族はもっと醜いものだったりする。僕は家族って、血のつながりじゃないと思う。一緒に暮らしている、生きている時間を共有しているという記憶が、家族というそもそもバラバラになるものを、絆という拘束具でつなぎ止めているのだと。だから、僕たちは互いに思いやり、求め合ってその脆い関係性を生涯かけて養生し続けなくてはならない。だから、劇中で放たれる「普通(の家族)ってなんですか」という台詞には、時間を一瞬止めるような力があった。この台詞を解き放つために創られた芝居だと感じ入った。
 本そのものが、納谷がおとうちゃんに宛てて書いたラブレターである。素朴に疑問に思うことはある。前述したけれど、きょうだい全員が母親違いという設定は、本当にコメディとして機能しているのだろうか。マツコの出生の秘密も、どちらかと言えば、想定の範囲内なのではないのだろうか。主人公イワオの実の娘であったとしても、長男のハルオ(明逸人)が、かつてつき合っていた現在の妻、キヌエ(小島達子)との間にできた娘を自分の子どもとして引き取って育てたとしても、もう大きな秘密ではなくなってしまったような気がした。家族とは、そもそも、そういうものではないのだろうか。「サクラダ家はきょうで解散します」と号令はかけられるかもしれないけれども、解散というそんな楽ちんな選択肢など最初からないのだから。
 芝居はとても良くまとまっているし、初演にはなかったサクラダ家の屋根で繰り広げられる、シスターズとのやりとりはスパイスとして効いている。でも、イワオは大晦日に娘や息子たちを集めて何が言いたかったのだろうか。きょうだいの中で、唯一25年間音信不通になっていたナツオ(江田由起浩)の憤りや不条理さは、もっと複雑に造形すべきではなかったのだろうか。この劇の中で、一番家族という物語を失っている人物だと思うからだ。向田邦子の名作の一つに「父の詫び状」がある。イワオも詫びたかったのだろう。詫びても決して許されないとしても。それって結局、自分勝手な行動に過ぎない。でも、そうしたい気持ちを押さえきれないのは、サクラダ家があらゆる意味で「家族」であるという何よりの証左であるような気がした。
 役者について。マツコ役の廣瀬は、肩の力が抜けたとてもいい芝居を見せた。19歳の伸び盛り、宮田桃伽はサクラダ家の中で一人微妙な立ち位置にいる孫のユウナを好演。実は一番劇に刺さっているんじゃないかと思う、三男アキオ役の藤本道、長女ウメコ(上總真奈)の入り婿タロウ役の梅原たくと、次女タケコ(大和田舞)の彼氏、ワタル役の菊地颯平は印象的だった。四男フユオ役、yhsの櫻井保一(TGR2017で俳優賞受賞!)は、さすがな存在感。こういう「ふつう」の櫻井もいい。ちょっと距離感のあるフユオのカノジョを演じた小西麻里菜の目力も素敵だった。いつもながらイレブンナインは、俳優力と目利き感のあるキャスティングが魅力的である。言わずもがなだけれど、主人公・イワオの人物造形がお見事。多分、納谷は芝居のために地毛を抜いたのではないだろうか。あの爛れた汚れ感。納谷のおとうちゃんは天国で、勘当した息子の芝居を、息子のつくった芝居をきっと誇りに思ってくれていると思う。観る側の人生における家族キャリアで、いろいろなものを受け止められる、奥行きのある劇作。これからも再演を重ねて、家族であることの本質を問いかけて欲しいと思う。
 この劇のタイトルの元ネタは、スペインのバルセロナにある天才建築家、アントニオ・ガウディの未完成の遺作、サグラダ・ファミリア(もちろん、世界遺産)だろう。永遠の未完成建築だと思っていたら、2026年にとうとう完成するそうだ。日本で「聖家族教会」と訳されているが、正確に訳すると「聖家族贖罪教会」であることは意外と知られていない。「サクラダファミリー」が描くように、家族とは日々小さな贖罪の積み重ねでできている、のかもしれない。

追伸

 個人的な感想なのでスルーして下さい。最後のシーンは余談だったと思います。溶暗前のタブローがとっても「聖家族」だったので、格好良く終りたくなかったのかもしれませんが、その現実は要らないだろう、とツッコミを入れたくなりました。お許しを。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴27年目にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と故蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。著書に「昭和最後の日 テレビ報道は何を伝えたか」(新潮文庫刊)。
ライター・イラストレーター 悦永弘美(えつながひろみ)さん

幼い頃、友人宅に遊びに行くと、たまに不思議だなぁと思う出来事に出会うことがあった。

食事中に水を飲むことを禁止していたH美ちゃん家。
家族全員が鍵のことを「ガリガリ」と呼ぶW子ちゃん家。
M田さんの家は、春夏秋冬、食後に必ず干し芋を食べていたっけ。

それらを目撃するたびに「変わっているね」と私が言うと、彼女たちは決まって「えー、普通だよ」とキョトンとした顔でそう答える。

サクラダファミリー鑑賞後、ふいに思い出したのはそんな遠い昔の記憶と、キョトンとした友人たちの顔、そして、子供心ながら「普通」というのは、家族それぞれなのだなと思った在りし日の自分の気持ちだった。

ガンコで横暴な父を嫌う4人の息子と3人の娘は、全員腹違いという“普通”じゃない家族構成。
大晦日の夜、父・桜田巌は家族全員に招集をかけた。巌が家族を集めた理由、そして桜田家の秘密とは……。

舞台上で繰り広げられるテンション高めのやり取りに、序盤はついていけず戸惑った。しかしそれもほんの一瞬のことで、魅力的な役者陣が繰り広げるセリフの応酬により、あっという間に桜田家に取り込まれ、気づけば声をあげて笑っていた。

入り組んだ家族構成も、セットの屋根を利用した巧みな演出と、それぞれのキャラクターをきっちりと押さえた人物紹介により、パンフレットの相関図とにらめっこしなくても自然と頭に入ってくる。
後半の想像もしていなかった展開には両手を口に当て驚いたし、ラスト付近ではまんまと両目から涙を流し、鼻をググッとすすってしまい……振り返れば、自分史上もっとも体温高めな2時間弱だった。

もう、とにかくこの不器用でいびつな桜田家が、おかしくて、切なくて、愛しくてたまらないのだ。

好きだとか、嫌いだとか、憎いとか、血の繋がりだとか、すべておかまいなしに、積み重ねた時間がそれぞれを家族にしてゆく。
どんなに否定しようとも、重ねた時間はそれを許してくれない。
家族とは、積み重ねた時間なのだ。
容赦なくて、苦しくて、面倒だけれど、家族というのはそういうものなのだと、桜田家は「崩壊」しながら教えてくれる。

ハチャメチャだし、理不尽だし、決して立派な家族の物語ではないけれど、見終わった後は、偏屈な父、お気楽な母、普段は憎たらしい夫、産まれたばかりの息子のことなど、自分を取り巻く全ての家族がとても愛おしくなる、そんな舞台だった。

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。
作家/シナリオライター 島崎町(しまざきまち)さん

役者が本当に泣く。泣いてしかたないから、小道具としてそれ用のティッシュとゴミ箱が配置されてる。そういう舞台だ。

2時間というやや長尺に対して、ストーリーの要素は少ない。大晦日の夜、家長・桜田イワオが家族を集めた。どうやら話したいことがあるらしい。言ってしまえばそれだけで、あとはただ、集められた人たちが延々としゃべり、ほとんど、叫びにも似た応酬を繰り広げる。それがすごい。

ストーリーの要素が少ないぶんだけ、個々のぶつかりがひたすら濃密だ。グツグツグツグツ、登場人物たちがぶつかりあい、はじけあい、煮こまれていく。物語の裏で作られていた年越しカレーと同じ。序盤、台所で切られていた具材は、物語と同じように、後半煮こまれていき、終盤、カレーも物語も完成する。

それでもさすがに、ストーリー的にあきさせないためか、展開をにぎやかにする意味か、老人イワオが外に飛び出して、シスターたちと何度もやりとりをする。その場面は正直苦しく思った。初回を見るかぎり、笑いもやや不発ぎみ。

しかし観劇後、パンフレットを読んで、作・演出である納谷真大の父の死を知った。そのとたん、あの屋根の上で走り回る老人、シスターに囲まれた姿が、記憶の中で幻想的に浮かびあがってきた。イワオを演じる納谷が、まるで自らの死んだ父を演じるような、重層的なシーンとして、はかなく、美しく思えた。

シスターたちは、初演時には存在しておらず、「社長」という役が同じ位置にいたようだ。宗教色のない舞台で、大晦日にシスターというのも不思議な組み合わせだなあと思っていたが、やはり意味があってのことだろう。それとも、偶然がそうさせたのだろうか。

『サクラダファミリー』を観ていて、僕はガルシア=マルケス『百年の孤独』を連想していた。『百年の孤独』の帯には「怒濤の人間劇場」と書いてある。100年間にわたる一族の、きわめて濃厚な物語だ。『サクラダファミリー』も超濃厚、とろっとろの家族の物語。しかも100年かけずに、物語上の進行時間は実質数時間。その中にまさに怒濤の人間劇場を描きこんだ。

最後のセリフ、その叫びは、登場人物の思いだけでなく、勘当された子どもが父にかける最後の言葉だと思って、胸がグッと熱くなった。

島崎町(しまざきまち)
STVの連続ドラマ『桃山おにぎり店』や、琴似を舞台にした長編映画『茜色クラリネット』などのシナリオを書く。2012年『学校の12の怖い話』で作家デビュー。2017年、長編小説『ぐるりと』をロクリン社より刊行。主人公の少年と一緒に本を回すことで、現実の世界と暗闇の世界を行ったり来たりする斬新な読書体験が話題に。こんな本です→https://www.youtube.com/watch?v=7ZY2YMTAnUk
pagetop