ゲキカン!


ドラマラヴァ― しのぴーさん

 一言で言えば、実にズルい芝居だった。もちろん、いい意味で。作・演出の武田晋は、役者人生30年、50歳過ぎにして本格的に東京に挑戦するそうだ。札幌での仕事も捨て、家族も残しての人生の第二幕を自ら選んだ。役者としての東京は極めて過酷である。それは武田本人が十分承知していることだろう。その意気やよし。その荒野を選んだ勇気やよし。そんな武田を祝福しようと素晴らしい仲間たちが集まった草野球チーム、円山ドジャースのいわば監督壮行会である。僕はそこに観客以外のポジショニングを持ち合わせてはいないけれど、応援するぜ!とばかり2度観に行った。
 武田的叙情劇とでもいうのだろうか、終始僕は登場する人物のどこかに僕自身、あるいは僕がしてしまったこと、してこなかったことを投影して観ていた。物語のありようとしては、感情合わせで人物が都合よく関係していくことにちょっと違和感を覚えるところもあった。一方で、唐突に現れる突起的なシーンの心象はきちんと回収されていたし、特に時制の演出はさすがだと感じた。若干ナラティヴに過ぎる物語ではあるけれども、生まれた日から間違いなくこの先に待っている死ぬその日まで、僕に起きてきたことや、今まさに起きていること、そしてこれから起こるだろう事柄への感情のなんとも言いようのない切なく、苦しい質感を物語の通奏低音として聴くことはできた。これは僕がこの年齢の観客だからそう感じたのかもしれない。わが身を振り返れば、妻を数えきれないほど裏切って深く傷つけたこと、娘や息子にしてやれなかったことへの多くの後悔や、してしまった無数の残酷な振る舞いには、正直慙愧の念に耐えない。償えることなんてできはしない。「とっと」になれなかったことを一言一句記憶して忘れないで、一生負い目に感じることこそが、僕の無為の対価として相応しい。それは僕の心が正直に語っている最中であったからかもしれない。
 人物で言えば、ヒロイン・ねねこ(阿部星来)が東京でルームシェアして暮らしているしずく(瑠璃)の描かれ方が凄まじく美しい。ねねこと表裏一体のコインの裏のようだった。その面立ちが、宇多田ヒカルの母、自死した藤圭子の姿に重なった。宇多田は、母との関係性を多くの歌詞にして曲に残しているけれど、それは反対にある父親性への屈折であるかもしれない。しずくは結局自分自身の重さに耐えきれず自殺するのだけれど、この人物のリアリティーが一際突出しているのは、武田の役者人生におけるある深いエピソードの表象かもしれないと勝手に解釈してみたりした。2回観たが、しずくは素晴らしい切れ味だった。 
 この芝居は、2016年にイナダ組本公演として公演された「誰そ彼時」(作・演出 武田晋)の再演だ。副題(コピーかもしれないけれど)は、今回と同じく「こぼれ落ちたわたしと。ただ、微笑むあなたと」。詩的に主題を歌っていてとても気に入ってしまった。武田は札幌を去るので、ただ一度の再演公演である。劇の中では説明台詞で語られているけれど、「誰そ彼時(たそがれどき)」は、古語で、夕暮れ時に人を判別しにくい時分に「誰(たれ)そ彼(かれ)」、つまり「誰だあれは」と訝る表現だそうだ。今は、黄昏時と書く。この劇に登場する人物の多くは、私は、俺は何ものだと迷い子のように呻いているように感じた。それは、今の武田の心象であり、彼が50年余り生きていてたどり着いた劇的境地なのかもしれない。その問いは、確かに僕の中にも存在している。
 センチメンタルではあるけれども、終劇の台詞の精度と下手からのキャッチボールのシークエンスが実に味わい深い余韻を残した。野茂英雄のようになりたいとソフトボール部で活躍したのだから、本来であれば野球の基本、キャッチボールは上手からのスローであるはずだ。でも、多分、稽古を重ねていくうちに、愛娘の記憶が止まったまま忘れてしまった父と、とっくの昔に捨てた父と、憎いはずだった父をとっととして再発見する娘の、ようやく繋がった言葉や気持ちの受け渡しであると考えれば、愛おしく相手が受け止めてくれるようにと下手からのスローになったのではないかと思った。
 結局、残ったのは私(娘)側の眼差しだけかもしれない。でも、それを目撃したのは、父を奪った叔母のエミちゃん(山村素絵)であり、愛憎半ばしながらも心配して札幌くんだりまで探しに来てくれた自分のオトコ(高橋なおと)だった。この人物の配置も心揺さぶられるものがあった。
 この最初で最後の再演にあたっては「武田晋俳優生活30周年 大感謝祭 「誰そ彼時」再演プロジェクト」というクラウドファンディングも行われた。千穐楽前日にファンディングは締め切られたのでけれど、この原稿を書きながら確認したら50万円の目標に、集まった支援金額は32万5千500円だった。人の世は捨てたものではないなぁ。武田がデカい役者として、また表現者として、再びホーム、札幌のピッチャーマウンドに帰還してくれることを心から応援したい。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴27年目にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と故蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。著書に「昭和最後の日 テレビ報道は何を伝えたか」(新潮文庫刊)。
作家/シナリオライター 島崎町(しまざきまち)さん

公演のパンフレットに書いてある、演出や代表者の言葉はたいてい面白くない。だけど今期演劇シーズン、『サクラダファミリー』と『誰そ彼時』のパンフは違う。切実な思いが書かれている。『サクラダファミリー』は自らの父について、そして『誰そ彼時』は札幌と自分について。

お芝居は純粋に舞台上で起きてることだけを評価し、制作者側の情報は考慮しない、という考え方もあるかもしれない。だけどパンフに書かれてしまっては、しかもその思いがグッと響いてしまっては、なによりその文章が、劇の内容をさらに高めてしまっては、無視するわけにはいかない。

『誰そ彼時』のパンフには、「武田晋、札幌発信最後です」と書いてある。「禊」と題された彼の半生について書かれた文章の、最後から5行目だ。なぜそうなったのか、そこにいたるまでの過程やこれからのこと、そして札幌という街が彼にとってなんだったのかも記されている。

札幌の人は、あたたかくも冷めている。一定の温度を保ち、他者との距離をとり、それでいて、やさしさもある。無関心ではない無関心。『誰そ彼時』で描かれるのは若年性認知症となった父で、その姿が、札幌の街のようにも見える。昔やさしかったけど、今は自分のことなど忘れてしまった人。

痴呆症になった父も、この劇自体も、野茂英雄をたたえる。メジャーリーガーのパイオニアだからじゃない。はじき出され、孤独な戦いにいどみ、だれにかに応援され、成し遂げたからだ。「応援され」というのが重要なのだろう。

『誰そ彼時』は円山ドジャースという聞き慣れない団体がおこなう公演だ。演劇シーズンのためだけに結成され、「最後の発信」をして東京に旅立つ男の応援団だ。

それから、この劇を観た人もまた応援団だ。料金を払い、笑って泣いて楽しんで、拍手をして送り出す。いつか、あの活躍している人の札幌最後の舞台を観たんだよと、自慢する日を待って。

野球にはロマンがある。勝ったり負けたり、泣いたり笑ったり。汗と涙、栄光と挫折、それらすべてをつめこんで、一試合一試合、一球一球がある。舞台にも、それがある。『誰そ彼時』にも。

2時間弱の劇、三振、凡打、ヒット、2塁打……それらの積み重ねのうえに、ラスト、大きな打球が飛ぶ。認知症の父と挫折しかけた娘の関係、消えた預金はどこへ行ったのか、夢やぶれた青年の行く末は……。

打球はフェンスを越えるのか。応援団の思いを乗せて、はるか遠くまで飛んでいってくれるのか。

島崎町(しまざきまち)
STVの連続ドラマ『桃山おにぎり店』や、琴似を舞台にした長編映画『茜色クラリネット』などのシナリオを書く。2012年『学校の12の怖い話』で作家デビュー。2017年、長編小説『ぐるりと』をロクリン社より刊行。主人公の少年と一緒に本を回すことで、現実の世界と暗闇の世界を行ったり来たりする斬新な読書体験が話題に。こんな本です→https://www.youtube.com/watch?v=7ZY2YMTAnUk
ライター・イラストレーター 悦永弘美(えつながひろみ)さん

一昨年にイナダ組による初演で好評を得た「誰そ彼時」。円山ドジャースは、演劇シーズンで同作品を再演する為に立ち上げられた劇団だ。

注目すべきはまずその個性的なメンバー。元ニュースキャスターや、コメディアン、ダンサーなどバラエティ豊かな顔揃えとなっていて、彼らの化学反応もまたこの舞台の楽しみの一つだろう。

また、スポンサー契約、地上波でのCM放送や各メディアでの宣伝活動など、これまでにない方法で本作は周囲を盛り上げている。その姿は、演劇という括りから飛び抜けて、最高のエンターテインメントへ向かって走りだす、そんな熱をひしひしと感じることができた。

母親の突然の死をきっかけに、長い間亀裂の入っていた父娘。東京で夢に行き詰まっていた娘は、ある日実家に呼び戻された。そこで待っていたのは「あなたは誰ですか?」と、娘に向かって首をかしげる変わり果てた父と、一匹の犬だった。

作・演出、出演の武田晋さんの人生が投影されているということもあり、突然の母親の死、東京での挫折、父の介護など、舞台上で起こる出来事全てがかなりのリアリティを帯びていて、激しく胸に迫ってくるものがある。介護に直面した時の綺麗事では済まされないお金の話や、施設のことなど、劇中に飛び交う言葉の数々は、今この日本が抱えている問題そのものだった。コメディ要素も強く、何度も笑わされたが、同じくらい泣かされた。

魅力的な出会いもたくさんあった。

まず、長谷川咲来さんによる劇中で披露されたコンテンポラリーダンス。登場人物の激しい心の揺れや葛藤を全身で表現するその姿は、美しくも鬼気迫るものがあり、この場面は間違えなく本作の大きな見せ場の一つだろう。

そして、突然この世を去ってしまった母親「かっか」を演じた元ニュースキャスターの沢英里子さん。美しくて、ひたむきで、温かい雰囲気が役柄にうまくフィットしていた。セリフ一つ一つをとても大切に想っているのがしみじみと伝わってきて、また彼女が舞台に立つのを見てみたいと思った。

親の介護という誰もが避けられない大きなテーマもありながら、私はこの舞台は故郷を取り戻す物語なのではないかと思う。

東京で迷子になるほど恐ろしいことはない。

故郷を見返してやると息巻いて、思ったように未来が繋がらなくて、負け犬になりたくないから故郷にも帰れなくて。

劇中、幾度も繰り返される「東京に何しにきたの」という問いかけは、上京した経験を持つ人間ならば、突き刺さるものがあるだろう。かく言う私も上京経験者だ。

故郷というのは、自分が置かれた状況によってその姿を変える。

抜け出したい場所になったり、見返したい場所になったり、戻れない場所になったり、忘れたい場所になったり。

夢を抱き、故郷を飛び出した人間にとって、その存在が温かく大切なものに変わる時、それは自分自身が一歩前に進んだ証拠なのかもしれない。

公演後、武田晋さんは東京で俳優として活動を始めるそう。

かつて挫折したあの場所に、50歳を超えて再び挑戦する今、故郷はきっと心強い応援団に姿を変えているだろう。

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。
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