ゲキカン!


ドラマラヴァ― しのぴーさん

 青年団リンクホエイとしてTGR2016大賞を得ての再演。札幌初演よりも取っ付きのいい芝居になっていたように感じた。それでいて作品力を減じることなくすんなりと腑に落ちる見事な仕上がりだった。とくにかく役者力の押し出しが半端なく凄い。特に作・演出の山田百次は、日本が世界に誇る地域劇団、長谷川孝治率いる弘前劇場出身である。「静かな演劇」と呼ばれる長谷川の作風は、詩的とも言える端正な台詞で日常生活にある人間の核心性を描き続け国際的にも高い評価を得ている。もちろん公演は首都圏でも行われるけれど、東京対地方ではなく、そこに暮らして根付いて演劇に向き合うことで立ち位置を地域へ相対化している。つまり地域劇団であることが本分なので、長谷川は役者が東京へ行くことを良しとしないそうだ。山田は長谷川の諌めを振り切るように弘前劇場を飛び出した、らしい。そんな風の噂を聞いて、仲代達矢の無名塾を2週間も経たないうちに飛び出し、Vシネのチンピラ役から今や誰もが認める実力派個性俳優となった遠藤憲一のことをふと思い出した。劇の感想については、完全に後出しじゃんけんに過ぎるけれども、僕たちの生きる、この北海道を描いた作品の奥行を考えてみたい。
 まずこの劇が史実に基づいて書かれていることにとても意味がある。「珈琲法要」の時代設定は文化4年、つまり1807年。その20年ほど前に松前藩独特の場所請負制度に対するアイヌ民族の乱がすでに起きていて、その後、帝政ロシア(ヲロシア)の南下という脅威に江戸幕府はさらされた。幕府(の命を受けた松前藩)は蝦夷地警護を強化すべく、津軽藩・南部藩に増兵を命じた。この作品は津軽藩だが、文吉(河村竜也)のように城附きの藩兵の中から臨時に編成された諸手足軽や、忠助(山田百次)のような普段は百姓をしている地元の郷夫たちが最果ての地の厳冬という大自然が荒ぶる中に放り込まれることとなった。
 舞台は斜里の沿岸に急ごしらえで作られた陣屋である。正確には、上役たちの陣屋に近い、足軽や郷夫たちが住む長屋かも知れない。生木で作られたため、隙間があって雪が入って来る。役者の出ハケで分かるのだけれど、上手には病人が寝かされている部屋がある。舞台正面はオホーツク海が間近に迫る雨戸だ。そして、その雨戸を開くけば「海さフタしてある」と、一夜にして沿岸まで流氷が押し寄せた朝から物語が始まる。温暖化が進んだ現在とは違って、流氷の勢力は「流氷山脈」と呼ばれるほど巨大なものだっただろう。カフカばりの不条理の中、栄養失調による浮腫で藩兵たちは次々と死んでいくという静かな地獄は既に出現していた。
 僕はTGR2016で大賞審査員をしていて、持ち票5票のうち2票をこの劇に投じた。圧倒的な物語の確からしさに強く魅かれたのだ。その後、少しネットで調べると完璧に史実であることを知って本当に驚いた。もちろん、北海道民となって四半世紀以上経つのに、そのことをまったく知らなかった自分に対してだ。この悲惨な出来事を題材にした「北の砦」という三浦哲郎の歴史小説があることも知った。この作品に、弁慶という名前のアイヌの若い男が登場するので、山田も創作の中で本を手に取ったかもしれない。仮にそうだとしたら、弁慶を女性としたことは劇作上、とても大きな効果を上げていると思う。
 扶持米をもらっている下級武士である文吉と、普段は畑仕事で食い扶持は自分で稼がねばならない忠助の身分差を超えたユーモラなやりとりは、全編津軽弁で語られ、そのテキストの響きは徐々に観客を斜里の修羅場に引きずり込んでいく。死神に襲われた忠助は、浮腫で全身パンパンに腫れあがってしまう。その忠助と文吉が、正月を迎えた祝い酒の場面で、箸で茶碗を叩きながら死んでいった仲間たちの出身地と名前を次々と読み上げていくシーンが胸に迫る。
 弁慶(菊池佳南)が、錯乱した忠助をなだめるように歌うアイヌの子守歌「60のゆりかご」が、不思議な場の空気感を生み出すのだけれど、文吉が去ると弁慶はいきなり忠助に馬乗りになって首を締めあげる。動かなくなった忠助の耳元で弁慶は囁く。「いい気味だ…シャモは皆して、このアイヌモシリがらいなくなれ」。突然に反転した感情の露出には強く揺さぶられた。弁慶の憤怒の矛先が忠助だけに向けられたものではないとしたら…そして弁慶は終劇で文吉に言うのだ。「和人はどごまで行ぐの」と。
 今更だけれども僕たちは、もっと北海道の先住民族であるアイヌを、そしてアイヌがたどってきた歴史を知らなければならないと思う。もちろん、「珈琲法要」が描く悲劇も含めて。今年は北海道150年の記念イヤーだけれども、当初は北海道「開拓」150年とか、北海道「開基」150年とか言っていた。メディアにいる僕も何の疑問も持たなかった。でも、それは和人視点であると、北海道「命名」150年となり、それも短縮して北海道150年になった。はて、北海道から日本を見れば、権力者のエゴは止むことがなく、社会の分断と不寛容は広がり、弱き市井の人々はより下流へ流される格差の時代が既に出現しているではないか。「和人はどごまで行ぐの」―――。この劇の問いかけに僕たちはどんな答えを用意できるのだろうか。

追記

 帯広生まれの作家で現在は札幌在住の池澤夏樹は、朝日新聞の北海道150年特集記事「終わりと始まり」(2018年2月7日・夕刊掲載)の中で、明治維新直後、蝦夷地開拓御用掛となり、地名の選定を任された北海道の名付け親、松浦武四郎の話を書いている。場所請負制度はアイヌの人々を滅ぼすと考えていた松浦は、明治政府に撤廃するよう提案した。しかし、政府はこれを認めなかったため、松浦は開拓判官の職を辞し従五位の官位も返上して東京へ帰り、二度と北海道の地を踏むことはなかったそうだ。もう一つ。劇中で弁慶が歌う「60のゆりかご」は、YouTubeで日本語訳付きで聴くことができる。アイヌの世界観を深く考えさせられる。ぜひ。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴27年目にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と故蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。著書に「昭和最後の日 テレビ報道は何を伝えたか」(新潮文庫刊)。
作家/シナリオライター 島崎町(しまざきまち)さん

劇中、アイヌの女性が歌う。病で苦しみもだえ、文脈のない言葉を叫ぶ男を、抱きしめるようにかかえ、歌う。男の混乱を、怒りを、しずめるように、なだめるように。

うす暗い舞台。外は、極寒の北国だ。

200年前、蝦夷地。雪と寒さとひもじさと病が荒れ狂う、この世の終わりのような場所に、東北から3000名が派兵された。ロシア帝国の脅威から、この地を守るためだ。津軽藩は500余名を出兵させ、100名が斜里地方の警備にあたった。

だが、病気が蔓延し、藩士たちはつぎつぎ死んでいく。冒頭に書いたように、劇中、アイヌの女性は病で昏睡状態におちいった男に、歌をうたいしずめようとする。体のなかに染みこむような、透明で、美しく、悲しいその歌は、いったいなにをしずめようとしたのか。

病人のなかにすくう病か、それとも、この土地を踏みにじる人間の心か。ロシアの物でもなく、倭人の物でもなく、アイヌの物でもなく、だれの物でもないこの場所を、奪いあって無残に命を落としていく現状を、しずめようと歌ったのか。

この劇が描いているのは、200年前の北海道だけではない。ミサイルを撃つ国があり、警報を設置し、早朝に鳴り響かせ、危機が煽られ、他の人を憎み、侮蔑する日々を、僕たちは生きている。

だから僕たちの心の中に、アイヌの女性のあの歌が、いつまでも響きつづける。いつまでも。

『珈琲法要』というタイトルにも触れないといけない。浮腫病が猛威をふるい、ぞくぞくと藩士が死んでいくなか、薬としてコーヒーが送られてきた、というのはややフィクションらしい。この劇で描かれる1807年の津軽藩士大量殉難事件から48年後、1855年に再度派兵されたおりに、浮腫病の予防薬としてコーヒーが配給されたという。

極寒の蝦夷地に薬としてのコーヒー、という組み合わせは奇妙で引きつけられる。1807年の事件と組み合わせたときに、また別の広がりが生まれることを期待しての創作だったのだろうか。それとも、1807年に薬としてのコーヒーがあれば、という思いなのか。

はたまた、『珈琲法要』というタイトルどおり、劇をとおして、舞台上であの時の藩士たちにコーヒーを届け、弔うためなのだろうか。だとすれば、病に苦しみながらコーヒーを飲んだあの藩士のその後も、うなずける。彼は旅だったのだ。

『珈琲法要』は2010年、北海道で殉難した津軽藩士の法要を毎年行っている黒石市の浄仙寺で、上演・奉納されたのが初演だ。

島崎町(しまざきまち)
STVの連続ドラマ『桃山おにぎり店』や、琴似を舞台にした長編映画『茜色クラリネット』などのシナリオを書く。2012年『学校の12の怖い話』で作家デビュー。2017年、長編小説『ぐるりと』をロクリン社より刊行。主人公の少年と一緒に本を回すことで、現実の世界と暗闇の世界を行ったり来たりする斬新な読書体験が話題に。こんな本です→https://www.youtube.com/watch?v=7ZY2YMTAnUk
ライター・イラストレーター 悦永弘美(えつながひろみ)さん

暗転の中、聞き馴染みのないムックリの不思議な音色が響く。事前に行われた冗談を交えながらの津軽弁講座で、朗らかな空気となっていた客席が、たちまち緊張感に包まれてゆく。

1807年、ロシアからの襲撃に備え警備を命じられた津軽藩兵。宗谷岬を経由して知床地方に入った津軽藩兵100名は、東北とは比べものにならない厳しい寒さや、栄養不足により浮腫病にかかり次々と命を落とし、翌年の6月にやってきた迎えの船に乗り津軽に帰ることができたのは、わずか17人。珈琲法要は、この斜里地方で実際に起こった津軽藩士大量殉難事件を題材にした舞台だ。

登場人物は津軽藩兵の文吉と忠助、世話係のアイヌ女性・弁慶の3人で、全編津軽弁で物語は進んでゆく。舞台装置はほとんどないに等しいが、文吉と忠助が指差す方向には確かに氷で蓋をされた絶望的な海が広がって見えたし、隙間から容赦なく滑り込む凍えるような冷気もしっかりと感じることができ、表現というものに、改めて無限大の可能性を思ったりした。

意外に思ったのは、文吉と忠介の掛け合いや、弁慶の凛としながらも時折垣間見えるお茶目さなど、題材から想像していた重苦しさや堅苦しさをさほど感じなかったこと。個人的に気に入ったのは、文吉と忠助の会話だけで描写される最上徳内。探検家として後世に名を残した徳内の、極寒地を物ともしない変人超人っぷりには、何度もくすくすと笑ってしまった。
そうして随所に愉快さが散りばめられながらも、じわりじわりと蔓延する死の香りや、理不尽に対する怒りは確実に同居していて、たえず舞台に緊張感をもたらしていた。

圧倒されたシーンはいくつもあった。
冒頭のムックリの鳴らし方を、鳴らすのではなく川や魚、鳥などを呼ぶのだと説明する弁慶の姿。あの生き生きとした様に、私は一気に物語に引き込まれた。そして、予告動画にもある文吉と忠助が茶碗をチャカポコさせながら、死んでいった同胞たちの名前を並べる場面。「○○は子供が生まれたばかり」「○○はまだ16歳」という心が痛くなるセリフの数々に、東日本大震災の際、ビートたけし氏が言った「これは2万人が死んだ事件ではない。1人が死んだ事件が2万件あったってことなんだよ」という言葉を思い出した。そして弁慶が子守唄を歌いながら、息を荒くしたある行動。その圧倒的な生々しい感情には、頭を殴られたような衝撃を覚えた。

アイヌの人々すら冬を越すのは無理だと話す極寒の地で、その無策さから多くの兵士が命を落とし、あげくその事実を隠せと命令した。この無慈悲で無責任な体質は、今もずっと続いているものだ。時代が進んでもこの国はちっとも変わらないじゃないか、という震える怒りが作品からにじみ出ていた。
私たちの今は、あまりにも多くの無念の上に成り立っている。
「倭人はどごまで行ぐの?」という弁慶のセリフは、この北海道命名150年という節目の年に、私たちはぜひ耳で聞き、胸に響かせるべきものだと思う。

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。
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