ゲキカン!


ドラマラヴァ― しのぴーさん

 圧巻だった。陪審員の評議室という、いわば密室を舞台に優れた役者陣がせめぎ合う劇的熱量と奥深い余韻が一際印象的で、何かとてつもない芝居を見届けたという興奮が僕の喉元まであふれ出てきた。気がつくと(多分僕一人だけだったかもしれないが)席から立ち上がってスタンディングオベーションを送っていた。満席となった初日。ダブルカーテンコールの拍手は鳴り止まなかった。「いやいや、モンスター級の初日だね。役者たちはよくここまで追い込んだよ」そう思いながらアフタートークを待たずに劇場を出ようとした。観客を見送っていた作・演出で陪審員6番の納谷真大と目が合ったのがいけなかった。ふいに、自分でも信じられないことだけれど、本当に込み上げてきたのだ。恥ずかしいくらい止めようのない何かの感情に突き上げられ、嗚咽してしまった。多分、かなり泣いていたと思う。納谷の手を両手で強く握りしめた記憶はあるけれど、どんな言葉をかけたのか記憶がない。また、気がつくと僕はいつものバールにいたのだけれど、まだ涙は止まらなかった。札幌で上演される芝居に心震え泣かされたことは、これまでに1回しか経験がない。2015-冬-シーズンで観た劇団千年王國の「ローザ・ルクセンブルク」以来である。「ローザ・ルクセンブルク」は本当に素晴らしかった。でも、12人の男優たちに完膚なきまでに打ちのめされてしまった。札幌演劇シーズン史上、最高傑作と言っておきたい。
 納谷は海外戯曲の読解力の高さに定評がある。笑劇を書かせたらこの作家の右に出る人はいないレイ・クーニーの「ラン・フォー・ユア・ワイフ」を原作にした「あっちこっち佐藤さん」は、納谷の代表作にもなっている。「12人の怒れる男」の原作は、あまりにも有名なレジナルド・ローズ。シドニー・ルメット監督、ヘンリー・フォンダ主演の同名映画(日本での公開は1959年)は20世紀のマスターピースの一本だ。スラム街の札付きのワル(18歳の少年)が飛び出しナイフで父親を殺した。決定的と思われる目撃者が2人もいて、状況証拠もなにもかもが少年を真っクロだと示している。計画的殺人を問う第一級殺人罪である。しかし、たった一人の陪審員が無罪と発言したことから始まる全暗転のない、役者も板付いたままの2時間ノンストップの法廷サスペンス。「12人の怒れる男」は、初演、再演と観ているが、今回は本をさらに磨き、人物の演出も変えてきた。特に終劇の変更は、極めて納得のいくものだったし、納谷と演者たちは原作の主題とともに物語の核心を鮮やかに描き出してみせた。
 前回までは、評議早々、有罪とするには合理的疑いがあるとして無罪だと発言する陪審員8番(映画ではフォンダがアメリカ的良心を好演)を演じる久保隆徳(富良野GROUP)の深い彫り込みと役者としての佇まいが、この劇の中心軸となっていた。今回は、それぞれの陪審員が持っている人物背景がとてもシンプルに描かれ、それがかえって観客の想像力をかき立てる群像劇としてのダイナミズムを出していた。人物のバランスがとても精緻だった。劇の流れを変える陪審員9番の山田マサル(パインソー)演じる老人は味わい深く、また突如、社会の底辺にいる人々への侮蔑と偏見を吐き出す陪審員10番の小林エレキ(yhs)は持ち味の殺気を振りまき、がさつな小物にしか過ぎない陪審員7番を櫻井保一(yhs)は好演した。ELEVEN NINESでは、江田由起浩と明逸人は円熟の職人技を示した。少年と同じスラム街育ちの陪審員5番を演じた倖田直機、国家の抑圧から逃れてアメリカに渡ってきた移民である陪審員11番の水津聡(富良野GROUP)は実に劇に刺さっていた。能登英輔(yhs)を抜きにしては陪審員長役のキャスティングは叶わなかっただろう。横綱相撲だった。息子に屈折した暗い心象を抱きかかえ、どこか人間としてのネジが外れている一番の難役である陪審員3番。劇の通奏低音である平塚直隆は今回も怪演である。一人長台詞で舞台をよろよろとさまよい見事なまでに「完オチ」する様は、父性の不毛な孤独さを強烈に訴えた。名古屋には、こんな素敵な演劇人がいるのだと改めて感銘した。そして、個人的には陪審員4番を演じたオクラホマの河野真也を絶賛したい。見事な成長ぶりに惚れ惚れした。でっぷりとした役者としての押し出し力と存在感。技量の練度を上げるだけでは、ここまで劇の芯は食えないと思う。よくやった、河野。とにかく、役者たちに大きな拍手を送りたいと思う。かでる2・7にあの舞台を設置する苦労は一筋縄ではなかっただろう。キャスティング含め小島達子の熟練のプロデュースワークも光った。
 この劇のカタルシスは、第一級殺人罪で死刑になると思われていた少年がたった一人の陪審員の発言がきっかけで逆転無罪になることではない。疑わしきは被告人の利益に、といわれるように罪を問うことに合理的疑いがあれば被告人は推定無罪である、つまり有罪にすることはできないという刑事訴訟法の大原則を描いているのではない。姿をまったく現すことのない少年を極刑にする評議が裁いたものは、陪審員自身の姿であり、良心である。だからこそ、この劇は普遍的なヒューマニズムに到達しているのだ。
 この少年は有罪とするには合理的疑いが残る、という意味で「無罪」の評決を得た。それが本当かどうか誰にもわからない。評決を終えて最後に退出する陪審員8番の久保が、空になった評議室を振り返ってしばし見つめ、静かに去って行く。そこに安堵はあるのか。一抹の不安があるのか。正義は下されたのか。この芝居のタメが実に素晴らしい。人が人を裁くことの意味を、行為の在処を観客に深く感じさせた。前回は、終幕前の一瞬だけ暗転して、犯行に使われた凶器の飛び出しナイフが天井から落ちてきて評議室のテーブルに突き刺さる終劇シーンがあった。この演出的冗長さを切り捨てたことで、劇の味わいはより奥深くなり、内省的でいながら豊かで長い余韻が生まれていた。

 平成という時代の終焉を前に、オウム真理教の一連の事件で死刑囚となった13人全員の刑が執行された。法治国家であり、死刑制度を認めている日本にあっても、異例中の異例である。アメリカの陪審員制度に倣って2001年5月に導入された裁判員制度だが、死刑を言い渡した裁判もあり、上級審で無期懲役に減刑されて「裁判員死刑」が覆った裁判もある。もし僕がある日、裁判員に招集されて審理に加わった事件で死刑相当と判断するのであれば、どのようなことが僕自身に起きるのだろうか……。素晴らしい劇作は時代とともに呼吸する。そして、観客に何かを深く思考せよと訴えかけてくる。それこそ演劇の役割であろう。「もう一度観たい」僕は心の深いところで強くそう思った。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴27年目にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と故蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。著書に「昭和最後の日 テレビ報道は何を伝えたか」(新潮文庫刊)。
作家 島崎町(しまざきまち)さん

進化(深化)した『12人の怒れる男』だ。

2015年に上演された前回よりも、12人の陪審員、ひとりひとりの感情のヒダが深くなった。感情の起伏が一面的でなく、何重にも折り重ねられた複雑な心の揺れ動きとして表現されている。なんだか別物の舞台を観ているようだ。

もちろん前回の公演もすばらしかった。1級品の法廷エンターテイメントとしてとても楽しんだ。今回はその部分もありつつ、より繊細に人間を描いているように見えた。

12人の陪審員が、個別の動機で生き生きと動き、しゃべる。その効果として、議論が全然まとまらない感がさらに増した。ひとすじなわではいかない、やっかいな面々が、これでもかと感情をぶつける。

そのことで、いちばんの被害者は陪審員1番、つまり陪審員長だ。演じる能登英輔(yhs)は前回も同じ役で出演し、小市民的まとめ役として好演だった。しかし今回は、さらにややこしいメンバーのもと、進行は途切れに途切れる。せっかく進めようとして腰を折られたときの、「あっ」という感じが、かわいそうでもあり、ややおかしくもある。

そんな1番が、ある瞬間、自分を出す。その変化、移り変わりは、1つのセリフでしかないかもしれないが、劇的だ。彼もまた、怒れる男のひとりなんだ。そういうように、微細な感情の積み重ねから生じる人間の変化が、あと11人ぶんある。そういうすごい舞台だ。

前回よりもややこしく、聞きわけがなく、自分の意見を主張し、感情をさらけ出したりじっと抑えたり、混沌として出口のない議論の積み重ねがしかしどうなるのか、ぜひ観てほしい。

今回の『12人〜』は舞台と客席の構造が変わっている。中央の舞台を挟んで、三方に客席がある。前回も三方を客席が囲んでいたが、今回、2つはなんと舞台上にある。ややいいびつな舞台と客席構造で、観客は、演じる12人だけでなく、その向こうに彼らを見つめる客をも観る。すると途中から、陪審員たちのやりとりが法廷で、彼らを取り囲み、証拠や証言が本当に正しいのか考えている観客こそが陪審員のように思えてくる。

『12人の怒れる男』は、多くの舞台や映画が作られてきた。それらを観るたびに、法廷で採用すると決まった証言や証拠を、陪審たちが勝手に不採用にしていいのか、という疑問はあった(たとえばナイフの件なんか許されるのだろうか?)。彼らはもう一度裁判をやり直しているようで、だからこそのスリリングさなのだけど、それって陪審員の仕事なんだろうかとも思っていた。

今回、舞台構造から生み出される、観客こそが陪審員なのだという構図をもって、この劇は完成したとも言える。父親を殺したとされる少年が、有罪なのか無罪なのか。12人による2時間の議論を観た僕たちこそが、問われているのかもしれない。

さらに、本作はリピーター奨励の劇なので、前回も観た、あるいは今回、2回も3回も観るお客さん用に、別の楽しみ方を……。少年は本当に父親を殺していた、と思って観ると、この劇は全然違う物語になる。正しいのは11人、その中に、ひとり間違った男がいて、正義の陪審員をつぎつぎ懐柔していくというストーリーだ。信頼していた陪審員8番が悪魔的に見え、とたんに3番を応援したくなる。知的な4番が俄然たのもしくなり、あんなにムカついた7番や10番までもが違って見える……というのはマニアックな見方。そういう楽しみも味わうほどに、ぜひ何回もリピートしてもらいたい。

最後に、役者について。1番を演じた能登のよさについては前に書いた。3番を演じた平塚直隆(オイスターズ)が、いちばん、前回よりも複雑なキャラになったように思えた。怒鳴って前に出るだけでなく、引いた演技がきわだっていた。しぼり出すようにしゃべるときの、深い感情を引きずり出す演技はすごい。

4番を演じた河野真也(オクラホマ)は、前回に引きつづき好演。知的な有罪派で、感情に左右されることなく、この裁判の真実を見極めようとする。そんな彼も感情を爆発させるところがあり、それがなんなのかも観てほしい。彼がつねに、正しさとはなにかを問うているのがわかる。

7番の櫻井保一(yhs)は、乗ってる役者のすごさだろう、場を支配する。声がいい。この役者が演じる人間の、軽薄さや観客をいらだたせる行動が、いったいなにに起因しているのか、それが見えない感じがとてもいい。7番が裁判に関心がないのは、野球観戦の予定があるからだ。櫻井版の7番は、たしかにそうは言うものの、言動が、本当にその理由ゆえなのかがわからない。彼が、無罪派や移民に向ける態度の悪さは、7番個人の奥底にある「なにか」のように思える。そしてその理由がわからないところに、この役者の演技の面白いところがある(演劇シーズン2017夏に、yhs『忘れたいのに思い出せない』で演じた役もそうだった)。

久保隆徳(富良野GROUP)が演じる8番は、ともすれば聖人君子的な、汚れのないいい人になりがちだ(映画版のヘンリー・フォンダのような)。しかし今回の8番は、感情の起伏がほかの陪審と同じくらいあり、豊かに感情をさらけ出す。8番の感情がほかの陪審員と同じレベルにならされた結果、彼が唯一、ほかの人と違う点がきわだつ。それは、話しあおうとする点だ。

移民の11番、水津聡(富良野GROUP)の、ほかの11人とは違う感は、どうやって出しているのだろう。劇中、ひとりだけ空気を変えることに成功している。12番を演じた明逸人もよかった(2番を演じた江田由紀浩とのダブルキャスト)。12番はつねにずっと、場をつかめていない。どのバージョンでも、12番が個人的に好きなのだけど、彼のふわふわして本当に議論に参加できてるのかもあやしいところがいい。陪審員として別の裁判に参加しても、今回の経験を生かさずにきっと同じようなことしてるんだろうなあ、という感じがいい。

それにしても、話しあうことは、意義深い。思い知らされる。どんなに考えが違っても、たとえ最終的に意見が一致しなかったとしても、「話しあう」、そのことに価値があり、過程に意味があるということを、この劇ほど説得力をもって語る作品はない。そう思う。

島崎町(しまざきまち)
1977年、札幌生まれ。島崎友樹名義でシナリオライターとして活動し、主な作品に『討ち入りだョ!全員集合』(2005年)、『桃山おにぎり店』(2008年)、『茜色クラリネット』(2014年)など。2012年『学校の12の怖い話』で作家デビュー。昨年6月に長編小説『ぐるりと』をロクリン社より刊行。縦書きと横書きが同居する斬新な本として話題に。
ライター・イラストレーター 悦永弘美(えつながひろみ)さん

父親殺しの第1級殺人罪に問われた容疑者の少年について、有罪・無罪の審判を陪審員に選ばれた12人の男たちが審議する『12人の怒れる男』。原作は法廷劇の金字塔としてあまりにも有名な、アメリカの同名テレビドラマであり、そのリメイクでもある映画だ。

映画版は生涯ベスト10に入るほど好きな作品なので何度も見たし、結末はもちろん知っている。けれど劇場全体を巻き込む緊迫感にすっかり飲み込まれ、有罪になるのか、無罪になるのか、一瞬わからなくなるほど。周りの演劇好きからは、イレブンナインの「12人の怒れる男」はすごいと何度も聞かされていたけれど、正直想像以上!(観劇とは縁遠い日々を送っていた私に機会を与えてくれた演劇シーズンに感謝)

生きている芝居ってこういうことなんだ!と胸が熱くなる、濃厚で圧倒的で、完璧な2時間だった。

通常のステージ上に客席を組み、大改造された会場がものすごい。舞台は360度ぐるりと観客に囲まれているに等しく、役者にとって逃げ場のないこの空間で、12人は2時間出ずっぱり。舞台上には隙など当然存在していなくて、白熱する議論の積み重ねによりそれぞれの心情が変化してゆく様や、男たちの内面に迫ってゆく緊迫感がより綿密に、リアルに、立体的に伝わってくる。

座る席によって、舞台の印象も違うだろう。
私はちょうど、10番(小林エレキ)の背を正面にした場所で、彼が偏見に満ちた意見を吐き捨てたり、イライラと机を叩くたび、他から寄せられる怪訝な思いがひしひしと伝わってくる。10番が半ば狂気すら感じる剣幕で怒り、自らの考えを主張するたび、決して10番の思いに同調することはないけれど、果たして彼の主張のカケラも自分の中にはないと言い切れるのだろうか、と何度も自分に問いかけてしまう。これは怒れる10番の背中を見つめていたことによるものなのかもしれない。となると、是非とも違う席にて新たな目線で体感したくなる。

先月、この国では相次いで死刑が執行された。それだけの大事件だったし、執行やむなしとは思うけれども、どこか割り切れない気持ちがあることは否定できない。これまでぼんやりとしか考えなかった法治国家であるこの国の司法について、思うことも多々あった。
加えて、この作品には「移民」に対する偏見も登場する。移民の国・アメリカで生まれたこの物語が、同じく移民の土地、北海道で行われた。奇しくも命名150年という節目の年にだ。
偶然なのか、必然なのか。素晴らしい作品にはこうした不思議な宿命みたいなものが付いてくるものなのかもしれない。

平成最後の夏というパワーワードに惑わされ、何か大切なものを見失いそうになっているこの頃。12人の男たちが本気でぶつかり合う暑い夏の1日を、この時代に、この場所で目撃する意味を強く感じた。

悦永弘美(えつながひろみ)
1981年、小樽市出身。東京の音楽雑誌の編集者を経て、現在はフリーのライター兼イラストレーターとして細々活動中。観劇とは全く無縁の日々を送っていたものの、数年前に演劇シーズンを取材したことをきっかけに、札幌の演劇を少しずつ観るようになる。が、まだまだ観劇レベルはど素人。2015年、仲間たちとともに短編映画を制作(脚本を担当)。故郷小樽のショートフィルムコンテストに出品し、最優秀賞を受賞したことが小さな自慢。
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