ゲキカン!U-18 高校生劇評特派員


今回も実施します。ゲキカン!U−18・高校生劇評特派員。
高校生劇評特派員と言いつつ、今回は中高生が参加。
シーズン参加作品を観て、感想や批評を寄せてくれています。

中高生の皆さんは同世代が作品をどう観たか、
自分の感想と比べてみてください。

そして、大人の皆さんは、普段話すことなどなかなかないであろう
中高生たちの声にふれて、こちらも自分の感想などと比較しながら
観劇後の余韻をお楽しみいただければと思います。

大人の「ゲキカン!」にはない、中高生ならではの視点に出会えるかもしれません。

原稿は随時UPしていきます。

大人の「ゲキカン!」と中高生の「ゲキカン!」で、
演劇を観ることの楽しさを再認識していただければと思います。
市立札幌開成中等教育学校1年 熊沢 隆聖さん
弦巻楽団「君は素敵」

 自分はこの劇を観て、面白い、面白すぎると感じた。何が面白すぎるのかというと、このストーリーのスピード感である。一瞬でも見逃してはいけなかった。そのため、自分の集中力は劇を観終えるまで欠けことはなかった。自分はこの話の初めの方で笑い始めた。客席の方々も多くが初めで笑った。集中力が欠けてはいけないこの話は、一度笑うと、笑いが絶えることはないのだ。自分も客席からも常に笑いが漏れていた。
 ストーリーのスピード以外にも、この話の素晴らしいところはたくさんある。まずは、舞台は変わっていないのに、時の流れがわかることだ。この話は詐欺師四姉妹の家の一室が舞台だが、照明の色や明るさ、四姉妹が早着替えをして、時系列が非常に的確に表現されている。照明と服で、自分たちに時系列を伝えることができるところを自分も演劇をやっている身として、観ていて非常に尊敬した。
 次に、自分が素晴らしいと感じたのは、息の合った演技だ。ストーリーや会話のテンポは速いのに、噛んでしまうことがなく、それぞれの役のイメージが一つにまとまっているようで、役者全員が目指しているものが同じもののように感じた。一つに意志がまとまっているからこそ、面白い演技ができるということを、今回改めて学んだ。それにこの息の合った劇を観ていると、気分が軽くなるようなすがすがしい気持ちで心がいっぱいになった。
 最後に、役者のラインナップだ。今回の役者は、全て過去に演出・脚本家の芝居に出演したことがある俳優のみでの構成だったので、自分達は、非常に安心感を持って観ることができた。また、この劇には、日替わりでゲストがいて、四姉妹に騙される男の役をそのゲストが演じる。そのゲストは、とても有名な方ばかりで、とても楽しんで見ることができた。そのゲストによって演技が異なるため、日によってそこのシーンで観客に与えるイメージが異なるのも、面白さの一つである。
 この劇は、非常に面白く、素晴らしい点がいくつもあった。次回の演劇シーズンも楽しみでもうすでに自分の胸がわくわくしている。

市立札幌開成中等教育学校1年 黒田 真実さん
弦巻楽団「君は素敵」

 お金が必要だから詐欺になる。この世の中で実際に起こっている悲劇。そんなニュースは人々の心を不安で暗いものにしてしまう。しかし、この劇はそのニュースとは対照的で、人々の心を明るくし、客席を爆笑の渦に巻き込んだ。
 結婚詐欺は犯罪であり、本当は憎まなければならない。しかし、彼女たちの様子を見ていると憎む気になれない。どころか、立派な仕事をしているようにも思ってしまう。四姉妹、依頼人の人が困ったり、辛かったりする。でも客席で私は笑う。そして最後にはシアターZOOの全員が愉快な気持ちになる。彼女たちは、罪悪感を持つことや、後悔をしない。その明るい気持ちが劇を観た私を明るくし、詐欺であっても、正しい行動に感じてしまう。
 そんな彼女たちの辛いこと、困ったことも実は大したことが無かったりする。水を大量に買ったことや、家族がカフェで敬礼をしてしまうこと。自分の過去を振り返ってみても今ではそんなことかと思ってしまう辛かったことがある。そんな時、彼女たちのように明るく、笑顔でいれば、気持ちが軽くなるはず、彼女たちはそう教えてくれた。
この劇の登場人物は全員個性的であり、同じ人は誰一人としていない。だから彼女たちは仕事ができる。そして何か変なことをしてしまっても、誰かが注意できる。そのような流れは、一人一人の個性を尊重したテンポであるから面白い。個性が豊かで、全員が面白い、四人姉妹と依頼人。それぞれの会話、間、スピードは、この劇の笑いの原点であり、劇の中でとても大切なものだ。
 最後に、この作品についてよく考えてみた。だが、教訓やテーマのはっきりした答えが出ない。そして、題名の、「君」は誰のことを表し、どこが「素敵」なのかも分からない。謎に包まれた作品のようでもあるが、観ている間はそんなことが気にならなかった。弦巻啓太さんも演劇シーズンのパンフレットで、「目指したのは軽い作品を作ること」と述べている。この作品は深く考えなくても楽しむことができる。それで良いのかもしれない。

市立札幌開成中等教育学校2年 蔦保 亜佑さん
実験演劇集団風蝕異人街「邪宗門」

 コンカリーニョの黒い壁に浮かびあがるのは深紅の門と白い十字架。そこでは赤い着物の女性がゆっくりと動きながら、時に威嚇するように息を吐く。その禍々しい雰囲気はまさに地獄のようだった。
 開演後もその独特の雰囲気に圧倒されてしまい、「アングラ」初体験の私はビクビクしながらそれを見ていた。しかしそのどこか不自然でするどい空気はあっという間に私を世界に引き込んだ。
 そうやって物語を堪能していたのだが、進んでいくにつれて自分の中で疑問が生まれ始めた。それは舞台が「現世」なのか「地獄」なのかということだ。最初に地獄かと思えた世界は登場人物によって現実味を帯びていく。しかし現世だと考えると不自然で、いないはずの人間がいるのだ。そこで私は、人物を「いる者」と「いない者」に区別して考えてみることにした。いる者は登場人物で感情やセリフを語り、いない者は門の格子からいる者を見つめ、笑い、ときにはいる者を囲んで引っ張るようにしてあやつる。役者全員の動きや声が曖昧だった世界を広げていった。
 そんな物語が終盤に近づいていくと、私にもぼんやりとした答えが見えてきた。この世界は「現世」であったと。いる者である登場人物たちは間違いなく私たちと同じ人間だったのだ。そしていない者は地獄からいる者を眺め、笑っている。いる者が私たちと同じなら、私たちの周りにもいない者はいて、いつも地獄への糸の端を握っているのだ。現世であり地獄。現代の世界にも繋がってしまう部分だと思う。もしも私たちをあやつる糸が地獄に繋がっているのなら、できることは抗うのみだ。さあ、抗え。役者たちの目線はそう訴えているかのように見えた。
 セリフ以外の、叫びや笑い声、息を吐く音などの人が作り出す音と生で奏でられる楽器の音がこんなにも生々しく美しく、生き地獄を作り出すのかと圧倒された。風蝕異人街の世界はまさに芸術。文化を超えてかき集められた表現手段の全てが邪宗門の世界となっているのだと思えた。

市立札幌開成中等教育学校1年 富谷 湖雪姫さん
NEXTAGE「Laundry Room No.5」

 大切な人を失ったのなら。
 私はどのような行動に出るのだろうか。
 パンフレットをめくる音。小さな声が集まって私の耳に届く、公演への期待。それらが入り混じった開演前の会場は日常生活には少ない、様々な感情が存在する場所だ。ブザーの音が鳴る。開演の合図だ。その瞬間、人々がそれぞれの思いを胸に、開く幕を見つめる。開いた丁度その時、ここまで大勢の人の心が一つになる事は、そう無いだろう。「・・・あぁ、「LaundryRoomだ」と。幕が開いた時、私はLaundryRoomの中にいた。いや、そう錯覚できるような、舞台。ここに私が一歩踏み出した時、本当に人生をやり直せるのではないか。そんな風に考えてしまう。面白い、楽しい、素晴らしい。そん言葉では表現し切れない。役者の外観を見事につなげる面白さ。花道やステージ前を使った興奮を抑えられない楽しさ。舞台装置や転換、それすらもLaundryRoomの世界へと誘ってしまう素晴らしさ。いや、そんな簡単なものでは無い。人生とは何か。忘れるとは何か。人とは。記憶とは。幸せとは!きっとその日の夜は眠れないだろう。長く、長く考えさせられる、奥深さ。前のめりになって、いつの間にか自分の頬が濡れていた。幕が閉まる。興奮でアンケートを書く自分の手が早足になる。帰りの電車に乗る日常的な風景さえも不自然さを感じる。そんなまだ完全に頭が働いていない状況の中で、私は考えた。「幸せ」って、一体何なのか。私は考える、考えてもわからないと、わかっていながら考える。この劇を観て、今までに無い程、わからないことを考えた。ただ、一つだけ自分の中で結論付けたことがある。それは、幸せとは、自分が決めるものでは無い。という事だ。何故自分を身代りにしてしまったのか、取り残された人はどうするつもりだったのか。そう問えば問うほど悲しくなった。だから、私は幸せとは自分の自己満足で終わっていけない。幸せとは自分で決めるものではないのだと。そう思った。

市立札幌開成中等教育学校1年 羽原 千晶さん
NEXTAGE「Laundry Room No.5」

 舞台はファンタジーな面影残るネッキーランドの1部屋「LaundryRoom№5」。舞台セットは作り込まれていて、演出からストーリーから、そして舞台セットからもエンターテイメント性を感じた。
 序盤は全体的に笑いの要素が多く、次第にランドリールームに飲み込まれていった。テンポよく進む会話は、観ていてとても心地良かった。その中でランドリールームは、ライブ会場になったり格闘技場にもなった。それなのにも関わらず、背景がランドリールームのままでも話に入り込むことができた。その理由は演出だったり、音響照明だったり演じている方の演技だったりした。けれど一番大きかったのは、会場全体が使われていたからではないだろうか。会場の端から端までが使われていた。
 ストーリー自体は「もし一度だけ選択し直せるなら」といった、言ってしまえば現実味のないものだった。けれどストンと、心に落ち着くような腑に落ちる演劇だった。私は観た映画のシーンなんて1週間経てば忘れてしまう。その映画の内容が悪かった訳では決してないが、スクリーンではなく目の前で行われている演劇のシーンは、しっかりと脳裏に焼き付いている。間近で観たそれは、まさに演劇だった。
 エンターテイメント性、泣けてしまう要素、それらの人間を楽しませる要素がぎゅっと詰め込まれたような感覚がした。ボリューム感はあったのに、不思議と長く感じない、むしろ短いように感じてしまった。楽しい時間は早く過ぎる、とよく言うものだが身をもって、それを体感した。同時によく考えさせられる演劇だとも感じた。観ている最中は、舞台上で起きていることを眺めていると、あっという間にクライマックスだった。けれど終わってみると、あれはハッピーエンドだったのかバッドエンドだったのかという議論が起こった。他にも、伏線になっていた部分を考えるとキリがない。私はハッピーエンドだと思ったが、バッドエンドだという友人もいた。
 ふと日常に飽きた時、観たくなるような気がする。「LaundryRoom№5」は非日常を楽しませてくれる、そんな舞台だ。

市立札幌開成中等教育学校1年 佐藤 憧子さん
NEXTAGE「Laundry Room No.5」

 何度も、何度も笑った。そして、その役者さんたちのテンポに乗せられたまま、ラストまで持っていかれた。こういうものをエンターテイメントと言うのだと思う。
 ネッキーランドというとてつもないパロディ感から会話の中に少しずつ出されていくくだらない(と言ったら失礼なのか?)ギャグまで、私のツボだった。そしてその笑いの中にも、伏線があった。凝られた舞台は転々と場転していた。だがそれは物理的なことでは無くて私がそう「思い込んだ」のである。私だけじゃない、お客さんの誰もがそう感じただろう。それには音響照明が深く関わっている。音響照明がとにかく格好良かった。タイムマシンのような今は無いものを私達が素直に消化出来たのはこれらの演出効果のおかげもあるだろう。
 チヅルの事を忘れてしまっていた事、そしてムンクの事も忘れてしまった事、そして最後に泣きながら笑うことで「人って忘れちゃうのだな」と切なくなった。切ないだけで表すのは惜しいが、今の私には切ないだけで充分だと思う。ああいうどうでも良い事が日常であり、日常はいつか忘れてしまう。でも大切な何かを失っている事には気付けない。だが、本人達にとってはそれが今の自分であり、過去の集大成なのである。切ないというのは客観的に見た時の話であり、本人には関係ないのだ。その感じ方の違いがこの作品の最大の見せ場だったのだと思うが、あえて私は明確な言葉にしないで感じたものを忘れないでいようと思う。さっき人は忘れる、と言ったばかりだが「LaundryRoom№5」が切なかった、とだけ私の心に残っていれば思い出せるだろう、それほど考えさせられた劇だったのだ。という事で私は観終わった際に部活用のノートにさっそく書いたのである。
 さて、もし私が1つだけ過去を変えられるなら何をしようか、と考えた時に思ったのだ。この劇はここまで私に考えさせている、と。こんなに爪痕をがっしりと残されたものに出会えた事を嬉しく思った。全ての点で客を引きつけるもの、それはエンターテイメントである。この劇は、エンターテイメント性にあふれた素晴らしいものだった。

札幌開成高等学校3年 佐久間 泉真さん
弦巻楽団「君は素敵」(観劇日/2月23日(木)14:00〜)

 「もてない四姉妹が結婚詐欺!?」このキャッチコピーがもう素敵! 観客を置いてけぼりにしないテンポというか、一分一秒も雑にはしない丁寧さというか、脚本・演出・役者のそれぞれのエゴより作品全体のことを考えているというか、そういった観ている人への心遣いを強く感じた舞台だった。練りに練られたプロットの中で、素敵な女性たちが丁寧に物語を紡いでいく。

 姉妹4人のキャラクターにブレがない。だから関係性がはっきりとわかって、物語をスッと理解することができる。当たり前だと怒られるかもしれないが、長女叶(かなえ)はどのシーンのどこをとっても叶だし、刑事晴(はるき)はいつどこでも晴でいてくれる。この安心感は観客に取って大きい。僕の好きなキャラクターは胡桃沢先生。いじられっぷりが最高!

 豪華俳優陣による日替わりゲストも見どころのひとつで、カーテンコールで弦巻さんが仰っていたように、人によって真摯さの表現は違うんだなぁと新たな発見があった。あの救いようのない土下座を見ると、やっぱり「男はつらいよ」。特別出演の小林なるみさんが登場したのは物語終盤であったが、現れただけで舞台がしまったと感じたのは僕だけではないはず。

 「君は素敵」はとってもライト。軽快。だからきっと子どもやお年寄りも背負いやすい舞台。人生を変えるような感動はないかもしれないけれど(そんな舞台あるのだろうか)、ふとしたときに思い出して楽しい気持ちになる。エヘヘって。色々なジャンルのお芝居がある中で、こういうライトな作品を求めている人は実は多いんだと思う。誰がいつどこで観ても「この芝居は傑作だ!」と思えるような、そういった普遍的価値がある。

立命館慶祥高校 2年 谷口 柚香さん
弦巻楽団「君は素敵」(観劇日/2月19日(日)14:00〜)

 最初はひたすらに喋る咲子をぽかんとみているだけだった。しかし私を含め観客みんなが、だんだんとあの4姉妹の作り出すテンポに乗っていくのがわかった。美しい4姉妹が結婚詐欺で生計を立てるというとんでもない設定なのに、女性のダークな所が前面に出ているのに、常に楽しく笑いが絶えない。暗さを全く感じなかった。
 三姉妹の私としてはこの四人の関係にとても共感した。お互いのことを大切に思ってて、相手のことを本人以上によくわかってる。だけど同じ女としてのライバル意識もどこかにある。そしてただ一緒にいるだけで絶対に何か事件が起こる。
 この「君は素敵」はゲストとして一瞬出てくる男性を除けば登場人物は全員女性だ。「女性」というひとくくりにならないからないから、一人一人の個性が際立っていた。そして女ばかりの舞台だからなのだろう、華やかさはもちろんだが、それ以上に女らしさが必要のない時の本来の女の姿に力強さを感じた。最後のお金を振りまくシーンがなんだか綺麗で心に残っている。4人が「これからもこんな風にパーっと生きていくんだ!」と言っているように思えた。詐欺だなんてひどいことをやっているけれど、彼女達なりに幸せに生きていくんだろうと思えるラストだった。
 人それぞれだけどみんな恋をする。相手が詐欺師だとわかっていても想いが止められない、騙そうとした相手に本気になってしまう、急にころっと気持ちが変わる。恋って理屈じゃなくて本能なんだ。コントロールできるようなものじゃないから、自分自身に振り回されてしまう。でも振り返るってみると、それもまた幸せだったりする。「君は素敵」はそれに似た温かい幸せを感じる舞台だった。

市立札幌開成中等教育学校2年 古屋 奈津乃さん
劇団千年王國「狼王ロボ」

舞台の上にあったのは、間違いなくロボが支配した荒野でした。
 下手では、グランドピアノや笛で演奏がされていて、舞台に草なんか生えていないのに、巨木なんてどこにもないのに、そこは荒野でした。
 風の吹く音、鳥の鳴き声、それらはすべて楽器が奏でていて、その様子もバッチリ見えていたのに、強い風が吹き抜けて、鳥がどこかにいるように感じました。役者さんが両手を広げて円になっているだけなのに、そこに大木がありました。演じているのは人なのに狼や賢い犬や弱い羊にしか見えなくて、「あれな人なのに、あれは人なのに・・・」と思っていました。
 それはきっと、会場に荒野の空気が充満していたからです。場の空気に呑まれるって、本来は流されやすいという意味ですが、この舞台を見ると、どんなに流されにくい人でも会場の荒野の空気に呑まれます。
 何がその荒野の空気をつくっているかは分かりません。ただなんとなく、セットや楽器、演技やダンスのすべての要素が絶妙に咬み合って、演劇として一つになって、観客の想像力をかき立てていたのではないかと思っています。
 それって、総合芸術で「半分は観る人が作る」とも言われる演劇の、最高の形ではないでしょうか。そして、それだけ荒野の空気で呑みこまれているのに、家の中や船上で場所が変わり、その度に家の中の空気や船上の空気に呑みこまれたのです。
 物語が進むにつれ、ロボの知性と心情が明らかにされていき、ロボを人間のように感じていきました。最初の方あれだけ「あれは人なのに、あれは人なのに・・・」と思っていたのが、今度は「あれは動物なのに・・・」と思うようになったのです。
 躍動感あふれ切なくもあるラストシーンが終わり、拍手をしているときに「ロボは、人でも動物でもなく、荒野の王の狼だった」と自分の中で結論が出ました。
 舞台の上にあったのは荒野で、ロボは荒野の王の狼だったから、この劇は<狼王ロボ>なのだと理解し、感動しました。

市立札幌開成中等教育学校1年 桐 志穂さん
劇団千年王國「狼王ロボ」

 「面白かった」。この一言で表してはいけない作品に出会った。この感動は観た人にしか分からないだろう。
 私の席はD列25番とすごく前の方で舞台のセットから人物の表情まで細かく見ることができた。舞台の中央には大きな階段が、それをはさむように様々な楽器とテントのように組み立てられた布が、そして花道の近くには、先まで細く作られた木が数本たてかけられていた。このような少ない舞台セットを一気にセットと感じさせなくさせたのは「照明」である。照明は明るくもなく暗くもなく、微妙な明るさで舞台を照らしていた。微妙な明るさなため、ハッキリとセットが見えなくなり、いつの間にか「不安」や「怯え」を感じさせるコランポー平原になっていた。
 この舞台のテーマは「人間と動物の共存」である。現在、地球温暖化問題や領土問題などはニュースで取り上げられたり、授業で習ったりするが、動物の問題というのは、耳にしたことはあるが授業で取り扱って深く考えてみるということはなかった。しかし、この舞台を観たことで、動物の尊さや命の尊さ、人間との違いを考えるようになった。動物は人間たちの手によって加工され、私たちの食卓へと運ばれる。だが、それを当たり前だと思ってはいけない。動物たちは、人間の思うがままに命を奪われていき、そして、「絶滅危惧種」となっていく。そのため、今生きていることと、生きるために命を捧げてくれた動物たちに感謝をしなければならない。もし、動物がいなかったらずっと草や葉、実などを食べていたかもしれない。「人間と動物の違い」は私は未だ明確な答えを出せていない。確かに容姿も違うし、言葉を話さないが、逆にとらえると、それらしか違いがないというようにも考えられる。そして何より同じ生き物である。しかし、そのようにとらえてしまうと動物が人間に害を加えた、という時にそれを理由に許すということは不可能だろう。喋れないから動物、喋れるから人間、本当にそうだろうか。まだ、ハッキリとした違いがあるはずだ。ロボは、言葉を発しなかった。でも、気持ちがしっかり伝わってきた。やはり、人間と動物の違いは他にあるのだ。
 この舞台を観る時は、コランポー平原の中にいる人間として観るのではなく、その中にいる動物として観ると新たな視点でこの舞台を観ることができる。

立命館慶祥高校3年 今坂 楓子さん
札幌座「北緯43°のワーニャ」

 登場人物の誰もが悲しみを抱えていた。そして、全員の悲しみの根底にあるのは、「現状を変えられない」ということだったように思える。しかし、現状を変えられないことをいくら憂いても何も変わらない、変えられない。だからどんどん悲しくなる。登場人物たちはその泥沼にはまり、抜け出せなくなってしまっている。
 置かれている状況に似たところがあっても、行動は人それぞれ違った。それぞれの行動は、その登場人物の性格を表していた。そのため、すべての登場人物が個性的で、魅力的だった。
 大学教授だったセレブリャコーフの台詞の中の皮肉は、現代にも通ずるものだと思う。退職してやることが無くなり生きているのが嫌になる、ということは今の時代でもあるだろう。仕事という生きがいをなくし、自分が生きている意味を見いだせない状況に陥る人は多いのではないか。彼は、若く美しい後妻をもらい、他者から見ればそれほど苦しい生活は送っていない。しかし、彼は悲しみを背負っている。私は、セレブリャコーフが未来の自分の姿のような気がして目が離せなかった。
 今回の登場人物の中で一番印象的だったのは、主人公のワーニャだ。彼は教授の若く美しい後妻である、エレーナに恋心を抱いている。エレーナに話しかけ、口説くがうまくいかない。そして、彼はことあるごとに嘆く。何度も何度も自分の人生について嘆いていた。まるで、もう自分には嘆くことしかできないと語っているようで、見ている側の心が痛んだ。彼は、人間なら誰しもが持っている悲しみを体現しているかのような人だった。だから、彼の発する嘆きの台詞は心に響いた。まるで自分の心の中の悲しみを言い当てているかのようだったからだ。
  最後に残っていた3つのランプの光がとても幻想的だった。まるで、現状を変えられないが生きていかなければならない、というそれぞれの決意を表しているかのようだった。
  アントン・チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を読んでからもう一度見たいと思える、素晴らしい公演だった。

立命館慶祥高校3年 今坂 楓子さん
劇団千年王國「狼王ロボ」

 正直、この公演を観ようと思ったのは、TEAM NACSの森崎さんが出ていたからで、劇団千年王國については何も知らなかった。だから、観劇後感じることになる衝撃は誰よりも大きかった。
 王であるロボが登場した瞬間、会場全体の雰囲気が一気に引き締まった。ロボには、恐いと感じるくらいの迫力があったからだ。そして何より、ロボはかっこよかった。こんなにありふれた言葉でしか表現できないのが悔しくなるくらい、かっこよかった。ロボは人間のようだった。だからこそシートンはロボに惹かれ、最後には殺すことを躊躇してしまったのだ。
 ロボとシートンが出会ったシーンは、とても印象的だった。二人(一人と一匹)は幻想的な青い光の中で心を通わせていた。ロボとシートンは会話をしていた。人間の言葉でも狼の言葉でもない、もしかしたら言語でもない何かで。ロボとシートンの関係性は、狼と人間の垣根を超えていたように思える。ロボとシートンが互いの存在を意識し戦う姿は、ライバルとでも言うべきものだった。
 また、狼が自分の持っている羊のお面を食べに来たときはとても楽しくて、思わず笑みがこぼれた。観客に楽しんでもらいたい、というエンターテインメント精神が嬉しかった。時たま挟まれるコミカルなシーンでは演者の個性が光り、観客の笑いを誘うことに成功していた。演者一人一人の技術の高さや経験の多さを感じることができた。
 ロボが愛する妻を失い、感情的になるシーン。ここでは、ロボが妻であるブランカを心から愛していたことがひしひしと伝わってきた。そして、王と呼ばれるほど強く気高いロボも、一匹狼ではなかったことを知った。これは私の想像だが、殺されたのが妻以外の三匹の中の一匹だったとしても、ロボは相当ショックを受けたことだろう。ロボは仲間を大切に思っていたからこそ、危険を察知するための知性を手に入れることができ、ここまで強くなれたのではないか。守るべきものがあるからこそ強くなれる、そして一人では決して生きてゆくことはできない、これらは人間にも共通することだ。私はこの公演で、私達が本当に大切にしなければならない人がいることに気付くことができた。
 終演後、私はコミカルなシーンを思い出して笑い、結末を思い出して泣いた。この公演を一言では表すことはできない。しかし、ただ一つ言えるとすれば、この公演は劇団千年王國の凄さをありありと感じられる素晴らしい公演だった。

札幌開成高等学校3年 佐久間 泉真さん
劇団千年王國「狼王ロボ」(観劇日/1月30日(月)19:30〜)

 長蛇の列に驚かされた。こんなにも多くの人が狼王に会いに来たのかと思うと、劇団千年王國の作品や札幌演劇シーズンそのものに、どれだけ多くの札幌市民が期待しているかがわかる。僕もそのうちのひとりで、大きな期待を胸にコランポー平原へ足を踏み入れた。

 壮大なエンターテインメントだった!まさに0歳から122歳まですべての世代が楽しむことができる舞台。舞台上にとどまらず会場全体で踊る!走る!跳ぶ!ダンサーによる獣の表現は劇団四季を思い起こさせ、役者によるドタバタな会話劇はディズニー映画を超えるような愉快さだった。森崎さんの舞台での立ち振る舞いは「観客を楽しませること」に対する情熱が感じられ、観ていて興奮した。そして何よりも僕の心を鷲掴みにしたのは榮田さん!すてきでした!彼女の突き通るような声と身体能力の高さに目を奪われた。楽しそうに会場中を駆け巡る姿に、多くの観客が笑顔になったことだろう。
 シートン博士に感情移入できなかったのはなぜだろう。ロボの死に悲しむシートン博士の心については劇場を出た後にじっくり考えてみることとした。カーテンコールの挨拶で会場が盛り上がる様には感動した。

 この作品のもうひとつの魅力は生演奏の音楽。これを観る価値は大きい。多種多様な楽器を使いこなし、鳥のさえずりや風の音まで表現してしまう壮大なパフォーマンスとなっていた。音楽とダンスと演技、3つのフィールドで活躍するの職人たちがひとつの演劇をつくると、これほどまでに濃厚な舞台芸術が出来上がるのだ。

 この舞台は、ぜひ小学校の芸術鑑賞でやってほしい。小学生が一生忘れられなくなるであろう感動が「狼王ロボ」にはある。そしてこのような舞台芸術が札幌の地で生まれたということを札幌市民として誇りに思う。

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