ゲキカン!

その2
札幌座
「北緯43°のワーニャ」 の感想
ライター 岩﨑 真紀さん

人間が、使命感ややりがいを持って働き続けた果てに、往々にして抱く(気付く)ことになる空しさ、やるせなさ、無力感、繰り返される日常への倦み。救いとなるのは死による終焉(と神の世界)のみ。その諦念に行き着いてこそ、日常を幸いとする力、苦痛と退屈から喜びを見出す力を得ることができる可能性があるのだ…。

チェーホフの『ワーニャおじさん』は未読だが、札幌座『北緯43°のワーニャ』観て、原作が描いているのはそのようなものだろうと受け取った。加えて、今の時代にも通じる都会と地方の対立軸だ。脚本内の時代背景は恐らく作演家によってカットアウトされているのだろう、それが『北緯43°〜』を、より現代の私たちの人生とシンクロしやすい物語にしているようにも思う。一度も集中を切らすことなく、最後まで展開に惹きつけられて観た。

東京からの客演を加えた俳優陣の演技は手堅く、その力で名作脚本の世界観が、みごと舞台上に表現されていた。昨秋上演した札幌座『肝っ玉おっ母とその子どもたち』ほどではないが、笑いによる装飾などの演出の過剰さは、従来の斎藤歩演出に比べると控え目。札幌は、「名だたる脚本はストレートも前衛実験も数多上演される」という土地ではない。だから、まずは脚本の世界をきちんと伝える方向での演出を、私は歓迎している。

ちょっと気になったのは、セリフが舞台上の真実として伝えられているのかどうか、わからない場面が間々あったこと。気持ちのねじ曲がった人間の妬みひがみによる根拠のない誹り、浅薄な人間による粉飾された自慢話、行きすぎた卑下、恋の盲目による美化、そういったものであってもおかしくないセリフが多いからだ。始終登場するのは愚痴で、愚痴とは「本人談」、客観的な事実とは異なることが多い。だから提示された情報の真贋の判定には、物語の進行をかなり待つ必要があった。
柄本明同様、斎藤歩も「セリフを置いていくことでなんらかの世界が立ち上がる」という演出を好んでいる。だが、私は演出家が脚本をどう読んだかが知りたい、それについてのサインを示してほしいタイプの観客。何事かが立ち上がるに任せている部分は物足りないと感じる。

もう一つ加えると、ワーニャはちょっと、田舎の地所を長年切り盛りしてきた人物っぽくは見えなかった。土地の諸々と否応なく向き合わされ、働き、爪に火を灯すようにして送金した人間というよりも、都会の洒落者崩れっぽい拗ね方に見えるのは役者の風貌のゆえんか(アーストロノフ向きというか)。
田舎者らしい朴訥さやねっちりとした不満のありよう、狭い視野とそれゆえの愛憎の激しさは、むしろすがの公が得意とする役どころのような気がする。ワーニャの不満憤りは、人生の時間を捧げたことへの後悔のみならず、もはや自分が呪わしい土地と人々との関係性と不可分で身動きならないことにある、と私は感じる(恋に惹かれるのはそのせいだ)。だから演技の深みにそれを観たかった。

一番好きだったのは、医師アーストロノフがソーニャの優しさに触れて「もう酒は飲まない」という場面。それは一時だけの真実だ。彼はまた日々に倦んで酒を飲むだろう。けれど人はときどき、温かいものに触れて我がうちに我が魂を取り戻す。
ワーニャは何度も「頭がめちゃくちゃ、考えることができない」という趣旨のセリフを言う。私たちは時間に流され、混乱のままに生きていく。けれど日常の中に訪れる静謐の時間に、ときどきクリアな頭を取り戻す。その瞬間は、我が人生を我が手に取り戻すことができるような気がする。

私たちは死を待つ時間の中を、耐えながら揺れながら生きている。札幌座『北緯43℃のワーニャ』はそのありようを、まざまざと見せてくれる作品だった。

岩﨑 真紀
フリーランスのライター・編集者。札幌の広告代理店・雑誌出版社での勤務を経て、2005年に独立。各種雑誌・広報誌等の制作に携わる。「ホッカイドウマガジン KAI」で観劇コラム「客席の迷想録」を連載中。
ドラマラヴァ― しのぴーさん

 実にしみじみとした深い読後感のある豊かな芝居だった。本良し、役者良し、演出良し。円熟味溢れる役者たちのひとつひとつの台詞が味わい深く、人生の哀しみや人間のおかしさ、滑稽さをしっとりと伝えていた。ディテールを繊細に描きつつ遊び心を忘れない斎藤歩の匠の技も見逃せない。チェーホフ劇と食わず嫌いしないでぜひZOOへ足を運んでほしいと思う。
 リフレットに掲載されている斎藤と増澤ノゾムとの対談で「役者はその役になるのではなく舞台上に台詞を置いていくことが大切だ」と意気投合しているけれど、文字通り積み重ねられた台詞から立ち上がる熱とでも言えばいいのだろうか、なんとも形容のしようのないライブでしから生まれない空気感。そこに役者は意図することなく身を委ね、観客も想像力を膨らませて、ある意味、劇の余白を自由に埋めていく。演劇とはやはり舞台と観客の共感空間だと思った。意外にも初顔合わせというかつて札幌の小劇場シーンを同時代で活躍した斎藤と増澤のやりとりを始め、俳優陣が本当に楽しそうに演じている芝居を観るのは観客としてハッピーこの上ない。日替わりと思われるダジャレも楽しく、札幌座らしい芝居に愛おしさを感じずにはいられなかった。 
 初演(2006年、まだ札幌座はTPSだった)時には、ワーニャ役は永利靖で、斎藤は医師アーストロフを、高子未来が演じたソーニャは宮田(現、磯貝)圭子が演じていた。永利にはスペシャルドラマに出演頂いたこともあるけれど、彼のワーニャはさぞ人生に打ちひしがれた哀感を発していただろうし、現代文明にやたらと批判的で菜食主義者だという斎藤のアーストロフ医師はさぞや俗物だったのではないかと勝手に想像してしまう。
 10年ぶりの再演となった「北緯43°のワーニャ」は、客演俳優を迎えたこともあって、新たな劇的色彩が加わった。それほど役者陣のフォーメーションは本当に素晴らしかった。特に増澤のアーストロフが嫉妬してしまうほど艶っぽい。指使いの所作ひとつとってもディテールが格好いいのだ。増澤はその昔、P-PROJECT時代はOOPARTSの鈴井貴之(ミスターも格好良かったのでしょう!)と人気を二分していたし、93年に俳優座に入団した後の活躍は、「文学座のプリンス、内野聖陽(91年入団)」と比して、「俳優座のプリンス、増澤望」と言われている、と僕がドラマプロデューサーをしていた時に助監督から聞いた記憶がある。噂の真相は別にして、増澤が放つ色気は、引退した大学教授(山野久治)の若い後妻エレーナ役をこれも見事に演じた西田薫の熟れた無花果のような色香と惹かれあっていた。斎藤も役者としての色気では負けてはいないと思うのだけれど、斎藤ワーニャは徹底して情けない。というか、人生にだらしない感じがよく出ている。だらしないからその恋慕の情をエレーナも振り払いきれない。考えてみればエレーナも「だめんずを呼び寄せてしまう女」の典型かもしれない。
 青春も人生も無駄に過ごしてしまったとワーニャは嘆く。なんだかんだと周りにわめいてみても、結局此処ではないどこかへは行けない。多分、行こうとも思ってはいないだろう。そんなワーニャだから、自分のものでもない土地を売ってフィンランドに別荘を買おうじゃないかという素っ頓狂な教授の提案に怒り狂ったところで、撃った拳銃の弾は二発ともそもそも教授には当たらないのだ。
 ワーニャたちからの仕送りで都会での学究生活という社会的体面を保っていたにもかかわらず、いざ勇退してみて味わう田舎暮らしが苦痛で、やれ痛風だ、リューマチだと御託を並べる山野は十八番ともいえるいかがわしい風格をみせた。中村かんこ(中村は札幌琴似工業高校定時制演劇部の指導顧問として高文連演劇大会最優秀賞受賞に導いたこともある知る人ぞ知る“伝説の演劇人”なのだ)のばあやや、ワーニャの母親役の金澤碧、落ちぶれた領主テレージン役のすがの公の点描もくっきりと劇に刺さっている。高子はどこか劇の中心から放っておかれているソーニャが自ら封じ込めている寂しさをじんわり滲ませた。だから最後の長台詞、「仕方ないわ。生きていかなくちゃ…。長い長い昼と夜をどこまでも生きていきましょう。そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう(後略)」という言葉はワーニャを優しく慰めるものではなく、自分たちが生きている世界へ向けて放たれた美しいモノローグのように響く。誰もがどこか心の空洞を抱えている。互いに手を差し伸べて求め合ってはみるけれども、結局より大きな孤独しか生まれない。2017年の僕たちの心象風景もそう変わりはしないだろう。
 没後110年以上を経てもなお多くの演劇人たちに愛されるチェーホフの味わいは、シェークスピアのように劇的事象は起こらないけれど、淡々とした日常の中に僕たちの本質的な在り様を洞察してみせる静かな眼差しだと思う。それは抒情的と呼ぶよりもむしろ、人生というものを遠景から眺めている慧眼的風情がある。「本当におかしいよな、人間ってやつは」とでも言いたげだ。
 これはチェーホフが描いた「ワーニャ伯父さん」という物語ではないかもしれない。札幌という北緯43°の街に集ったワーニャとかソーニャとかいうロシア風のハンドルネームを持つ無名の僕たちの物語だ。ローソクが灯った3つのカンテラを残して溶暗していく一服の絵のような人物たちは、“生きている限り生きていかなければならない”という逃れられない忍耐から微かな希望を見出そうとする市井の人々の姿だと、少なくとも僕はそう思いたい。斎藤の大好きな楽器であるユーフォニウムをフィーチャーした音楽が一際印象深く、そして優しく寄り添って鳴り続けていた。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴四半世紀にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と故蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。
図書情報専門員 本間 恵さん

 チェーホフは、仕事がら観るよりも読むことの方が多くて色々な訳を読んだけれど、生真面目で堅苦しい作家、というのがこれまでの印象だった。『ワーニャ伯父さん』もそうだ。
 が、しかし!札幌座公演『北緯43°のワーニャ』を観た今は違う。
 「あれ?チェーホフって、おもしろいじゃん!」と、恥ずかしながら初めて感じた次第-。
 
 北緯43°の、と限定された途端、私の脳内ではワーニャの住む農場は札幌の丘珠辺りに、老教授らが住んでいた都会は東京へと置き換えられた。原作では季節は晩夏だが、厳冬期2月の札幌に設定を変えた本舞台では、セーターにブーツ姿の登場人物も自然だ。つまりは身近だ。老教授に憤るワーニャのセリフが斎藤歩氏の肉声で耳に入ると、あぁ、そりゃそうだ…と、次つぎ腑に落ちてくる・・・。
 25年もの長きにわたり、心身ともに尽くしてきた義兄の教授が退職してみると実は無能な俗物でしかなかった・・・と気づいた時のワーニャは47歳だ。中年・・・。身につまされる・・・。
 25年もの長きにわたり、従事してきた仕事の功績が、誰にも評価されない現実に気づきもしない老教授セレブリャコーフは愚痴しか言わない。悪いのは常に自分以外のこの愚痴・・・。あれ?覚えがあるような・・・。6年もの長きにわたり、医師アーストロフに片思いをつづけるソーニャは、親切で優しくても器量がね・・・と噂される独身。不器量・・・。(不細工ともいう・・・)身につまされる・・・。
 思うに老教授もワーニャもアーストロフも没落地主テレーギンも、押し並べて男どもは不甲斐ない。ウォトカやコニャックの杯をいくら干したとて、現状を変えられないのは自明だが・・・。この足踏み状態は戯曲で読むと私はちょっと食傷するところだ。君らは女々しい!と。が、舞台上の飲んだくれたちはなんだか愛おしいのだ。いやいや君たちが飲まずにはいられない気持ち、私も解るよと、苦い気持ちで共感してしまった。(一方、女性たちのたくましいことといったら!)
 ネタバレになるかと思いつつ一つだけ書きたい。ソーニャ演じる高子未来氏が放ったビンタには度肝を抜かれた。19世紀のソーニャはたぶん、年上の男性にビンタを張らない。でも、北緯43°のソーニャは見舞うのだ。見事な、目が覚めるような一発を! 深刻な場面なのに、思わずふつふつ笑いがこみあげてくる。これぞ舞台のだいご味! あぁ、ここは北緯43°だ。男らしさも女らしさもひとまずは置き、共に立ち向かわなくてはならないモノがある土地-。
 来る冬も来る冬も耐え忍び、雪どけを待つ北海道には、ラストのソーニャの柔らかな決意宣言を受けとめる素地があるかもしれないなぁと思った。ここでの、農場での仕事は、生活は、続いていく。ソーニャもワーニャも、そして私たちも、なんとかして生きていかなければ!
 そして、願わくばその生き方は利己的にではなく、ソーニャの言うように他人のための行為でもあれたらとしんみり思った。
 
 ところで、当日パンフレットに掲載されたチェーホフが死ぬ時のシャンパンの話について興味を持たれた方、北緯43°の図書館には、チェーホフの戯曲だけでなく伝記の所蔵もあるのでぜひご活用ください。見てから読むか、読んでから見るか・・・どちらも味わい深い。あっそうか、それでリピーター割引があるのやもしれず・・・。あのビンタ、もう一回見たい。
 

本間 恵
図書情報専門員。現在は札幌市曙図書館勤務。遠い高校時代は演劇部。
プライベートでは、映画『海炭市叙景』製作実行委員会・同北海道応援団や原作の復刊、人気公開句会ライブ『東京マッハ』の番外編『札幌マッハ』のプロデュースなどに携わる。2012年から3年間、TGR審査員。)
シナリオライター 島崎 友樹さん

チェーホフが苦手なみなさん、こんにちは。僕もみなさんと同じく、このロシアの有名劇作家兼小説家をさけてきた人間です。

かつて『三人姉妹』だか『桜の園』だか(それすら区別できない)を戯曲で読んでまったく理解できず、というか人物の違いすらも判別つかず、とにかく文字を追うしかなに状況に追いこまれ、うすい本のはずなのに何日も格闘したあげく、読み終えたというより最後のページまでめくっただけといった方が正しい無残な経験をした過去があって、以来チェーホフはその名を聞いただけで負い目を感じ、面白さを感じらるわけがないと、さけて通ってきました。

しかし札幌座が『ワーニャ伯父さん』を『北緯43°のワーニャ』として脚色、演劇シーズンで公演することになり、ゲキカン!を書く役目を仰せつかってる僕は、やむなく観るに至ったわけなのですが……。

しかし僕は予習をしました。空手で観に行っては以前と同じように無残な敗北を喫することになるかもしれない。なので光文社古典新訳文庫から出ている『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』を読みました。

やっぱり、やっぱりわかりづらい。過去の嫌な記憶と同様だ。誰が誰だかわからずに、教授、教授の妻、先妻の娘、教授の先生の母、その息子、なる記号的登場人物表に「それ見たことか!」と、げんなりしたのですが、しかし『ワーニャ伯父さん』は最後まで読んでみると、なんとか世界が見えてくるのです。ワーニャという農夫を通して、境遇や、搾取してきた老教授への感情やその暴発など、ストーリーはなんとか追うことができ、ラストに語られるセリフから、テーマ性もおぼろげながらつかむことができました。これはいける、いけるのでは、と思いました。(ちなみに『三人姉妹』は以前と同じく絶望的な敗北で、3人の姉妹の区別すらつかず、結局1つの人格として読みました)。

こういう過程をへて、観ました、『北緯43°のワーニャ』。これがですね、観れるんですよ、全然観れる。いや、こんなことを書くと関係者の方々に当たり前だろとか失礼だろとか言われそうですが、ちゃんとお芝居としてチェーホフを観られることのすごさは、一度挫折を経験したものからするとかなり大きいわけです。

予習で戯曲を読んだからではなく、舞台化されたものを観た、というのがかなり大きい。登場人物表に「マリヤ・ワシーリエヴナ(ヴォイニツカヤ)……三等官の未亡人。教授の先生の母」と書いててもいったいなんのことなのかさっぱりわからないけど、舞台上に品のある老齢の女性が出てきたら、名前なんかわからなくてもどんな人かはよくわかる。

そう、結局チェーホフは戯曲で読んじゃダメなんじゃないか。舞台で観られるために書いたのであって(そりゃそうだ)、そこでくじけちゃいけなかった。あるいは、舞台で観たことがあってそれでも苦手だという人は、作品の中にとっかかりがなくて、とにかく悩み、うじうじして、なんともカタルシスのない劇を最後まで観させられたからじゃないだろうか。

しかし札幌座のワーニャはそうじゃなかった。はっきり言って明るい(これ重要)、笑える。個性的な役者たちが登場人物の輪郭をクッキリさせて、とても観やすく、愛すべきキャラたちとなっている。パンフによると、2006年の初演では役者が楽器を弾いて音楽劇の要素もあったらしいが、今回は、すがの公が演じる落ちぶれた地主がギターを弾くだけだ。しかしそれがいい。哀愁のあるムードを生んで、ラスト、雪の降る夜に語られる最後のセリフと共に奏でられたとき、僕はグッと目頭が熱くなった。

ちなみにそのテレーギンという落ちぶれた地主は、脚本上ではほとんど意味をなさないような、なんか、そこにいる脇役的な存在なのだけど(僕はそういう風にしか読めないダメなチェーホフ読み)、いざ舞台として立体的に立ちあがったときに、ワーニャやソーニャ(姪)たちメインの人物の外側を作り出す、非常に貴重な存在となっている。ストーリーをアシストし、進めていき、時に笑いを生み、時に悲しみさえも作り出す。テレーギンだけじゃない、年老いた乳母マレーナ、下男、ワーニャの母たちが、物語の輪郭を作っていることに気づかされる。

これらの人物が物語を支え、喜劇とも悲劇とも言える作品世界を作り出していたんだ。そういう風にチェーホフの世界を舞台上に存在させることに成功した斎藤歩の演出(や役者陣、札幌座のスタッフワーク)は、演劇を学ぶ人たちには最良の勉強材料になると思う。

原作では秋だった季節を冬に変え、真冬の札幌(北緯43°)で上演されるこの舞台。雪に埋もれた街を歩き、シアターZOOの長い階段を下へ降りていけば、深い穴の底のような舞台にたどりつく。

前述したラストシーン。ギターの音色と共に、高子未来演じるソーニャが長い長いセリフを語る。すばらしい。感情を排したような語り口なのに、だんだん、すき間からボロボロっと気持ちがこぼれ落ちるような。字義通り受けとっていいのか、その奥になにかがあるのか、あるいはただそこにあらわれた出来事を見つめ、耳を傾けるしかないのか。

照明が落ちると、最後に、本当の夜が訪れる。美しく、悲しい。ぜひそれを、観てほしい。この舞台を、チェーホフが苦手なすべての人に観てほしい。

島崎 友樹
シナリオライター。札幌生まれ(1977)。STVのドラマ『桃山おにぎり店』(2008)と『アキの家族』(2010)、琴似を舞台にした長編映画『茜色クラリネット』(2014)の脚本を書く。今年春には、長編小説を出版予定。
在札幌米国総領事館職員 寺下 ヤス子さん

ワーニャ伯父さん、社会は不条理に溢れている。しかし、愚痴って、妬んで、怒り爆発させても現状打破はできない。女にもモテないよ。
土地と家族に縛られた鬱々としたやり切れなさとあきらめ。ワーニャの発砲、ソーニャの平手打ち、それぞれに到るまでの感情を丁寧に積み重ねて、キリキリと弓を引き絞るように鬱積させる。やがて耐えきれず感情の矢は飛び出す。そして絶望から忍耐へ・・。共感するか、涙するか、うんざりするか、チェンジ!を求めるか。これらが交錯する。そうそう、お隣にいたロシア総領事ご夫妻はどんな感想だったのか、今度お会いしたら聞いてみよう。字幕完備で海外からの視点もあることは素晴らしい!

しっとりした舞台作りでじっくり見せる。しばしば笑いの起こる演出で観客を楽しませる。ワーニャの斎藤歩氏の演技は柄本明氏に見えた。ソーニャの高子未来氏は、抑制した演技がハジけた瞬間が面白い。ワーニャ・ソーニャふたりの周囲をベテラン俳優陣が固めた。東京からのゲスト俳優陣がさすがの落ち着いた演技。ブラボー!そんな中、秀逸だったのは、すがの公氏。いつもの名脇役だった。ソーニャが背筋を伸ばしてまっすぐ前を見て話す最後の慰めのセリフが印象的。「仕方ないわ、生きていかなくちゃ。」というソーニャの言葉が、いつかの震災被災者の言葉に重なる。辻井伸行氏が涙を流しながら弾いていた「それでも生きてゆく」を思い出す。

余談。ワーニャはイワンの愛称、ソーニャはソフィアだそう。ロシアの名前と言えば・・。ロシア語通訳をしていた先輩が、友人のロシア人青年がボルシチを作ってくれるので遊びにおいでと、友人3名とともに家に招待してくれた。彼は留学生で、自分の名前の日本語漢字表記を作りたがっているので一緒に考えてやってほしいとのことだった。前日に顔を合わせた私たち友人は、事の発端は忘れたが、それぞれ自分の苗字をロシア人風に変形して自己紹介するという遊びを思いついた。仁木はニキンスキー、柴田はシバレンコ、寺下はテラシチョフという具合。奥村はオクムスコイだったが、当日の待ち合わせに遅れてきたために、他の3名によってオクレーツクと改名された。さて、この大いにうちわウケした自己紹介に、ロシア人は困惑した。愛想笑いと沈黙。全員がロシア語でのとりなしを求めて先輩を見たが、先輩はマトリョーシカのように固まっていた。 
反省もこめて、このロシア人青年の漢字名について、皆全力で案を出し合った。お題は「ニコライ」。私は、スマイルマーク「にこちゃん」と「来」の組み合わせを呈示。え〜笑う角には福来ると申しまして・・と説明したが、座布団1枚、不採用。イノベーティブではあったが相手のニーズを理解していなかった。シバレンコたちもかなり詩的ないい案を出していたが、ニコライは、漢字の意味を一字一字吟味して、あらゆる組み合わせを試作。一同疲れてきたところ、ようやく「似鼓雷」と決定された。「カミナリ太鼓のようなオレ」という訳さ。暴走族みたいじゃない?と言ったら、いやいやニコライは風神雷神に興味があるんだと。もうどうでもいい私たちだった。

寺下 ヤス子
在札幌米国総領事館で広報企画を担当。イギリス遊学時代にシェークスピアを中心に演劇を学んだ経験あり。神戸出身。
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