ゲキカン!

その1
劇団千年王國
「狼王ロボ」 の感想
ライター 岩﨑 真紀さん

『シートン動物記』は子どもの頃の愛読書の一つで、中でも『狼王ロボ』はお気に入りの物語だった。残虐で狡猾な狼!けれどロボの賢さ・強さは魅力的だ。シートンとロボの知恵くらべにワクワクし、ついに捕まったときは野生の愛の哀れに胸打たれた。

劇団千年王國『狼王ロボ』は、今回の演劇シーズンの初日に、初めて観た。席に着き、まずはコランポー平原の広がりやメサ(台地)を表現した舞台装置に心引かれた。
「むかしむかし…」と物語が始まれば、役者陣の、舞台の広さをしっかりと使った演技に感心した。立ち位置も、演技のサイズも、声の大きさもよろしい。推進役を担う榮田佳子・彦素由幸はもちろんだが、他の千年王國メンバーも上手い。

作演の櫻井幸絵は、観客の目を退屈させない演出、舞台をまとめあげて魅せるということに関しては、札幌では随一の力を持つ。『狼王ロボ』も、物語はわかりやすく賑やかに展開した。お得意のギャグもエロも(今回は「微」だったが)健在。狼のシーンはダンスで表現、ダンサー=狼は舞台や客席を縦横に走り回り、会場を沸かせた。ロボが罠に掛かったシーンは迫力満点。終演後はダブルカーテンコールがトリプルになろうかという勢い、さすがは演劇シーズンのレパートリーに選ばれる作品だけあって、観客は大満足の様子だった。

だからこのゲキカンはここで止めておくべきなのだろうけど、あえて書かせてもらう。私は物足りなかった。
『狼王ロボ』は狼の物語だ。その狼を、作演の櫻井幸絵はどのような存在と考えたのだろう。

私は田園地帯で育ったこともあり、農作物を荒らす動物との共存に関しては複雑な思いを持っている。食べもせず、いたずらに羊250頭をなぶり殺す狼たち! 農業者の財産、生きる糧を侵す獣。時に人の命をも脅かす存在。

基本的に、狼は人間とは相容れない存在なのだ。その前提がありながら、生きるための戦いと愛の姿において「敵ながらあっぱれな獣よ」という心情。かつて読んだ子ども向け小説『狼王ロボ』からはそのようなものを受け取った。

比べれば劇団千年王國『狼王ロボ』の狼はキュートだ。いやダンスはダンスとして素敵だったし、ダンサーの身体能力も堪能した。ちょっと狼に見えないときもあったが(手を顔の横に上げる構えとか、ブランカの女性性の表現などはネコ科っぽい)、遠吠えとそのポーズはまさに狼だった。問題はダンスとダンサーではなく、物語世界における狼という存在についての解釈だ。

舞台のラストでは、「北海道でも全てのエゾオオカミが人間たちの狩りによってその姿を消しました」という語りとともに、叙情的な音楽がノスタルジーを盛り上げた。私はそのとき、北海道の原野を走る狼たちを想像しながら、それをパラダイスとして思い浮かべることは拒絶した。一見美しいその絵には「私たち」の生存を許さない過酷さが隠れているからだ。

人と狼、「自然」においては相容れないものが共存する道について考えるには、いささかの複雑さの受容、矛盾の認識が必要になると私は思っている。それは子ども向けの小説の中でも表現されているものだ。心地よいノスタルジーで押し切るのではなく、ほんの一滴でいい、私は舞台でその矛盾のエッセンスを感じたかった。

岩﨑 真紀
フリーランスのライター・編集者。札幌の広告代理店・雑誌出版社での勤務を経て、2005年に独立。各種雑誌・広報誌等の制作に携わる。「ホッカイドウマガジン KAI」で観劇コラム「客席の迷想録」を連載中。
図書情報専門員 本間 恵さん

 劇団千年王國の『狼王ロボ』を見るのは三度目だ。歴代のシートン役をひそかに比べる楽しみもあったけれど、やっぱりこの舞台のスターはロボだ!今回もまた、ロボを演じるダンサー鈴木明倫氏と、ロボの仲間たちが素晴らしかった。動物を演じるダンサーたちにはセリフを与えない演出により、彼らはとことん贅肉のない肉体で物語る。遠吠えだけが彼らから発せられる生の声で、その声音の多彩なことといったら・・・。100年前のニュー・メキシコ州はコランポーの大草原を、配下を率いたハイイロオオカミの王ロボが疾走する世界を目撃した。読書とも、映画ともちがう、観客も「そこ」にいる世界だ。こんな体感には、舞台でしか出会えないとまた思う。

 手もとに1971年初刷の集英社版『シートン動物記 ①』があるけれど「ここにおさめられた物語は、すべて実際にあった話」とある。そして奇遇にも今日1月31日は、シートンによればロボの命日だ。原作を読むと私はいつも物悲しい気持ちになる。共存、是か非かという狼対人間の構図を憂えてではない。私たち人間どもの姿勢を呪いたくなるからだ。生活の糧である家畜を守るために銃をとる人間がいる。獣ごときに負けられるかと巧妙に毒を仕込み、仲間への愛情を逆手にとった心理的な罠をしかける人間もいる。もしかすると賞金稼ぎの荒くれハンターより、知恵を駆使するシートンの方がよほど残酷じゃないか!と、ふと思えてやるせなくなるのだ。
 1894年、動物記に書かれた通りにロボは死んでいったそうだ。シートンはその姿を見届けた。舞台上の森崎シートンが苦悩したみたいに、ロボを生かしたかったのか、殺したかったのか、たぶん、解らないままに-。人間の尊厳は、守られた。では、動物の尊厳は?

 100年前の世界を見ながら、今ここに座っている自分の姿も舞台は見せる。だから、賛否あるエゾオオカミの絶滅に言及するラストについても、私は違和感を感じなかった。この1年ほど、高速バスの車窓からエゾシカを見ることが増えた。山道に入ると、こんな人家に近いところに熊のフンが?!と驚くこともままある。人間の行動範囲の延長が従来の野生動物の生活圏を歪ませていると感じてきた。ロボはむかしむかしの物語ではないのだ。ロングセラーの原作も、舞台の再演、再々演も、今、生きているこの世界に思考をうながす。勝手ながらこの舞台を見て原作も読みたくなり、図書館で関連作を求めたり、狼の生態を調べたりする人が出てきたら嬉しい。
 最後にひとつだけ、櫻井演出では納得がいかない場面があった。追い詰められたロボの最後の咆哮にシートンが加える解釈・・・あれは違うんじゃないかなぁ。ロボという野生の王の尊厳死を、シートン(=人間)の良心が痛まない物語に書き変えてしまったようで残念。いい舞台は、共感だけでなく対話も生む。このあたりの演出については、誰かと話してみたくてたまらない。
 認めたくはないけれど、ロボは仲間に見捨てられたんじゃないかなぁ。それこそが、非情な野生の摂理と思うが、どうだろう?

本間 恵
図書情報専門員。現在は札幌市曙図書館勤務。遠い高校時代は演劇部。
プライベートでは、映画『海炭市叙景』製作実行委員会・同北海道応援団や原作の復刊、人気公開句会ライブ『東京マッハ』の番外編『札幌マッハ』のプロデュースなどに携わる。2012年から3年間、TGR審査員。)
シナリオライター 島崎 友樹さん

どこか遠くへ連れて行ってくれる作品が好きだ。

知らない土地の知らない人たちの話、観終わったあと(読み終わったあと)、気がつくと今まで自分はたしかにそこにいたんだなと思うような、そんな作品が好きだ。

劇団千年王國『狼王ロボ』は100年以上も前のアメリカ大陸、広大な土地へと僕たちをいざなう。そこにはまだ大自然があり、様々な生物が暮らす。人間と動物の距離は今とは比べものにならないほど近く、農場主はその地に生息する(君臨する)狼の王ロボに日々おびやかされている。農場主は動物に詳しいシートンを呼びよせ、ロボ(とその配下)の退治を依頼し、対決が始まる。

舞台だけが100年前のアメリカに変わるのでない。会場全体までもが、あの日あの時の熱気に包まれる。役者やダンサーがところ狭しと駆け回り、客までも参加する中盤の盛り上がりは圧巻だ。そこは演出・櫻井幸絵の能力でありパワーであり情熱だ。

そうして、終盤、陽が落ちた空に星がきらめく美しさ、静寂。ロボは、シートンは、その1つ1つの輝きになにを見たのだろう。僕たち観客も、息をのみ、じっと星を見つめる。100年後、札幌の空に星はほとんど見えない。失われてしまったものをふと思い、この作品が、ただ僕たちを見知らぬ世界に連れて行っただけでないことに気づく(それは一番最後のセリフでも語られることだ)。

僕は、どこか遠くに連れて行ってくれる作品が好きだ。その世界が、物語が、実は地続きで、今の自分と世界につながっていることを教えてくれる作品は、なお好きだ。

そうだ、役者についても触れないといけない。森崎博之のすごさについてだ。目立つアクションがあるわけでもない、特殊なキャラクターでもない、セリフが特別多いわけでもない。しかし、ひとつひとつのセリフを大事にしている。過剰なメリハリではなくほんのわずかの気の使いようにプロの仕事を見た。

そうして榮田佳子。彼女ほど舞台上でうれしそうな役者を見たことがない。舞台に生きる、という言葉があるけれど、榮田佳子がまさにそうなのだろう。

この作品は、今度もレパートリーとして公演しつづけられるはずだ。なので、あえて欲を言いますと……はじめからシートンの語り(視点)で通した方がいいのかもしれない。ダンスあり音楽あり、客いじりありで、会場すべてを使うこの作品は、豊かな表現にあふれ多彩な仕掛けに満ちている。だけど時にそれは散漫さにもなる。だからこそストーリーのスジは一人の人間に語らせつづけて、道を明確にした方が観やすくなるのではないだろうか。で、今までシートンの語りだったこの物語が、一番最後のみ別の人間のセリフによってまとめられると、シートンのその後についての感慨や、観客に対するメッセージが際立つのではないかと思った(まあそれだけ森崎シートンが良かったということでもあるのだけど)。

ともあれ終演後、ロビーや会場の外は喜びに満ちた観客たちであふれていた。大人から子供まで(あるいは違う言語の人たちまで)、こんなにも多くの人たちを1時間半でしあわせにでき、一生忘れない思い出を作り出す、すばらしい作品だった。

島崎 友樹
シナリオライター。札幌生まれ(1977)。STVのドラマ『桃山おにぎり店』(2008)と『アキの家族』(2010)、琴似を舞台にした長編映画『茜色クラリネット』(2014)の脚本を書く。今年春には、長編小説を出版予定。
ドラマラヴァ― しのぴーさん

 満員御礼のかでる2・7は初日、2日目ともダブルカーテンコールが起きた。ものすごい万雷の拍手。2日目では、初日が無事開けた安堵と手応えの両方で少し気持ちが高ぶったのだろう、座長の森崎博之は少しばかり歓喜で目頭を押さえてこの作品への感謝を話し始めた。リーダー、いいお芝居だったよね。こんな素敵な舞台が札幌で観られるんだから。 記念すべき5周年となる札幌演劇シーズン2017-冬-、オオカミたちの遠吠えで見事に開幕しました。文句なし!そこのアナタ、すぐこの「狼王ロボ」のチケットを買って観て下さい!ご満足頂けることは100%保証します。そして必ず、とっても豪華なパンフレットもお買い求め下さいね!この作品をつくった人たちの愛がいっぱい詰まっていますから。

 「ゲキカン!」担当としては、正直言えば「以上!」としか書きようがないのだけれど、例によって蛇足におつきあいを。まずは、敬意を込めてTEAM NACSのリーダー、森崎の話をしたい。TEAM NACSは、演劇というと何だか構えてしまう表現と僕たち観客との距離を一気に身近なものにすることに一番成功した劇団、演劇ユニットであることに口を挟む観客はいないだろう。それを牽引してきたのが作・演出の森崎。北海道発全国行きという、いわばありえなかった夢を実現し、TEAM NACSは今や「最もチケットがとれない劇団」とまで形容されるようになった。大河俳優にまで伸びた大泉洋をはじめメンバーが活動の主舞台を東京に移す一方で、森崎は北海道にどーんと腰を据えて表現者として今も活躍を続けている。そんな森崎の人柄が実直に投影されたシートン先生。ナイスキャスティングでもあるけれど、札幌の演劇シーンを切り拓いてきた同時代の先輩として、出演をオファーした櫻井幸絵の尊敬が感じられる。
 このシートン先生、実は難役だ。最後のハンターとしてロボたちの退治に呼ばれたのだけれど、博物学者らしく観察眼に基づいて理詰めで、より残酷な作戦を指揮する。それをあざ笑う不死身の王様とも思える野生との知恵、いや知性比べがシートンをロボに惹きつけていく。ロボの妻であるブランカには躊躇なく銃弾を打ち込み、その遺骸を引きずり回してロボをおびき寄せるという卑劣な手段まで弄したシートンだけれど、四肢に鋼鉄の罠が食い込んだ憎きロボには引き金をひけない。最後は、助けたつもりのロボを戦友と呼び、いつか一緒にコランポー大草原を一緒に駈けようとまで擬人化して話しかけてしまう。でも、力と自由(それは野生の中でしか生まれてこない)と愛するものを奪われたロボの魂はタイマーが切れたように消えてしまう。シートンはどこでロボの魂と邂逅して心動かされたのだろうか。シートン先生は、どちらかと言えば説明台詞で心情の移ろいと葛藤をつながなければならない役どころ。森崎は、実に味わい深く演じ切っていた。初日はスイッチの入りどころを探っていた印象があったけれど、2日目はスパッと美しく細い針の穴に心象を通して魅せた。
 舞台の最上段からしゃんと登場するシートン先生の前には、千年王國の看板女優、榮田佳子が去年末の札幌劇場祭TGR「ちゃっかり八兵衛」に続いて北九州市から参戦。下手からキックボードを愛馬に見立てて颯爽と男装で現れる。賞金稼ぎのためにテキサスからやってきた狼ハンター、タナリーをディテールのある身体性で演じ、ウルフハウンドとロボたちの素晴らしいアンサンブルを盛り上げた。盛り上げと言えば、シートン先生に狼退治を依頼した牧場主役の彦素由幸の熱演にも大きな拍手をおくりたい。彦素の存在感は舞台の狂言回しとして、またシートン先生の心の内の語り部として劇をしっかり貫いていた。タナリーに続く全くロボの相手にならない怪しげな2人の刺客たち(原作ではカランポーの農場主で毒薬の使い手キャロンと呪文と魔法を使うフランス系カナダ人のラローシュ。やはりアメリカは移民でできた国なのだ)の「端折り具合」も上手いし、彦素がユーモアたっぷりに演じるロボたちにコテンパンにやられる様子のやりとりが実に楽しく序盤から引き込まれる。
 台詞を持たないダンサー、狼たちは特筆すべきパフォーマンスで劇場を原野に変え縦横無尽に跳躍し、客席を襲い、遠吠えする。初演でもロボを演じた鈴木明倫、ブランカを演じた工藤香織を始め、加藤正汰郎、櫻井ヒロ、本田大河。色気と殺気が湯気のように立ち上がる肉体が文句なく美しい。猛々しくも神々しい振付はダンススタジオマインドの井川真裕美と鈴木。ロボたちだけではなく大草原を駆けるバッファローやブラックバックの群れを演じたダンサーたちも素晴らしく、すべての生き物には「心」と呼べるものがあるというメッセージを力強く訴えていた。
 また、生演奏される南米音楽(福井岳郎、有本紀、小山内崇貴)が物語と響きあってとても印象的だ。懐かしい夢を謳っているような、でもどこか哀しい音色は、立体的な美術や凝った衣装、照明の巧みさと合わさってワイルドウエストの大平原という空気の質感を観客に感じさせた。舞台のツラを合わせて人物が空足を踏むという禁則を見事に成立させたのも、こうしたマジックの賜物だと僕は思う。
 櫻井は近年、コンテンポラリーダンスを演劇に取り入れることに意欲的で、例えば好評を得た「ローザ・ルクセンブルク」(2013年初演。TGR2013で大賞・オーディエンス賞をダブル受賞。2015年の札幌演劇シーズン-冬-で再演)が挙げられるだろう。「ローザ」ではまだ芝居の中にダンスがあるというファジー感を持ったけれど、今回の「ロボ」では舞台表現として見事に融合、一体化させることに成功している。タブローとしてもダイナミックな画角と躍動感に満ちていて、多様な意匠を取り込むことで舞台をより分かり易く、幅広い観客層が楽しめる質の高いエンターテインメントアートに仕上げていた。初演から6年を経た「ロボ」は、演出家としての櫻井自身の創作環境の変化が生んだ署名性の錬磨を強く感じさせた。

 シートンは処女作の一作でもあった「狼王ロボ」を書いてから、自分のサインにオオカミの足あとのマークをつけるようになったそうだ。また、ネイティブアメリカンの知恵を子どもたちにキャンプで伝える活動を始め、これが現在のボーイスカウトになった。僕も幼い頃に夢中になった「シートン動物記」はフィクションだと思っていたけれども、このゲキカン!のためにKindle版で読み返してみると、シートンは実際に狼狩りに参加したこともあって、その体験や仄聞したことをもとに創作したようだ。実際のロボとブランカの写真や画家でもあったシートンの描いた当時の狼狩りの様子も掲載されていてとても驚いた。
 狼王ロボの時代はワイアット・アープやビリー・ザ・キッドがいた時代でもあり、西へ西へと進んだアメリカの開拓の歴史にやがてフロンティア消滅宣言が出される時代とも重なる。それは“白人たち”によるネイティブアメリカンや多くの野生動物の支配が完了したことを意味するものでもあった。
 劇の終わりに櫻井は、「同じころ、この北海道でも全てのエゾオオカミが人間たちの狩りによってその姿を消しました」という台詞を放ち、「ロボ」を北海道の同時代に手繰り寄せている。実際、北海道の開拓史においてもエゾシカが食肉や毛皮のために乱獲され、エゾシカを食べていたエゾオオカミは入植者たちの家畜を襲う“害獣”となり完全に駆除された。生態系を壊したのはまたしてもヒトの方だったし、悲劇的なことにエゾオオカミは明治になって日本人が最初に絶滅させた種になってしまった(ちなみに、北大植物園内にある博物館に世界でただ一つのエゾオオカミの剥製がある)。
 櫻井は公演前、メディアの取材に対してテーマは「人間と野生動物の共存」と答えている。シンプルに考えればこのテーマはユヴァル・ノア・ハラリが「サピエンス全史」で言う農業革命以降から続く普遍でもあるが、「獣たち=自分たちの都合の悪いものたちはすべて忌むべき相容れぬ存在で排除しなければならない」という思考はヒトだけが持ちうる傲慢な驕りだという視点に立てば、「狼王ロボ」の物語は、異なっていることを受容することで成り立っている多様性の時代という現在への問いかけのようにも思った。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴四半世紀にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と故蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。
在札幌米国総領事館職員 寺下 ヤス子さん

 魅せてくれました、千年王國!飛びかかってきました、狼たち! 
風の音、鳥の声、平原に立つときめき。音楽が広大なアメリカの開拓地へと連れて行ってくれる。空に昇る遠吠え。狩るものと狩られるもの。か弱い羊目指して飛び出してくる狼たちに、うわっとのけぞる楽しさ。羊たちの沈黙、ならぬ羊たちの興奮。
一方で、開拓地で自然に立ち向かう人々。野生への憧れと、人間の営みへの愛しさが交互に湧き上がる。

 櫻井幸絵氏の演出は、展開が見事で観る者を飽きさせない。札幌の無二の逸材だと思っている。今回のテーマはシンプルで、ファミリーで楽しめるのが魅力。ダンサー、俳優、音楽、舞台、衣装ほか、それぞれ全てコラボの相乗効果が出ていた。いいチームなのだなと明白だ。ロボ役の鈴木明倫氏は、身体能力の素晴らしさはもちろんだが、王の威厳と知性を見事にその表情でも表現した。かっこよかった! 顔が小さい! 贅肉がない! ダンサーたちは美しい。 
主役の森崎博之氏はじめ、俳優陣は安定した演技。森崎氏、さすがに場のあしらいが巧い。終演後の挨拶も好感度アップ! 彦素由幸氏の笑いをとってもブレない熱演、榮田佳子氏の多彩な活躍が印象的。両者が主役とストーリーをしっかり支えていた。

 動物と人間の共存。大自然と文明。これについては、人間の身勝手とか、自然破壊とか、知性の低い動物なら殺してもいいのか、とか、牛は、羊は、クマは、イルカは、と考え出すとベジタリアンでもないので罪の意識もあって面倒だ。北海道には、クマの王、エゾシカの王がいるのかも知れないし。マタギの皆さんに聞いてみたい。シートン博士を熟練マタギに置き換えて、「クマ王ゴロ」といったストーリーがあるかも知れない。

 大自然や獣が出てくると、この劇に見られる人間らしさとは何か、考えさせられる。まず、家畜を守り、生活を守るために強大な自然に立ち向かう、策を弄する、支配を試みる。傲慢でもあるが人間らしい開拓精神だ。そしてものに名前をつける。支配の第一歩だ。人間の常套手段。そして、最後にロボを殺す気になれなかったシートン博士。そのためらいと畏怖の念。これも人間らしい。観ているときは、苦しんでいるから早く楽にしてやったほうがいいのに、とも思ったのだが..。「じゃあ、どうすりゃよかったんです?」とシートン博士は怒るかも知れない。そんな後悔と自己正当化こそ人間しかするまい。ダンサーのしなやかで贅肉のない肢体を羨みつつも帰りにケーキセットを食べた後悔と、あたしゃ踊るわけじゃなし、という自己正当化も、人間だからなのだ。

 余談だが、狼の知性については私は疑わない。昨年、円山動物園でシンリンオオカミのユウキに会ったが、写真をと思いスマホを構えると、敷地内パトロールを中断して近寄って来てポーズしてくれた。「サンキュー」と片手をあげると「ノープロブレム」と口角を上げて軽くうなずき、またパトロールに戻って行った。親切というよりは、ビジネスとわきまえている感じだった。カスタマーサービスというやつだ。ユウキは私にとってできるヤツとして特別な存在になった。その後、ユウキは円山を去って徳島へ行ってしまった。ヘッドハンティングされたんだろう。

寺下 ヤス子
在札幌米国総領事館で広報企画を担当。イギリス遊学時代にシェークスピアを中心に演劇を学んだ経験あり。神戸出身。
pagetop