ゲキカン!


ドラマラヴァ― しのぴーさん

 まずもって、帰省時期とシーズン開幕が重なって、トップバッター作品のゲキカン!が遅れたことをお詫びしたい。

 12シーズン目となった札幌演劇シーズン2017-夏-。今シーズンから実行委員長も交代し、来年10月に迫った札幌国際芸術劇場の誕生も見据えて、もっと豊かな劇、お芝居のある街づくりを目指す姿をパブリックに示さなければならない、ある意味とても大切なシーズンだ。そのトップバッターを任された、南参率いるyhs「忘れたいのに思い出せない」。期待を裏切らない力作、そして観客に多様な視点を見せることができる想像力あふれたエンターテインメントに仕上がっていた。僕の隣のカップルは、途中からずっと泣いていて、とうとうハンカチでは足りなかったのかバッグからタオルを取り出して嗚咽をこらえていたし、見事な伏線の回収があるたびに、小さくうぉーっという声も聞こえた。普通の劇でこんなことは起こらない。やはり、観る人たちの心の奥深いところに確かに届いた作品だったと思う。
 シーズンのキックオフイベントで作・演出の南参は、「身近な人が認知症になって、その時期に自分の子どもが産まれたこと」が作劇のモチーフになったと話している。作家が書くべきものを自分の実人生という内側から掘った脚本はさすがに強い。大きく主題は2つあると思う。ひとつは、認知症が進んだセンリ(福地美乃)と「おばあちゃん子」だったトオル(曽我夕子)の家族と介護をめぐる「人生の舞台から去りゆくもの」と「これから生まれてくるもの」といういのちの受け渡しの物語。劇の冒頭で過不足なく人物の背景が丁寧に敷き詰められた展開は、のちのちの伏線の蒔き方も見事で一気に惹き込まれた。
 トオルは、 ベッドに横たわっているセンリの傍らで、父(長流3平)に向かって、「わたし、産みますから」と別れた男の子どもを産むと一方的に宣言する。離婚した母(後で二度目の離婚だったことがわかる)にも知らせてあると。ダメだよね、何も考えていないこんな娘。バイト暮らししている実家パラサイトで、別れた男に認知されなければ非嫡出子を産むことになるんだよ。一人でどうやって育てていくの。リアルな僕はそう思うけれど、トオルが父に告った日は、偶然にもセンリの誕生日。嘆息して出ていく父を放って、ふたりでバースデーケーキのロウソクを吹き消す。終劇での祝福性も暗示する実に見事なプロローグだ。僕は「この芝居は勝ったな」と感じ入った。

 もう1つは、これは劇の構造のお話になるけれど、個性的なオモテの人物たちと比べてウラ(回想ではないので、ウラと呼ぶことにする)にいるただ唯一の人物として敢えて凹ませているように感じられる、センリのせん妄の中に現れる亡夫、マサヒコ(小林エレキ)。ウラから見れば、マサヒコからトオルの子どもまでつながる、いわば「血脈」の物語としても観ることができるだろう。一見して多牌に思えるマサヒコがお芝居を文字通りウラから支えていて、最終幕でドラマティックに回収される伏線にもなっている。最初は声が出せなかったりするディテールや、なつかしい瓶牛乳の小ネタも面白い。マサヒコの登場は、yhsのスタープレヤーである小林にしては劇中2回と少ないのだけれど、最初の登場では「お父さん」という台詞をオモテに残して、父親がいない子どもを産むトオルの切ない心象を浮かび上がらせる。2度目には、すでにセンリの記憶から忘れ去られていて哀しげに消え去るのだけれど、オモテでヘルパーの見習いたちに盗まれた結婚指輪をセンリに愛情を込めて渡すという、いわば劇の静かな暴力装置としての役割も果たしている。
 劇は、センリの病状が急速に進行し、トオルのおなかも大きくなって産月まで満ちていくという同時平行する時間軸の中で、介護にまつわる人々が登場する。先ほど書いた、「いのちの受け渡し」という視点に立てば、トオルの母は台詞で触れるだけで十分で、シングルマザーを選んだトオルの子どもの父性は劇の中ではヒール役にならざるを得ない。トオルの元カレでホームヘルパー見習いのゲンブ役の櫻井保一は素晴しい役への入り込み様だった。観客に喧嘩を売ってるくらい、憎たらしいロクデナシ野郎。 個人的に、今一番札幌の演劇人でキレている(褒め言葉です)と思う役者、櫻井。お見事。

 役所のケアマネジャーのカヤモリ(能登英輔)、介護支援事業所から派遣されてきたホームヘルパーのタマミ(宮本暁世、Aキャストは紀戸ルイ)、ゲンブと同じく見習いのマスト(柴野嵩大)、怪しげな民間の特別養護老人施設長のチヨ(最上怜香)。ラストの修羅場で、人物の配置や関係性を伏線と合わせて一気にたたみ掛けるように回収する一連の劇的シークエンスが実に魅力的だ。なにより、嵐が去った後のエピローグの美しさには心を揺さぶられた。騒がしく人物が去った舞台で、もう外界を理解する力を失ってしまったセンリが、巧みなシナリオの必然性を持ってトオルのまだ名前もつけられていないひ孫の男児を腕に抱く。下手から戻ってくるトオル。イノセントに戻ってしまったセンリと、イノセントな存在として生まれたばかりのいのちが、今間近で向かい合う奇跡。一筋のレンブラント光が射し込むようなタブローの中で、聖母のように微笑むセンリ。人生って、家族が生きていくって、忘れたいのに思い出せないほどの、こんなささやかなことの積み重ねなのではないだろうか。溶暗前にトオルとセンリの間で交わされる短い台詞の精緻さに生きることのリアルな奥行きが重なり、この家族の決して生易しくはない行く末に観客を強く深く寄り添わせてくれた。
 センリを味わい深く演じた福地美乃は、産休、育休を経て3年ぶりに舞台に復帰したと聞いた。福地が一番、この劇の再々演を待ち望んでいたかもしれない。プロの役者がいないといってもいい札幌演劇シーンで、人生の大きなライフイベントを経験した役者、特に女優の復帰はとても素敵なことだと思う。初演からセンリを演じている福地なしには、この劇は成立しない。文句なく素晴しい演技だった。福地のセンリは劇を生きた。その作品の仕上がりを含め、心からの拍手を送りたいと思う。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴27年目にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と故蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。著書に「昭和最後の日 テレビ報道は何を伝えたか」(新潮文庫刊)。
図書情報専門員 本間 恵さん

 初日を見た。どんな風にも作りこめるコンカリーニョの劇場に入ると舞台の真ん中にベッドが一つ。既にセンリ役の福地美乃さんが布団にくるまり、そこで寝ている。

 センリおばあちゃんは認知症だ。自分であやつるのか、誰かにあやつられているのか、言葉を一音づつ区切り区切りし、自分独自の単調なリズムにのせてしか話せなくなるおばあちゃん…。
物語は、しだいにつじつまの合わない言動を繰り返すようになるそんなおばあちゃんの、動かぬベッドのまわりで紡がれていく。

 離婚した父、シングルマザーになることを決意している孫娘、屈折したホームヘルパーの若者たち、宗教家、ケアマネージャー・・・。人によって、寄り添う登場人物は違うんだろうな。
初演からこれまでに流れた7年という時間を思った。私は前回、母の認知症を認めたくなくて終始不機嫌な息子・ガンマに肩入れして見ていた気がする。今回は、センリおばあちゃんに寄り添ってしまった。なのでおばあちゃんについて、とにかく感じたことを書く。

 実は前回、センリおばあちゃんのあの独特なリズムからセリフを拾うのがとても苦痛だった。が、しかし…。今回は思った。
相手が自分のグローブのど真ん中に、思うような投球をくれなくなるのを受け入れることが、認知症を受け入れるということなのかもしれないなぁと。常にベッドはそこにあるのだ。言葉を拾い、意図を汲みとり、動かなくてはならないのは周囲の人間の方で、介護の毎日では、それがえんえんとつづくのだ。嫌でもなんでも、毎日毎日…。

 だからあの独特の発声法は必然だったといま思う。他人である観客の私たちに、わけのわからない悲しみと憤りの疑似体験を強いる演出だったのだと。
自分の頭にわけのわからないことが起こって、一番やるせないのは、センリ本人だろう。その混乱した胸中をとにかく外へ追い出すために、あのヘンテコなリズムをおばあちゃんは発明したんじゃないのかなぁ…。

 「思い出せない、忘れたいのに」とタイトルを倒置してみて、その真ん中にあるはずのセンリの思いが、ちょっとだけつかめた気がした。忘れたい思い出すら亡失してしまったやるせなさ。でも、その感情もすぐに手元からすりぬけていくのだ。してみると、忘れたいのに思い出す、という行為は、未来ある者の特権なのかもしれない。悲しむのも憤るのもそれが辛くて忘れたいのも、思い出を手放せずにいるということ自体が、死に行く者の側から見れば、しあわせと呼べるのかもしれず…。(一方、思い出に生きるだなんて、安易に言うのは自戒しようとも思い…)

 この7年の間に、福地美乃さんはお母さんになったと聞いている。復帰第一作ということだが相変わらず静かな熱演だ。ラストシーンがとてもいい。センリおばあちゃんの最後のあの何でもない肯定のセリフを聴くためだけにでも、私はもう一回この舞台を見たいと思った。そして上演台本を読んで新たな感慨にもふけった。どんな場面かって?それは劇場であなたが自分で確かめてほしい。人は泣いて眠って、排泄して生きていく。生きて生きて死に近づいていく。1人残らずみんなだ。そんなあたりまえのことを熱く、愛おしく感じさせてくれる、今夏のyhsだった。

 ※現在、札幌市中央図書館の1階では「札幌演劇シーズンを知っていますか?」と題したコラボ展を開催中。本当は演劇シーズンの舞台を見たお客さまの興味に合わせて、ミニ特集を組めたらいいなと考えていた。たとえぱyhsなら、認知症とは? 介護とは? その家族の手記とは…? と、掘り下げられるような本の特集を。でもいかんせん時間が足りなかった。残念! 次回からの課題にしたい。上演台本、関連資料の貸出もできる図書館の展示は8/6(日)まで。よければのぞいて見てくださいね。

本間 恵
図書情報専門員。札幌市中央図書館調査相談係にて郷土資料を担当。遠い高校時代は演劇部。
プライベートでは、映画『海炭市叙景』製作実行委員会・同北海道応援団や原作の復刊、人気公開句会ライブ『東京マッハ』の番外編『札幌マッハ』のプロデュースなどに携わる。2012年から3年間、TGR審査員。)
作家/シナリオライター 島崎町さん

100歳になる僕の祖父が、こんな風になるまで生きるもんじゃないと言っていた。

言葉の通りに受けとっていいのか、それとももっと深い意味があるのか。たしかに、忘れることが多くなり、体も自分の意思を裏切りつづける。本人にとってつらいことが多いのだろう。だけど僕は祖父に生きてほしいと思っている。

yhs『忘れたいのに思い出せない』は、寝たきりの老いた女性・センリと、その周囲を文字通り行き交う人々の物語だ。いくつかのシーンが描かれていくたびに、センリはどんどん老いていく。はじめはまだまだしゃべれたのに、声を出すのもつらそうになり、言葉もだんだん出なくなる。

ホームヘルパーの若い男・ゲンプが、こんなになるまで生きたくないと、寝ているセンリを前にして言う。残酷な言葉だけど、僕も昔、そんなことを思ったことがある。もしかしたら多くの人が、若いとき、一度は思うことなのかもしれない。だけど時間はすべての人に平等で、僕もあなたも確実に老化させていく。センリと同じように、あるいは僕の祖父と同じように。

ただ中には、老いの苦しさにいたらないまま死んでいく人もいる。病気であったり自殺であったり。その人たちは、どうなんだろう、しあわせなんだろうか、物事を忘れることなく、体が不自由になることもなく、若い人から、こんなになるまで生きたくないと言われることなく、命が終わる。

僕が祖父に生きていてほしいと思うのは、死を知るつらさを先延ばしにしたいという感情だけではないと、いまこの文章を書きながら思っている。生きていてくれることのありがたさ、いま目の前にいるわけではないけれど、存在してくれている、ただそれだけでも喜びだと思う。

『忘れたいのに〜』もまた、たしかにその感情を描いていた。センリが老いて寝たきりになって、それが理由で問題が起きる。仲の悪い父と娘はさらに関係を悪化させる。お金の問題が生々しく語られる、介護の現場で働く若者は、ゆがんだ内面をさらにゆがませる(介護職員だからゆがんでいるという意味ではない)。

しかし、舞台の中央にずっと寝ているセンリがただ存在しているだけで、意味がある。センリがそこで生きているだけで、喜びがあるのだと、舞台を観終わったすべての人が思うだろう。老いてなお、人が生きる意味を描いた力作だ。

最後に、役者について。今回どの役者もよかった(これは演出の力も大きい)。センリ・福地美乃、ガンマ・長流三平、トオル・曽我夕子の家族の組み合わせは完璧で、なんだかずっと観ていられそうな、カッチリハマったパーツだった(伴侶の欠けた3人が、もしかしたらもう1人の存在によってつながれていくのではないかと予感させる部分の脚本もうまかった)。

わりと長尺だし内容的に息苦しさもある作品だけど、コメディ班?のカヤモリ・能登英輔、チヨ・最上怜香によって、舞台上が洗い流されてリフレッシュされ、短時間で難しい役だったマサヒコ・小林エレキの存在感もさすがだった。

しかしなにより特筆すべきはホームヘルパーの3人、ゲンプ・櫻井保一、マスト・柴野嵩大、タマミ・紀戸ルイ(宮本暁世とのダブルキャスト)だ。櫻井はゆがんでとらえどころのない若者像をこれでもかと演じた(観客はムカついただろう。だとしたら彼の勝ちだ)。柴野はそれとは違うゆがみ方の若者で、なんかリアルすぎて嫌だ(褒め言葉)。2人とは対照的に、介護の現場の救いというか、まともな面を見せてくれた紀戸は、無垢のなかに無邪気さを出し好演だった(手塚治虫のキャラみたいだった)。

『忘れたいのに〜』がもっと老いに焦点を当て、もっと家族のありさまを描くなら、3人がかかわってくるシーンはいまより短くていいはずだろう。しかし作・演出の南参は、思いのほか上手く書けてしまったのではないか。彼はゆがんだ若さを書くのが上手い。ちゃんと客をムカつかせる。今回(も)それに成功してしまったがために、3人は予想以上に輝いたのだろう。

島崎町
1977年、札幌生まれ。島崎友樹名義でシナリオライターとして活動し、主な作品に『討ち入りだョ!全員集合』(2005年)、『桃山おにぎり店』(2008年)、『茜色クラリネット』(2014年)など。2012年『学校の12の怖い話』で作家デビュー。今年6月、長編小説『ぐるりと』をロクリン社より刊行。主人公の少年と一緒に本を回すことで、現実の世界と暗闇の世界を行ったり来たりする斬新な読書体験が話題に。
札幌100マイル編集長 オサナイミカさん

あらすじを観たときから、これは今の自分が見るべき作品なんじゃないかと、“一目惚れ”をした作品でした。

現在、札幌中央図書館で行われている“札幌演劇シーズンを知ってますか?展”に展示している台本を開いたとき、最初のページで心をつかまれ、これ以上読んだらもったいないと思い、作者の南参氏のあとがきをチェック。
その時点ですでに目頭が熱くなってしまい、ただ観る前からあまり期待しすぎると、ガッカリすることも時々あることなので、若干構えて劇場に足を運びました。

かなり重い空気感のあるステージ。
どこか自分の人生にオーバーラップするセリフ。
考えなければならないけど、考えたくない現実。
分かっているけど、分かりたくない感情。

正直、このままだと重すぎてパワーを吸い取られてしまいそう・・・と思い始めたときに、絶妙なタイミングで“笑い”を作る。
その笑いも、本当に笑っていいの?という思いにもさせられたり。
場の空気があっという間に、“yhs”の世界になりました。

リアルな現実を演じたシビアな演目は、誰もが素直に楽しめない作品なのかもしれません。
が、今回は逆に、同世代の方々に観てもらいたい!と、観る前から太鼓判を押しつつ、友人たちに勧めた作品なのです。
(演劇を今まで見たことのない友人も来てくれました!)

それにしてもセンリ役の福地美乃さんが、本当のおばあちゃんにしか見えなかった・・・
彼女の演技力が全体を持ち上げて行った作品ともいえるかもしれません。
(ある意味、カヤモリも・笑)

シングルマザー
介護の実態
若者の苦悩

一度に様々な問題を見せつけられた、今の時代に観てもらいたい作品です。

オサナイミカ
WEB情報サイト・札幌100マイル編集長。編集長ブログ“オサナイミカのつぶやき”で、主に札幌のリアルな食の情報を発信中。 札幌生まれ・札幌育ちで、20代のころはTEAM NACSの舞台によく足を運んでいた。
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