ゲキカン!


図書情報専門員 本間 恵さん

これが演劇だ。あれもこれも演劇だけど、これ、が演劇なのだ!と、2013年、『わたし -THE CASSETTE TAPE GIRLS DIARY-』の初演を観た時に、あらためてそう思った。
あの時は1度で足りずに4度観た。何がそんなに私を惹きつけたのかはうまく言葉にできない。「泣ける〜」とか「爆笑!!」とか、わかりやすい言葉でくくることなどできない舞台だった。が、「観て!」と「とにかく観て!」と、信頼する仲間を誘いたくなる舞台だった。わかりやすくない。それは褒め言葉だ。超わかりやすくない舞台!
今回は初演時よりさらにさらにパワーアップしていた。21人いた「わたし」が32人になっていた。32人(+ワン:犬=33人)の演出って考えたらクラクラする。でも相変わらずだ。32人の「わたし」がうねり、走り、炸裂する舞台!

そう、なのだ。何があっても朝は来るのだ。何があってもいつのまにか眠ってしまえるし、眠ったら朝が来るし、朝が来たら昼が来て夜が来てまた朝が来るし、そして「ぎゃっ」とか「ばばばっ」とか「さささっ」とか毎日毎日毎日は過ぎ、人間最後は誰も彼もが死ぬんだけどそれまでは生きていて、半分死にかけてしまうような事態があっても「ぎゃっ」とか「ばばばっ」とか「さささっ」とか何とかかんとかやり過ごし、「いま」を「いま」じゃないものにしながら疾走し、疾走し、疾走し、そして、疲れたらいつのまにか眠るのだ。そして、また、目覚めるのだ。何度でもくりかえし、くりかえし、でも時に修復し、新陳代謝を重ね、反転、反転して明日に向かう。いつか2度と目が覚めない、その朝が来るまでは…。

原案とされる太宰治の『女生徒』は、冗長でありつつも魅力的なお澄まし女の子の語りがすべてだ。そして『わたし –THE CASSETTE TAPE GIRLS DIARY–』は、そんな女の子の語りの現代翻訳だとも言える。たとえば『枕草子』の語り口の本来のテイストを伝えるのに、橋本治が桃尻語訳を提案したように、太宰治のちょっとしょってる(これも死語か…) 女生徒のテイストを「いま」に甦らせるには、「ぎゃっ」とか「ばばばっ」とか「さささっ」とか擬態語感フル活用のイトウワカナ語訳でなければならなかったのだな、と今回納得。

目の前の「わたし」は、みんなキラキラして100%まばゆい「女の子」だったのだが、特に私がこ感慨深かった「わたし」を一人あげたい。影子役の山下愛生さんを観て、あ、『親の顔が見たい』でお母さん役だった中学生だ!と嬉しくなった。あの時は確か中3だったはず。続けてるんだなぁ…。っていうか、続いている、や、こうして続けて行くのだなぁと感無量。舞台上の、未来の何かと連結するかのような「わたし」の連なりを眺めつつ(東海林靖志氏の振付や好し!)胸が熱くなった。う〜ん、素敵じゃないか、札幌の演劇シーン!

とまぁ、太宰治のガール部分とイトウワカナのおじさん部分(心にヒゲがはえてるらしい…)が、絶妙にマッチして、舞台上に炸裂する1時間半が過ぎた時、あなたは元気になっているはずだ。朝方、厭世的な気分であったとしても、観劇後はスコーンと吹き飛ばされて視界が晴れる。目の前で弾けまくるピンクのポロシャツ集団は、個と個と個だ。何かとおエラい人たちから「マス」におさまることを強要される昨今、そんな世の中を覆すのは同調圧力なんかじゃなく、女の子の発散する生のパワーの集積なのかもしれない。その「わたしたち」は、「わたしたち」ではなく、「わたし」でできている。だから、最後の最後に炸裂した決め台詞が聞き取れなかったのはきっと、32人が皆、それぞれ違う台詞を言ったからじゃないのかと私は推測した。「わたし」は、あくまで「わたし」なのだ!

intro、今回もあと3回は観る。そして元気になろう。私も生きてていいんだな。死ぬまでは。
とにかく観て!

話はそこからだ。なんちて。
※札幌の図書館には太宰治の「女生徒」、新しいものでは2016年発行の立東舎版、ほかにも角川文庫版、ちくま文庫の『走れメロス・富嶽百景』にも所収。選集、全集を含めると28冊、所蔵があります。ぜひご利用ください。

本間 恵
図書情報専門員。札幌市中央図書館調査相談係にて郷土資料を担当。遠い高校時代は演劇部。
プライベートでは、映画『海炭市叙景』製作実行委員会・同北海道応援団や原作の復刊、人気公開句会ライブ『東京マッハ』の番外編『札幌マッハ』のプロデュースなどに携わる。2012年から3年間、TGR審査員。)
ドラマラヴァ― しのぴーさん

 好きか嫌いかといえば好き。ストーリーラインを楽しむというよりは、素晴らしい想像力で太宰治の原作を遊園地のアトラクションのように大胆に解釈してみせた、イトウワカナの驚くべき作家としての異才ぶりと、30人を超える大人数の俳優陣を見事に動かし、振付(東海林靖志)、音楽、映像(Anokos、佐々木隆介、古跡哲平)といった創作チームを束ねた演出力に敬意を表したい。

 原案とクレジットされているように太宰の「女生徒」(「走れメロス」に収録されている短編)にインスパイアされた作品なので、オリジナルを少し知っておくと、「わたし」はとても面白く観ることができる。「女生徒」の冒頭はこう始まる。「あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い」。要するに、わたしが朝目覚めてから夜寝るまでの一日に起こる経験譚のお話。小説なので、わたしの感情の揺れのようなものがあって、太宰らしくなんとなく思春期特有の危なっかしい死のにおいがしなくもない。わたしは二匹の犬を飼っているけれど、足の悪い方の犬に意地悪をする。両親との関係性も微妙で、妹がいたけれど死んでしまった。
 つまりこうだ。「あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い」という冒頭の一文を「ぎゃっと目が覚めると私はもう死んでいました」と自分の劇世界に兌換した時点で、イトウは勝った、と思えるのだ。あとは、この突拍子もない、でも、キッチュで、ポップでカワイイ響きのある台詞を芝居として成立させるための「しつらえ」をつくっていく作業がこの「わたし」という劇になったのだと思う。なんちて、と遁走するところも女の子らしくはないだろうか。
 物語のようなものはあるけれど、まぁ、こんなな感じはどうですか、というエピソードのようなものだ。朝起きたら死んでいたことに気がついた幽霊子(片桐光玲)のお話。半分だけ死んでしまった影子(山下愛生)が、わたしからシカトされハバにされるお話。育児放棄した大き子(のしろゆう子)が、母親から勘当され実家から叩き出されて、ママ友仲間からも追放されるお話。わかりやすい劇の物差しを無理やりあてがえば、自殺やイジメ、シングルマザーのネグレクトといった社会事象に重ならなくもないけれど、それが狙いではないだろう。チェリーピンクのポロシャツ、濃紺のスカートと同色のタイ結びしたリボンという微妙にミスマッチな女学生っぽい衣装(アキヨ)を身にまとった、ジェンダーも体形も上背もばらけたわたし(時としてわたしは細胞のように増殖したり、勝手に分裂したりする)が、「ぎゃっと目が覚めると〜」という台詞をリフレインして群舞するのは、「集団行動」を見るようで、このタブローは気持ちがいい。

 演劇とは台詞である。と僕は信じる。台詞は役者の身体性で語られ、役者が舞台に置いていくひとつひとつの台詞の積み重ねがドラマツルギーとして、観客との間に劇という再現性のない説明しようのない感動を生む。それがお芝居の醍醐味だと思う。だから、演劇って一番自由な表現だと思う。映像ってやっぱり固定された表現だし、お約束事だってそれなりにある。最近はVFXが発達しすぎてしまって、もっと想像させてくれよって思うことも多い(だからと言って映像を演劇より下に見ているわけではない)。
 僕はこう想像する。舞台上に落ちた一本のサスの中に眼力鋭い裸体の俳優が立っている。動かない。この状態の劇が一番自由だとすれば、何かを身につけ、一定の方向へ身体を動かし、眼差しを向けることで、劇はどんどん一定の意味づけをされていく。つまり、原初の状態から不自由なものになっていく。いわんや、台詞をやなのだ。その不自由さをどうやって解き放つか。作家は、演出家はそのジレンマと格闘する必要があるし、僕はそれが作家の劇的文体やシグナチャーなのだと思う。お芝居って、ドラマツルギーやストーリーテリングも大好きだし、役者を観るのも楽しい。特に女優を観るのは僕にとって悦楽ですらある。でも、作家性をただただ受け止めるのもお芝居の楽しみ方だと思うのだ。
 わたしのカラダには約60兆個の細胞があって、日々新陳代謝してネオ細胞に入れ替わっている。諸説あるけれど、1年ですべて入れ替わるという話もあるらしい。わたしは、毎日新しいわたしに上書きされているのだ。そんな「いまのわたし」を脱構築してみせる、異能の人、イトウワカナのintro(組、って呼んでいいよね)。もっと面白いものをつくって、演劇の自由さをこれからも見せて欲しいとエールを送りたい。

追伸
前回の舞台(再演)では、瞳のような美術セットの上手に映像が投射されていたと記憶しているのですが、今回の方がシンプルで良かったです。あと、大き子役ののしろの台詞で「私、やっぱり赤ちゃん育てられない」(記憶なので正確ではないですが)と独白するシーンですが、僕はそこだけ劇が素に戻ったような印象があって、映像で言えば1フレーム(1秒の30分の1)欠落したような軽いノッキングを観ていて起こしました。そんな話じゃないじゃん、と少し白けました。あと、「ぎゃっと目が覚めると〜」と輪舞している後ろで、犬またはおじさん(宮沢りえ蔵)の台詞も聞きたかったです。あと、肝心の最後の台詞尻が聞こえませんでした。初日の上りの問題かもしれませんが、一応告白しておきます。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴27年目にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と故蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。著書に「昭和最後の日 テレビ報道は何を伝えたか」(新潮文庫刊)。
作家/シナリオライター 島崎町さん

演劇にストーリーは必要なのか。

という疑問はいつも持ってる。多くの演劇にストーリーがあるのは、それなりに理由があるからだろう。例えば1時間半から2時間くらい、人を黙らせイスに座らせつづけるのはけっこう至難の業だ。真っ青な画面が目の前に映ってるだけだと、寝てしまうか立ちあがってどこかへ行ってしまうだろうけど、ストーリーがあれば多少は観ていられるようになるし、面白ければ2時間でも3時間でも集中できて、そのうち、つづきはないのかなんて言い出すかもしれない。

作り手側の要請だけじゃない。きっと観客も、演劇を観に行くときにストーリーの面白さを求めているだろう(もちろんそれだけじゃないけど)。だから作り手も観客も、ストーリーがあればやりやすいはず、なのに、intro『わたし -THE CASSETTE TAPE GIRLS DIARY-』にはストーリーがない。

というのは言いすぎで、集中して、想像して観ていれば、見えてくるものもあるのだけど、なんというかそこを掘り下げるよりは、ストーリーはあまり気にせずに、「わたし」をめぐる断片のつらなりだと思って、32人(!)という群像がときに1人の「わたし」となり、ときに全体としての「わたし」となる、ユニークなアイデアがつまった演劇体験だと思った方が楽しめるはずだ(※)。

たとえば舞台上、1人の「わたし」がお腹がいなたくなる。舞台上にいる数十名の「わたし」はそれぞれ臓器の名前を言うので、「わたし」の各器官・部位らしい。みな口々に、わたしは大丈夫、と言うが、「わたし」の群れの中にバタリと倒れてる「わたし」が1人いる。実は「わたし」の痛みの原因はその部位のせいで、痛んでいる「わたし」は舞台の奥に連れていかれてしまう(切除されたという意味?)。

ストーリーがないと人を座らせつづけるのは難しいと書いたけど、『わたし』はこんなユニークで楽しい表現があったり、ときにシリアスな断片があったりして、1時間半、僕たち観客を黙ってイスに座らせ、食い入るように舞台を見つめ集中させることに成功していた。今回の演劇シーズンはどの公演も長いなあと思うけど、『わたし』に関しては1時間半が短く感じられ、もっと観たい、次のアイデアを楽しみたいと思った。

個々の役者も、「大き子」を演じたのしろゆう子の意外なスピード感や、「幽霊子」を演じた片桐光玲の変なセリフ回しや変な動きも楽しいし(この役者はそうとういい)、宮沢りえ蔵演じるおじさん兼犬の悲哀のある存在感、「影子」の山下愛生の好演など、見どころが多かった。

ただ惜しむらくは、僕が観たのは初日で、序盤、役者が硬く、舞台と客席の一体感がもう1つ足りなかったように思われたことだ。観客も、33人という群衆表現にとまどいがあって、受け入れるまでに時間がかかってしまったのだろうか。

しかし長丁場の演劇シーズン、全8回のロングラン。日を追うごとに役者と客の距離は縮まるだろう。ライブ感はより出るはずで、観客も劇のグルーヴに身をゆだね、男女を問わず1人の、そして大勢の「わたし」になれるといい。


(※正確に何人出ていたか数えていないが、キャスト表には33人の名があり、うち1人は犬役なので、「わたし」を演じているのは32人になるという計算です。)

島崎町
1977年、札幌生まれ。島崎友樹名義でシナリオライターとして活動し、主な作品に『討ち入りだョ!全員集合』(2005年)、『桃山おにぎり店』(2008年)、『茜色クラリネット』(2014年)など。2012年『学校の12の怖い話』で作家デビュー。今年6月、長編小説『ぐるりと』をロクリン社より刊行。主人公の少年と一緒に本を回すことで、現実の世界と暗闇の世界を行ったり来たりする斬新な読書体験が話題に。
札幌100マイル編集長 オサナイミカさん

いよいよ札幌演劇シーズン2017‐夏、5公演の最後の作品を鑑賞。
お芝居を立て続けに5つも鑑賞したのは、生まれて初めてのこと。
ハッキリ言って、ものすごく濃密な1ヶ月となりました。

そして今回の「わたし−THE CASSETTE TAPE GIRLS DIARY−」という作品は、ある意味、一番濃密な作品だったのかもしれません。

太宰治の“女生徒”という作品を原案にイトウワカナさんが作・演出した作品ですが、お恥ずかしながら、女生徒は読んだことがありませんでした。
なので、パンフレットを見てもイマイチピンと来ておらず・・・

ただ、作品を観てからネットで女生徒を検索し、色々な感想等を拝見し、改めて先ほど観たintroの作品について、じっくり自分の頭に落とし込みました。

すごい!

思春期の女の子の気持ちを、こういう形で体現したんだ!!
でもって、こういう形で体現したからこそ、共感できる部分も笑える部分もたくさんあったんだ!!

正直言うと、観ている時は、あまりのパワーと個性的な表現に飲み込まれてしまい(なにせ30人以上の出演者が同じ衣装でステージに立っているので)、理解できなかった部分もところどころあったのですが、時間が経つにつれて理解できる作品なのです。

理解というか、“自分なりの落としどころ”という感じかもしれません。

だから、もしかしたら一緒に観た友人とは意見が正反対だったり、全然違う解釈をする可能性の高い作品かもしれません。

そう考えると、今回一人で行ったことに軽く後悔を覚えます。
さらに、躊躇せず小学生の息子を連れて行ってみればよかった!と思ったのです。
(ちなみにこの作品は未就学児も入場OKです。)

お芝居の要素より、体現的パフォーマンスが多いこの作品は、もしかしたら純粋な子どもの視点で鑑賞すると、“あっ、そうか!そう来るか!!”という感想が聞けるのではないかと思ったからです。

頭で考えず、全身でお芝居を感じる・・・
introの作品は、パンフレットに書いてあった通り、まさに演じる方も観る方も五感をフルに使って楽しむべき作品なのかも!

なので、ある意味覚悟を決めて挑んでください。
もしかしたら、自分の中に眠っていた“何か”が、動き出すかもしれませんよ。

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改めてですが、演劇の世界って奥深い!
同じ作品を同じ役者が演じても、決して同じお芝居にはならない。
そして正解もゴールもたぶん、ない。

今日も良かったけど、明日はさらにいい芝居をしよう!
だから役者は芝居という世界にハマっていくのか・・・

札幌演劇シーズン、次回も楽しみです。

オサナイミカ
WEB情報サイト・札幌100マイル編集長。編集長ブログ“オサナイミカのつぶやき”で、主に札幌のリアルな食の情報を発信中。 札幌生まれ・札幌育ちで、20代のころはTEAM NACSの舞台によく足を運んでいた。
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