ゲキカン!


ドラマラヴァ― しのぴーさん

 ヤンキー・スタジアムでメジャーリーガー相手に田中将大が渾身のスプリットを投げるような。札幌ドームで大谷翔平が日本人最速の161kmのストレートをど真ん中に投げ込むような。そんな実に爽快な芝居だった。小屋を出たあとに、甘酸っぱい、そして懐かしくて少し気恥ずかしく、でも温かい気持ちに満たされている自分に気がついて、やっぱり演劇の役割ってこういうものだと改めて感じた。
 いつものように小屋に入り、舞台装置の立て付けを見ながら、どこに座れば「劇」を一番感じることができるだろうかと探していたら、作・演出の弦巻啓太がお客を丁寧に迎えていた。しかも、劇場に流れているBGMのメロディに合わせて、楽しそうに膝を打っているではないか。Crystal Kayの「恋におちたら」。次に流れ出したのは、原由子の「ハートせつなく」だった。この手の楽曲はとっくに卒業していてる一応大人なので、甘ったるいだけの脇のあまいラブコメ(時々、それはウェルメイドと呼ばれたりするのだけれども)を観ることになるのだろうかと一瞬だけ居心地の悪い気持ちになったけれど、鼻歌でも歌いだしそうな演出家の姿を観て、きっと手応えを感じているのだろうと期待がいやがおうにも高まった。そして、それは裏切られることはなかった。
 弦巻は札幌座のディレクターとして、最近ではファスビンダーの「ブレーメンの自由」、ムロジェックの「大海原で」と、どちらも演出家に高い読解力を要求する作品を手がけてきた。だが、やっぱり「弦巻楽団」というホームグラウンドならではの、生き生きとした演出で、再演ならではの芝居のエネルギーを感じた。演劇について、僕がいつも思うことだけれど、演出家にとって、一度はチェーホフやディケンズ、イヨネスコ、ベケットといったテキストの洗礼を受けることは一種の通過儀礼なのかもしれない。だけれども、僕はやっぱりオリジナルを観たい。オリジナルこそがその劇作家かつ演出家の面白さだと思うからだ。でも、どうしても必修で履修しなければならない科目があるとすれば、やっぱりシェークスピアにつきるのではないだろうか。
 「恋愛は幻想に過ぎない」といわゆるロマンス劇をこき下ろすシェークスピアが専門の大学教授のかなり遅咲きな初恋をめぐるコメディ。劇の冒頭で芝居の人物関係はシンプルに提示されて、いわば、結末が最初から分かっているという観客との暗黙の了解があって芝居は進む。だけれども、伏線を丁寧にまきながら、ツイストの効いた筋の運びで、最後まで観客のイマジナリーラインを巧妙にかわしながら、大円団まで小粋にひっぱって魅せる。ベースにシェークスピア劇の台詞や世界観が敷き詰められているのも実に巧みだ。「ロミオとジュリエット」をめぐる、愛は盲目なるがゆえの教授の強引な解釈のくだりには、腹を抱えて笑ってしまったし(たぶん、訳者の松岡和子が観ても同じだろうと思うほどに)、月と地球の関係をめぐるエピソードは愛おしく、この劇の白眉のシーンだろう。きっと天啓のように作家に降ってきた台詞なのではないだろうか。人物は少ないが配置が見事だ。特に、雑誌「セロリ通信」編集長のあかね(小林なるみ)は怪演と言っていいほど、強烈なスパイスとなって劇をドライブさせていたし、本当のDJと言ってもいいくらい滑舌よく声も通るヒロイン(と言っていいのかわからないけれど)、冬樹里絵を演じる岩杉夏の豹変ぶりもとても楽しい。恋の「から騒ぎ」にからむ、研究助手・のり子役の深津尚未は、いわばこの芝居のコロスであり、一人ドタバタとラブコメならではのデフォルメ役を演じる遠藤洋平はキーストーンとして劇にきちんと刺さっている。なにより、恋愛奥手のチェリーボーイ、奥坂教授役の松本直人の存在感が、この喜劇を盛り立てる一番のベーストーンとしてしっかり哀愁深く鳴り続けていた。
 ラジオのDJの声に劇的に恋に落ちる。たった一行で書けてしまう劇のシノプシスにこそ弦巻のオリジナルの核の強さがある。今、NHKで放送されている土曜ドラマ「逃げる女」を書いた鎌田敏夫は、「なぜ人には破壊衝動があるのか」と問う。弦巻は「なぜ人は恋に落ちるのか。そんなことに理由はない」と堂々と言ってみせる。人類にとって恋とは種の保存という生物の本能だけではない。決して失いたくない他者を発見するための人としての自己成長の仕掛けだと言えるだろう。だから「愛している」という言葉には僕たちにとって普遍的な価値があり、尊い憧れの台詞なのだ。
 ちなみに、「ユー・キャント・ハリー・ラブ!」を観終わって気がついたことがある。僕の初恋は小学三年生の時で、顔も声もしっかりと覚えている彼女の名前が京子ちゃんであることを。ポニーテールの女の子で毎日違う色のリボンで髪をくくっていた。そのキュートな後ろ姿を僕は右斜め後ろからずっと眺めて恋焦がれていたことを。そう思ってJRの琴似駅で赤面してしまった。もちろん、50年近く前の甘酸っぱい記憶を呼び起こしてくれた弦巻に感謝したのは言うまでもない。
 ハッピーエンドを迎えた奥坂教授と里絵は早々に修羅場を迎え、破綻するだろうと僕のリアリティはそう告げる。でも、それもありだ。だって、恋なんだもの。勝手な想像だけれども、この「ユー・キャント・ハリー・ラブ!」は、劇作家・演出家としての弦巻が演劇なるものへ落ちた「初恋」なのかもしれない。だから、観客は自分の初恋にもう一度恋をしながら「お気に召すまま」、この素晴らしい劇を存分に楽しめる。これは愛を持って保証します。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴四半世紀にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。
シナリオライター 島崎 友樹さん

あ、掘り当てたな、という作品がある。

穴を掘ってダイヤモンドの原石を手に入れたような、石油がドバドバ出る油田を見つけたみたいな、そんな作品のことだ。

「面白い作品」と「掘り当てた作品」は違っていて、「面白い作品」は全体や細部のあれこれを「面白い」と言ったりするけれど、「掘り当てた作品」というのは、物語の設定(シチュエーション)がすでにヤバい。

「一度も恋をしたことのない初老のシェイクスピア教授が、ラジオで天気予報を伝えるDJの声に恋をする」

弦巻啓太作『ユー・キャント・ハリー・ラブ!』の設定だ。うん、掘り当ててるよね。この設定で、つまらなくなるわけがない。

かつてマンガ家の島本和彦は、アイデアがどのように生み出されるかを短編マンガに描いた。それは、山のように巨大な「マンガの壺」があって、中では熱湯が煮えたぎり、マンガ家はその中に手を入れて作品のアイデアをつかみ取る、という内容だった。作品内ではこう語られている……

「だが誰でも気軽に手を入れて名作をつかみだせるわけではない! その持てるパワーと熟練度―― どのような人生を今まで生きてきたか―― 知識や情熱や意欲―― 一瞬にしてフルイにかけられるのだ」

壺の頂上に立ったマンガ家は、熱湯の中に手を入れていき、石ノ森章太郎は『仮面ライダー』を、ちばてつやと梶原一騎は『あしたのジョー』、あだち充は『タッチ』『みゆき』『ナイン』をつかみ取る。

きっと弦巻啓太も、10年前、演劇の壺の中から『ユー・キャント・ハリー・ラブ!』をつかみ取ったんだろう。

初演以来、10年ぶりにこの作品を観たのだけど、良い部分がバージョンアップされて、輝きがさらに増していた。特に、エレガントな軽さ、のようなものが際立っていて、観終わったあと、すごくいい気分で劇場をあとにした。いつ、誰が観ても楽しめる、上質なラブコメディー作品だった。

役者について。恋を知らない初老の教授を演じる松本直人は、やはりハマり役だ。シェイクスピアのセリフを借りつつも、けっこうひどいことを言うこのキャラクターを、憎めない、愛すべきものにしているのは、役者本人が持つキュートさなのかもしれない。

また、出演シーンほぼすべてで笑いを取っていた小林なるみもさすがで、この作品が「面白いコメディ」から「すごく面白いコメディ」になったのは、彼女の力によるものが大きかった。

これからも、長く演じ続けられる作品だと思うので、また次に、バージョンアップされたものを観られるのを楽しみにしつつ。(敬称略)

島崎 友樹
シナリオライター。札幌生まれ(1977)。STVのドラマ『桃山おにぎり店』(2008)と『アキの家族』(2010)、琴似を舞台にした長編映画『茜色クラリネット』(2014)の脚本を書く。シナリオの他にも、短編小説集『学校の12の怖い話』(2012)を出版。今年、2作目の小説を出版予定。
ライター 岩﨑 真紀さん

言葉ではなく「声」で恋に落ちるというのは、スゴイことだ。
しかも、生まれてから一度もそのような経験がないのに、人生も後半戦に入ったある日突然、隠れていた個人的フェチズムが発動するような運命の「声」に出会うのだ。

生涯を捧げてきたであろう研究の持論さえも覆させてしまうような「声」!
なんという魔力!!
そんな声を、もしラジオ越しでなくリアルで聞いてしまったら、絶対に即・腰砕けになるだろう。酔っ払ったようなふわふわとした状態になって、あらぬ行動をとってしまうかもしれない。ああ、そんな声に出会ってみたい。

本質的には、声にときめく(=萌える、欲情する)ことと、声の本体である人物を乞うことには距離がある。欲情はきっかけにすぎない。そこから怒濤のように「セオリー通りの恋」に転がり落ちていくには、潜在的に恋を求めている状況が必要だ。

そう考えると…。
『ユー・キャント・ハリー・ラブ!』の主人公、恋愛を否定して生きてきたという設定の「教授」は、実は、心の底から恋に溺れてみたいという欲望を持った人間なのだ。これまでそのような衝動に出会えず、全てをかなぐり捨てて恋に走るシェイクスピア作品の登場人物たちを妬み羨み、そのあげくに恋愛を蔑む解釈を生涯の研究に持ち込むに至ったのではないか!!!

…うん、まあ、単に若かりし日に淡い想いを嗤われて、記憶喪失もののトラウマになっている、ということでもいい。

つまりこのように、弦巻啓太の脚本は、作家本人が思いも寄らなかった物語の可能性を潜ませていることが多いように感じる。弦巻作品の鑑賞の楽しみの一つが、その表現されない行間を想像することにあるといってもいい。

例えばもう一つ、主婦向け雑誌の編集長であるセロリ通信の「あかね」。
彼女が「学問の道を志している方からすれば、専業主婦なんて、ゴミみたいな存在ですよね。片腹痛いですよね。甘えた存在ですよね。この世からいなくなっちゃえばいいですよね!」という叫ぶシーンがある。

物語の流れからすると、これは自虐ギレが滑稽さとなるセリフなのだ。けれど、あかねは「編集長」として働く身。「主婦向け雑誌なんて…」ではなく「専業主婦なんて…」と叫ぶからには、かつては専業主婦だったのか、母親が専業主婦で貶められている場面を見ていたのか、あるいは、もっと硬派な雑誌を作りたいのに主婦向け雑誌担当となって屈折しているのかもしれない…!

脚本には上記以外にも、それぞれ多用な解釈が可能な部分がありそうだ。いやもちろん、こんな「読み」は余計なお楽しみというものだろう。

劇作・演出の弦巻啓太の狙いは、恋から生まれた混線の展開と収束を描くことで、「劇場を出るときにほんの少し足取りが軽くなるような」、明るさ軽さ滑稽さを心地よく味わってもらうところにあるのだから。

岩﨑 真紀
フリーランスのライター・編集者。札幌の広告代理店・雑誌出版社での勤務を経て、2005年に独立。各種雑誌・広報誌等の制作に携わる。季刊誌「ホッカイドウマガジン KAI」で観劇コラム「客席の迷想録」を連載中。
在札幌米国総領事館職員 寺下 ヤス子さん

晴天青空の日曜、昨夜の楽しい劇を思い出して感想を。冒頭からクスクスと笑いが起き、和やかな雰囲気。シェークスピアをモチーフにセリフを散りばめてあって、英文科卒には懐かしい限り。「ザ・コメディ」的な、登場人物の絡み、伏線、役の仕立て方がお見事な脚本。演技では、特に小林なるみさん演ずる編集長役の滑稽さにハマった。演出は、舞台がコンパクトにまとめられて見やすいし、字幕の使い方もおもしろい。ただ主人公の奥坂先生が「恋に落ちた瞬間」がもっとガガーン、ぽわーんと劇画的に表現されるかと期待してたら、意外としんみり恋に落ちたのね。

奥坂先生がなぜ恋に否定的だったか、理性とプライドだけで語られているが、それだけではあるまいと私なりに彼の過去を妄想してみた。「今日はいい天気よ。雄三郎。」と雨の朝も明るく起こしてくれていた母親が、12歳のとき若い男と恋に落ちて家を出た。ハムレットの如く、女に失望した傷心の少年となった雄三郎は、恋も女も避けてきた。トラウマだ。母への恋慕も恨みも心の奥に封印された。母は行方不明、音信不通。実はハバロフスクで死の床に伏していた。死に際して、息子、雄三郎を思い、懺悔する母親。今更、会えるわけもない。許されるとも思わない。でも、ごめんね、幸せに暮らしてね、と伝えたい・・ああ、神様・・して、ご臨終。その思いは丹頂のように空を超え、FMラジオの周波数にのり・・おりしもラジオから流れる天気予報の声が、少年時代の母の声と重なり雄三郎の耳に届く・・。母親役に余貴美子が浮かんだところで、いやちがうな、と妄想は途絶えた。

劇中の「ロミオとジュリエット」をめぐるやりとりが面白い。彼らの死は「愛」か。奥坂先生と理由は違うが、「愛ではない」に一票。だってあれは「若さ」だから。一目惚れで燃え上がる、ケンカっぱやい、親や目上の者に反抗する、徒党を組んで息巻く。未経験ゆえ短絡的、残酷、浅い思慮、狭い視野、純粋で切ない、弱くもろい、美しいとき。シェークスピアはあらゆる「若さ」をこの作品で描き出した。しかし、恋する気持ちはいつの世も誰にも共通。

こひすてふ わがなはまだきたちにけり ひとしれずこそおもひそめしか (壬生忠見)

では、失礼して恋に落ちてきます。

寺下 ヤス子
在札幌米国総領事館で広報企画を担当。イギリス遊学時代にシェークスピアを中心に演劇を学んだ経験あり。神戸出身。
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