ゲキカン!


ライター 岩﨑 真紀さん

若い頃は、何もかもが怖かった。
自分が生きているということ。死というもの。宇宙という概念。社会の有り様。人と関わること。あまりにも怖いから、マジマジと見つめ、知識を貪り、バリエーションを試し、恐怖の底に転がり落ちずに済む限界を探さずにはいられなかった。
いま、恐怖の入った箱の上には、私自身の知識と経験と「日常」という重石が乗っている。これを揺さぶる災いから遠ざかっていられることに、心から感謝したい。

死刑囚は、朝、刑務官が自分の房に近付く足音に怯え、それが通り過ぎたのを確認したところからまた一日の命を生きるのだそうだ。
死刑執行にあたる刑務官は、そのことを家族にも話せないのだという。事後、誘い合って飲みには行っても、語り合わず、酔いきることもできないのだ、と。
絞首の死は苦しく長く、むごたらしい。それを実行する役割を社会の中の誰かにゆだねておいて、私たちは自分のものではない復讐に熱くなり、正義を叫ぶ。

肉を食べるとき、ふと、鶏を、豚を、牛を、屠ることができるかどうかを考えた。やりたくはないが、必要があればやるだろう、という気がする。だが、理屈で人を手にかけることはたぶん、私にはできない。覚悟がない。いかなる正義に庇われていようとも。そして、私はそんな覚悟が必要ない社会に生きていたい。

『しんじゃうおへや』は、最終局面のたたみ掛けと重層構造の種明かしに向かって構成されているのだと、観劇時には思っていた。であれば第三話のシーンに全てを入れ込んで展開させたほうが緊迫度が高いのではなかろうか、などと考えながら。しかし脚本を読めば、一話と二話の焦点が「仕事として人を殺すことの葛藤、ぬぐいがたい重さ」「絞首刑のむごたらしさ」を伝えることにもあったことがわかる。
そうか、それはまだ、一般的にはあまり認知されておらず、登場すれば注目を集めるものだったのだ。失念していた。だから、二話で排水口の話に驚く清掃員のシーンなどが理解できなかった。

社会問題が織り込まれた演劇は、観客がその問題についてどの程度知っているかによって、受け取ったときのインパクトが変わってしまうようだ。2014年の札幌劇場祭で、原発事故を扱った時間堂の作品『衝突と分裂、あるいは融合』について審査員の方々と話し合ったときにそう思った。

正直に書くと、『しんじゃう〜』の第二話にはイライラした。仕事場に来ていながらキリキリ働かない人は嫌いだ。ぶりっこは御免被る。ましてや刑場、礼を尽くしてしかるべきだ。第一話のおふざけ練習も、同じ理由でちょっとイライラした。私は気の重い用事は速やかに終わらせたいタイプで、殺された妹はいないけれど、谷田部のように「いい加減にしませんか!」と叫んでしまいそうだった。

初期の作品を観ていないので断じることはできないのだけど、yhsと作・演出の南参は、長い過渡期にあるのではないかと想像している。役者を「プレイヤー」と呼ぶのは役者そのものをキャラクターとして芝居に活かす作風だったからだろうが、このところのyhsの舞台には、キャラクターまたはその名残りをまとって見える役者と、役の人物として存在している役者が混在しているように感じる。演出にも揺らぎがある気がする。意図的なのかもしれないけれど、長年のファンではない私はときどき、ゆらぐ場面の受け取り方に戸惑う。

『四谷美談』『突然バッドエンド』『室温』、もしかしたら『つづく、』も含むのかもしれないけれど、南参は、死(または殺人)や狂気や霊に関わる何かにたどり着くためのトライを続けているのかもしれない。

さて、『しんじゃう〜』の見どころは、誰もが挙げると思うが、やはり小林エレキと能登英輔の掛け合いのシーンだろう。小林エレキの演技はいつもながら素晴らしい。だが、彼がこのパターンで狂気を演じることができるのは知っていたので、むしろ、能登が人間的な葛藤をピリピリと演じているのが新鮮だった(私には)。

もうひとつ、南参演出ならではの、強く印象に残るシーンを見どころとして挙げたい。まずは第一話の終わり近く、小栗課長が位置につき、ボタンが押された場面。巨大なてるてる坊主は呪詛の顕現のようで、実際にはどこも動いていないのに、目に見えない異界の扉が開く気配を感じた気がした。
そしてやはり、ラストの重層構造が明らかになる場面も印象的だ。ネタバレになるので詳しくは控えるが、劇場そのものに別世界が重なったかのように感じられたのだ。

そうか。ここまで書いてわかった。
『しんじゃう〜』の本当の狙いは、やはり社会的な視線のほうではない。異界の招来だ。観客はみな、南参が仕掛けた呪術の効果を身もって知るだろう。

岩﨑 真紀
フリーランスのライター・編集者。札幌の広告代理店・雑誌出版社での勤務を経て、2005年に独立。各種雑誌・広報誌等の制作に携わる。季刊誌「ホッカイドウマガジン KAI」で観劇コラム「客席の迷想録」を連載中。
在札幌米国総領事館職員 寺下 ヤス子さん

小林エレキ氏に札幌トニー賞男優賞。圧巻の演技。精神の集中と消耗がきつそうな役だが、連日連投、完封勝利を祈りたい。

真っ正面から死刑と向き合う。廃止派でも存続派でもなく、現状を呈示。殺人と死刑執行の違い、法の正義と人の赦し。割り切れない感情を刑務官たちの口から語らせるとともに、死刑囚を取り巻く人々を描くことによって、罪とは、贖罪とは、そして生きる価値とは何か、といった根源的な問題に客観的に向き合う。演劇のなせる社会貢献。文科省、法務省の推薦がついてもよさそうだ。前半で笑っておかないと後半は重い。ラストで重ねられるシーンは見事。南参氏の演出は、死者も生者も同じ舞台に登場させる、スピリチュアルな世界の広がりがある。目には見えないものを見せてくれる。それが心地いい。

数年前、共同通信社が、25歳で死刑執行されたいわゆる凶悪犯、山地悠紀夫の取材連載を配信した。凶悪犯罪が多い昨今、もうどの事件かどんな事件か記憶が追いつかない。ちなみに山地悠紀夫は、2005年に大阪で面識の無い二人の姉妹を残忍に殺害した。当時22歳。16歳で自分の母親を金属バットでめった打ちにして殺害していた。そう、彼はもうこの世にいない。取材記事は「死刑でいいです」という彼の言葉からとったタイトルで本に編集されている。本人の生い立ちから犯行後の精神鑑定、被害者側の情報も含め、誠実な取材だと思う。「反省も悔恨もないが、死刑にしてくれればいい。」本作の三塚死刑囚もそんなことを言っていた。その圧倒的な拒絶。理解不能なモンスターは殺すのか、人間社会に引き戻すのか。「死刑でいいです」という人間を処刑して罰を与えたことになるのか。深い森に迷い込む。

昔は、切腹や敵討ちをよしとしていた日本では、命をもって償うという意識が強い。議論はあってもなかなか死刑制度廃止にならないのは、そんな文化の影響かも知れない。敵討ち賞賛の歌舞伎演目は多い。殿の復讐を果たした赤穂浪士47人は自らの命と引き換えたが、英雄だ。アメリカドラマもヒーローのリベンジものが大好きだ。人間には復讐の本能が埋め込まれている。

フランシス・ベーコンは、復讐は野生の正義であり、それゆえ人間の性質が復讐へと流れることを法によって防がねばならぬと言った。「復讐する者は敵と同列となり下がるが、復讐を思いとどまれば敵より上の人格となる、敵を許す者は王子(つまり気高い者)である、」と人間の品性を説いた。このレトリックは、シェークスピア「ベニスの商人」の法廷シーンで、ポーシャ扮する裁判官がユダヤの金貸しシャイロックに語りかける、有名な ”Mercy”スピーチを彷彿とさせる。法の正義より偉大なものは慈悲の心、慈悲は王の為す神の行為、と相手の譲歩を促す美しいスピーチだ。一方、シェークスピアは「タイタス・アンドロニカス」で怒りと悲しみがいかに人を残忍にするかを描いた。憎き奴らを殺して八つ裂きにしてミンチにしてそれをその母親に食べさせる。ザ・復讐!ここに極まれり。 そしてポーシャもタイタスも一人の人間の中にある。

ああ、三塚がシェークスピアを、山地悠紀夫が「しんじゃうおへや」を観ていれば・・・。

寺下 ヤス子
在札幌米国総領事館で広報企画を担当。イギリス遊学時代にシェークスピアを中心に演劇を学んだ経験あり。神戸出身。
シナリオライター 島崎 友樹さん

だれが三塚孝を殺したのか。

なんて書くと、おやっと思われるかもしれない。だって三塚は殺した側だ。殺人犯で3人殺した。yhs『しんじゃうおへや』の登場人物。だけど彼も殺される。死刑囚として。

あるミステリーの短編で、「だれが○○を殺したのか?」って話がある(○○には名前が入る)。実は○○は被害者ではなく加害者の名前で、そこのところがうまくミスリードされて、結局、加害者の○○は捕まって死刑になった、だから○○を殺したのは刑務所の死刑執行人だ! ってオチだ。

さてもう一度。だれが三塚孝を殺したのか。

死刑執行室には3つのボタンがあり、どれか1つが回路につながっている。3人の刑務官がボタンを押し、死刑は執行される。どれがつながっていたのかは、刑務官にはわからない。その1人が、三塚を殺したことになるんだろうか。それともボタンを押した3人の刑務官? 

『しんじゃうおへや』のすぐれているところは、その刑務官の心にもスポットを当てたことだ。終盤、刑務官小栗と死刑囚三塚の、セリフの応酬がある。死刑囚と一般の人間の違いはなんなのか。違いはあるのか。はげしいやりとりが頂点に達し、刑務官が死刑囚に言い放つ。「お前は、人間だ!」その一言に、ふるえた。

劇中、教誨師は三塚の心を開かせることはできない。でも刑務官である小栗は、つかの間、三塚の心を開くことができた。なぜ小栗は、そこまでするのだろう。国家、法律というシステムの中で、人を殺す役目をになう刑務官が願うことは、死刑囚が、せめて人間の心を持ったまま死んでほしいということなのだろうか。

だけど本当にすごいのは刑務官のセリフのあとだ。未見の人はぜひ観てほしい。いったいyhsが、作・演出の南参が、なにを目指して、どこを見ているのか。演劇に限らず、笑いを作る人たちにときおり見られる、笑うことに対しての信頼(信奉といってもいい)に、正直、うらやましさを覚えた。

ところが初日のアフタートークで南参は、「迷い」という言葉を口にした。死刑という制度について迷う部分があって、その迷いを描いた、というようなことを言っていたと思う。自分の中の確たる思いを表現することよりも、迷いを表現することの方が難しい。それを成し遂げて、ここまでの舞台を作ることができたのは、すごい。

僕たちはその迷いの中に、なにを見るだろう。ボタンを押した刑務官が、三塚を殺したのだろうか。それとも、死刑執行命令書に署名した法務大臣なのか。あるいは死刑制度というシステム? 国家? 国家を構成する国民?

死刑執行室にボタンは3つあって、刑務官たちがそれを押す。でもボタンは見えないだけで、本当は1億数千万個あって、すべての人が1つずつ持っているのかもしれない。死刑執行の瞬間に押すのではなく、死刑制度がこの国にある以上、僕たちは今この瞬間も、ずっとボタンを押し続けているのだとしたら。

だれが三塚孝を殺したのか。

島崎 友樹
シナリオライター。札幌生まれ(1977)。STVのドラマ『桃山おにぎり店』(2008)と『アキの家族』(2010)、琴似を舞台にした長編映画『茜色クラリネット』(2014)の脚本を書く。シナリオの他にも、短編小説集『学校の12の怖い話』(2012)を出版。今年、2作目の小説を出版予定。
ドラマラヴァ― しのぴーさん

 観終わって、久々に重い鉛を呑んだような気持ちになった。だって、目の前で殺人現場を目撃したばかりなのだから。「今のお気持ちは」とマイクを向けられていたら、「気分がちょっと悪いです」と答えられたとは思えない。「酷い」とも言えない。だが、次の瞬間、劇が消え、人物が役者に戻った刹那。僕は力いっぱい拍手を送っていた。それは決して、僕だけではなかった。気がつくとカーテンコールが起きていた。「この世にあらざるものを見せることが表現だ」、と幻冬舎を率いる見城徹は言った。僕は、きっとそれを見たのだろうと思った。
 今、札幌の演劇シーンで一番力のある作家は誰かと聞かれたら、僕は「それはyhsの南参ですね」と即答するだろう。札幌の演劇シーンの中でメーンストリームというものがあるのかどうか僕には分からないけれども、多分、南参という作家は独特の立ち位置にいると思う。最近では、TGR札幌劇場祭2015で初めて自作ではない戯曲、ケラこと、ケラリーノ・サンドロビッチの出世作「室温〜夜の音楽〜」を素晴らしい演出で提示し、あのZOOの小屋を血みどろに染めて作品賞を受賞したことも印象深い。南参がプレーヤーと呼ぶ役者陣もみんなキレッキレの個性派ぞろいである。南参という作家は彼ら彼女らと、じっと人間の実存の中にぱっくりと口をあけている深い井戸の底を様々なアプローチで描こうとしていると僕には思える。
 長くドラマのプロデュサーをやっていたこともあって、稽古場に入れてもらったことが何回かある。蜷川幸雄(蜷川さんは超多忙で幾つもの舞台演出を掛け持ちしていたので、この時はカンパニーの演助の方だったが)、岩松了、鄭義信。温度差こそあれ、基本は「王様と奴隷」の関係に似ていると感じた。もちろん、優しい王様もいるし、優しい王様でいることもある。だが、劇作家で演出家という絶対的表現者が君臨する稽古場には、部外者が本来はいてはいけないのではと感じる緊張感が満ちていた。南参が役者をプレーヤーと呼ぶのは、自らが書いた本の人物について演じる俳優とじっくり話し合って劇世界を深めている作業を繰り返しているからではないのだろうか(きっと、蜷川のような灰皿伝説などはないだろうと思う)。
 アフタートークも聞いたので、南参の創作の発火点が非常に興味深かった。死刑制度への思索から、さらに死刑を執行する刑務官、つまり“仕事”として死刑囚に刑を執行する国家公務員に想像力を馳せたことが、この劇を単なる罪と罰の物語に終わらせていないのだと思う。一幕で、三塚孝死刑囚(小林エレキ)の刑の執行を翌朝に控え、小栗保安課長(能登英輔)ら刑務官がおちゃらけた予行演習を行っている。笑えるやりとりで始まる劇は予想外の方向へねじ曲がる。妹をストーカーに殺された過去を持つ谷田部刑務官(櫻井保一)が異議を唱えて小栗課長を突然組み伏せ、刑の執行を真面目に手順通りさせるところからもう怖い。暗転で刑が執行されたことが字幕で投影されるが、何か不測の事態が起きたらしいことが知らされる。二幕は、刑が執行された後、刑場の装置の不具合を修理しに来た3人の電気工のパニック。ここまでで、観客は死刑執行がどのようなものか、想像上とは言え否応なく見せられる。そして、刑死が例え自業自得であろうとも見るに堪えないことを知ることになる。そして、この劇の真骨頂は客観的「大回想」として描かれる三幕の息もつかせぬ劇的熱量に他ならない。そこには笑いのひとかけらもない。罪を犯した者の、罰を執行する者の、それぞれの心理描写が、死刑囚が本当に憑依したような小林エレキの渾身の芝居と相まって、深く強く観客の心の奥底に何かを突きつける。誰も見たことのない刑場や(実は一度、NHKスペシャルで東京拘置所の刑場と死刑執行の手順はたった一度だけ公開され放送されている)、誰も考えたことのない、業務として死刑囚を殺す国家公務員の苦悩や葛藤を。一幕、二幕を布石にして、巧みに罪を犯した者と罰する者の心理を撚り合わせながら、核心、つまりグランドゼロたるべきクライマックス、三塚の殺人のその瞬間へと進む劇の構造は見事というしかない。ビーンと張った鋼の上を歩くような劇的高揚を支える俳優陣の力量にも惜しみない拍手を送りたい。
 アムネスティ日本によると、2015年3月末の確定死刑囚は130名。これに対して、2014年の死刑執行は3名。死刑確定後6か月以内に法務大臣が死刑執行命令を決裁し、50日以内に行うと法律では書かれている。実際は、再審請求の問題もあるが、法律に則り粛々と行われているわけではないようだ。ちなみに、劇であったように、刑務官が押すボタンは複数あって、誰が押したのかは分からないようになっているし、もちろん刑務官から刑場が見えることはない。それでも、である。観劇後、ネットで調べたら、執行を担当した刑務官らには手当が支給されるそうだが、そのお金で供養を行う方が多いとあった。僕だったら、正気を持ってボタンを押せたとしても、ボタンを押した指の感覚は一生忘れないだろう。そして、徐々に心が蝕まれていくかもしれないとさえ思ってしまった。そう言えば、死刑を執行できる拘置所は全国で7カ所しかなく、札幌拘置所もその一つだ。
 内閣府が実施した最新の世論調査をみても「死刑制度を容認する」世論は8割を超える。世界で半数の国が死刑を完全廃止したという。確かに、アフタートークのゲストで登壇された札幌大学の前原宏一教授のおっしゃるように、犯人を極刑に処しても被害者家族の修復不能な喪失感や哀しみ、憎しみから生まれる報復感情が癒されること決してはないだろう。この劇は、人が人の罪を赦すことが本当にできるのか、という普遍的な問いへたどり着き、断罪された後の世界に何が生まれるのか。そこへ深い余韻と思索を残す。
 実は、僕は、ある事故の被害当事者になったことがある(実際の被害者は妻だった)。加害者は保険会社が契約した弁護士でしか対応せず、謝罪に来もしなかったし、お詫びの電話や手紙も何もかも一切なかった。略式起訴の前に、担当検察官から自宅に電話がかかってきた。「今、あなたは加害者に対してどのような気持ちをお持ちですか」というような、間抜けな質問だった気もする。こんな小さな事案にも、ちゃんと向き合ってくれるのだなとも思った気もする。でも僕が答えたことは今でも鮮明に覚えているのだ。「刑法の許す限り最大の罰を与えて下さい」と。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴四半世紀にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。
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