ゲキカン!


ライター 岩﨑 真紀さん

遺伝子情報の解析によって最適な職業・最適なパートナーが与えられる社会で、ある人物が、コンピューターのミスにより不適切な人生を強いられる…という小説を読んだことがある。カート・ヴォネガットかオースン・スコット・カードの短編だろうと確認したが、どちらでもなさそうだ。さて、誰の作品だったか。ある時期にSF小説にハマっていたのだけど、乱読で、作者も作品名もほとんどは忘れてしまった。物語の記憶だけが、ふとしたきっかけで蘇ってくる。

『カラクリヌード』の脚本は、近未来という世界設定や関係性の断片を不連続に提示しながら進んでいく。終盤、集まったピースはひとつの恋愛模様をみせるけれども、それは大きなジグソーパズルの一部分でしかない。完結しないエピソード、不明瞭なままの世界。群唱の詩的な言葉まで、『カラクリ〜』はまさにSFの様式を備えている。

登場しないピースを補いたくなるこの脚本に対し、すがの公の演出は大変に潔い。舞台は黒一色、衣装も黒。シンプルな照明。小道具は1種類のみ。
「役者の身体で物語世界を創造する」という、演劇としては根源的な部分への、正面からの挑戦だ。

地下6000メートルで働くモグラたちに、地上6000メートルに住む空のクジラ。ロボットが戦う戦場。社会システムを脅かす、ロボット=機械たちの反乱。はるかな異国から、地下を掘り進んで恋しい人のもとへやってくる巨大な鉄のモグラ。
役者たちの熱が想像力を駆動させ、壮大な世界のイメージが立ち上がる。

説明が過剰な演劇作品では大抵、私は演出家が施した説明のズレや読み落としに苛立つ。『カラクリ〜』のシンプルな演出の情報量は、「わかる」と「わからない」のバランスが私にはとても心地よく、最後までイマジネーションの世界を楽しむことができた。

そして、舞台の上の役者たちも、なんと楽しそうなのだろう。いや、物語はけしてハッピーなものではなく役者たちも楽しそうな顔をしているわけではないのだが、確かに、演じること、創ることを楽しんでいるように感じたのだ。踊る身体が楽しい気持ちを呼び起こすように、演じる熱がそういったものを連れてくるのか(実際のところハードそうな舞台だし、私の妄想かもしれない)。

大変に好感を持って観たこの作品だが、ラストはちょっと残念だった。「純粋な気持ちが世界を動かす」という物語は嫌いではないが、「忙しい夫がかまってくれなくて淋しいから誰か…」というのでは、せっかく立ち上げた壮大なイメージが随分小さな物語に収束してしまう。惜しい。

すがの公はフライヤーに、「物語が完結するころ、彼らは我々と同じになる」と書いている。確かに、ラストでそのようになっていた。
しかし、「彼らはまさに彼らだ。だが、我々は彼らと同じなのかもしれない」と感じる、人(ここではロボット?)の不可解さが世界をさらに大きくするラストもあり得るように思う。

岩﨑 真紀
フリーランスのライター・編集者。札幌の広告代理店・雑誌出版社での勤務を経て、2005年に独立。各種雑誌・広報誌等の制作に携わる。季刊誌「ホッカイドウマガジン KAI」で観劇コラム「客席の迷想録」を連載中。
ドラマラヴァ― しのぴーさん

 これは、ある「純愛」の物語だろうか。いや、違うと思った。僕の感じたもの正確に言葉にすれば、この劇はヒューマニティへの問いかけかも知れないと感じた。観客は芝居小屋の暗闇で再現性のない作家が作り上げた物語を目撃し、時として整理のつかない感情を持って外界へ出て行く。そして、「あれは何だったのだろうか?」と考える。僕はこの「カラクリヌード」に、演劇が時として提示する大きな物語の意味を見出すのだ。
 僕は個人的に、フライヤーに人物の相関図が書かれているのが嫌いだ。幕が開く前に、居心地が悪くなる。劇への想像力を制約されるし、何と言っても作家から人物設定を図で説明されることに意味を感じない。しかもSFものが好きではないときている。「やれやれ」。僕は、村上春樹の小説の主人公のようにため息をついた。ただ、一筋の希望の光は、僕の目の前にある真っ黒い四角い台だった。僕の想像力はこの黒い舞台に強く惹かれた。演出家の覚悟というか、強い意志を感じたからだ。
 あらすじを簡潔に言えば、地下6,000メートルで苦役を強いられているロボットのゼロスケが、ある日、「運命の人」、人間の女の子であるリコと恋に落ちる。けれども、ビッグブラザーよろしく総理大臣に拉致され、地上6,000メートルにある総理公邸に監禁されてしまった。その彼女を救出するために、都合1万2,000メートルの落差を乗り越えて救出に向かう話し。初演の2002年時にこの劇を観ていたら、ロボットと人間をめぐる劇自体、僕には既視感があり、よくあるだろう物語には正直新鮮味を感じなかっただろう。
 だけれども、僕たちが生きるこの世界が極めて危険な方向へ向かっている2016年。僕たちがいてこそ国があり、社会があるはずなのに、システムが、権力者が僕たちを国に仕えさせようとしているきな臭い2016年。この再演は、そんな時代と鋼のように対峙し共振しているように思えた。
 すがの公は、札幌座のディレクターも務めていて、去年はベケットの「芝居」に挑んだ。
 確かフライヤーの美術も手掛けたはずだ。この「芝居」は演出家の才能を示すのに十分だった。ZOOの小屋をあのように使うなんてとても新鮮で、その発想力に驚いた。この「カラクリヌード」で実に素晴らしかったのは、美術を完全に切り落とした真っ黒な舞台で黒い衣装をまとった10人の役者たちを見事に動かしてみせたことだった。舞台上に登場しない役者は、舞台の周りでホットバッジを呼ばれる発光体をかざしながら劇を照らし、またギリシャ悲劇のコロスのように劇の行く末を謳う。複数の役者の塊が一人の人物を演じ、また10人が黒い一つの身体となって舞踏しながら観客へ迫る。これは圧巻だった。「ハロー、ハロー、ハロー、こちら地中深く、地下6,000メートル、鉄のモグラ、空のクジラ。君へ。僕の声は聞こえますか。ハロー、ハロー、ハロー」と。劇中で起こっているのは、おそらく世界戦争だ。富めるものはバベルの塔に住むことができるクジラ族、貧しいものは地下に追いやられモグラと呼ばれる単純労働者となる。貧富の激しい惨い格差社会。しかもロボットはターミネーターのような殺人兵器に改造されて戦場へ輸出されていく。やはり、この近未来は間違いなく僕たちの国だ。
 すがのはゼロスケとリコの純愛にハッピーエンドは用意しなかった。1万2千メートルを登りきったゼロスケはリコにたどり着き、崖っぷちで彼女の手をかろうじて握りしめるが、結局は力尽きて落下してしまう。真っ暗闇に落ちたゼロスケは言う。「神様はいると思う。幸せもあると思う。どこにいて、どこにあるかがわからないだけだ」と。そして、運命の人と出逢うと光るというホットバッジを静かに地面に置いて暗闇に去っていく。僕は心の中で叫んだ。攻殻機動隊の草薙素子の台詞ではないけれど、ゼロスケ、お前が「未来をつくれ」。たとえロボットであったとしても、自らの魂(ゴースト)に従って。
 僕は、神様はいないと思うし、幸せがどこかにあるとも思わない。まして、運命などというものは絶対に信じない。そんな想像力のない世界は面白くないじゃないですか。神様なんてどこにいるか、幸せなんてどこにあるのか決してわかりはしないから、人は温もりを求めて人とつながっていける。人を助けるのはやはり人だ。そして、そこに人とロボットを隔てるなにかがあるとは思えない。だから僕は妻が高性能のダッチワイフでもかまわない(妻よ、許せ)。そこに愛は生まれ、二人で長い時間をかけて記憶を重ね、決して美しくはないけれども小さな世界を、ささやかだけれどもいとおしい日々を作り出せるのだから。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴四半世紀にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。
在札幌米国総領事館職員 寺下 ヤス子さん

何もない空間。黒い衣装の劇団員の声と汗がほとばしる。何もない空間に、3Dホログラムや両腕が機械となった人間、ガンダムみたいな巨大化していくロボットが現れる。小道具はホットバッジと呼ばれる発光体のみ。その演出の潔さにくらいついていくような役者たちの姿が感動的だ。ロボット近未来SF、プロレタリア、お姫様救出、といった男子好み的なフレームにロボットと人間のロマンスを描く・・感動はそのストーリーからではなかった。感動は、演じる彼らから発せられた。演劇とは、舞台とは、想像力とは、といった原点を考えさせられる、演じる者、観る者、共に挑戦の舞台だった。小手先の観客受けを狙わない、すがの公氏の演出に拍手を送りたい。

正直に言うと、以前にこの劇を観た時は、役者が絶叫するセリフが聞き取れず、よくわからないままだった記憶がある。当時のフェースブックにも「おばさんは体育会系叫びについていけず・・」などと書いていた。今回、その改良たるや凄まじい。おめでとう!そして、ありがとう! 

”Crude”という英語が芝居の印象として浮かんだ。原油のようにあらゆるものに派生していく前の、どろりとした原物のイメージである。創作への熱源のようなものを見た気がする。それは、鬱積した不満であり、嫌悪であり、哀切でもあった。
「運命の人と出会って、幸せになるの」という他力本願な幻想を抱く、「あなたは仕事ばっかりで、私は寂しかったの(だから他の男に恋)」といった、”私はヒロイン”女性のリコ。漢字は「利己」じゃないの? そんな女を愛する人間の男とロボット。あな、かなし。 

2013年に札幌座の「ロッスム万能ロボット会社」を観ている。演出はこれもすがの公氏だ。カレル・チャペックがなんと1920年に書いた作品でロボットという言葉はこの戯曲かららしい。ロボットがやがて人間に反旗を翻す、という予言的とも言える先駆的作品だ。ペッパー君が攻めて来るなんて今は考えられないけど。ペッパーとルンバならスターウォーズのC−3P0とR2−D2みたいにフレンドリーだ。と信じたい。ロボットより気になったのは、人間社会。離島に集結している社長と数名の男性科学研究者たちの中に、会長のお嬢様が一人、憧れのマドンナとして登場して、やがて社長と結婚する。これ、現代は、女社長と数名の女性科学者の中に一人のイケメン、という男女逆バージョンの方がいい。男優、誰がいい?私、妻夫木聡。

イギリスで演劇を学んでいたとき、何もない空間で、小道具なし、音声なし、おまけにギリシャ劇を真似た白い無表情の仮面をつけて、指名された2名で即興劇を強いられた。パントマイムするな、と容赦なくストップがかかる中、いろいろ試みて、最後に相手が走り去ったのを思わずハッとして振り返った。その振り返った一瞬だけが、君の真実の瞬間だったと言われた。演技はいわばどうでもよくて、その一瞬の違いが体感できればそれでよかったのだ。あの一瞬は今も忘れない。久しぶりにあの緊張感に満ちた空気を思い出した。 自分をさらけ出す。そんな力が何もない空間にはある。

寺下 ヤス子
在札幌米国総領事館で広報企画を担当。イギリス遊学時代にシェークスピアを中心に演劇を学んだ経験あり。神戸出身。
シナリオライター 島崎 友樹さん

冬に観た芝居の方が、記憶に残ってるような気がする。

どうしてだろう。熱気うず巻く劇場をあとにして、寒い外に出たとたん、芝居の感想や心の中の感情が、ガチンと記憶の中で凍ってしまうんだろうか。

今夜、札幌ハムプロジェクト『カラクリヌード』を観た。簡素な黒い舞台、衣装も黒。小道具は一種類だけで、それが色を変える。スピーカーから流れるSEはない。すべて役者の声で表現する。

役者は声をあげる。SEとしてだけでなく、登場人物として、感情を叫ぶ。セリフの応酬は、巨大な爆発のように舞台上を覆う。何度も。シアターZOOの大きさを考えれば、場違いなほどの大きさだ。過剰とも思える盛り上がりのあと、突如、静寂が訪れる。炎が一瞬で凍ってしまったように、場が変わる。

その静けさがいい。まるで、舞台の上に真空が生まれたみたいに、役者も、客も、物語も、そこに吸いこまれてしまう。

ああ、これを観に来たんだな、と思った。

ストーリーは、わかりやすいわけではない。様々に現れる登場人物を整理しながら、突如生まれるリンクに翻弄されつつ、客はなんとか流れを追う。わかりづらいと言う人もいるかもしれない。だけど、舞台上で苦しみもがく、登場人物の感情がわからない人はいないだろう。

あのカメラマンの叫びや行動に、胸打たれない人がいるだろうか。SFなのに、まるで現代の男女のやりとりのようだ(ぜひ観てほしい)。その場面を見て思う。僕たちは、相手の何を見て、好きとか嫌いとか判断しているんだろうか。“ここではないどこか”が、“いまここ”になった瞬間で、SFというジャンルが持つ美しさだった。

芝居が終わり、熱気に包まれた劇場を出て、冬の、夜の道を歩いた。歩きながら僕が思い出していたのは、熱いセリフのやりとりではなく、凍りついたように動かない役者たちの姿と、そこに現れた、まったくの静寂だった。

島崎 友樹
シナリオライター。札幌生まれ(1977)。STVのドラマ『桃山おにぎり店』(2008)と『アキの家族』(2010)、琴似を舞台にした長編映画『茜色クラリネット』(2014)の脚本を書く。シナリオの他にも、短編小説集『学校の12の怖い話』(2012)を出版。今年、2作目の小説を出版予定。
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