ゲキカン!


在札幌米国総領事館職員 寺下 ヤス子さん

舞台上の演者が楽しんでいるのが伝わり、観客を笑わせる。雪祭りでの「さっぽろ冬物語」あり、演劇シーズンあり、といった札幌演劇の高揚感が舞台にある。仕事帰りに雪祭りから足をのばして気楽に観劇。カフカの短編寓話を読むように、サクッとカラリと、正気と狂気、日常と非日常を行き来する。過去の上演が高評の本作を、今回初めて観た。オリジナルは、ハンガリーの作家、カリンティの「亀、もしくは居酒屋の中の気ちがい」という寸劇らしいが、ぜひオリジナルも観てみたい。

札幌座のディレクター5名の競演。いずれ劣らぬ個性派ぞろい。笑わせ方もそれぞれの持ち味だ。橋口幸絵氏なんか、ハマりすぎてコワいくらい!すがの公氏のボソッとしたセリフ回しが好き。昨年の札幌座「デビッド・コパフィールド」での彼の演技に涙したことを思い出す。

本来は、知っている顔を舞台に観るのは興ざめで、芝居を観るたび常に知らない俳優ばっかりだったらどんなにいいだろう、と夢見ている私である。xxさんががんばってるな、と思った時点でフィルターがかかる気がするのだ。舞台で劇中、素にもどってギャグを言われたりするのは、故勘三郎氏であってもゲンナリした。(ごめんなさい。ご冥福をお祈りしてます。)なら人形劇でも観とけと言われそうだが、確かにNHKの「新平家物語」は好きだった。人物像が俳優のイメージに邪魔されず、本質が直接入ってきた。黒澤明監督だって、大役を一般オーディションで決めたりしたことがあったし。な〜んて非現実的なわがままがある一方、はまり役とか七変化といった役者の技量や身体能力を見るのはやっぱり楽しい。このジレンマも演劇鑑賞の醍醐味だ。昔、俳優アントニー・シェール氏演ずるマーロウの「タンバーレイン」で、何よりも同氏の能力そのものに感動した覚えがある。舞台につり下げられた太縄を登り、くるっと頭を下にしてスルスルと滑り降りてくる。その間、ずっと朗々たる声量で王者タンバーレインのセリフを吐いていた。ターザンのように縄につかまって舞台の端から端へスウィングして敵に飛び蹴りして観客を湧かせた。その力強い声で発せられるマーロウの詩的なセリフは、野性的でありながら甘美でさえある。映画じゃだめなんだなあ、あの人のすごさは舞台でないと伝わらない。

ああだ、こうだとわがままな観客を満足させるって大変。しかし「伝えたい」という真摯な思いでかいた汗は裏切らない。我々が受ける感動は、きっとそれに比例している。今回は、5丁目から13丁目まで走ってきた汗だった。

本作の狂気のカラリ感と対照的に思い出したのは、札幌劇場祭TGRで観たyhsの「室温」のじっとり感だ。ケラリーノ・サンドロヴィッチの脚本。え、外人?と思ったあなたは、私と同じく近代日本戯曲に不案内ですね、アミーゴ。登場人物誰もが心の闇を抱え、誰が罪深いのかわからなくなる名作。浮かび上がる狂気。肌にまとわりつく湿気。自分は大丈夫なのか、と不安になる。暑さの中で凍る背筋。違って本作は、狂気の沙汰が、羨ましいくらい楽しそうなのだ。サナトリウムに入ったら、私もやってみたい。

寺下 ヤス子
在札幌米国総領事館で広報企画を担当。イギリス遊学時代にシェークスピアを中心に演劇を学んだ経験あり。神戸出身。
シナリオライター 島崎 友樹さん

斎藤歩作品のすぐれているところは、フォルムの整い方だ。

なんて書くと、さぞかしたくさん観てるんだろうな、と思われるかもしれないけど、全然、そんなに。4〜5作くらい?

しかしそのどれもが整っていた。『玉蜀黍の焼くる匂ひよ』、『冬のバイエル』、『霜月小夜曲』、そして、『亀、もしくは・・・。』。

たいてい物語を書く人は、何かの熱情、突き動かされた衝動があって書く。熱量の差はあるとしても、やっぱり自分の中のなにかを燃やして書くはずだ。そうなると、書きたいことや個人の情念みたいなものが作品を歪ませる。その歪みが個性となって評価されることもあれば、いびつで不明瞭な部分として嫌がられることもある。

ところが斎藤歩の作品には歪みがない。大変整ってる。スッキリして無駄がない。いっけん無駄のような箇所も、けっして暴走することなく、いつの間にか全体の中に収まっている。

なにに似てるんだろうな、と考えたとき、僕は東欧の小説なんかを思い出す。スタニスワフ・レム、スワヴォーミル・ムロージェク、フランツ・カフカ……。(そして『亀〜』の原作もハンガリーだ)

どれもスッキリしてない! いびつだろ! と思われるかもしれないけど、無駄な素材のなさ、全体としてのフォルムの整い方は、やっぱりスッキリしていると思うし、なにより、そうだ、湿度がない。東欧作品も斎藤作品も湿度を感じさせない。人間を描いてるはずなのに、感情があらわになっているのに、そこにはジメジメしたものはない。

そのスッキリ感がいいんだ。湿度のなさはドラマから生理的な嫌悪感を排除する。さらに斎藤歩の作品では、フォルムの整いがストーリーの明瞭さを生んでいる。だから多くの人に支持されるんだろう。

僕が最初に『亀〜』を観たのは2005年だと思う。その頃はまだ東欧感というか、社会主義的ソリッド感みたいなものを感じたけれど、あれから10年以上たち、様々な公演を重ねた本作は、温かみすら感じる不思議な作品になっていた。(敬称略)

島崎 友樹
シナリオライター。札幌生まれ(1977)。STVのドラマ『桃山おにぎり店』(2008)と『アキの家族』(2010)、琴似を舞台にした長編映画『茜色クラリネット』(2014)の脚本を書く。シナリオの他にも、短編小説集『学校の12の怖い話』(2012)を出版。今年、2作目の小説を出版予定。
ライター 岩﨑 真紀さん

長く働いていれば、無理難題をふっかける上に方針をコロコロと変えるお客様に出会ってしまうこともある。 フリーランスなら、撤退も含めて多様な戦術を自分で選択できるけれど、組織に所属していればそうはいかない。「それくらい上手くやれて当然」と上司に言われ、打ち負けることは承知しながら同じ技で戦い続けるハメにもなる。このようなトラブルが長引けば、おかしいのは客なのか、上司(会社)なのか、自分なのか、全く判断がつかなくなる。

狂っているのは誰か。

第三者からみれば、「全員狂っている」という見方だってもちろんあるわけだ。社会は茶番劇で成り立っている。けれど茶番劇の背景には、生きていくことの悲しさ愛おしさ、でなければ怒りや諦めや虚無の深淵があるはずだ。茶番は観る人によって様相を変える。問題は「どのように観たか」なのだ。茶番から本当に笑いだけしか感じなくてよいのか。笑っている自分を嗤う視線を感じないか?

…なんて、そんなことをいつも真面目に考えなくたっていい。ただ笑って日々の憂さを晴らす、それこそが我らの人生の活力。『亀、もしくは…』はそのための作品だろう。

さて、『亀〜』の中で、私が「おお!」と思ったシーンが二つある。

一つは、恐らくは最初の笑いのための仕掛けである、医師と看護士が至近距離で見つめ合ったときの「間」。すがの公の、この間の取り方というか外し方というか、表情の作り方がとても良かった(斎藤歩の背中側から観た)。すがのの演技には、いつも独特の味わいがあっておもしろい。

もう一つは、今回の上演のために加えられたという、修道女の場面だ。橋口幸絵を役者として観るのは初めてだが、さすがは「魅せる舞台」を得意とする演出家。役者は変われど2名が見つめ合って会話するシーンが続いた後に、実に生き生きと登場し、教文小ホールの舞台の広さの中でも客席に向かってドドドン!とアピールした。

そうと思えば、いつもは自分が作演する劇団の主宰である『亀〜』の役者たちの演技の、なんとそれぞれが創る作品に似ていることか。

札幌座のディレクター5名が役者としてそろい踏みしている今回の『亀〜』、体制の節目を迎え、長である斎藤歩にとっても力の入った作品に違いない。脚本には原作があるものの、それは時折、遠い残り香としてうっすらと感じられる程度。今回の『亀〜』は全編、斎藤歩作品と言ってもいいと思う。

『亀〜』は座長公演のお楽しみ企画という背景もある。その証拠に、ちょっとした第二部の余興が付いているのだ。ディレクターたちに馴染みの札幌座ファンは、一部で爆笑し、二部を楽しみ、これからの札幌座を背負って立つ斎藤歩の挨拶に、心からの拍手を送ったに違いない。

岩﨑 真紀
フリーランスのライター・編集者。札幌の広告代理店・雑誌出版社での勤務を経て、2005年に独立。各種雑誌・広報誌等の制作に携わる。季刊誌「ホッカイドウマガジン KAI」で観劇コラム「客席の迷想録」を連載中。
ドラマラヴァ― しのぴーさん

 いつも駄文を長々と連ねる僕だけれど、今回は冒頭に言っておきます。パーフェクト!時間のゆるす限り、教文に足を運んでくださることを、そしてできれば何回か観てくださることを強くお勧めしたい。演劇とはまさにこのような作品をいうのです。
 ところで、パーフェクトというビールの呼称をご存知でしょうか。ビールの中身はどこで飲んでもまったく変わらないのに、グラスに注がれて飲むとまったく味わいが異なることは普段僕たちがよく経験することだ。これは、日々サーバの洗浄やメンテナンスを怠らず、グラスも完璧な状態を保つことでが必要で、しかも細心の注意と大胆さをもってグラスに注がねばならない。簡単なようだけれども実はとても大変な作業らしい。この注ぎ手のビールへのたゆまざる愛情が味わいをパーフェクトに変える。芝居の成長も同じように思えてならない。
 上演回数は海外も入れると100回は優に超える、21年目を迎えた「亀」。ウィスキーで言えば、極まりない熟成の味わいに酔いしれたいところだ。けれども、この「亀」は、今もなお新鮮な劇的興奮を失わず、注ぎたてのパーフェクトビールのようにインパクトのある喉越しで脳天を撃つ。そして、思わず口にするのだ。「ぷはーっ、生きててよかった。こんな芝居を観れるとは」と。なぜなら、20年もの間、劇という”なまもの”の注ぎ手、つまり演出家や俳優によって、たゆまざる創作と思索、勇気ある刷新と限りない愛情の上にこの芝居は進化して立っていると思うからだ。 
 原作のカリンティ・フリジェシュは20世紀を代表するハンガリーの国民的劇作家とある。国民的と言えば、劇作家ではないが「いいなづけ」で知られるイタリアのアレッサンドロ・マンゾーニを思い浮かべる。「いいなづけ」は、かのダンテの「神曲」とともにイタリア人の家庭に聖書とともに必ず置かれているし(これは本当です)、その死は国葬となり、ヴェルディは悲嘆に暮れつつレクイエムを作曲した。きっとカリンティはそうではなかっただろう。しかし、斎藤歩が、彼の短編戯曲と出会い、当時斎藤が主宰していた劇団、札幌ロマンチカシアター魴鮄舎で座内試演しなければ、この「亀」は日本で誕生することはなかったかもしれない。
 僕が演劇というものに出会ってしまったのは、実はこの「亀、もしくは…。」だと告白しておこう。多分、札幌座がまだA.G.Sだった頃の公演だったように思う。小屋もZOOではなく、なくなってしまった、札幌マリアテアトロだったかもしれない。とにかく、へんてこな芝居だったが、強烈な印象を今でも記憶している。演劇に興味のまったくなかった僕が、舞台の世界に惹き込まれることとなった記念すべきレジェンド。その後も、何回か観ているけれども、毎回新しい発見がある。
 映像の世界にはイマジナリーラインという言葉がある。人間は物語をみずからの想像力で先に先にへと読んでいる、あるいは予測して見ている。言い方を変えれば、劇もまた先に観客の想像力で埋められるリスクを孕んでいると言ってもいい。斎藤が脚色し、原作の15分ほどの戯曲から1時間の芝居に育てた「亀、もしくは…。」の最大の面白さは、観客からこのイマジナリーラインをまったく奪い去ってみせることだと思う。いい意味で破壊するといってもいいと思う。物語の展開は徐々に予測不能となり、観客は何が起こっているのか、登場人物は一体何者なのか、そしてその真実の境界線を判断することもできなくなっていく。そして、今回の再演は、千年王國を主宰する橋口幸絵の参加で、その破壊力はさらにパワーアップした。劇中、医師(斎藤歩)が医学生のヤーノシュ(弦巻啓太)に、ある育児ノイローゼの女性患者のことを話すシーンがある。自分を牛だと思い始めたその患者は全裸になって自分に白と黒のペンキを塗ってホルスタインになり、牧草地でモーモーと乳まき散らかして小躍りするようになってしまった、どうだ面白い症例だろうと。ネタバレになるので、これ以上は書かないが、この台詞は巨大な伏線になってあなたの脳天をぶち割ることだろう。改訂で差し込まれた橋口の台詞もわけがわかりません(笑)。
 物語がとにかく面白く、人物も独特のキャラクターで彫られている。後味も芝居の深みを堪能するにふさわしい。でも、おっと待てよとまだ亀に騙されているかもしれないことに気づいたりもする。この芝居は、僕たちの「正常」と「異常」の境界が、「自己」と「他者」の境目がいかにあいまいであるかを強烈に風刺したブラックコメディといえるかもしれない。去年引退したシルヴィ・ギエムの公演を観に2012年にシドニーまで追っかけした時に、コンテンポラリーアートミュージアムで現代彫刻家の巨人の一人、アニッシュ・カプールの特別展を観た。どの作品だか覚えていないけれど、不思議な文字を見つけて、顔を近づけて読んでみると「正気と狂気の間にはシンレッドライン(細い赤い線)しかない」とあった。人間はかくもまか不可思議で予測不能かつ不条理な存在だ。そのことを、この芝居は笑い飛ばしてくれる。だからこの「亀、もしくは…。」には普遍的な強さがあり、これからも国境や民族の壁をも超えて上演され続けていくのだろう。自らを写す、いわば鏡として。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴四半世紀にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。
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