劇を観ている間、高尚なところから言えば、僕はフェリーニの「道化師」や幼い頃にどこかの空き地(昔は本当に空き地が多かったのだ)に張られた木下サーカスのテント小屋で見た摩訶不思議な記憶。今流行りの言葉、「ゲス」なところで言えば、天王寺動物園の前でやっていたまやかしの手品師のおっちゃん。それに、桜の咲く頃、大阪造幣局へ向かう通り道に唐突に現れるフリークショー(お化け屋敷ではありません)や遊び場所だった四天王寺の境内にいつもいた、物乞いをする”傷痍軍人”たちのことを思い出していた。
シド・アンド・ナンシー(史実は別として、ゲイリー・オールドマンを一躍スターダムに押し上げた映画のDVDを観てください)に着想を得てとリフレットにあったけれど、事件の構造をパクっただけであまり劇の本質とは関係がないと思ったし、やっぱり僕はリフレットに人物相関図を書かれるのが嫌いだと改めて思った。殺害された寺沢みなみの真犯人を追っていた観客はがっかりさせられる。真犯人がわかる最後のシーンは「ノックスの十戒」とか「ヴァン・ダインの二十則」を引き合いに出さなくとも、ミステリーのお約束ごとに反しているんじゃないかと(劇中になんの伏線も打たれていない)。戦争という背景やシステムが操るクスリの密売といった劇の道具立てはどう見ても既視感があって、僕にとってはという意味だけれど、新鮮な素材ではなかった。
でも、面白かったのだ。統一性のないバラバラな素材でできたおもちゃの入った箱をひっくり返したような劇のしつらえと意表をついて現れる芝居の仕掛けが。劇を差しおいて失礼かもしれないけれど、この「ゲキカン!」ではあまり触れられることがないでの、敢えて書いておきたい。美術(上田知、川崎舞)、それと衣装(佐々木青)は特筆すべき収穫だ。特に衣装はこの劇の立役者と言っても過言ではないだろう。人物では、かもめ(ナガムツ)、プカ子(スズエダフサコ)、タネ(山口萌)の三人姉妹は、作家である亀井健の異才の産物だと思った。この女優陣はとても舞台映えしてチャーミングだったし、そのキモかわいさに僕は魅せられた。実はこの三姉妹がこの劇の真ん中に居座って、人物を回しているせいもあったかもしれない。一方、箱書きで進む芝居ではないので、時としてほつれ、ほころびかける物語をつなぎとめているのは、作家自身が演じる探偵である。僕は、途中から、寺沢みなみの殺人犯はどうでもよくなって、探偵が劇の中で分け入り腑分けしていく、それぞれの人物の持っている異形さに惹かれていった。
シドにあたる寺沢みなみ殺害の容疑者、鴨江士郎(チヤゲンタ)には、ほぼ物語が付与されていないと思うけれど、ナンシーにあたる寺沢みなみ(寺地ユイ)は妖しく士郎を翻弄し、世界を貶めようとする。今の時代の若者たちが、愛のために死ぬとは思わないし、むしろ、ゆがんだ愛のために人を殺める時代になってしまった。一瞬にして恋に落ちて、幼さゆえに死へ向かって刹那的に分別なく暴走するロミオとジュリエットのような愚かしい純粋さは、この士郎とみなみからは感じないし、爛れたセックスのむせかえるような匂いもしない。むしろ、士郎はガキだ。しかし、チェルシーホテルからどこへも逃げられなかったみなみの自己破壊衝動にあふれたアナーキーさには心打たれたし、終幕近くに歌うマイウェイは観客を挑発しつつ自らの愛と人生の顛末を切なくシャウトしていた。イーグルスもホテル・カリフォルニアで歌っている。いつでもチェックアウトはできるけれど、どこへも行けはしないと。みなみは、誰かに殺されたのではないだろう。自らを誰かに殺させたのだろうし、自分で士郎のナイフで何度も刺して破滅したのかもしれない。そもそも、みなみなどという肉体を持った女は最初からいなかった可能性すらある。もう観客の誰もが犯人探しなどしてはいない。だからこそ、犯人(がいるとするのならば)は煙のように観客の想像力の中へ消える。その方が、劇としてはドラマティックで美しかったと、僕は思う。だから、僕が殺しましたと告白する終幕は、せっかくの芝居に格好をつけてエンドマークを置いたような違和感が残った。
いろいろ書いたけれど、これだけ曲者の人物を江戸川乱歩的世界において、時制を往来させ、暗転を少なくして舞台上でシークエンスを転換させたり、美術セットの巧みな使い方など、亀井健と手代木敬史の演出は観客に面白い物語を提供しようという小劇場ならではの創作力にあふれていた。付け加えて言えば、作家の亀井健の書いた本の中で、突然、劇の核心にすとんと落ちるような美しい台詞がいくつもあった。力任せに書いているわけではないと感じたので、再演を重ねての伸びしろを楽しみにしたい。
「愛の顛末」では、挿入歌のように歌(シャウトも含め)が印象的に使われている。僕は、こんなところで、「プカプカ」を聞くとは思わなかった。60年代から70年代を風靡し、時代のアイコンとなったジャズシンガーで、勃興期のアングラ舞台にも立った安田南に捧げられた西岡恭蔵の大人の名曲だ(ちなみに安田は突如として時代というシーンから蒸発し、西岡は50歳で自死している)。JASRACの関係で歌詞をかけないのが残念だけれども、僕がプカプカと出会ったのは18歳の春のことだった。2歳上で浪人時代はバーテンダーもしていたという大人びた彼がギターで聞かせてくれたプカプカ。この曲は愛や人生の残酷さを知らない、世の中には少なからずくそったれなことが満ちていることを知らない子どもが歌っちゃダメだと未成年に感じたことを今でも覚えている。ヒットチャートになんか一度も登場しなかったし、レコードが売れたという話も聞かない。でも、何人ものシンガーに歌い継がれてほぼ半世紀。きっと、マイウェイと同様に100年後も歌われているだろう。
謎のキモかわ三姉妹のカギを握る次女、プカ子(別れた恋人の煙草を指に挟んでいるが吸えないという設定がキッチュで面白い)がアコーディオンを奏でながら歌うプカプカ。芝居は跳ねているけれども、何かに向かってパンキッシュにアジテートしてはいるけれど、どこか醒めて乾いた今という時代へ向ける作家の眼差しを感じる。この「愛の顛末」にふさわしい、現代の寄る辺なき男、シドが歌うナンシーへの愛の讃歌かもしれない。亀井健に会って、濃いバーボンでも飲み交わしたい気分になって小屋を後にした。
さて、札幌演劇シーズン2016-冬の「ゲキカン!」は、この「愛の顛末」をもって最後です。拙文におつきあいくださり感謝します。映像を仕事にしている僕から見て演劇が一番素晴らしいのは、一度として再現性がなく、役者と観客の間に立ち上がる一期一会の感動だと思うからです。それが劇的空間です。その表現には無限の可能性があります。人間の愚かさと哀しみを。憎悪と復讐を。一方で、僕たちの愛と希望を。僕たちがこの世の不条理に打ち勝ち、未来を自らの手でつかみ取ることのできる素晴らしい存在であることを。いわば魔法の絵の具です。演劇に触れてくださり、お芝居好きな人々の裾野が広がればどんなに劇は豊かになるだろうかと思います。きっと、劇が豊かな社会は幸せな社会か、不幸な社会かのどちらかでしょう。でも、幸せな方がいいに決まってますよね。そう願っている、この演劇シーズンに関わるすべて人たちに心からの感謝とエールを送りたいと思います。「人生は舞台である。人は皆、役者」(ウィリアム・シェイクスピア)。
劇団コヨーテの演劇を初めて拝見。劇中、万能薬の瓶をもらった幸運な私です。
俳優さんたちがいい。セリフ回しがこんなに上手な劇団があったんだなと嬉しくなった。特に、作家・演出家でもある探偵役の亀井健氏は場面を引き締める。さすがセリフがこなれている。プカ子役のスズエダフサコ氏のセリフもピタっとはまっていた。プカ子のアコーディオンと歌に、思わず心中、関西弁で「芸達者やわあ」と感心した。こういう人たちがいると、士郎とみなみが活きる。みなみ役の寺地ユイ氏、役に入り込んでいて気持ちよかった。スパッと、エアKeiの如く決めてくれた。
歌詞を含め詩的なセリフがいい。探偵、鳳の三日月と爪のくだり、みなみの「しっかり私を失うの」のセリフ、ほか、キラリといいセリフがいろいろ。心魅かれた。
演出の洋と和の混在具合がいい。ギムレットとかまぼこ、みたいな。
オリジナル・ストーリーの、シド・ヴィシャスがパンクロックの寵児としてもてはやされ、やがて捨てられた1970年代。イギリスは英国病といわれるほど長い経済の停滞期。鬱憤を晴らすかのように出てきたセックスピストルズ。しかし私の記憶では、クイーン、ディープパープル、あのデビッド・ボウイ、レッド・ツェッペリン、イエスとものすごいロックバンドが出てきて、シド・ヴィシャスのセックス・ピストルズなんて目が向かなかった。ところで副題についている「ボーイズ・ビィ・シド アンド ナンシー」だが、実は「ボーイズ・ビィ・シドヴィシャス」という、クラーク博士が笑いそうなシャレが元なのでしょう。
一方、戦争直後の日本で彷彿とさせるのは、特攻隊員に使用されたと聞くヒロポンだ。強くなる、何も恐くなくなる、強壮剤だとして軍医に打たれたという。さすがに直接は知らないが、これにまつわる終戦直後の日本を描いた作品を、昨年、朗読教室の仲間が戦後70年記念に読んだ。重兼芳子の「組み敷いた影」という小説。素晴らしい作品なので、ぜひお読みいただきたい。さても舞台には戦後の日本人の喪失感と焦燥感、被爆の恐怖、国家権力の脅威がほどよく漂い、過度にならずストーリーの厚みを増した。
ロックミュージックが「セックス、ダンス、ドラッグ、ミュージック」を三種ならぬ四種の神器のように歌った時代。シドたちの純愛とセックスの関係、喪失感、焦燥感、退廃、快楽、刹那、突き詰めたその結果の麻薬中毒。弱かった、自業自得と言われればそれまで。しかし切なく愛しい。誰の中にもある弱さを、誰の中にもある欲望を、さらけ出してくれるから。世の中にうんざりして、不条理を嘆いても、私はあんな風にはならなかった、と安心しているのかも知れない。または、世の中のルールに馴染んで抑えつけられた自分にはできないことを、堂々とやってしまった彼らがうらやましいのかも知れない。
「共感してくれなんて頼んでねえよ」と寺沢みなみの声が聞こえる。
観ていて爽快だった。ちょっと泣きそうになった。いや、物語に入り込んで泣きそうになったわけじゃない。
演出の大部分を担った亀井健の、自分が書いた脚本世界に対する信頼というか揺るぎなさというか、好きなものを惜しみなくぶち込んで客に媚びない姿勢というか、そこに気持ちを持っていかれたのだ。そうだ、小劇場演劇が好きなものを創らないでどうする、と言いたい。
ごちゃ混ぜのおもちゃ箱のような芝居なのだ。
パンクでアナーキーで、退廃的で、猥雑と耽美が同居していて、ポエティックで、大道芸というか見世物小屋っぽさもあって、生き生きとしている。
ベースにあるのはシド&ナンシーなのだけど、探偵やサーカスやアコーディオンや傷痍兵が登場する江戸川乱歩で明智小五郎な世界観に、転がる先はSFか李香蘭かと思わせる三回目の戦争と大陸出兵と被曝の話。資本主義論、落語「粗忽長屋」、70年代ソング「プカプカ」、パンクな「マイウエイ」。けれど、それらを使って描きたいものが揺るぎなく「愛」だということが、作品をまとめ上げている。
シド&ナンシーならぬ鴨江士郎と寺沢みなみを巡る愛、かもめら三姉妹を巡る愛。これらが、寺沢みなみの死の謎を探る形で時間軸を彷徨いつつ展開されていく。
2014年の初演からは、少し脚本が変わっている。要素とシーンが整理され、物語がわかりやすくなった。姉妹の愛の形が変更され、不在だった恋人が書き加えられている。不明瞭だったラストにはきっちりと結論がつく。
さて、ここからは私の好みの話だ。
初演は、最終的に「寺沢みなみの愛、人生」が全てを攫っていく展開だった。私はそちらのほうが好きだ(今回はその分、鴨江士郎の愛が光っていた)。
阿部連と社会・政治の話も少々沈み込んだが、むしろストーリーがわかりやすくて良いかもしれない(ミステリアスさは弱まった)。
姉妹を巡る愛の物語の存在が浮き上がってきたのは良かった。が、形としては、はっきりと「両方が諦めた」となる今回より、複雑なままの初演が好きだ。
そしてラスト、これはどうしたって初演のほうが好きだ。何もかもが明らかになるのはちょっと興ざめだ。少々の謎が残るほうが余韻を楽しめる。亀井が加藤一三の存在にこだわり、探偵を当事者として引きずり出したのはなぜだろう。
…こう書いてしまうと「前回のほうが良かったの?」と思われそうだが、トータルで今回のほうが良い作品になっていると感じる。
初演は、殺人事件の報道映像からスタートし、謎で引っ張って愛の顛末に落ちる、という展開。今回は映像をカット、謎は提示されるが最初から愛をみせる姿勢をとっている。「ズボンの脱ぎ捨て方で犯人を捜す」という導入が弱められている点もそうだが、ギャグ・悪ふざけ的なものが抑制されており、ポエティックな部分も含め、全体に贅肉が落ちた感がある。これにより、より広い客層に受け入れられる作品になっていると思う。
札幌演劇シーズンでの公演は、劇団coyoteにとって大きなジャンプアップのチャンスだろう。亀井健は余計なことを考えず、きっちりと自分の作品世界で勝負をしてきた、と感じた。たぶんそのことが、私にとって何よりも爽快なことだった。
劇中歌われる『プカプカ』がメチャクチャいい。
まあ、いろんな人に愛された西岡恭蔵の曲だから、そもそも曲がいいだけなんじゃないか。そう思ったけど、しかしアコーディオンを弾きながら歌うスズエダフサコもかなり良かった。
ってことは、それを舞台上に出現させた作・演出も良かったってことだし、つまりそういうシーンのある『愛の顛末』という作品もいいということになる。
という舞台だ。
作品内に敷き詰められた細部のどこかに、必ずなにかがある。それを見つけると、とたんに光りだす。
実を言うと、僕は中盤までこの芝居に乗れなかった。「寺沢みなみ殺し」にまつわる探偵もの、という出だしはいいのだけど、三姉妹やサーカスなど、軽妙なノリの場面は楽しめなかった。
でも、サーカスのあと、天才医師エパタイが大きなカバンを開けるのが、カッコいい。パギャン! みたいな音とアクション。さらにいくつかのシーンのあと、ボンヤリしかけた僕の耳に、セリフが入ってくる。
「最初に着いた村は、ひまわりがたくさん咲いた黄色い村でした。」
いいセリフだ。グッと芝居に引き込まれる。そうして話し始められた、戦争にまつわるエピソードの美しさ。悲しさ。照明もいい。演出も力を感じた。で、冒頭に触れた『プカプカ』のシーンになっていく。
極限すれば、この芝居は音楽だ。音楽は好きか嫌いかだ。嫌いな音楽にいくら説明や解釈を加えても好きにはなれない。むしろもっと嫌いになる。劇団コヨーテ『愛の顛末』は、すごく好きな箇所と、好きになれない箇所でできている。
でも、それでいいんじゃないか? すべての人にすべての箇所を好きになってもらおうという芝居ではないはずだ。だったらもう、思いっきり好きになって、思いっきり嫌いになればいい。そういう舞台だった。
追記:
「ゲキカン!」を書くにあたって、参考として、事務局から各作品の脚本をもらっている。観劇後に読んだのだけど、亀井健の書く『愛の顛末』は、セリフがかなりいい。言葉の選び方、単語のつながり、セリフの長さ。正直、舞台で聞くよりも良かった(舞台化されているのに失礼だと思うが……)。劇場で、脚本販売のアナウンスを聞かなかったので、売ってないのかもしれない。だけど、読む価値のある脚本だ。劇場に行った方はせめてそのセリフに耳をすませてほしい。(敬称略)