ゲキカン!U-18 高校生劇評特派員


今回も実施します。ゲキカン!U-18・高校生劇評特派員。
高校生たちが、シーズン参加作品を観て、感想や批評を寄せてくれます。

中高生の皆さんは同世代の高校生が作品をどう観たか、
自分の感想と比べてみてください。

そして、大人の皆さんは、普段話すことなどなかなかないであろう
高校生たちの声にふれて、こちらも自分の感想などと比較しながら
観劇後の余韻をお楽しみいただければと思います。

大人の「ゲキカン!」にはない、高校生ならではの視点に出会えるかもしれません。

原稿は随時UPしていきます。

大人の「ゲキカン!」と高校生の「ゲキカン!」で、
演劇を観ることの楽しさを再認識していただければと思います。
立命館慶祥高校2年 柳沼 千夏さんさん
yhs「四谷美談」(観劇日/7月24日[日]14:00〜)

私が四谷美談のことを知ったのは札幌演劇シーズンのパンフレット。ほかの演目もかなり気になりましたが、一番心惹かれたのが四谷美談でした。歌舞伎の話ということと、パンフレットの写真がどこか心に響くものがあったからです。今回声をかけてくれた先輩と観劇出来ることになりました。いざ当日、入場した時、客席が二つに分かれていることに驚きました。舞台も見慣れた形ではなくはさみ舞台。私たちは入場口から一旦花道を渡り、後に出口となる場所に近い一番前の席に座りました。最初は「見えにくいかもしれないなあ」と思っていたのですが、全くそんな事はなかったです。むしろ360度見ることが出来るからこそ、その角度でしか見ることができない役者の方々の表情や動き、照明の様子を楽しむことができるのだなあと思いました。
舞台が始まってからは、まさに空いた口が塞がらない。の一言でした。
ツイッターを演出する時には黒子を被り、誰が情報を発信し、共有しているかわからないようにする。現代社会におけるSNSの恐ろしさが物語に大きく反映されていました。歌舞伎役者の話ということで、宅悦の杖で地面を叩く音など、ところどころに歌舞伎の要素を見つけました。
そして何より、役者の方々の表情や動き。伊右衛門は物語の前半では何を考えているかわからない無表情、氷のような言葉に「本当にこの人が9代目を殺してしまったんだな」と納得していましたが、後半に入ってくると伊右衛門の美しさ、祝を思う気持ちの強さ、自分がすべてを背負おうとする強さは舞台の上で眩しく輝いているように見えました。最後、与茂七を殺害しようとするが祝の姿が重なり切ることができず、祝に対し「愛している」と言った時、本当の彼の姿を見た気がします。そしてその祝もら自らに課せられた罪と罰に苦しめられ、自分を愛してくれる伊右衛門を苦しめないように死を選んだことは、正しいかどうかではなく、伊右衛門のことを思ってのことだったのだなあと切なくなりました。直弼は一番SNSに苦しめられた人物であり、見ていて一番苦しい人でもありました。芸能事務所社長である喜依は、美しさに取りつかれ、作られた美しさを求め一人の人間にすがりつく姿は悲しく、心が痛くなりました。槇の存在が私にとって一番不思議でした。表向きは芸能事務所の出来る専務ですが、裏では何でも屋のようなことををしていた槇。ですが梅の依頼のあと、彼女はすべてを終わりにすることを決意しました。梅の依頼の1件は、槇の心に何かを残していったのでしょうか。
そしてラストのシーン。9代目と同じように死んでいった与茂七を囲み、真実とも嘘ともわからないツイッターの発言。とても悲しく、寂しく見えました。
「なんて美しく、悲しい物語だろう」
カーテンコールが終わり、私が真っ先に思い浮かんだ言葉です。
脳裏に焼き付き震え上がるような感覚、(実際に終演したときは鳥肌が止まりませんでした)今まで味わったことのない感情がどっと溢れてきました。まだこの場にいたい。この場で、もう少しだけこの感動を味わっていたい。ですが流石に本当にずっとその場にいるわけにもいかないので足を震わせながら名残惜しみつつ帰路につきました。
そう思うほど、四谷美談は私に感動と驚きを与えてくれたのです。
心の底から、「この演劇を見てよかった」と思いました。また機会があれば何度でも見たい作品です。

立命館慶祥高校3年 今坂 楓子さん
yhs「四谷美談」(観劇日/7月24日[日]14:00〜)

 舞台は全方位を客席に囲まれた会場だった。そのため演者さんは出てきたら正面からはもちろんのこと、後ろ姿さえも観客に見せることになる。どこに座るか、ということも重要になると思ったため一番前の席を選び、もらったパンフレットの中の人物相関図を眺めながら開演を待った。
 上演が始まって一番に思ったことは台詞がとても早口だということだ。だからといって聞き取りづらいと感じたわけではなかった。そのことから演者さんの言葉を届けようとする努力が伝わってきた。また、最初のシーンではインターネット上の会話が表現されていた。その際に、発言しているのが誰なのか分からないというインターネットの特徴が黒子の帽子を演者さんがかぶることで巧みに表現されていた。工夫を凝らした演出にとても感動した。照明にも様々な工夫が施されていた。まっすぐに舞台の中央だけを当てているシーンでは、照明に当たっていない場所にいる人と当たっている人がハッキリと区別されていた。さらに音響も歌舞伎で使われている音が多用されていた。そしてタイミングが演者さんの動きと揃い、まるで本当にその場所から音が出ているかのようだった。重く過酷なストーリーだったが、随所に面白いポイントが散りばめられており途中で集中力が切れることもなく観劇することができた。終盤には舞台の中央に雪が降った。それだけでもとても美しかったが、その後のシーンで一つの雪がはらはらと花びらのように落ちてきた。果たしてそれが落ちてきたのは偶然だったのか。それとも計算されたものだったのか。どちらにしてもそれを見たときになぜか鳥肌が立ったことは今でも忘れられない。カーテンコールでは祝さん役の演者さんだけわざと遅れて退場することで再度深く印象づけられた。
 座る場所が違えば見える演技も違う。もしかしたら違う角度から見るだけで全く違った公演に見えるかもしれない。もう一度、違う角度から見たい。今度は人間関係をしっかりと頭に入れて。見た後にそう思わせてくれる、美しく残酷な公演だった。

北海道札幌開成高3年 佐久間 泉真さん
yhs「四谷美談」(観劇日/7月25日[月]19:30〜)

 何故、舞台を観るのか。
 札幌で、友達と芝居(ドラマ)を観る、といえば多くの高校生が向かうのは映画館であろう。生徒手帳さえ持っていけば、1500円(演劇シーズンの学生料金と同額)で、完成されたドラマを観ることができる。映画は、テレビで見るような有名俳優が出ていて、何度も撮り直された最高のシーンを、ポップコーンを頬張りながら楽しむことができる。それなのに、何故あえて舞台を選ぶのか。その問いに対する答えのようなものを「四谷美談」で見出した。

 原作は江戸時代に鶴屋南北よって書かれた歌舞伎狂言「東海道四谷怪談」であるらしい。歌舞伎を成り立たせているのは、今も昔も変わらず「芝居」「踊り」「音楽」の3要素だ。「芝居」の面から言えば、男性陣・女性陣ともに、歌舞伎を感じさせ、ひたすらにカッコ良い。殺陣や叫びの台詞はもちろん、歩き方や息づかいまでもが、リアルでありながら舞台向けに誇張されており、観客を釘付けにする。思い返すと、初めてyhsを観たのは初演の「四谷美談」であったが、初演と比較して特にパワーアップしたと感じたのは、祝役の曽我夕子さんだ。幕が開けてから終演まで狂い続ける祝の哀しみを、より深く、細かく、そして「ジメッ」と表していた。(また、直助演じる櫻井保一さんは初演に比べ、より「シュッ」としていた)。「音楽」は、完成度が高く最高だった。和の舞台である歌舞伎とはあえてずらした、ロックミュージックをベースにしたBGMや主題歌が、「四谷美談」をよりyhsオリジナルな舞台にしている。これらの他にも、照明・衣装・メイク・舞台美術・グッズ・前説などが舞台全体のエンターテイメント性をぐっと強めている。
目の前で行われる迫力に、体感するエンターテイメントに、僕は惹かれて舞台を観る。この面白さは「舞台だからこそ」なんだ!答えが「四谷美談」の中にあった。

北海道札幌開成高3年 佐久間 泉真さん
札幌市こどもの劇場やまびこ座プロデュース
「OKHOTSK-終わりの楽園-」(観劇日/7月19日[火]19:30〜)

 「演劇は芸術だ!!」ということを強く感じた舞台だった。

 人形劇を観るはじめての機会であり、期待と少しの不安を持って席に座った。わくわくさせる前説にはじまり、すっと本編に移る瞬間に、これは、まさしくこれまで体験していないものだと感じた。演劇という言葉を聞いて僕がはじめに思い浮かべるのは、役者が「動き」「しゃべり倒す」という光景である。しかし「OKHOTSK」が見せてくれた光景は、「言葉・台詞に頼らない演劇」という新しい世界だった。言葉による情報を極端に減らし、音楽や人形の身体表現、スクリーンに映し出される絵などで観客の想像力に刺激を与える。特に、一見表情がないように見える人形には、角度によって無限の表現を感じた。こういう演劇があるのだと、すごく良い発見だった。
 作者が表したいこと(メッセージ)を観客に伝えるために、最も簡単な方法は、脚本に書いたことを役者にしゃべらせることではないだろうか。その方法は観客にとっても役者にとってもわかりやすい。「OKHOTSK」は人形劇だから人物そのものがしゃべることはないのに、何故こんなにも伝わるのか。言葉にできない、言葉にならない感動を、芸術と呼ぶのかもしれない。

 また、芸術だからこそ、言葉に頼っていないからこそ、どう楽しめばよいのか考えてしまう時間を持つことができた。おそらくただ純粋に、「OKHOTSK」の世界観に浸ればいいのだと思うのだが、正しい楽しみ方を探ろうとしてしまう芸術素人の僕には、それが少しだけ難しく感じた。もっともっと色々な芸術に触れて、観る目を養いたい。

立命館慶祥高校2年 小野 美乃里さん
札幌市こどもの劇場やまびこ座プロデュース
「OKHOTSK-終わりの楽園-」(観劇日/7月18日[月]14:00〜)

 最初に、人形劇ということで、一体どんな演出なんだろうとすごく気になっていました。
 セリフの付け方、人形の動かし方、演劇というくらいなのだからそれはもうすごい感情の入り方なんだろうなと個人的な偏見で会場に入りました。会場に一歩踏み入れた途端、オホーツクのイメージというか、世界観の中にぎゅうんともっていかれました。海の中の音、薄暗くも青い照明がきらきらひかる会場内は実に幻想的というのが第一印象でした。その幻想的な空間の中で不釣り合いなほどわたしはどきどき、わくわくと胸を高鳴らせていて、一つ大きな音がなろうものならついに始まるのか!と毎度毎度反応していました。そうしてはち切れんばかりの期待感で胸をぱんぱんにしているとほどなく前説が始まりました。
 オホーツク、それは道東生まれのわたしには切っても切れない、所縁のある名前でした。
 題名を聞いたときに、まさか同じ北海道とはいえ、遠く離れたこの都会でこの単語を聞くとは、と驚いたのを覚えています。ごうごうと風を轟かせている凛々しくも寒々しいあの名も知らぬ岬の情景が、わたしの体を駆け抜けました。
 貝殻で作られた地図と、小ネタを挟んだ親しみやすい前説にほっこりとして、このままの陽気なノリでお話が進むのかと思いきや全く良い意味で期待を裏切られました。
 瞬時に切り替わる会場内の空気、そこはすでに海の中でした。プロジェクションマッピングと言うのでしょうか、本当に不思議です。あの表現方法を考え出した人に拍手喝采です。いや問題はそこではないのです。一番わたしが気になっていたのは前説で言っていた「セリフがない」ということ。人形劇で、セリフがない?人間のセリフを考えるのも大変なのになんてことをしてくれたんだ!とよくわからない怒りがありました。しかし、そんな考えが消えるのも時間の問題だったのです。
 パーツが集まって、徐々に人形になっていく。そしてどんどんただの人形から、命が吹き込まれ役者になっていく。そんな過程を眼の前でばっちりとみせつけられました。
 幕が上がったら少しひんやりとした空気が流れてきて、おとなしい雰囲気…なんてものはなかった。海の中の騒がしさ!大きな魚!すごい!迫力!いやこの劇の中で迫力を感じない場面なんてなかったのですが、まずファーストインパクトがおおきい!もう劇を見ている間はずっとこんな文字に起こすには少し恥ずかしいような感想しか浮かんできませんでした。
 人間と人形がぐりゅんと混ざり合って役者と成る、人形劇の奥深さを垣間見ました。
 セリフがないとこんなにも、なくてもこんなに、無いからこそこれほどの感情を心に直接伝えることが出来るんだ、言葉が多いから確実に伝わる、なんてことはないんだなと思いました。
 ところで、わたしの一番好きなキャラクターは女帝です。なんか監督のイメージそのまんまだな、と笑ってしまいました。影で写した時は人間の手を使って滑らかさを、実際に舞台に上がっている時は大きさ傲慢さ妖艶さが伝わりました。人形の形状もいままでにない感じというか、あれ人形なの?ってなるような、本当に布と顔だけで出来ていて、あの掴めない感じ、まさに女帝!
 本当に驚きと学びの連続でした。こんな方法があったのかとかこうすれば良いのねとかたくさん発見することができた1日でした。ところどころ入ってる小ネタもすごく好きでした、人形と人間が仲良しな感じがして、わたしも仲間に入れて欲しいくらいでした。自室に着いた時、なんとなく喋るのが煩わしく感じてしまってしばらく友達の話に首を振るだけの人形と化していました。あの時のわたしの方が劇中の人形より人形だったかもしれません。
 この劇はわたしの人生にたくさんの影響を与えてくれました。すごく面白かったです。まだ書き足りないことはたくさんありますが、とりあえず一番伝えたい気持ちは制作側への感謝です。本当にありがとうございました。また、こういう機会を作ってくださった皆さまにも大きな感謝を伝えたいです。両親にはすでに感謝を伝えました。ありがとうございました。

立命館慶祥高校3年 今坂 楓子さん
札幌市こどもの劇場やまびこ座プロデュース
「OKHOTSK-終わりの楽園-」(観劇日/7月18日[月]14:00〜)

 会場の「やまびこ座」は客席180人ほどのホール。私は勝手に大ホールだと思いこんでいたので、入った瞬間、少し拍子抜けした。だが、私がそう思うことさえ織り込み済みだったのかも、と思えるほど、この劇は緻密で計算しつくされていた。
 一番前の席に陣取った私は、開幕までじっくり会場を見渡した。公演のテーマはオホーツク。そのためか海の音が聞こえ、幻想的な青い光がそこかしこにちりばめられていた。始まる前の雰囲気づくりも大切にしいることに感動を覚え、これから始まる公演がより一層楽しみになった。
 始まって第一に思ったことは人形がとてもリアルで怖い、ということだ。最初は人形を操る人ばかりを見て表情や動きに感心していた。しかし、見ているうちにあたかも人形自身が演じているように見え始めた。そのため人形に感情移入しやすく、終わるころには怖いと思わないどころか、愛着が湧くほどだった。演者や人形がかなり近くまで来たことも私をワクワクさせた。一つの人形を3人で操る、あの一体感は今でも忘れられない。舞台上の真っ白な幕には切り絵やサンドアートが投影された。劇場で模様がなく真っ白な幕が貼られているのを初めて見たので不思議だったが、これを見て納得した。すべてに仕掛けが施され、すべてがこの舞台に必要不可欠であることが分かった。
 映像と演者の動きがピッタリ合っていたことも印象的だった。演奏者も芝居に巻き込む演出には舌を巻いた。せりふのない芝居なのに、よくここまで魅みせられるものだと感心した。小さなホールだからこそ感じられる美しい演奏、人の息遣い、叫び声や動きで物語が伝わってきた。やまびこ座でなければ、きっとここまで魅せることはできなかっただろう。
 カーテンコールとなり、時計に目を落として私は心底驚いた。時計は公演終了時刻を指していたが、そんな時間になっているとは思わなかったからだ。それほどまでに劇に魅了され、時間を忘れてただひたすら見入った。人形劇や人形浄瑠璃は人間だけで構成される演劇とはまた違った良さがある。そう気づかせてくれたこの舞台、この劇場が、今よりもっと脚光を浴びることを願ってやまない。

※この劇評は8月3日(水)付の北海道新聞夕刊「アート評に挑戦!」にも掲載されました。

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