ゲキカン!


ドラマラヴァ― しのぴーさん

 眼帯をした女優ほど歪んだ魅力を放つ存在はない、といつも思っている。この「四谷美談」は、見事な女優劇エンターテインメントだ。曽我夕子が熱演する祝(お岩さん=一応、祟りがこわいので“さん”づけしておく)は一番タチの悪いタイプの女だ。日本三大幽霊というのがあって、この「東海道四谷怪談」のお岩さん、「番町皿屋敷」のお菊さん、「牡丹燈篭」のお露さんと揃いも揃ってやっぱり女性である。あー、怖い、怖い。yhsの看板プレーヤーである小林エレキ(伊右衛門)、能登英輔(与茂七)、櫻井保一(直弼)も素晴らしいけれど、この芝居は文句なく現代の様々なケガレを演じきった女優陣に軍配を挙げておきたい。
  歌舞伎狂言作家としての鶴屋南北は、芝居でなければ表現できなかった封建制時代のラジカルな批評精神に富んでいたことで知られている。しかも、怪談もののような、「この世にあらざるべきもの」をフィルターとするアプローチほど面白いものはない。劇作家に様々な解釈を許容する懐の深い劇作のしつらえは、いつの時代にも変わらない人間の業の深さを投影していて、作家冥利、どの役も役者冥利に尽きると思う。
  原作の歌舞伎狂言「東海道四谷怪談」は、時は元禄時代、文政8(1825)年の初演時にセットで上演された「仮名手本忠臣蔵」のカヴァーストーリーだったという骨組みを導入部に使い、DVや整形強迫症など現代の怪談とでも言える要素を織り込みながら劇は大回想の形をとって進む。そして、幾つかのエピソードをパラレルに描きながら、巧みに登場人物一つ一つのピースが集まり、笑えるほど醜悪な一枚画になって、見事な劇的構図を描いてもう一度「今」に戻ってくる。南参は、出世欲と愛欲にまみれて妻を毒殺した稀代の悪人=伊右衛門と、夫に裏切られ怨霊となって復讐を果たす貞淑な妻=お岩さん(そんな簡単な対比ではないけれど)という典型的な「四谷怪談」の構図を見事に逆転して魅せた。
  観客を二つに隔てる花道に見立てられた舞台を行き交う「四谷怪談」の人々の台詞が実に美しい。こちらは男優陣が汗だくで見栄を切る。真剣かと思いきや、笑える仕掛けが様々に織り込まれ、演劇でなければ使えない差別用語台詞もバンバン飛び交う。さすがに翁長沖縄知事イジリはやり過ぎだと思ったが、言葉遊びも含めて、観客である僕たちが無意識に求めている犠牲者となる羊(新しいツッコミネタ。芸能ニュースでいうところの新たな事実とやら)の群れ満載の仕掛け列車のような芝居である。
  あらすじを書いてもしょうがないので少しだけ。伊右衛門は、梨園の出身ではない負い目を持った、ラブリンこと片岡愛之助のような心優しい愛妻家である。しかし、未だ肉体の契りを許さない妻の祝はヒステリックな妄想に取りつかれて顔が崩れ、人前では包帯を巻いている。だが、祝の右眼の上にべったりと貼り付いた爛れは、彼女の心の闇が生み出したファントムだったのだ。僕の席からは包帯がはらりとほどけ落ちる瞬間を見ることはできなかったのだけれど、ざわざわっと背筋に悪寒が走った。実にこの解釈には驚かされた。これは本当に怖い。そして、妄想が解け、人を殺めた時に本当の醜い肉塊が現われる。この段まで来てなお、伊右衛門は心を病んだ妻を庇う(僕だってそうします)「俺が全ての罪ケガレを飲み込んでやる」と。あなたを愛せないのにどうして…と聞き返す祝に放つ台詞。「それでも俺は…お前の夫だ」。これは僕には言えない。それを言ったばかりに、妻に殺されたも同然に犬死するんですから。
  最近、「ニューノーマル」という言葉が生まれている。テロや無差別殺人が、いつでもどこでも起きる、つまり死が日常に常態化している時代の到来という意味だ。死がこれほど軽い時代はあったのだろうか。「人を殺してみたかった」「殺す相手は誰でもよかった」、サイコパスという表現では理解しがたい犯罪が蔓延していると思うのは僕だけだろうか。これでは、不条理劇など真っ青になって成り立つはずもない。しかも、その異常なニュースは「いいね」でシェアされ(最近では悲しいねとか酷いねもあるけれど)、そして一旦ホットイシュー化するとリツィートで果てもなく複製されて拡散する。僕たちは時として魔女狩りに参加していることを忘れている。事象が面白いほど安全な観客席から熱狂し、新しい羊を求めて匿名の声をあげる。そして羊は記号のように消費されて骨も残らない。もちろん、僕たちメディアの責任も大きいのは百も承知だけれど、劇中の台詞にあるように、「リアルなのかフェイクなのか、そんなことはどっちでも構わない」のだ。
  劇の冒頭と終幕に登場する現代社会の象徴である発熱するネット社会の危うさでマルっと包んだ薄皮がシニカルな南参の眼差しだとすれば、鶴屋南北謹製の餡は実に夏の演劇シーズンに再演するに相応しい美味さがあった。そう言えば、ミスター不条理劇の別役実は、究極の笑いは死だと喝破している。「四谷美談」を観てけだし名言だと思った。女優劇、怖いですね。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴四半世紀にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。
シナリオライター 島崎 友樹さん

色気のある芝居だ。役者がすばらしい。

特に、「祝(いわ)」を演じた曽我夕子のお岩さんらしい美しさ。長い黒髪に白い肌、異形を抱えるお岩さんは、近年のジャパニーズホラーの原型だ。美しさと醜さが同居することに人は美意識を刺激され、フェティッシュな魅力を感じる。それは、観たいんだけど恐ろしいという、まさにホラーのありようそのままだ。

yhs『四谷美談』の冒頭、ネット社会にうずまく、幾人かのセリフがしばらくつづく。正直このシーンはあまりよくない。役者の質の問題もあるだろうが、作品世界に入りこむことができない。だけどそれを救うのが、歌舞伎役者「与茂七」を演じる能登英輔の登場だ。その凜とした姿、役者の美しさを表現できている。

与茂七といろんな意味でライバル関係にある「伊右衛門」を演じるのは小林エレキ。演劇シーズンにおいて小林と能登は常に対になってきた。イレブンナイン『12人の怒れる男』では、虚無的な怒りを抱えた陪審員(小林)と、全体をまとめようとする小市民的な陪審員(能登)、yhsの前作『しんじゃうおへや』では、死刑囚(小林)と看守(能登)という立場だった。

『12人〜』のときも『しんじゃう〜』のときも、2人の配役を取り替えたらどうなるだろう? と僕はひそかに思っていた。本作もそうだ。彼ら2人の存在が札幌演劇界を面白くしているのは間違いないが、僕は、小林エレキ的配役、能登英輔的配役のさらに先を求めはじめているのかもしれない。

男優陣では他に、廃業した歌舞伎役者を演じた櫻井保一のホスト的後輩感は様になっていたし、コメディシーンもすごく笑えた。小林テルヲはクセのある知的なエロ按摩といったたたずまいで(一部僕の誤解があるかもしれないけど……)、パワーのある演技だった。ただ衣装が残念で、そこは全然違うアプローチをしてあの役の奥行きを別の角度から引き出した方がよかった。

女優陣では、元宝塚女優を演じた最上朋香の声質と体躯が際立っていた。後に彼女が陥る展開は、あの反抗的な声と体があってこそ引き立った(サディスティックな人間は抵抗感がある方が燃えるらしい)。この舞台は不思議で、男優陣は背が高くないのに、女優陣はみな背が高い。そこに異形を感じたのだけど、異形といえば文字通り異形さを“体現”した青木玖璃子には、すがすがしさすら感じた。

さて最後に、この舞台には主題歌がある。オフィスキュー所属「月光グリーン」のボーカル、テツヤが歌っているのだけど、彼はyhsの旗揚げメンバーで、大きな体と愛嬌のあるキャラクターでyhs初期作品には欠かせない存在だった。テツヤと、yhsのリーダーである南参は、yhs以前にある学生演劇サークルの一員で、実のところ僕もわずかな間そこに所属していた。僕がはじめて会ったときテツヤは「たまごっち」を持っていて、当時そうとう希少なもので「たまごっち持ってんだ!」みたいに驚いた記憶がある。その後彼らはyhsとなり、テツヤは役者をやめてミュージシャンを志した。ある夜、僕が狸小路を歩いていたとき、一人路上で歌うテツヤの姿を見かけたことがあった。彼はがんばっていた。そうして月日は流れ、たまごっちブームがポケモンGOブームとなった今年、テツヤはミュージシャンとなり、南参はyhsを大きくし、演劇シーズンで再会した。きっと、これも一つの美談なのかもしれない。

島崎 友樹
シナリオライター。札幌生まれ(1977)。STVのドラマ『桃山おにぎり店』(2008)と『アキの家族』(2010)、琴似を舞台にした長編映画『茜色クラリネット』(2014)の脚本を書く。シナリオの他にも、短編小説集『学校の12の怖い話』(2012)を出版。今年、2作目の小説を出版予定。
ライター 岩﨑 真紀さん

最近まで大きな勘違いをしていた。『四谷美談』を『四谷美男』だと思っていたのだ(笑)。たぶん、男優が際立っていた初演のイメージのせいだろう。それとも、誰かが洒落っ気を出してそう書いていたのだったか。

2013年11月に観た『四谷美談』が、私の初めてyhs体験だった。
向かい合うように設けられた客席を割って、中央に舞台、そこから両端の出入り口に向かって花道が架けられた空間は斬新だった。Twitterユーザーが飛躍的に増えたのは2011年以降のことで、冒頭から登場する「リツイート!」のシーンは、新しい情報拡散・庶民のありようを表現する上手い表現として目を引いた。黒服の青年が日本刀をひっさげて愛と復讐のために走り、ハラリハラリと落ちてくる紙吹雪がライトの中で美しかった。歌舞伎の効果音であるツケによる緊張感の演出も心地よかった。『四谷怪談』から構想し、大きく歌舞いて今様の見得を切らんとする演出はあっぱれだ。

けれどこのときの観劇では、実は話の展開がよくわからなかった。黒服の人が多かったし、左門と伊右衛門と与茂七と直弼の名前と関係、加えて明かされていく愛憎と秘密の情報に混乱した。ときどき入ってくる笑わせるための場面にも困惑した(その後上演されたyhs作品の全てを観た今では、あのときの笑いの仕掛けは初期作品から繋がるある種のお約束が含まれていたのだろうと想像している)。

今シーズンの『四谷美談』は、美々しさはそのままに(いや、さらに、と書くべきか)、笑いは節度を保ち、すっきりとわかりやすくなっていた。変更の詳細までは対照できないが、按摩の顛末やクライマックスの印象などが変わっていたように思う。

愛憎と謎の全てはセリフで説明され、筋は合っている。なのに、何かがもやもやとして私の中に落ちてこないことについて、最初は私の「萌え」への感応が足りないせいだと思った。梨園というセレブな世界、殴る男をひたすらに愛する女の「罪も汚れも飲み込んで」ストイックに愛する才能ある無口な男。うん、萌え萌えになってもいい設定だ(実際、愛の哀しさの場面では会場からすすり泣きが聞こえた)。

けれど台本を読んでみて、違う可能性にも思い当たった。
もし祝が、シーツから起き上がった後に何も語らず終わったら。
もし伊右衛門が、祝(または与茂七)に「○○のためだった」と語らずに終わったら。
私の中に彼らの存在、愛、傷が落ちてきたような気がするのだ。

いや、でも、歌舞伎や時代物にはセリフで語り尽くされる快感というものがある。型を与えられた人物による物語、美しい構図ときらきらしい役者。作演の南参が目指したのは、そういった部分に浸る作品だろう。

さて、2013年の初演と今回の再演、比べたら圧倒的に再演が素敵なのだけど、2つだけ初演のほうが良かったと感じたものがあった。一つはツケで、音も、合わせ方も、効果も、初演が優れていると感じた。これはBGMの影響もあるだろうか。もう一つは「リツイート!」の場面のインパクトとキレだ(初演が脳内補正されている可能性もあるが)。ちなみに私が観たのは初日で、指摘には既に意味がないかもしれない。

岩﨑 真紀
フリーランスのライター・編集者。札幌の広告代理店・雑誌出版社での勤務を経て、2005年に独立。各種雑誌・広報誌等の制作に携わる。「ホッカイドウマガジン KAI」で観劇コラム「客席の迷想録」を連載中。
在札幌米国総領事館職員 寺下 ヤス子さん

あの人のどんなところが好き?と訊かれて、笑顔で即答し、笑顔で祝福されるなら、それはハッピーなこと。でも、そんな健全な愛ばかりじゃない。倒錯。狂気。自己憐憫。病める愛。それは不幸の香り。でも、病んでいようと、幸せでなかろうと、嫉妬と修羅に身を置こうと、軽蔑されようと、絶望しようと、その愛を貫く生き様に、真実があり、一筋の「美」を感じる。そんな伊右衛門と祝だった。相手を思いやる無償の自己犠牲が美しく思えるのか、ただただ自分の気持ちに素直という潔い自己チューがあっぱれ美しいのか、刃物のような悲恋が切なく美しく見えるのか。湖水の陽の照り返しのような。先の見えない。這い上がろうともがいて沈んでいくような。誰も手を貸せない。表面張力で耐えていたものが、触れると溢れ出すような。ただ畏怖のような共感をもって見守るしかない。そんな「美」談だった。

会場に入って舞台を見たとたん、やってくれるな、と期待が高まった。話が歌舞伎界のサスペンス劇場!だけに花道が通っている。ツイートする「世間」の人々。中央に倒れている人に目もくれず、時にまたぎながらスマホをスクロールする姿が、その無責任さを見事に表現。やがてサスペンス劇場ぽく、有名人の実生活暴露。そして謎。犯人探し。明かされるミステリー。安定のエンターテイメント構成。南参氏は、セリフとシーンの重ね方がいつも素晴らしい。3Dの立体空間に時間軸と霊界も加えて5D構成なのだ。絶賛。ただ、舞台のあちら側とこちら側(観た人はわかると思うけど)で、セリフの聞こえ方が多少違う。聞かせどころで伊右衛門と与茂七のセリフが重なる際、こちら側に伊右衛門の声が聞こえていなかった場面があった、ということが観劇後にあちら側にいた友人の証言により判明。面倒な説明をしておきながら恐縮だが、まあ、劇は一過性なので、それはそれで呑み込むしかない。

結局、全てが見えていたのは目が不自由な按摩だったという設定が、外見・容姿の美にこだわる人々の盲目ぶりを皮肉に浮き上がらせる。プレーヤー陣はいずれも好演。お祝い申し上げたい。特に、能登英輔氏の悪役ぶり、小林エレキ氏の存在感が秀逸。櫻井保一氏はマクベスに挑戦していただきたい。最上朋香氏、曽我夕子氏のそれぞれきりっとした表情が、各シーンを引き締めて印象的だった。

同性愛、DV、ツイッター、通販、プチ整形、札幌の冬あるある、と話題ネタを織り交ぜて話の内容が膨らむ。重い話をユーモアでバランスをとって疲れさせない。ポケモンGOも織り込んで、クスッと笑わせてくれる。おばちゃん的には「ニッセンでラッセン」なんか韻をふんで詩的、懐かしさもあってかえってインスピレーショナルだ。本作の初演が2013年。今からさらに3年後の2019年には同じようにポケモンGOが懐かしくなるということか。それまでに再々演をお願いしたい。

寺下 ヤス子
在札幌米国総領事館で広報企画を担当。イギリス遊学時代にシェークスピアを中心に演劇を学んだ経験あり。神戸出身。
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