ゲキカン!


ドラマラヴァ― しのぴーさん

 とっても当たり前なことに、当たり前な人のぬくもりを注いで見せてくれる、豊かなユーモアとペーソスに満ちた芝居だった。日曜日。快晴の真夏日のマチネ。本当だったら、手入れの行き届いた我が家の芝生でBBQでもやって、キンキンに冷えた生ビールを満喫したい日和だったけれど、それをパスした甲斐のある芝居だった。これは色々な意味で、脚本の勝利であり、役者の勝利であり、訳あって8年ぶりの再演の演出に巡り会った亀井健の思いの深さだったのだろう。最近、劇団コヨーテを主宰する亀井には注目していたが、とってもいい仕事をしたと思った。
 久米宏がキャスターだった「ニュースステーション」で不定期に放送された名物企画に「最後の晩餐」というのがあった。明日死ぬとしたらあなたが人生の最後に食べたいものはなんですか?というシンプルな問いを各界の著名人に久米がインタビューするというもの(久米自身の企画で、のちに単行本化された)。どんなに人生の成功を収めた人間でも最期は一人である。フレンチのフルコース、などと言う人は誰もいない。ちなみに、故いかりや長介は「しらすと大根おろしと炊きたてのご飯」と答え、樹木希林は「何も食べない」と答えた。つまり、その人の生き様や人生観、生死感や哲学を反映しているような答えが多かったと記憶している。
 この「八百屋のお告げ」は、あたるも八卦当たらぬも八卦なものだけれど、「今夜12時に死ぬ」とお告げをされた一人の女性をめぐるお話。この劇の面白さについては、他の執筆者の皆さんがきちんと書かれると思うので、ちょっと別の視点から書いてみたいと思う。
 初演は2006年。松金よね子、岡本麗、田岡美也子の演劇ユニット「グループる・ぱる」の結成20周年公演ために、劇作家・演出家の鈴木聡が書き下ろした戯曲で、いわば個性派女優三人に当て書きしたものだ。演出は現在最も優れた演出家の一人、鈴木裕美(女性です)が手がけている。ちなみに、今年4月、新国立劇場で上演された僕が一番敬愛してやまない鄭義信の三部作の一つ、「たとえば野に咲く花のように」を再演出していて、鄭の盟友でもある。  
 札幌上演のきっかけは、リーフレットにあるように「この面白い作品をやりたい」と劇団芝居のべんと箱を主宰していた舛井正博が、劇団公演として2008年に上演した芝居の再演となる。演劇シーズンのホームページを読めば分かるが、本再演は初演時の舛井が手がける予定だった。しかし、舛井は去年4月に他界、愛弟子である亀井が後を引き継いでおこなうことになったという経緯があるようだ。
 芝居は終始、小市民の目線で描かれる。子ども達も手を離れ熟年離婚して一人暮らしの多佳子(高野吟子)に降り掛かった突然の災難。夫と二人暮らしの親友の真知子(雅子)、そして恋愛至上主義で10年来の不倫相手の葬儀に出かける邦江(ナガムツ)。最初から運命を受け入れ、真夜中までどうやってやりたいことをして過ごすかという話に、布団圧縮機の営業マン(前田透)、同じく八百屋に「明日死ぬ」と予告されたトラックの運転手(高井ヒロシ)、そして多佳子が学生時代好きだった人のなぜか息子(棚田満)が加わって寄せ鍋をすることになる。とにかく登場人物が全員不細工で愛おしい。特に女優陣が演じるオバサンたちには愛が一杯詰まっている。演出の亀井は、本の随所に込められた作家の人物への愛情を丁寧に拾い集め、時にはデフォルメしながらも、「人はどう生き、どう死ぬべきか」という普遍的なテーマを笑いに包んで観客に提示する。たいした力量である。
 思いっきりダサい男優陣にもそれぞれ見せ場が用意されているが、終盤の芝居場で、トラック運転手(同じお告げを受けたもの同士)の松原が多佳子を突然抱きしめるシーンには、正直、ジーンときた。その前に放たれる、「死ぬときくらい誰かとぎゅっと抱き合って過ごしたい」という台詞が心を打つ。
 本当の初演の2006年。この年の流行語に既に「格差社会」という言葉が登場するのだけれど、多分、「庶民」はかろうじて生き残っていたのではないだろうか。舛井演出の2008年はかなり怪しい。そして8年後の2016年。庶民も大衆も消え去り、かつて日本の成長を支えて来た中流は下流へと漂流化している。特に、子どもの貧困は、子育て世帯の2割にまで浸潤しているという調査もある。そうした危機的リアリティは、やっと人々に可視化されようとしている。直近では相模原事件が日本を震撼させたけれど、ヘイトスピーチ問題一つとっても、僕たちの社会はある意味劣化し、保持力を失い、ダークサイドへと滑落しつつあるように思えてならない。社会は、と書いたけれど、僕たちはどうだろうか。「今夜12時に死ぬ」という劇作の設定は今、より切実で、だからこそ喜劇としての強い意味を持つのかも知れない。つまり、笑いを通してしか描けないものもあるのだ。
 この芝居は深い。深いところまで達しているからこそ、僕たちは人間だけがもっているユーモアという知恵で支え合い、生き残ることができる。おしっこくらいちびったって、死ぬほどビビったってかまわないのだ。終幕のシーンはなんとも言えず温かく、明かりが落ちる前に観客の送る大きな拍手で包まれた。これで、いいのだ。
 「今夜12時に死ぬ」と僕が言われたら、間違いなく妻への隠し事の隠ぺい工作で愚かな悪あがきをするだろう。誰かにぎゅっと抱きしめてもらえそうにもない。最後に食べたいもの。うーん、お好み焼きかな。それも自分で作った。
 琴似のPATOSまでぜひ足を運んで下さい。演劇だけが伝えられる何かと出会えると保証します。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴四半世紀にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。
シナリオライター 島崎 友樹さん

終わりを知らされないマラソンレース。いつまで、どこまで走ればいいかわからずに、バタリと倒れたその地点がゴール……。

人生をそんなふうに例えてみると、僕たちはどうやら理不尽な競技を強いられているらしい。ゴールがわからず走ったり歩いたりしてるので、日々を緊張感のないまま漫然と生きてしまう。

ところが、吟ムツの会『八百屋のお告げ』の主人公・多佳子は、ゴール地点を知らされたランナーだ。八百屋の不思議なお告げによって、自分の命は月曜の夜までと知る。

あまりに急なレースの終焉。もしかしたら多佳子は、このままお告げの信憑性をくよくよ考えたり、いつものように平凡な時間を過ごして、最後の1日を終えてしまうかもしれない。

だけど多佳子には女友達が2人いた。幸運だ。最後の1日をにぎやかなものにしてくれ、多佳子は2人に背中を押されるようにして、高くて買えなかったものを思い切って買ったり、ずっと心に残っていた男性に電話したりする。

死を意識したときに、人間はようやく本当に生きはじめる、という物語は様々あって、黒澤明の『生きる』なんかも有名だけど、おもしろいのは、余命を知った当人だけじゃなく、まわりの人たちも影響されていくことだ。

『八百屋のお告げ』は変わっていて、多佳子の友達2人が影響されていくと思いきや、3人の、みじめで哀れで愛すべき男たちにスポットライトが当てられる。訪問販売の男が、毎日なにを糧に仕事をしているか語るけど、それを笑うことは誰にもできないだろう。つらい日々をなんとか生きるために編み出した卑小な楽しみだ。彼は多佳子の家で、同じ喜びを見いだしていた運送業の男と出会うわけだけど、ここは笑いあり気持ち悪さありの名場面だ。さらに、保(たもつ)と名付けられ、自分からなにかを変えることはできないことを運命づけられた28歳の司法浪人生の登場。おそらく脚本上では目立たない役のはずなのに、棚田満という役者にかかると、こうまでも存在感のある人物になってしまうのか。

レディオヘッドの『クリープ』的男3人の異様な輝きのせいで、この舞台はいびつにゆがむ。本来は、ほのぼのさをまとった女性3人の人生後半の生き方的物語を期待してしまうけど、笑いも涙も楽しさもつらさも、さらには人間が人間であることの美しさや気持ち悪さをも飲み込んだ結果、本作は、すばらしい人生悲喜劇に昇華した。

多佳子の友人・邦江が、失った愛について怒濤のごとく語る本作屈指の名場面。演じたナガムツの力強さと演出の美しさに涙が出た。余命を知り変わったのは、多佳子やその周囲の人たちだけじゃない。この劇を観た観客もまたそうなんだろう。

島崎 友樹
シナリオライター。札幌生まれ(1977)。STVのドラマ『桃山おにぎり店』(2008)と『アキの家族』(2010)、琴似を舞台にした長編映画『茜色クラリネット』(2014)の脚本を書く。シナリオの他にも、短編小説集『学校の12の怖い話』(2012)を出版。今年、2作目の小説を出版予定。
ライター 岩﨑 真紀さん

冒頭から、脚本の面白さに引き込まれた。達者な演じ手が気持ちのよい呼吸感で話を進めていく。おかしいのだけどちょっと悲しい、悲しいのにどうにも笑える、そういう喜劇ならではの楽しみが満載の作品だった。特に女優陣の演技が味わい深い。

人生の、「映画でいえば三分の二まできている」という年齢で、いきなり「今夜12時に死にます」と言われたら何をする?どう過ごす? という物語。といっても感動のヒューマンドラマではない。最初に愛の成就である結婚式の話が登場し、続いて愛の終焉である葬式の話があり、つまるところ「熟年女性だって恋の欲求はあるんでしょ? 子育てが終わり、夫がいないとしたらホントはどう?」というところをいじって笑わせる展開だ(女性に関してはえげつない演出はなく、あくまでちらり、さらり)。

友人の邦江は「死ぬときはギュッと男に抱かれていたい」と叫び、昔の恋へのかわいいロマンを焚きつけたりするのだが、主人公の多佳子は最終的に、一人ふすまの奥に入っていく。そのあたりが「うん、案外そんなもんだろうなぁ」と共感するところ。
「死ぬときは異性にギュッと抱かれていたい」というのは、女性よりも男性に多い願望のような気がするが、どうなのだろう。子どもを産んだ女性なら子どもに看取られたいだろうか。
ちなみに私は…、今「八百屋のお告げ」を受けたら、色気を出す暇もなく、部屋の掃除の途中で時間切れだろう(笑)。

過去の恋人を思い出したり、セールスマンの相手をしたりする余裕を作るために、多佳子はちゃんと、もともと始末のいい生活をしている人間として描かれている。
お告げを受けたのが邦江だったら、いろんなものが破れかかった状態のまま、求める愛に向かって突っ走っていくのだろう。そのパターンも観てみたい気もするが、ちくんと刺しはしても安心できるラストになっているあたり、リラックスして楽しめる作品だ。

ところで、本作のような喜劇は、上演を重ねるごとに客の反応を見て笑いをブラッシュアップしていくものらしい。私としては後半の演出、特に若手男性二人の演技だけ毛色が違うように見えてあまり笑えなかったのだが、最終的にはどのように変化していくのかが楽しみなところだ。

岩﨑 真紀
フリーランスのライター・編集者。札幌の広告代理店・雑誌出版社での勤務を経て、2005年に独立。各種雑誌・広報誌等の制作に携わる。「ホッカイドウマガジン KAI」で観劇コラム「客席の迷想録」を連載中。
在札幌米国総領事館職員 寺下 ヤス子さん

同世代熟女の話。ごく平凡な人生。明日死ぬとしたら何をする?と言われても・・。身につまされたり、それはないわあ〜、と思ったり。笑いの中に、人生とは、生きるとは、死ぬとは、と考えさせる面白い脚本。人はいずれ死ぬ。だから終活しときましょ、というのではなく、だから精一杯楽しく生きましょうという話。命短し、恋せよ乙女。

作者の鈴木聡氏、著名な脚本家を相手に失礼ですけど、これ男性目線の熟女話ですわね。確かに、宇宙飛行士でもオリンピック選手でもない、パートと子育てと主婦業をしてきた女性なら、死ぬよと言われても、することは家の片付け、思い切って買うモノはせいぜいエルメスの香水、行きたい所はディズニーシー、って大ありだ。だけど、昔々学生時代好きだった先輩なんてどーーでもいい。どうも、「昔自分を好きだった彼女はずっと自分を好きでいる」という男性の幻想を感じる。いやいや、すぐ忘れますから女は。私だけ? 半世紀以上生きた女なら、死を前に気になるのは、子供、墓、財産管理じゃないかしら。前向きで実務的ですから。描かれる女友達のつきあいも、若いオトコのそれっぽい。劇中セリフの、死ぬ時誰かに抱きしめられていたい!とか、気持ちは分るが、なんか暑苦しい気もする。気候のせいでしょうか。札幌も温暖化のせいか、梅雨みたく蒸したりしますものね。冬なら抱きしめられたいかな。でも床に大の字もいい。

などと個人的に同意しかねる点はあれども、生きることを全面に応援する気持ちのよい芝居。俳優人もコント風に好演。観客の平均年齢層のせいか?落ち着いて観れる。かと思いきや、隣のややご高齢のご夫人が、劇場の暗闇の中、しきりにコンパクトやら口紅やらをゴソゴソ出しては何度もまさかの化粧直し!えー?今、ここで!? そして、ご亭主らしき男性に「クライマックスだわね」とか「死んだのかしら」とか折にふれて話しかけておられた。ストーリーに刺激されて、夫婦の絆を深めたくなったのか。もし今晩死ぬとしたら、奇麗でいたいし、仲良くしたいと思ったのか。だとすると大した即効性。伴侶ある者は共に観られよ。

以前、教育テレビで学生と、名前は忘れたけどきっと高名な僧侶の対話があった。「人生を楽しみなさい」と僧侶に言われた学生が、「どうしたら人生を楽しめるのですか」と訊ねた。僧侶は、「今、この一瞬一瞬を楽しむのです。人生は、今の連続なのです。」と答えた。そうしよう。やってみよう。水だしアイスコーヒーを飲みながら、時節柄の「トラ・トラ・トラ」を観ながら、母からの電話に応対しながら、独りで感想文を書いている、札幌の夏の夜、今を楽しもう。

寺下 ヤス子
在札幌米国総領事館で広報企画を担当。イギリス遊学時代にシェークスピアを中心に演劇を学んだ経験あり。神戸出身。
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