ゲキカン!


ドラマラヴァ― しのぴーさん

 その姫長が乳飲み子を抱いて、ここではない何処かへ安住の地を求めて、観客という海へと漕ぎ出して行くラストの悲劇的な、そして運命的とも言える美しさに、思わず涙がこぼれた。俳優の肉体で演じられるものとは違う劇的空間は僕の心を激しく揺さぶった。恐るべし、人形劇。初回から幸せな作品との出会いに感謝したい。
 チェコを拠点に世界的に活躍する人形劇作家(僕は俳優を役者と呼ぶように、人形劇師と呼んだ方がいいと思う)である作・演出の沢則行について改めて説明する必要はないだろう。僕はまったく不勉強にして、昨年のさっぽろ雪まつりで初めて上演された大雪像人形オペラ「雪の国のアリス」での衝撃的な出会いが最初である。昨今、インバウンドで潤う札幌の、どちらかと言えば退屈な冬のショーケースとなっていた雪まつりに一石を投じるものだったし(今年は札幌座がシェイクスピアの「冬物語」を上演)、雪まつりを市民の手に取り戻そうという試みにも思えた。
 この劇の題名にもなっている「OKHOTSK(オホーツク)」には実は思い入れがある。僕は「流氷」と「千島列島縦走」という二つの大型ドキュメンタリーを制作したからだ。この劇の背景にあるオホーツク人(オホーツク文化)についても、何度も網走の道立北方民族博物館に足を運んだし、「流氷」では流氷が最初に生まれるとされるロシア・シャンタルスキー諸島で、これも世界初となる流氷誕生の映像の撮影に成功し、サハリンで最後のシャーマンと呼ばれた北方少数民族、ニヴフ(ニヴヒ)の古老と出逢った。命がけのロケだった民放初となる「千島列島縦走」では、カムチャツカ半島から弧のように連なる島々が、北方少数民族の交流交易ための移動ルートになっていることを実感した。
 沢の前説で語られることだが、北海道には「弥生時代」がない。本州では縄文、弥生、古墳を経て飛鳥、奈良、平安と次の鎌倉で武士が登場するまで、”天皇”の下での中央集権的統治システムが確立してゆく。一方、北海道では、稲作による定住時代がなく、縄文、続縄文、擦文、アイヌ文化時代、平行してオホーツク圏(道北・道東・サハリン南部)でのオホーツク文化、とまったく違う文化の時間軸が流れた。オホーツク人の同時代には続縄文人、擦文人が道内に暮らしていた。本州のような政治システムは登場せず、人々は自由に移動し、中国大陸とも独自に交易し、平和に共存していた。カムチャツカ半島から千島列島、北海道、そしてユーラシア極東に囲まれたたらいのような海域は、豊饒の海であり、多くの民族が行き交う海洋交易の場だった。その要となる北海道は、いわば多様性に満ちた文化のるつぼだったかも知れない。
 この「OKHOTSK」は、7世紀に女帝・斉明天皇が北方征服(教科書には蝦夷平定と書かれている)のために海路派遣した将軍、阿部比羅夫を下敷きに、オホーツク人の姫長との悲恋の物語として描かれる。比羅夫は、この北征で北海道と現在のサハリンを蹂躙、征服した。だから、物語としては虚構ではあるが、実にファンタジックでスリリングなエンターテインメントに仕上がっている。約1時間の上演中、一瞬たりとも目が離せない。「一人でも多くの観客に楽しんで欲しい」という、沢ならではの、劇への愛が一杯溢れている。
 沢の住むチェコはかつてオーストリア・ハプスブルグ家の支配下にあり、ドイツ語を強制された。唯一、チェコ語の使用が許されたのが人形劇だったそうだ。人形劇がなければ、チェコ語は世代を超えて継承されなかったかもしれない。だから、チェコでは国を挙げて人形劇の文化を保護している。そのチェコで1960年代から始まった、人間も人形も舞台に立つというフィギュアシアターという手法を用いて、沢がオホーツク人の姫長を終始憂いを込めて演じる。圧巻は等身大の比羅夫だ。三人で一体の人形を操る三人遣いは、文楽で使われる日本独特の方法だが、さっぽろ人形浄瑠璃芝居あしり座の比羅夫は、まるで本当の肉体を持っているかのようにその所作や感情の移ろいまで観る者の心を打つ。能の要素も取り入れられている。バロック・コレギウム・サッポロが当時の古楽器で奏でるバロックの音色は劇に寄り添って響き合う。「OKHOTSK」は、あらゆるアプローチを駆使しながら、子どもから大人の鑑賞に耐える演劇の本当の「楽しさ」に満ちている。
 これぞ、演劇!アートとしての舞台芸術の未来を見るようで、札幌演劇シーズンの幕開けに相応しい素晴しい舞台だった。そして教文から舞台を移した再々演を、このやまびこ座で観ることができる贅沢さを思った。是非、幅広い年齢層の皆さんに観劇して頂きたいと強く思う。
 舞台とは台詞である、といつも思っているけれど、台詞の一切ない人形劇は観客の想像力という翼でどこへでも行ける。非言語的(ノンバーバル)ゆえに人間の有り様を映す普遍性にたどり着き、度々差し込まれる人形劇ならではの”ギャグ”も世界で通じるものだろう。愛のために自ら死を選んだ比羅夫の遺骸の顔に壷を逆さまにかぶせるシーンも、オホーツク文化研究で分かっている死者への儀礼で、不思議な空気感を出していた。
 札幌には日本で初めて設立された子どものための公立の人形劇場「こぐま座(1976年開館)」と「やまびこ座(1988年開館)」があり、公演やワークショップ等を通して連綿と次世代の担い手を育成してきた実績がある。先のあしり座も北海道では唯一の人形浄瑠璃を公演できる一座だ。札幌の劇場文化を結集して、色彩感溢れる沢の世界観が生き生きと自由に躍動する。劇の全編、そして冒頭と終幕で投影される黒川絵里奈の砂絵と影絵には、本当に息を飲んだ。
 オホーツク人は5世紀から13世紀に実在した民族だが突如、消えてしまった。流氷の上を歩いてやって来て歩いて去っていったという伝承さえある「幻の民」。彼らにとって数百年も続いた楽園が崩壊し、消えてしまったからだろうか。敵である大和民族の将軍、比羅夫との間に授かった赤子を抱え、決然としてオホーツクの海に船を出す姫長。彼らの未来には何が待ち受けているのだろうか。涙腺を久々にやられながら僕は思った。「これは私たちの物語でもある」と。テロルの時代、そして異様な価値観を持つ為政者の時代。私たちは本当に異なるものを尊重して受け入れ、多様性のある新しい社会を、未来として、希望として築くことができるのだろうか。人形にもきっと魂はある。その魂の指し示す場所に、私たちは荒波を超えて、本当にたどり着けるのだろうか、と。

ドラマラヴァ― しのぴー
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴四半世紀にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。
シナリオライター 島崎 友樹さん

作品が終わると、物語はどこへいってしまうんだろう。

たまにそんなことを思う。特に素晴らしい作品を見終わったあとに思う。

やまびこ座プロデュース『OKHOTSK ―終わりの楽園―』を見終わって、あの熱くはかない物語が僕の前から消えてしまったとき、やはり強く思った。物語は、どこへいってしまったんだろう。

終わった、ということなんだろうか。終わってしまって舞台から消えて、また次の公演がはじまるとそこに現れるんだろうか。

それとも、僕の胸の内に存在しつづけて、ずっとあの物語――あの時間、あの空間のことを思いつづけている、ということなんだろうか。

冒頭、宙に浮いた骨のいくつかがつなぎあわされ、姫の姿となる。そうして、かつて存在したオホーツクの楽園にまつわる物語が、舞台の上によみがえる。しかし姫の腕はずっと骨のままだ。海の幸、山の幸に恵まれた楽園にいるのに、死のイメージがつきまとう。

一方、倭国の女帝(斉明天皇)は、北方を支配するために男(阿倍比羅夫)を派遣する。女帝はまるで冥界の主のようで、こちらも死の臭いを感じる。

2つの死に挟まれた男は、まさに生の象徴だ。よく食べよく踊り、コミカルな姿はすごくおかしい。終盤、男は激情にかられ、猛然と走りゆく。その姿。どうして人形に、あんなに命を感じるんだろう。どうして男が最後にとった行動に、あんなに心がゆれるんだろう。

人形、操演者、演者、バロック音楽、砂絵、影絵……すべての芸術が一体となって、本当に、素晴らしい舞台が完成し、作品は終わる。

終演後、僕はしばらく感動に打ちのめされていた。そうして気がつくと、舞台の上からはもう物語はなくなっていた。

作品が終わると、物語はどこへいってしまうんだろう。

かつて繁栄し、忽然と姿を消したオホーツク人のように、いなくなってしまった。どこかすぐそこにある感じ、ただそれだけを残して。

島崎 友樹
シナリオライター。札幌生まれ(1977)。STVのドラマ『桃山おにぎり店』(2008)と『アキの家族』(2010)、琴似を舞台にした長編映画『茜色クラリネット』(2014)の脚本を書く。シナリオの他にも、短編小説集『学校の12の怖い話』(2012)を出版。今年、2作目の小説を出版予定。
ライター 岩﨑 真紀さん

北海道新聞文化面の記事「2015年回顧」に寄せた「私のベスト3」の舞台作品の一つに、私は『OKHOTSK ー終わりの楽園ー』を上げた。観たのは3月で記事のために質問を受けたのは年末だったが、美しく幻想的な舞台の印象は鮮明だった。実のところ、札幌演劇シーズンの作品選定委員の方との雑談の機会に、さりげなく(でもしつこく)本作をアピールしたりもしたので、だから今回、演劇シーズンで観劇できたことをとても嬉しく思っている。

『OKHOTSK〜』は正しく芸術作品だ。異国情緒を感じさせる人形や切り絵・砂絵、素朴な格式と不思議な華やぎを感じるバロック音楽、やまびこ座を拠点に育成されてきた人形の三人遣い…。いずれも素晴らしいアートで、これらを沢則行の卓抜したセンスがとりまとめており、細部の強度とオホーツク文化への沢の憧憬が、古代の文化圏の境界域での悲恋を「あったかもしれない伝説」として迫るものに立ち上げている。

物語からは、「天皇家(神・怨霊)と征夷軍人と蝦夷」というキーワードで荻原規子『空色匂玉』シリーズの『薄紅天女』を連想する(こちらは100年下がって坂上田村麻呂だが)。「狩猟部族民の土地への侵略、それによる遺伝子と文化の流転と融合」という点ではケルトや北欧を題材にした児童文学作品を連想する。ローズマリー・サトクリフとか。良質なファンタジーは私の好物だ。つまり、私は『OKHOTSK〜』の世界観も大好きなのだ。

今回惜しむらくは、2015年の上演で私を虜にした「女帝」の呪術的なオーラが、弱まったように感じられたこと。

この作品は2012年、札幌教育文化会館の求めに応え、大ホールの能舞台を活用する形で作られた作品だ。2015年の同じ会場での再演時、仮面と扇、パールオーガンジーのような白い布のみで表現される「女帝」が、神楽鈴の音に導かれるようにして客席の間から登場したときには怖気立つような霊気を感じたのだが、それは恐らく能舞台が視界にあることによって生まれた効果だったと思う。幽冥界に繋がる伝統的な結界である能舞台は、私たちにとっては異世界の楽園である北の物語世界に、さらなる異界からの介入者としての「女帝」を招来した。その後、能舞台の上に登場した「女帝」は、美しくも禍々しい神、妖しい力を振るう人ならぬ支配者として私を惹きつけた。

とはいえ、今回の上演での「女帝」も、初めて観る人にとっては十分以上に強烈なインパクトを与えるだろう。強い照明に浮かび上がる仮面(女帝)の影が放つ威厳、影向の松を背景とした宮中シーンの緊迫、背景全面を覆う布の広がりを使った女帝の支配力の表現…、どれも見事だった。

また、より小さな舞台になったことで、人形とその所作がよく見えるようになったという嬉しい変化もある。『OKHOTSK〜』は無言劇であり、人形の表情で伝わるものは多い。さらに、作品自体も上演を繰り返したことでこなれてきていて、演者の余裕が生む(?)コミカルなシーンが増えており、より多くの人が楽しめるものになっていると思う。

ところで、2015年の観劇のときから気になっているのが、女帝が武人に愛する人の土地を攻め滅ぼすこと命じる場面の映像。葛藤する武人、その心を支配し尽くそうとする女帝、ここは私が思う作品の見どころのひとつだ。人形の表情を見逃したくないのだが、同時に舞台上部に映される切り絵が気になってしまう。「二つにちぎる、赤を中心とした色彩を流す」というのが説明的にすぎる、人形から想像したいのに視線を持っていかれてしまう、という気がしている。いや、このくらいわかりやすくないとダメなのかもしれないけれど。

まあ、これは些細なことだ。『OKHOTSK〜』 は全篇見どころと言ってもいいほど魅力的なシーンで溢れている。できるならシーズン中にもう一度観に行って、さらに細部を堪能したいと思っている。

岩﨑 真紀
フリーランスのライター・編集者。札幌の広告代理店・雑誌出版社での勤務を経て、2005年に独立。各種雑誌・広報誌等の制作に携わる。「ホッカイドウマガジン KAI」で観劇コラム「客席の迷想録」を連載中。
在札幌米国総領事館職員 寺下 ヤス子さん

見終わった後、切なさが、海底の砂のように胸の中に沈殿。時折、砂が舞い上げられるイメージとともに舞台が思い出される。オホーツクの荒波に翻弄されるかのような人間たちの暮らし。時と場所は違っても、悲哀と喜びの人生が誰にもあるのだと感じさせてくれる。自然と人間、民族(国家)と個人、男と女。それぞれの対比が明快に浮かび上がる。人間は自然に抗えず、個人は国家に抗えず、男は女に抗えず?そして、いつの時代も母という生き物は最強の選択をする。
 
原点回帰のような、セリフのない芝居。幕のように張られた布が、懐かしのOHPを使ったプロジェクションと相まって、海の動きをダイナミックに表現。影絵、砂絵のライブパフォーマンスが、詩的で素晴らしい。パフォーマンス中、ちらりと後ろを振り返ると、暗闇の中、サングラスをしてせっせとプロジェクターの光の上にモノを載せるアーティストの姿が。後に黒川絵里奈さんとパンフで確認。数秒といえども後ろを見ているのは私だけで、観衆はお子ちゃまも皆、舞台に繰り広げられる砂絵に魅せられたように見入っていた。セリフがないっていいな。想像力がゆっくり呼吸する。音楽のようにユニバーサルに、ヒトの「型」が、見せる、伝える、共有する

劇中音楽は、バロック古楽器の生演奏という贅沢。チェンバロやリコーダーの響きは、人形とストーリーにぴったりマッチ。バロック・コレギウム・サッポロは、ストーリーの品格を高めた。

沢氏による楽しいマエ説があったけど、説明はあとにして、すっと劇に入ってくれた方がよかった。賛否両論だと思うが、先に作者の着想ネタや意図を聞いてしまうと、自由な想像の余地が狭められ、作者の想像をなぞる確認作業になってしまう気がするからだ。はい、被害妄想かもしれません。背景を知ってより作者の本意に沿ったフォーカスができるという利点もありましょう。しかし、劇はいったん放たれるとオーディエンスのもの。作者にどこに連れて行かれるか、楽しみながら、時にまったくユニークな想像をして「間違う自由」、もやもや「わからない自由」も許してほしい。つまづいたっていいじゃないか、人間だもの by あいだみつを。という訳で、解説は、アフタートークできける、という方がありがたい。ほう〜という驚きと納得感も増す。優れた作品だから、私たちオーディエンスを信じて育ててほしい!心を鬼にして私たちをオホーツク海にどぶんと放り込んでほしい!ある者は溺れもがき、ある者はスイスイと泳ぎ、またある者はプカプカ浮かんでいるうち、北海道に辿り着くでありましょう。

沢氏は人形劇師という職業の横にいつも「チェコ在住」と明記されていて、チェコが大変お気に入りと見える。チェコと人形劇のつながりには身近な心当たりがある。演劇クラスで各自が自由にマリオネットを作った際、チェコ人のクラスメイトが作成した人形がダントツにうまくできていて、扱いも手慣れていた。聞けば、チェコでは国立劇場で人形劇オペラもあるほどというではないか。彼のドヤ顔を思い出す。文楽を誇る日本人だというのに、私は不器用で髪の毛もうまく装着できず、面倒なのでお坊さんの人形にしてしまったのであった。面目ない。
沢氏とあしり座が今後もグローバルに活躍することを、あの時の反省とともに祈りたい。

寺下 ヤス子
在札幌米国総領事館で広報企画を担当。イギリス遊学時代にシェークスピアを中心に演劇を学んだ経験あり。神戸出身。
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