結局のところ作品というのは、世界がどう見えているかの表明だ。
自分には、世の中や人々がこう見えているんだ、ということが、演劇の場合、舞台の上で表現される。もちろんそんな主義主張を意図していないとしても、自然と現れてしまうものだ。
柴田智之の一人芝居『寿』(ことぶき)は、介護の現場と人間の終幕期、人の生と死が、彼の目にはどう見えているのか、柴田の演技と、音楽の烏一匹によって表現される。
柴田は、介護の仕事にたずさわって8年目だという。ゆえのリアリティ。簡素な舞台にもかかわらず、細部が浮かび上がり、僕たち観客は介護の現場に居合わせることになる。
それは、つらい現場だ。心も体も衰えていく老人たちを、介護職員たちはなんとか支えようとする。ときには、わがままで横暴な要求もある。観ているこっちも、おとなしく言うことを聞いてくれ……と思ってしまう。
しかし、なぜだろう、この舞台の介護の現場は、つらいはずなのにつらくない。悲しいはずなのに悲しくない。柴田智之に、高齢者福祉がどう見えているのか、彼のまなざし、フィルターを通すことによって、まるで浄化されてしまったかのようだ。
人は、死ぬと帰っていく、劇中ではそう提示される。B次郎という老人の人生の終幕を観て、悲しいけれど、でも良かったと思えた。別れはつらいけど、無事、帰ることができたんだ、良かったと。
悲しいできごとを無理に明るく振る舞うことなく、あるがままの姿で、生と死をゆるやかに肯定していくお芝居パートの第1部、ここだけでももう、類を見ない傑作だ。
後半の第2部は舞踏パート。第1部で、柴田の肉体は物語を語るために抑制されていたが、2部ではそれが解き放たれる。爆発にも似た躍動を見せたかと思うと、あるいは静かに揺れ動く。
スタッフワークもいい。「舞台:忠海勇」とあるから彼の作だろうか、ゼロ戦の大破から戦後の瓦礫へのあざやかな展開。それになんと言っても老人・B次郎の人形。人形というのもはばかられる生命感ある姿と表情。照明も繊細で、特にラストシーンが美しい。音楽もがんばっていた。
初日の舞台は、圧倒的な賞賛の拍手で会場が満たされた。演劇シーズン、せっかくのロングラン、まだ日にちもある、ぜひ観にいってほしい。
追記:
今回の演劇シーズン2016夏は、すべて通して観るとまるで人間の一生のようだった。
『OKHOTSK』は、生まれる前からすでに記憶しているような、人類が持っている種としての記憶、『四谷美談』と『学生ダイアリー』は成長した人間が思い悩んだり精一杯生きたり、命を燃やす過程、『八百屋のお告げ』は人生もとうに半ばを過ぎたときに訪れた死の予告、そうして最後の『寿』は、介護施設が舞台の死を巡る作品。
なので、それぞれ単独に観ても十分に楽しめたのだけど、5作品観ると『演劇シーズン2016夏』というもう1つの作品が浮かび上がってくる。これは、全作完走した方のみが得られるご褒美なのかもしれない。
柴田智之作・演出・出演の芝居はいつも、「その心あまりて言葉あふるる」といった様相を持つ。つまり、人生の中で見出したものを伝えたい・表現したいという柴田の想いのほとばしりが辛くも演劇作品のフレームに納まっている趣で、感覚的な構成の中には創作衝動の源となったものが生のままで顔を出すことも多い。けれど、役者・柴田智之の身体が圧倒的な存在感を放って人の哀しさ愛おしさを演じるとき、戯曲の不完全さは想像力を刺激する魅力となる。柴田の作品は、今のところは彼自身が確信を持って演じることで完成するものであるように思う。
『寿』は、一度は演劇から離れた柴田が、福祉施設で働くことで再び芝居として表現したいものを見出し作り上げた作品だ。2014年に観たときには、リアルな身体描写、尋常じゃない熱量、人生の真実を激しく希求する特異な作り手の存在には感じ入ったけれど、「スゴイが不思議なものを見た」という気分になったのを覚えている。
作り手が新鮮な驚きのままに切り出した日記のようなシーン、ざっくりとした木の人形で描写されるB次郎さん、10分の休憩を挟んだ後半では、語り手・A子が消えて作り手・柴田が登場し、生前のB次郎さんを演じ、人形や黒板を持って踊り、歌う…。緩い構成の中に多様な表現を抱えた一人芝居は、私がそれまで観ていた演劇とは全く異なるものであり、実のところ作品としては咀嚼しきれなかった。後半は散漫だとも感じた。
ところが、今回の『寿』では、何よりも後半のダンスに強く惹きつけられた。コンテンポラリーダンスでは創作テーマをどのように見出すかが課題となることがあるが、死から生を見出した柴田のインナートリップは、まさに「コンテンポラリーでなくては表現できないもの」だろう。
私は初日を観たのだが、作品の序盤は、正直なところ彼の一番いいパフォーマンスではなかったように思う。本来は、さまざまな人物のリアルな描写が滑稽でもあり、哀れで愛おしくもあり、という部分だが、音楽に釣られてかパワフルな演技が際立った。だが、B次郎さんが登場したあたりから、背中を見せていても観客を惹きつける存在感(なんて背を向けることが多い作品か、一人芝居なのに!)と共に、柔らかな情感をも表現する彼本来の演技に引き込まれた。木の人形が、温かく礼儀正しいB次郎さんとなって息づき、老い衰える哀しみと優しい終わりを見せてくれた。
休憩なしの展開となった後半は、棺が船となって漂い出す演出で、B次郎さんの死から追悼の世界へと入っていったことがごく自然に伝わってきた。B次郎さんの生を柴田が取り込んだ演出も明快。柴田の心の旅がひとつの流れとして観客をさらっていき、不要に思えた序盤のいくつかの場面も、柴田が「死」と「生」に出会うために通ってきた道の風景としてどうしても必要だったのだと感じられた。
『寿』は演劇作品としては無骨だが、生きることと芸術表現の本質について考えさせられるようなものがある。それが、柴田智之が見せる人間の「哀」の表現とともに、私を止みがたく惹きつけるのだと思う。
いい顔してたなあ、B次郎さん。人形との絡みが圧巻の柴田智之氏の一人芝居。老人ホームで息を引き取るB次郎さんの人生を振り返る後半が絶品。最前列がオススメだ。天に旅立つB次郎さんと握手できたりするし。
柴田氏の作品は、以前に「ジロトマッテル」「Knock,Knock,Knock」を拝見した。いずれも人形を使った表現を織り込み、その感性と身体能力で独特の世界を創り出していた。作、演出、出演、とマルチなアーティストなのだ。
俳優としての柴田氏は、セリフのグリップといい、声量といい、間といい、動きといい、音感、リズム感、技量が素晴らしく、舞台を制して観客を魅きつける力がある。汗びっしょりになりながら全身を使って表現する姿勢が、真摯で胸を打つ。演出家としての柴田氏は、ミニマムな大道具によく計算された小道具の取り扱い、余計なものがない舞台が子供のような想像力をかき立てる。淋しい子供が、空想の世界に逃避するような演出だ。作者としての柴田氏は、伝えたいことを自分に忠実に盛り込んでいるのだと思うが、作者が見せたいものと観客が見たいものとのバランスは、好みがあるので難しいところだ。本作前半は、様々な老人の症状とその排便排尿の様子を披露する介護日誌だが、個人的にはもう少しA子とB次郎に比重を置いてほしい気がした。それにしてもこの人、歌がうまい。劇中の「ふるさと」は、一瞬、え、3番まで?と思ったが、巧くて聴き惚れちゃった。
戦争に行ったB次郎さんを観ていて、ビルマから帰還した和歌山の歩兵隊の皆さんを思い出していた。四半世紀以上前、ビルマへの慰霊の旅に同行させていただいた。歩兵隊の生存者の皆さんは、当時すでに多くが70歳ぐらいのおじいちゃんだった。日本兵が戦時中身を隠したテトマ村に、遺骨を掘り返すなどして面倒をかけたお返しに、地元の子ども達のために小学校を作り、文房具を届ける、という目的があった。途中、メコン川や日本司令部があった丘を目にして、おじいちゃんたちは泣いた。悲惨な姿で死んでいった戦友たちを悼んだ。同時に、18歳から20歳だった自分たちの青春を思い出していた。どんなに惨い時代であろうと、そこには彼らの青春があった。初めての伝令をもって司令部から飛び出していった時の高揚感、沼に身を沈めて敵をやり過ごした時の恐怖、そっとおにぎりを置いて立ち去ったビルマ人の後ろ姿に手を合わせ頭を下げたこと、何日も山中を逃げ、ようやく眼下に翻る日章旗を見て安堵に涙したこと。ありがとう。ありがとう。おじいちゃんたちの人生にありがとう。見ず知らずの私の同行を許してくれてありがとう。おじいちゃんたちの思い出は、私の何よりの反戦歌。
これで今回の演劇シーズンも終わり。多様な演目がそろい、とても楽しめた。共通してどれも真摯に作品に取り組んでいて好感がもてた。上から目線、傲慢、怠惰はパフォーマンスに如実に現れる。印象が不快感になって残る。誠実、真摯も同様にパフォーマンスに現れる。結局、我々は「人間」を観ているのだ。な〜んて実感したシーズンだった。