これぞ今のフリークエンシー(Frequency)!新しい恋人が見つかったような、文体を持った新しいドラマ、劇スタイルを持った芝居に出会えて嬉しかった。平田オリザではないけれど、日常の話し言葉という一見平易な台詞でつづられる会話劇は誰もが書けるものではない。そして、そのスモールワールドは、ふと人間関係で感じる小さな棘、ささくれという現代の日常性へ眼差しを向けている。裏設定がきちんと作られている人物の陰影やお話のディテールの作り方も実にさりげでうまい。突飛なセリフで閉じた世界を語り、ドタバタと既視感のあるエンディングを提示することだけが演劇の面白さではない。ワールドのある、作・演出の小佐部明広のシグナチャーを感じさせて見事だった。役者陣の個性も際立っていて、キャスティングの妙も感じた。
僕のドラマドクターの岩松了はこう言っている。「台詞をしゃべっているところで、いつも劇はおきているんじゃない」と。もう少しで巧みな劇作と役者達の力量で騙されるところだった。「学生ダイアリー」という題名に釣られて、卒業を控えた学生たちの休憩所で起こる青春群像劇などとユメユメあなどってはいけない。スマホやLINEといった新しい小道具はあるけれど、そうしたデジタルネイティヴの等身大の個人的事情は、どの時代にもころがっているありふれたものだ。でも、人とつながっていく、世界に参加していく方法は時代によって大きく変わるのだろう。学生という人生のモラトリアムを生きている若者たちの、この2016年での置かれ方というか、人との距離感の取り方、温度の調整感の描写がとても新鮮だった。「いいなぁ、若いって。でも、いつかはそういうことって終わっちゃうんだよ。だからイタいってば」
僕たちは舞台を観る時に、無意識に台詞を持っている人物たちにズームインして見ているし、そのフレームのサイズも観客一人一人の受け取り方で異なっている。かと言って、劇は台詞持ちに常にあるわけではない。また、劇は舞台の中央だけで起こっているのでもない。この「学生ダイアリー」は、役者が舞台に板づいている間は、視界を広角にしてあちらこちらで静かに勃発している劇を見逃してはいけない。いわゆる芝居場という意味では劇的なことは起こらない。台詞のない、というか芝居の空白、場の空気感を敢えて余白にしているのが実にうまい。達者な役者達のさりげない仕草や視線の一つ一つが、ディテールよく彫り込まれた人物の関係性のアヤを絶妙な深さの包丁捌きで浮かび上がらせる。丁寧に蒔いた伏線の回収の仕方も巧みで、思わず「ほーっ、そうきますか」とどんどん身を前に乗り出して見入ってしまった。
北朝鮮が北海道にミサイルを打ち込んで、一気に攻めて来る。という100%あり得ないかというとそうでもない、2016年の東アジアの風景という借景は、終幕の停電への大布石かもしれないけれど、この際、横においておこう。舞台客席側の3人の女子、望(柴田知佳)、実里(びす子)、幸恵(山崎亜莉沙)の設定とお互いの微妙な距離感がいい。僕が大好きな札幌の女優の一人、柴田のダメンズ好きぶりが切ない。間違いなく不誠実な優太(柴野嵩大)の子を妊娠しちゃってる。「オレは人を幸せにできないタイプの男なんだ」。すみません、僕もその一人です。てか、お前、やっぱり幸恵とも寝てただろう。そのストリートミュージシャンの幸恵もどうしようもなく宙ぶらりん。複数の妻帯者のアマンとしてセックスを割り切ってプチリッチな実里の、あっけらかんさはむしろ孤独でさえある。舞台奥の誠(村上友大)と卓哉(信山E紘希)との間でのダーツの罰ゲームのエピソード。誠が面識もない幸恵を口説くシーン。今のヤングはこんなに無防備なのかと苦笑。“ゴドーを待ちながら”舞台上手のベンチに座っている中国人留学生・郭(有田哲)とアテンドしている伸平(井上嵩之)もリアリティを持って劇に膨らみを与えている。悪い予感を含んだ5月の雪が降り、そして外界がまったく蒸発してしまったかのような停電が起こる。スマホの灯りを頼りに、ベンチに置き忘れた財布を伸平が郭と一緒に取りに戻ってハケていくシーン。とっても点描として効いていて、「うまいなぁ、この本」と独り言。
終幕、長いトイレから出て来た誠の声は、イヤホンをしている実里には聞こえない。そして最後に実里のスマホの光源はスリーブで突然消え、同時に劇もばっさりと消える。唸りました。冒頭にも書いたけれど、この劇は2012年の初演よりもきっと新しいフリークエンシー(周波数)を発しているはず。この夏の演劇シーズンのパンフレットに、「(演劇の)半分は観る人が作る」とあるけれど、実際、こういうお芝居を観ると実感するのだ。物語は、観客である僕たちにバトンを渡すものだと。
僕は70年代の終わりに、大学生活をアメリカ留学を挟んで5年送った。まだ黒電話の時代。18歳で初めて愛というものを知った。彼女の自宅に電話して呼び出す訳にもいかず、だからお互い顔と顔を合わせるというリアルな行為時間は、互いに激しく求めあったけれど、不用意にお互いをひどく深く傷つけた。もし、メールやLINEがあれば、僕の人生は変わっていたかもしれない。そんなある日、目が覚めたら見知らぬ天井が目の上にぼんやりあって、ゼミの先輩が隣で寝息を立てていた。僕は彼女が起きる前にアパートからダッシュして逃げた。そうやって、どちらかと言えば僕は生傷の絶えない学生時代を送った。知らないうちに誰かを傷つけ、誰かを失い、誰かから嫌われ、呆れられて、卑怯なことも幾つかしてくぐり抜けた。僕の記憶では、人生で起こる大抵の雛形は学生時代に経験したと思う。
当時は文字通り冷戦の真っ只中で、核爆弾が北海道に落ちてくる可能性は決してゼロではなかった。僕は思った。結局、登場人物によきサマリア人は誰もいなかった。くそったれなビッチだけれど、せめて実里だけでも生き延びて欲しいと。
P.S.
個人的にはまったく必要を感じない「人物相関図」がついていないことも好感した。この素晴らしい芝居でついていたら、多分相当失望したと思います。
いつまでも、ずっと続くような……。でも必ず、終わりがくるような……。
思えば学生時代は、そんな感じだった。高校時代と社会人時代の真ん中にぽっかり空いたエアポケット的な、そこだけ時間の流れが異様に遅い世界にまぎれこんだような。膨大に消費していったあの時間はいったいなんだったんだろうと思うけど、思い返したところでけっして帰ってはこない過ぎ去った日々。
劇団アトリエ『学生ダイアリー』は、そんな時間をシアターZOOに突如よみがえらせる。舞台はとある大学の休憩スペース。白壁の汚れが生々しく、本当に大学から切りとって持ってきたみたいだ。ゴミ箱、トイレの入り口、誰に見られるでもない掲示物……。そこで、8人の男女が入れかわり立ちかわり、出たり入ったり、話したり話さなかったりを繰り返す。
休憩スペースというのは大学時代の比喩のようなものだ。高校時代と社会人時代のエアポケット。束の間の休憩。ただしいつまでもそこにとどまってはいられない。彼らはここで、いつ終わるともしれない漫然とした時間を過ごしていく。
舞台は、高すぎも低すぎもしない一定のテンションをたもったまま1時間半以上続いていく。こう書くとまるで退屈な芝居のように思われるかもしれないが、全然そうじゃない。むしろずっと観ていられる。これはすごいことだ。作劇のたしかさと演出の腕、役者陣の力量とスタッフワークが、うまく噛み合った成果だろう。
特に、計算された作劇と演出。実はこの舞台、開演前からすでに物語は始まっている。なので10分前くらいには劇場に入った方がいいだろう。さらに、明確な開演を提示しないまま始まっていくという挑戦。若い、鋭敏な才能を感じた。
いつまでもずっと続くような、でも必ず終わりがくるような学生時代。この舞台もまた、ずっと続くようだけど、終わりがくる。そうして観終わったとき、すべてが周到に計算されていたことに僕たちはようやく気がつく。会話のすみに、散りばめられていたもの。
もしかしたらこの舞台は、個人や世界にも、同じことを言っているのかもしれない。
いつまでも、ずっと続くような。でも……。
『学生ダイアリー』は、卒業までの時間を過ごす北海道の大学生たちの日常(いや生態というべきか)の片鱗で編み上げられた『三月の5日間』であり、「待つ人々」の意味があるような・ないような時間を眺め続けるという意味では『ゴトーを待ちながら』のようだった。学生のタイプとゆるゆるとしたパワーバランスが見えるところからは『桐島、部活辞めるってよ』を想像した。ともかく、上演時間の大部分はそのような作品だろうと思って観ていた。
だが、この作品の真の狙いはラストシーンをみせることにあったし、その後の静寂(あるいは闇)を観客に持ち帰ってもらうことにあるのだろうと思う。
「現代演劇の流れを変えた」とも言われる岡田利規(チェルフィッチュ)の『三月の5日間』は、イラク戦争が勃発した日を挟む5日間を、ライブハウスで出会った男女が渋谷のラブホテルで過ごす物語だ。
若者の(奇妙な)日常の生態と、遠景にある国家レベルの危機。同時代でありながら異層の風景。最初は、『三月の5日間』同様に、『学生ダイアリー』もそれをみせようとしているのかと思っていた。
『学生ダイアリー』は、表現のスタイルとしては『三月の5日間』には似ていない。演技は、過剰なリアルさも説明的な芝居臭さもない「ほどよい演劇上のリアルさ」を保ち続ける。観客は大学の休憩スペースの壁をぶち抜いた場所からその中の様子をまさに覗き見しているような気分を味わう。
北朝鮮がミサイルを発射したその日も、学生たちの関心は、恋愛、就職活動、友人関係、サークル活動のほうにある。
仲が良さそうに見えても実は恋のライバルだとか、付き合っていても好きかどうかさだかではないとか、作・演の小佐部明広は、一面的ではない人間というものを丁寧に描き出していて秀逸だ。
それらを通じて表現されているのは、大学生たちが待つ存在である、ということだろう。学生時代とは、人生の本編であってそうでないような、宙ぶらりんの時間だ。「始まるのだから準備せよ」と強要され、受け入れたり、あらがったり、無視したり、まるで気が付かなかったり、そうでありながらどこかに焦燥感を抱えつつやはり待っているのだ。
その待った果てに来るものが突然の闇だとしたら? あなたはその可能性を見つめたことがありますか? ここからあなたは何を想像しますか?
『学生ダイアリー』で小佐部明広が立てた「問い」はそのようなものだろうと私は思う。
正直に言えば、それが作り手の狙いとはいえ、展開らしい展開がないままラストを待つのは辛かった。それを含めて、『学生ダイアリー』はとても小劇場演劇らしい、観客に挑んでくる作品だと感じる。
小佐部明広という劇作家・演出家の作品には、人生や社会の闇に向き合おうという姿勢を感じることが多い。今のところ、その闇は実際には作者にとっては遠いものであり、だからこそ近々と見つめて「けして遠くはない、異層のものではない」と再確認して私たちに提示してくるように感じる。
借り物の社会正義や人類愛ではない、個人的な関心の探求としての作品、だからこそ小佐部明広という人間の等身大が見える彼の作風を、私は好ましく思っている。
キャンパスライフ。男女共学だとあんな感じかあ。はるか昔の大学時代を思い出しつつ拝見。
これでいいのか、と学生時代を問うような作品。就活、恋愛、バイト、部活動。将来への漠然とした希望、すれちがう思い、恋愛、秘密、孤独。特に共感を覚えた登場人物はいなかったけど、それぞれの人物に、そういうのあるよね、とうなづけるリアルな大学生だった。内向きと言われる現代の若者。政治や外交、自分の世界の外で起こっていることに無関心な、いわゆる平和ボケしている若者たちに、中国人の郭暁偉(有田哲氏)が、「日本人は緊張感がないですね」という辛辣な言葉を吐くのが、自戒もこめて気持ちよかった。学生の日常や夢だけを描くのではなく、戦争という非日常が迫っているという社会的現実を並べるところ、聡明で真面目な印象だ。しっかり学生の現実を伝えようとしている。そんな真摯さに好感がもてる。
舞台の女子大生たちを観ていて浮かぶのは、ブリットニー・スピアーズが歌った’I’m Not a Girl, Not Yet a Woman’. ガールではないが、まだ女でもない。じゃあどうなったら「女」なんだ?処女喪失とかそんな単純なものじゃないのよ。諸説ありましょうが、それは女の大きな秘密。母でも妻でもない。母にも妻にもある。決して口にされない秘密。女は秘密を共有していると見抜いた谷川俊太郎氏のWedding Dayという詩の一節からご紹介。
離れてゆくのではありません
お母さん
わたしは近づいてゆくのです
あなたのやさしさに
あなたのゆたかさに
そして
あなたのかなしみに
わたしたちのわかちあうのは
なんという大きな秘密
なんという深い知恵
結婚する女性の詩ではありますが、嫁ぐ日にこう言える女性はなかなかおりますまい。まだまだ迷える女子大生たち。それが青春。男子はガキンチョで話にならない。それがいいんだ、男子は。でもこの登場人物たち、誰も不完全で将来不安。ミサイルが彼らをどう変えるか、先が知りたい。
内向きな若者といえば、米国務省は日本からの留学生数の急激な減少を憂いている。1997年には47,000人以上いた日本人留学生が、今では20,000人を切っているのだから、将来の日米関係を考えると憂うのも無理はない。戦後まもなく、まだ日本国にパスポートも無い時代に渡米したガッツある日本人の一人が、北海道日米協会の会長、伊藤組の伊藤義郎氏だ。お元気なうちにぜひ自叙伝を書いてくださいとお願いしている。なにしろ、進駐軍!にアメリカに行きたい!と直談判。英語力をつけてからまた来なさい、と言われて、米軍の厨房で皿洗いをしながら1年間英語を勉強した。そして1年後、約束通り留学が許された。カリフォルニア大学だ。船でようやくサンフランシスコに辿り着くも、パスポートがなかった上、かつての敵国民。怪しいことこの上ない。とりあえず?投獄されてしまう。1週間ほどして、大学関係者が心配して探してくれてようやく解放され、無事留学。私のどうしてそうまでしてアメリカに?という質問に、伊藤氏は、「日本が負けた国を実際に見てみたかった」と答えた。今は時代は違うし、ネットで情報は入るし、平和で豊かな日本にいて不自由は無い。しかし、伊藤氏が渡米を志したと同様に、何であれ熱い思いで日本を飛び出す若者が増えてほしいものだ。