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札幌演劇シーズンとは?

ゲキカン!
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在札幌米国総領事館職員  寺下ヤス子さん

これが別役ワールドか。日本の不条理演劇の第一人者だけあって、通常社会では「え?」と聞き返したくなる言葉が、老婆から発せられる。欺瞞、偽善、事なかれ主義を激しく糾弾しているようでもあり、桜の木の霊的なオーラが狂気も感じさせる、不思議な世界だ。

桜に宿る悲しみの霊として思い浮かぶのが、能にある「忠度」だ。源平の合戦で敗れた平忠度は、歌詠みの名手でもあった。「行き暮れて、木の下かげを宿とせば、花や今宵の主ならまし」という歌を詠み、後にこの歌は千載集に入れられたのだが、源氏の世であったため、作者は詠み人知らずとされた。それを、自分の名前にしてほしい、と訴えるため霊となって現れる。今更、著作権でもあるまいし、みみっちいことを言うものだ。しかし、忠度の合戦での壮絶な最期を知ると、世や源氏への恨みつらみを聞くよりは、歌に作者名を入れるという解決可能な供養手段の提案なのでいいかと思える。もっとも千載集での解決には至らなかった。この忠度の霊は、桜に宿る。
桜の神秘性は古来からお墨付きなのだ。

はっきりと感じるのは、鬱積した怒り、憎しみ。なぜと聞かれても答えようのない、しかし確実にそこにある憎しみ。丸山 薫の「病める庭園」という詩の世界を連想させる。この詩は、「富裕に病んだものうい風景」に、「泪に濡れて叫ぶ」憂鬱のふるえ声として、「オトウサンナンカキリコロセ オカアサンナンカキリコロセ ミンナキリコロセ」という一節で終わる。こんな殺意の感情まで詩にしてしまうのかと驚いた作品だ。辛いが、人としてこんな感情が誰にでも起こりえるのだと認めざるをえない。

この劇の出来事は、理屈をあてはめて解釈しようとしたくない。老婆をはじめとする登場人物には、自分の理解をはるかに超えた神秘性が潜んでいるかも知れない。心の中に、ざわざわ、もやもやしたものを残して劇場を去ればよいと思う。心残りは、桜の花びら。もう少し、はんなり優雅に散る姿を観たい。
散る花を 惜しむ心やとどまりて また来ん春の たねになるべき

PROFILE
寺下ヤス子
在札幌米国総領事館で広報企画を担当。イギリス遊学時代にシェークスピアを中心に演劇を学んだ経験あり。神戸出身。

映画監督・CMディレクター  早川 渉さん

「分かりやすく、美しい不条理劇」



 「桜の木の下には死体が埋まっている」。
劇団新劇場による「木に花咲く」の冒頭、主人公の老婆が呟くこのセリフは、梶井基次郎の短編小説「桜の木の下では」の有名な一節。満開の桜と死体という相反するイメージが独特の美しさと不気味を伴って私たちの胸に刺さってくる。一度聞くと忘れられない強烈なフレーズだ。
「木に花咲く」は作者の別役実が、昭和54年に東京の世田谷起こった「朝倉少年祖母殺害事件」を材料にして書いた戯曲。この事件は、学者一族の中でエリートとして教育されてきた16才の少年(当時高校一年生)が67才の祖母を殺害し自身も投身自殺をした、というもの。翌年には、神奈川県川崎市で「金属バット殺人事件」が起こり、この頃から「家庭内暴力」という言葉が一般的になったように思う。

「木に花咲く」は不条理劇だ。
不条理劇と聞くと、「訳が分からない」とか「暗い」とか少しハードルが高い芝居のような印象を受けるかもしれない。でも大丈夫!この作品はとっても分かりやすい不条理劇だ。もちろん「デイヴィッド・コパフィールド」のような人間の人生を描いた大河ドラマでもなければ「カメヤ演芸場物語」のような笑いあり涙ありの人情喜劇でもない。ここにあるのは不条理な現代社会のお話だ。
この芝居のテーマは、観る人によって変わってくるかもしれない。中高年以上の方にとっては、「戦後」「昭和」「家父長制の崩壊」というテーマが、若い世代にはストレートに「家族」「教育問題」「家庭内暴力」というテーマが浮かび上がろう。また、昨年道内で起こった母親と祖母を殺害した少女の事件を思い出す人も多いだろう。こういった具体的なテーマや事件が想起しやすいことも、この芝居を分かりやすくしている原因の一つだろう。不条理劇といっても、不条理な事件や事例をテーマにしているから不条理劇なだけであって、決して「不条理」な「劇」ではない。老女を演じる斎藤和子の愛憎みなぎる演技に刮目し、どこまでも静かな演出の底から湧き上がってくる痛切な思いに心打たれる1時間30分だ。

しかしながら、この劇の魅力は何よりもその「不条理」な美しさ、切なさにある。と自分は思う。

満開の桜の下に佇む老女と老女の膝枕で眠る頭に白い包帯を巻いた少年。
殺されゆくものと、殺しゆくもの。
愛と暴力。愛と無関心。
意味のある言葉は瞬時に意味を失っていく。

相反するイメージが次々と舞台上にあふれてくる。
美しい舞台を観たと思う。

PROFILE
早川渉/映画監督・CMディレクター 札幌在住
処女作「7/25【nana-ni-go】」はカンヌ国際映画祭に招待された。2作目の「壁男」では主演に堺雅人を迎える。昨年開催された札幌国際芸術祭の連携事業で、アイヌ神謡集の一遍にインスパイアされたショートムービー「この砂赤い赤い」を制作。代表的なCMはなんと言っても「登別クマ牧場」
映画の次回作は、演劇とのコラボ作を密かに企画中!

ドラマラヴァ―  しのぴーさん

 僕は小屋に入るとき、まず舞台に立て込まれている美術を観る癖があります。それは、どこで「劇」が起こるのだろうかと自由席であればなお、その目撃者たるべき位置に座りたいですから。シアターZOOに入って、まず感じたのは、なんて邪悪な桜なのだろうかという空気感。そして、舞台上手に、お前はどこでもドアかよ、という意味ありげに傾いた扉が一つ。実に、嫌な予感がしました。
 この病んだ救いのない芝居が不条理劇なんだとカタチからか入らないで下さい。もっと言えばフライヤーにある演出家の言葉は、いつも観客に嘘をつくものだと思って欲しい。実は、観劇後に、無性に別役実戯曲集が読みたくなってジュンク堂に走ったのですが、さすがに閉店していました。そもそも、戯曲本なんて売れないんですよ。それが全集で出ていることに、別役実が現在もなお演劇界のマエストロであり、自らの劇作世界を再定義し続けているトップランナーであることの証だと思います。なかなか作家名の後ろに「ワールド」をつけて敬愛されるのって稀なので。昨年末、東京の青山円形劇場で新作「雨の降る日は天気が悪い」が上演されるはずでしたが、病気療養のため演目が変更になったというのはニュースにもなりました。ご体調の続報に接していないので気にしていたりします。

 この「木に花咲く」は、実際の事件が別役の心を惹起して書かれたことは知られています。「いじめ」や「家庭内暴力」「不登校」、そして「自殺」とあらゆる救いのないお話が、じわじわと真綿で首を絞めるように観る者にまとわりついてきます。背景には、家父長的支配や崩壊してゆく家族像も透けて見えます。でも、それはこの劇の一面でしかありません。満開の桜の下で、茣蓙を敷いて劇中ずっと板付き芝居をする老婆の執着は、木の根っこに同化していて、この老木とその季節さえ支配しているかのようです。だって、刺殺されても死なないで生き残るんですよ。最悪。少年ヨシオ、母フサエ、父タカヒロと、名前はつけられてはいますが、ある種の記号に過ぎないでしょう。老婆の亡夫が登場し彼岸と此岸を行き来しますが、お前が殺したんだろうと言いたくなります。恐らく、この世にある全ての人々のメタファーではないのでしょうか。敢えて家族病理学や臨床社会学的にこの芝居を観れば、歪んだ母性の支配による憎しみの物語と言えるのかも知れません。歪んだ母性とは、歪んだヒューマニティのことなのだと僕には思えてなりません。

   そもそも、不条理劇は、人間の行動は合理的に説明できるし、理解できるという近代的なヒューマニティへの共通認識に対する強烈なアンチテーゼとして登場しました。今でも世界のどこかで繰り返し上演されているサミュエル・ベケットやウジェーヌ・イヨネスコらがその爆弾を落とした劇作家たちでした。つまり、人間のすることなんてそもそも理解できないんだよ、ぶっちゃけ。ということです。ベケットに文字通り劇的に出逢ったのが、別役実その人なのです。でも、もうそろそろ「不条理劇」なんてジャンルはないなと思いました。だって、この世の中、すでに不条理だらけじゃないですか。というか、もう不条理なんていうことを通り越して、只々、おぞましく、まがまがしいものだらけです。9.11から解き起こさなくたって、すでに人間のやることなんかもう説明つかないし、なんて酷い、ファックな世界になったものだと日々やるせない思いで一杯です。この芝居に現れる憎しみや執着、他者への支配や侮蔑こそ人の本性なのだ、それを乗り越えられない私たちの物語なのだと――山根義昭演出の「木に花咲く」は、演出家の意図を裏切るかのように、別役の仕掛けた剥き出しの物語をあぶりだしています。劇中の、「憎しみは外から見えないようにしろ」という台詞が、とても残酷で。しかし、同時に劇の中で一際美しく響いていたのも事実です。

 劇団新劇場の創立は昭和36年と言いますから、実に半世紀以上、札幌の演劇シーンに立ち続けている人々です。老婆役の斉藤和子は、札幌演劇界の至宝でしょう。こんな邪悪で執着心の強い老女は久々に痛快でした。また、別役の戯曲らしく、男1、男2、女1と役名を与えられていない役者たちもとても緊張感のある空間を創り出していました。老舗だけに、観客の皆さんは僕よりご年配の方々が圧倒的に多かったように思います。こういう小屋の風景は温かいものがありました。ぜひ幅広い年齢層の人たちに観て欲しいと思います。

 岩松了の劇の舞台に何かのメタファーのように階段があるように、別役劇には、大きな柱のようなものが登場します。今回は、満開の花を咲かせ、今まさに潔く散らんとする際々のソメイヨシノの古木でしょう。ちなみに、ソメイヨシノは江戸末期に染井村(現在の東京都豊島区駒込)の植木屋が吉野桜として売り出した新参者で、不思議なことに自然に増えることができません。接木や挿し木など人の手を借りなければ自分の子孫を残すことができないクローン植物なのです。いわば、人との共存を選択したと言えるでしょう。その花のはかない美しさと散り際の潔さが、いつしか日本人の心象風景のように刷り込まれていったと僕は思っています。それを老婆は喰っちゃっているわけです。その満開の桜の木の下で起こる救いのないお芝居。そりゃ、その木の下には死体くらいはあるでしょうよ。おぞましいもの、まがまがしいものは、時として残酷に美しかったりします。人の心をダークサイドに誘い込む力もあることは、かのダースベイダーが実証済み。では、なぜ、老婆という母性の川上にまで遡らねばならないのか。演劇でしか描けないものがまだまだある。そう思った夜でした。

PROFILE
ドラマラヴァ― しのぴーさん
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴四半世紀にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。

ライター  岩﨑 真紀さん

祝祭が極まればむしろ不吉だ。
晴天の桜に陰の気配を感じるのは、そのせいなのだ。

爛漫の桜の下で、紋付き黒羽織を着た老婆が、膳を前に酒を飲んでいるのである。
羽織の下の長着は格の低い小紋であるから、設定は内々ながら正式の祝い、といったところか。長着が色を控えた江戸小紋か色無地なら、すなわち喪の席となろう。いや、地域によってはそのまま喪の席であってもおかしくはないのかもしれない。

『木に花咲く』はこの奇妙な場面で始まり、老婆はほとんど桜の下から動かない。特に前半はセリフの中にしか動きがなく、ラジオドラマでも成立しそうなほどだ。それを「舞台の必然」に引き上げようとしているのが、役者の頭上を覆う花桜の存在か。

桜は里桜の代表ソメイヨシノで、「湿って重い香り」を放っているのだという。だからこれは、北海道の話ではない。花咲く頃の北海道に、湿度のイメージはあまりない。また、本州以上に早々と散る北の山桜に、重さを感じることも少ない。
桜の太い幹に感じる「家の因習」も、歴史浅い北海道の、庶民である私には無縁のものだ。いや『木に花〜』は因習の物語ではないのだけど…、ただのサラリーマン家庭にしては格式を感じさせる「場」の設定に、実は資産家であるとか、今は落ちぶれたけれどかつてはそれなりの身分の家柄だとか、そういう背景がほしくなる。演じられた老婆のプライドと気性から言っても。

そして『木に花〜』は、実は不条理劇でもないのではないか? セリフを一心に聞けば、そこには理がある。それぞれの理が。演出家がそれをどう読み解いたかはわからないけれど。

別役実が本作の材料にしたという「朝倉少年祖母殺害事件」は、今ではネット上に大量の資料があり、因果の糸もほぼ解かれているかに見える。けれど、別役は事件のリアルからは離れて、起きた事象からこの脚本を創造したのではないか。そうでなかったとしても、事件を祖母の目から描いたのは「社会の中で若者が自ら命を絶つとき、彼らを殺したのは『私』なのだ」という自覚が、脚本家の中にあったからではないか…。

その「私」とは私のことでもあり、あなたのことでもある。

親が子どもに伝えるべき第一のことは「死にたくならないように生きること」だ。自死が増え続ける現代日本において、それは必須だ。「死にたくならない自分」を見出すことが、人生序盤における最大の課題になっている、と言ってもいい。

子供時代というのはけして祝福だけが満ちあふれたものではない。誰もがなんらかの形で呪いを受け取る。そして、それは『デビット・コパフィールド』のようにわかりやすいとは限らず、祝福の形をしていることも多いのだ。

『木に花〜』の少年は、祝福の形をした呪いに捕らわれてしまう。老婆は、少年の父は、母は、少年の死を願っただろうか。誰も願わなかったけれど、極まった祝福はむしろ呪いとなった。与え続けてきた、あるいはこれから与えようとする祝福を支える愛着やプライドは、ときとして孤独やコンプレックスの裏返しとしての呪いなのだ。

若くてまだやわらかな魂に何かを与えるのなら、深く深く、自分の魂の奥底までを見つめて考えることが必要なのかもしれない。
少なくとも、「木は憎しみを花と成就させるのだ」などと、望まぬ子どもに強いてはならないだろう。憎しみをエネルギーにできる期間は短く、子どもの人生は長い。そして、社会に必要とされるための鋳型は、「私」が知っているものが全てではないのだ。

PROFILE
岩﨑 真紀
フリーランスのライター・編集者。札幌の広告代理店・雑誌出版社での勤務を経て、2005年に独立。各種雑誌・広報誌等の制作に携わる。季刊誌「ホッカイドウマガジン KAI」で演劇情報の紹介を担当(不定期)。

NHKディレクター  東山 充裕さん

満開の桜の下で、座っている一人の老婆。
そこへ学校でいじめられたという孫が帰ってくる。
老婆は孫に膝枕をしてやりながら、いじめた奴を許してはいけない、憎み続けねばならない、そして勉強して出世して奴らを見返してやれ、と教育する。
一方、孫の両親は「息子にも反省すべき点がある」と、息子に寄り添わず、距離をおいている。

この舞台を見ながら、『日本のいちばん長い日』という映画の1シーンを思い出した。
昭和20年8月14日、なぜ今さら戦争を止めるのか、一億総玉砕ではないのか、最後の一兵まで闘うべきだと、上層部に楯突く若き青年将校。上層部はその青年将校の態度に憤慨するも、実は、自分たちがそのように教育してきたのだということを苦い思いで噛み締める、というシーンだ。

確かに、老婆には孫に対する愛がある。ただそれだけではない。自分の人生における恨みや悔いも孫に託してしまっている。

ラスト近くに、孫がとある事件を起こすのだが、実は孫がその犯人でなかったと知った時の老婆の反応が印象的だった。
事件を起こすことは間違っているが、事件を起こしていないなんてもっと間違っていると嘆くのだ。何もしないことの方が間違っている、そっちには何もないと…。

強く生きるとは…、教え育てるということとは…、考えさせられる舞台だった。

PROFILE
東山 充裕
 NHKディレクター。北海道出身。高校・大学時代と自主映画の監督を経てNHKに入局。主な演出作品に連続テレビ小説『ふたりっ子』、大河ドラマ『風林火山』、福岡発地域ドラマ『玄海〜私の海へ〜』(放送文化基金賞本賞受賞)、ドラマスペシャル『心の糸』(国際賞受賞多数)、FMシアター『福岡天神モノ語り』(ギャラクシー賞優秀賞受賞)、自主映画『the story of “CARROT FIELD”』 など。
 札幌では、札幌発ショートドラマ『三人のクボタサユ』、FMシアター『ルート36』『パパの絵本』を演出。
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