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札幌演劇シーズンとは?

ゲキカン!
札幌座「蟹と彼女と隣の日本人」

在札幌米国総領事館職員  寺下ヤス子さん

「蟹」か。やっぱり北海道は蟹だよな。凍った雪道をヨチヨチと歩きながら、よそ者は考えた。北海道の蟹の新鮮さたるや、半端ない。自らのハサミで足を束ねるゴムをちょきんと切り、発砲スチロールの箱を逃げ出tして、ススキノを徘徊するのだ。蟹よ、どこへ。意思ある蟹、動き回る蟹なんて、筆者には恐怖でしかない。昔、兄が飼っていたアメリカザリガニが逃げ出して、近所のおばさんが、サソリが、サソリがと大騒ぎしたことを思い出した。ところが北海道人は、難なく脱走蟹を捕まえるとさっさと茹でて食っちまうのだが、驚くことに、誰しも「マイ蟹スプーン」を常に持ち歩いており、いつ蟹に出くわしてもいいように準備しているのだという。さらに、観光を主たる産業とする札幌は、外国人観光客用にハイテクを駆使した自動音声翻訳機能の電子掲示板がススキノに設置してあり、即座に会話を互いの言語に翻訳してくれる。強調したい言葉は、大きなフォントで出る優れものだ。これがあれば、道案内はもちろん、韓国人イケメンとの会話もはかどる。

 さて主題は上記ではない。スープカレーも食べられる中華料理店。その日常を切り取った舞台で、韓国人と日本人の互いへの感覚を描き出す。反日教育の根強い韓国人に、日本への感情を語らせるなら、ユーモア満載でないと気が重いさ。静かすぎて気持ち悪い隣人、日本。ケンチャナヨ。

国は違っても、人間の営みは同じ。生きているといろいろあるのよ、ってことで、すっかり明らかにはされないが、店の女主人よしこも、韓国人女子学生スジョンも悲しみを抱えている。
さらりとある一日が終わり、フランス映画のようにあれ?と劇も終わる。どうしたらいいのと訊かないで。情景描写なんだ。希望のある情景描写。

韓国人俳優の二人が新鮮。札幌座のベテラン陣との息もいい。タマネギやスパイスの香りが、お店の雰囲気を醸し出す。空腹で観る人は要注意。コミュニケーション・ギャップや三郎役のおとぼけに、隣の高校生たちは笑って楽しんでいた。ゲキカンU-18期待してるよ、と声はかけなかった。人見知りの日本人なので。

PROFILE
寺下ヤス子
在札幌米国総領事館で広報企画を担当。イギリス遊学時代にシェークスピアを中心に演劇を学んだ経験あり。神戸出身。

ライター  岩﨑 真紀さん

「僕が逃がした蟹はどこですか?」

このセリフだけ引っ張り出すと不条理劇のようだが、もちろんそんなことはない。斎藤歩作演『蟹と彼女と隣の日本人』は、終始リラックスして楽しむことができる、ひなびた手触りの芝居だ。全体にくだらなおもしろく、のんびりと笑い、ちょっとだけ隣国との関係について考える、そんな作品。

そもそも「笑い」は「ズレ」から生まれるわけで、異文化コミュニケーションというズレ多発の状況を体験した斎藤は、劇作家としてこれを見逃せなかったに違いない。海外からの友人知人をもてなした人なら「そうそう!」(笑)と膝を打つ「異文化交流あるある物語」、それが本作だ。

それにしても、斎藤歩は相当の食いしん坊だ。私はまだ、飲食や調理のシーンが登場しない斎藤作品を観たことがない。今回も冒頭から、役者がまな板に向かっている。タマネギを刻み、炒める。甘く香ばしい香りが漂い、急いで劇場に駆け込んだ空腹を思い出す…。
設定はススキノのはずれの中華料理屋(という看板の定食屋)。
そして物語の後半に入って、舞台上の役者が揃って食事。札幌ならではのアレとかコレとかを食べるのだ。ちょっぴり韓国のソレとかも入っていたり。斎藤は飯寿司やニシン漬けが好きなのだな。

フード理論ではないけれど、良きコミュニケーションに食事は欠かせない。だから斎藤作品には食事場面が登場するのだろう。ましてや異文化交流作品なのだから、このシーンは必須だ。

しかし『春の夜想曲』で燕尾服が登場したときにも驚いたけれど、本作で道民必須アイテムとして登場したものにも驚いた。これ、海外の方にジョークだとわかるだろうか?いや、この手の冗談は異文化交流には付き物だけど、あまりにナチュラルに登場するので(笑)。ああそれにしても、高嶺の花ならぬ高値の○○、私は久しく食べていない…。

終盤では、韓国と日本の間に横たわる問題について、韓国人の彼女の視点で語られる。隔てているものが東海=日本海であるときと、5.5㎝の壁しかない状況とでは、関わりも感じ方も変わる。だがその海は、越えることは容易いながらも純然として存在し続けるものでもある。

まぁ、互いにままならぬ隣国との関係が夫婦関係に似ているとは、私は思わない。これについては結婚経験のある「女性」のほとんどが賛同してくれるのではないか、と私は思う。男と女の間にも海がある(笑)。

海外の友人知人の誰彼の顔を思い浮かべて楽しんだ芝居だったが、欲を言えばもっと「韓国人らしさ」「日本(北海道)人らしさ」が笑いどころとなる部分が欲しかった。ことあらば熱く激しい彼らと、気を回してばかりの私たち。別の国の第三者の視点で見れば、とても滑稽に違いない。

PROFILE
岩﨑 真紀
フリーランスのライター・編集者。札幌の広告代理店・雑誌出版社での勤務を経て、2005年に独立。各種雑誌・広報誌等の制作に携わる。季刊誌「ホッカイドウマガジン KAI」で演劇情報の紹介を担当(不定期)。

映画監督・CMディレクター  早川 渉さん

「三郎さんの姿に寅さんを見た夜」




 自分は道産子ではなく、生まれも育ちも名古屋である。
大学からずっと札幌に居着いているので、かれこれ30年以上この街にいることになる。「セミ道産子」(早川の造語)だ。
 故郷の名古屋の記憶はほとんど昭和の記憶だ。それもテレビ番組の記憶が多い。不思議なことに特定の劇団の芝居を見ると、昔小学生の頃見ていたテレビ番組の記憶が蘇ってくることがある。

毎週土曜日の午後2時から4時までの2時間は吉本新喜劇と松竹新喜劇の番組が続けて放送されていた。吉本の方はまだ間寛平がバリバリの若手だったと思うし、松竹の方は当然藤山寛美の全盛期である。今思うと、外にも遊びに行かず芝居の番組を家でごろごろしながら見ている小学生もどうかと思うのだが、ともかく実に贅沢な土曜の午後だった。

 今回の演劇シーズンで公演された劇団イナダ組による「カメヤ演芸場物語」は、舞台が東京の浅草であるにもかかわらず吉本新喜劇の匂いのする芝居だった。昭和の懐かしい演芸の匂い、芸達者な芸人たちが繰り広げるドタバタ基調の人情話。松竹新喜劇の芝居を思い起こさせるのは納谷真大率いるELEVENNINE(イレブンナイン)の芝居、特に納谷が主役を張った演目の時に藤山寛美のごとく大きな座長芝居が見られる。まさに観客の笑いと涙を絞り出す大芝居だ。これらの昭和の記憶を思い起こさせる芝居を見ると、感傷的でノスタルジックなホコホコした気分が胸にこみ上げてくる。

 斎藤歩演出による札幌座の芝居はとても知的で聡明だ。一見庶民的な家族や共同体の姿をしんみりと、時には軽妙に描きながらも、描くべき姿は現代的なものであり、語られる(決して声高には語られないが)主題は概して静かで重い。どことなく懐かしい感じがしなくもないが、語る視点の立ち位置はいつも今、この場所である。だから昭和を感じることやノスタルジックな印象を受けることがほとんど無い。しかし、今回の「蟹と彼女と隣の日本人」では、昭和を代表する大スター、渥美清が演じた「車寅次郎=寅さん」の影を見た気がした。「隣の日本人=三郎」の姿にだ。

 木村洋次演じる三郎は、謎だらけの人物だ。一見ただの変人にしか見えないが、怪しげな韓国語を流暢に操ったりもする。実はかなり学のある人間何じゃないかとも想像される。役柄的には芝居の流れにアクセントを付けるコメディリリーフ的な位置を占めるのかと思いきや、自分には一番魅力的で興味を引かれる登場人物となった。三郎が蕩々と語る奇妙な長台詞のテンポ感や心地よさに、寅さんのテキ屋口上や、「寅のアリア」と呼ばれる一人語を思い出す。映画ではなかなか出てこないが、寅さんも放浪先の土地の人にとってはかなり謎めいた人物だったに違いない。それなりに人情家で、口が上手く、でも何やっているか皆目見当が付かない。そうそう惚れっぽいところも肝心だ。その恋は絶対に叶うことはない。

 「蟹と彼女と隣の日本人」は間違いなく辛口の現代的な芝居である。
そこには、美味しそうな蟹や多国籍料理となったスープカレーの刺激的な香りが立ちこめるほのかな希望の光刺す空間と魅力的な隣人たち(チョン・ヨンジュン、チョ・アラが好演!!)による人間的な暖かさを感じる世界と、油断のならない問題だらけの現実が横たわっている。

 そうだ、三郎という人物は、帰る場所を失った寅さんだ。
故郷の葛飾柴又の団子屋を失った寅さんはどうなってしまうのか?
三郎の姿に寅さんの影を見いだした夜。自分の心はほんのり暖かくなりつつ、チリチリした痛みのようなものを感じていた。

PROFILE
早川渉/映画監督・CMディレクター 札幌在住
処女作「7/25【nana-ni-go】」はカンヌ国際映画祭に招待された。2作目の「壁男」では主演に堺雅人を迎える。昨年開催された札幌国際芸術祭の連携事業で、アイヌ神謡集の一遍にインスパイアされたショートムービー「この砂赤い赤い」を制作。代表的なCMはなんと言っても「登別クマ牧場」
映画の次回作は、演劇とのコラボ作を密かに企画中!

ドラマラヴァ―  しのぴーさん

 この「ゲキカン!」を書かせていただくのは、多分、本来書くべき方のピンチヒッターだと思うので、これが最後です。しかも、HTBスペシャルドラマの揺籃期を支えてくれた大恩人である斎藤歩の作・演出・音楽の札幌座作品。とても長い、ゲキカンになりますが、どうかお許しの程をと、冒頭にお詫びしておきます。

 さすがは、オオトリ。ありえない設定で思いっきり笑えて、最後はじわーっと心にきます。これはぜひ「U-18」の高校生の皆さんの「ゲキカン!」の方を読むべきでしょう。
 僕は札幌座が大好きです。そして、斎藤歩の、人間という存在の在り様とその変わらない日常に対する洞察と、そこに起きる小さなさざ波のディテールを極めて精緻に積み上げていく作品群が大好きです。「蟹」は、人と人が理解しあえないことを、そして理解しあえることの正解のない曖昧さを実に温かい眼差しで見つめ、寄り添ってみせた小さな宝石のような作品です。こういう雰囲気は札幌座ならではのものであり、韓国から俳優が参加し、共同作業で練り上げ、しかもシアターZOOという小劇場でなければ生まれなかった劇空間でしょう。ワインに例えれば、偉大なロッソ、バローロやバルバレスコを生む葡萄種ネッビオーロが何十年もの長い熟成に耐えうるように、きっと、この「蟹」は、再演を重ねる度に、日本と韓国に横たわる深い溝を超えて、人としてのヒューマニティを信じる私たちに深い余韻を残す力があると感じました。やっぱり斎藤歩は偉大です。

 初演が2009年。韓国を眺めると、ソウル特別区市長として華々しい実績を上げて世界的注目を浴び、大統領選挙を大差で制して颯爽と登場した李明博大統領の時代です。再演は東日本大震災が起こった2011年。李が歴代大統領として初めて竹島(韓国名は独島)に上陸したのは翌年の8月ですから、リーマンショックがあったとは言え、ナショナリズムを煽らなければならない程、日韓の関係は急速に悪化し始めていました。ですが、これは国と国のお話です。
 劇作は斎藤歩ですが、演出はずっと交流を続けてきた劇団青羽(チョンウ)のキム・カンボ(斎藤と同い年だそうです)でした。このことは、前述した時代背景を考えると大きな意味があると思います。「蟹と彼女と隣の日本人」。これって、主語は韓国人の視点でつけられたタイトルですよね。つまり、そもそも韓国人の演出家に委ねた本だったのです。演出家同士というより、人としての信頼があってのことでしょう。この札幌演劇シーズン2015-冬では再々演となるわけですが、 斎藤がフライヤーに寄せているように「本と札幌の俳優を韓国人に預けて書きっぱなしだった自分の書いた本に」向き合って作られた、2015年という時代において日本人である演出家、斎藤歩という視点に置き換わった劇になっているはずです。台本をかなり書き直したと、終演後に、演者である宮田圭子は話していましたが、なるほどとうなずけました。

 札幌の演劇シーンにおいて、TPS(シアタープロジェクトサッポロ)時代もそうであったように、札幌座とチーフディレクターである斎藤歩の果たす役割は非常に大きいものがあります。俳優で、劇作家で演出家。しかも音楽も編曲も美術もこなす斎藤の多彩な才能は、ずっと札幌の演劇シーンを牽引してきたし、現在、活躍の場を東京(かの柄本明と同じ所属事務所であることは実に示唆的なのですが)に移した今でも、その成果を札幌に自腹を切って還元し続けてきました。もっと言えば、札幌座だけのことではなく、札幌における演劇の地位を上げ、また演劇を通して、札幌という都市の豊かさの創出にも寄与しようとしてきました。いつも殺気立ったその外見の佇まいを裏切る、きっと内面の熱い人だと、ちょっと遠くからいつも眩く尊敬を込めて僕は見ています。

 札幌座はあらゆる意味で斎藤の目指す演劇の姿が凝縮していると言えるでしょう。東京を中心に俳優論を語るつもりはありませんが、遅咲きの役者は大器です。小日向文生しかり、遠藤憲一しかり。女優で言えば、尾野真千子もそうでしょう。その大器の花を咲かせ、確固たる俳優、演劇人としてのポジションを築いた斎藤が、今も作家で演出家なのですから、非常に恵まれている反面、札幌座の俳優さんたちは大変だろうと思っていました。どこか突破できない感じがあって。違う芝居で、違う役なのに、なぜかその役者の姿が変わらない感じがありました。失礼な物言いですいません。劇団は成長の場を求めて、積極的に海外で小屋をうち、札幌では得られない環境で敢えて役者を突き放し、鍛えてきたように思います。その成果の一つが、この「蟹」にも到達したのではないでしょうか。

 「蟹」には、大阪で生まれ在日社会の文字通り隣人として青年期までを過ごした僕自身も、日本と韓国は何かとやっかいだな感じる関係性が透けて見えます、と言ってしまうとそれで以上なのですが、この劇作には、二つの国と人を巡る多くのメタファーが仕込まれています。その一つを上げると、韓国人俳優の台詞を観客に伝えるために字幕スクリーンが舞台の上手に吊るされているのですが、これを街角に置かれている自動翻訳機に見立てる芝居がいきなり始まる場面。とっても笑えます。でも、こういうものが例えあったとしても、お互いを本当に理解するツールにはならないでしょうね。
 僕にはとても印象的な台詞があって、兵役時代は射撃の名手で、今はススキノのハズレにある中華料理店とは名ばかりの何でもありのしがない食堂(この設定が鋭い)でアルバイトをしているパク・ソング(チョン・ヨンジュン)が、口癖のように言う、「そうですね、そうですね」という言葉です。海外に住んでいたことのある者であれば、その台詞の意味はとても劇作上、大きな意味を持って聞こえます。つまり、相手と同じ考えですと伝える了解のサインでもあれば、迎合するただの相槌でもあり、言っている意味は分からない癖につい言ってしまう間の手でもあり、もっとも辛辣なのは、相手に「こいつは分かってないな」と思わせつつ、全て言っていることが分かっていることを隠す手段でもあるからです。終止、身の回りの日本人に対するソングの善かれと聞こえる曖昧な態度は、実に示唆的に思えてなりません。
 その一方で、本当は大財閥の一人娘なのではないかと思える、日本文学を研究しているという、実にとってつけたような嘘のような留学生のキム・スジョン(チョ・アラ)の人物の彫られ方が、静かな毒を含んでいて対極的です。劇のラストで、スジョンは「たった5.5センチしかない壁でしか隔てられていない隣部屋の住人のことが気になって眠れない」と店仕舞しているソングのところに現れて、やにわに、日本と韓国、そして挙句の果てにはロシアまで持ち出して夫婦の関係性に例えて揶揄するのです。これに対して、ソングは初めてはっきりとした意思を持って曖昧な答え方をします。「半分わかるけれど、半分わからない」と。僕は、このソングの態度に、この劇作の核心を観た思いでした。

 思いっきり笑えるのは。活タラバを誤配送してしまうという、そもそものお話しの発火点を作った宅急便の配達人、近藤君(佐藤健一)まで交えて、登場人物全員が横一列に並んで、あろうことか茹でてしまった蟹を一緒に食うシーン。食べるという行為はエロスに通じるのですが、それは、人が全く無防備な状態になるからです。だから、食事の最中に政治や宗教の話題を持ち出すのはマナー違反だし、ましてや、韓国人同士にしか分からない会話をするのは、もっと慎むべき暗黙のルールでしょう。ですが、突然、ソングとスジョンが日韓の政治向きの話を韓国語で話し出すシーン。笑いで進んできた芝居の空気が一瞬凍りました。しかも、スジョンが、気味が悪いと言うヘンテコな韓国語を操るフリーターの三郎(木村洋次)だけが、分かっているだろうというシチュエーションの妙も実にウィットに富んでいます。そこにソングが試作したというスープカレーが運ばれてくるのですが、中華スープに日本の出汁を加え、インドのカリースパイスと適当にキムチをぶち込んだもの。このオールアジアの味を巡るやり取りも、含蓄の深いシーンでした。

  斎藤の巧みな劇作の再発見と、自ら作曲した音楽が、人が人を理解し合うことの距離感と曖昧さを温かく包んでいます。見事な配役もこの劇に独特の空気感を生み出すことに成功しています。とにかく、韓国人俳優の二人が実にいい。ソング役のチョン・ヨンジュン、スジョン役のチョ・アラ。どこでキャスティングしたのでしょうか、と思うハマり方。いつも、女優押しで観る癖のついている僕には、どこか暗いものを懐に呑みこんでいるアラはツボでした。中華食堂の女主人でアパートを経営しているよしこ役の宮田圭子。宮田の良いところがスッと入り込める役所、実に良かったです。この芝居のトリックスターである、三郎役の木村洋次。いつもはどうしてこういう台詞回しになるのだろうかと思っているのですが、この「蟹」では、日本人から見た韓国人、そして韓国人から見た日本人の象徴として、その持ち味が実にスパイシーに効いています。稽古中に斎藤に蹴りを入れられたという、宅急便の配達人、近藤君役の佐藤健一。計算されたものかどうかは分からないのですが、芝居の間合いがちょっとずれているのが面白い役者さんでとっても楽しい。そして、札幌座の期待の女優、高子未來。「デイヴィッド・コパフィールド」のアグニス役でもそうだったように、役者としてのポテンシャルを感じます。次回の札幌座公演では、「ローザ・ルクセンブルク」で圧倒的な存在感を示した、千年王國の次世代エース、坂本祐以とがっぷり組んで、こちらも札幌座ディレクターとして斎藤歩を超える腕を奮って欲しい、すがの公の構成・演出でサミュエル・ベケットの「芝居」に挑みます。

 日本と韓国のお話しなのに、オホーツク海で獲れた(多分、ロシア産の密漁ものでしょう)活タラバガニがそれぞれ癖と訳ありの日本人と韓国人をつなげるために、茹でられるという自己犠牲を払う。それを一緒に食うことで仲良くはなれるかもしれませんが、互いを深く理解し、敬意を払って向き合うために、私たちは一人の人間として、この蟹を目の前にし、蟹スプーンを持って深く考えなければいけないと思います。国があって、領土があって、国民があるのではなく、名もなき市井の人々という人間が集まり肩を寄せて暮らす大地があって、国はようやくその上に体裁を保っているのです。そして、その国とは、為政者が引いた国境線という見えないレッドシンラインでしかないのですから。

PROFILE
ドラマラヴァ― しのぴーさん
四宮康雅、HTB北海道テレビ勤務のテレビマン。札幌在住歴四半世紀にしてソウルは未だ大阪人。1999年からスペシャルドラマのプロデューサーを9年間担当。文化庁芸術祭賞、日本民間放送連盟賞、ギャラクシー賞など国内外での受賞歴も多く、ファイナリスト入賞作品もある米国際エミー賞ではドラマ部門の審査員を3度務めた。劇作家・演出家の鄭義信作品と蜷川幸雄演出のシェークスピア劇を敬愛するイタリアンワインラヴァ―。一般社団法人 放送人の会会員。

NHKディレクター  東山 充裕さん

演出家・斎藤歩らしい優しさに溢れた舞台です。

特に今回は若い二人の韓国人俳優のチョン・ヨンジュンとチョ・アラが光っていました。
二人からは、この舞台にかける誠実さと人柄の良さが伝わって来ました。

チョン・ヨンジュンは、まるで少年のように素直で、でもどこか抜けていて、彼の行動やリアクションには思わず笑ってしまいます。
またチョ・アラは、美人で賢く、ちょっとミステリアスな女性です。
ラストシーンはその二人の会話で、韓国人と日本人との距離などが語られるのですが、客は二人の会話を、知人の会話のように寄り添って聞くことができます。
それは二人の芝居がとても自然で、親しみを感じさせるものだからです。

「芝居をするとは、芝居をしないこと」だと私は思っています。
何かしよう、上手く演じようと思っている間は、結局は演じられません。上手いとか、下手とか、テクニックは、あまり意味がないのです。ただ、その登場人物になりきって、その人物の生き方や愛や気持ちを表現することだと思っています。

韓国の二人は、上手いとか、下手とかではなく、ススキノの片隅にある中華食堂で働く明るい韓国人男性の「パク・ソング」その人であり、安アパートに入居した素敵な韓国人女性の「キム・スジョン」その人でした。

また、スジョンの部屋の変な隣人役を木村洋次が演じているのですが、今回はドンピシャ当たり役のようです。木村洋次がもともと持っている変さが、隣人役の変さとピッタリ重なり、デタラメな韓国語を長々と話したり、「蟹は誰のものか、道民のものだ」と主張するあたり、木村洋次の本領発揮でした。

「北海道、札幌、ススキノ」らしい、心地良い舞台でした。

PROFILE
東山 充裕
 NHKディレクター。北海道出身。高校・大学時代と自主映画の監督を経てNHKに入局。主な演出作品に連続テレビ小説『ふたりっ子』、大河ドラマ『風林火山』、福岡発地域ドラマ『玄海〜私の海へ〜』(放送文化基金賞本賞受賞)、ドラマスペシャル『心の糸』(国際賞受賞多数)、FMシアター『福岡天神モノ語り』(ギャラクシー賞優秀賞受賞)、自主映画『the story of “CARROT FIELD”』 など。
 札幌では、札幌発ショートドラマ『三人のクボタサユ』、FMシアター『ルート36』『パパの絵本』を演出。
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