地明かりが落ちる約7分間の間、天狐面をつけた有象無象の村人たちが、忌まわしい婚礼に参列するように、次々と手に手に提灯を持って現れては憑き者のように渦を作っていく―――。
久しぶりに美しい演劇を観た。鋼のように力強い台詞回し、そして役者から発せられる言葉は、日本語はかくも美しかったのかと、言葉の錬金術師の異名を取った寺山修司のテキストを聞いた。隅々まで演出家の血肉が表現となって、舞台で晒しものとなる役者の肉体を通して、確かな物語を観客に届けていた。考えるな、感じろ、と。シアターZOOの小さな舞台を埋めるのは、セーラー服と喪服の未亡人と夜鷹の群れ。そして、この物語の主人公であるマツとその因縁の息子松吉、そして語り部でもある松吉に思慕する少女。この圧倒的な物語の力はむしろダークオペラと言っても良いだろう。キモかわいい見世物かも知れない。かつて“アングラ”と呼ばれた世界は、こんなに極彩色でポップだったのかと感じ入った。ソワレの初日。カーテンコールが起こったのは当然のことだった。
こしばきこう率いる実験演劇集団「風蝕異人街」の『青森県のせむし男』(もはや、舞台でしかこのような表現は使えないが)のゲキカン!を書く前に、あまりに早逝した時代の寵児にして天才作家、寺山修司を生んだ時代について少しだけ書きたいと思う。
今、寺山が生きていれば80歳。創作者としては、まだまだ現役である。同世代で交友のあった山田太一、谷川俊太郎。5歳年下だが同じ劇作家の唐十郎はバリバリに活躍している。同い年の美輪明宏にいたっては、「青森県のせむし男」と同年に上演された「毛皮のマリー」で鮮烈な登場を果たし、今も美輪の手で何度も再演され続けている。
寺山が天井桟敷を立ち上げ、その旗揚げ公演として「青森県のせむし男」を上演した1967年。ベトナム戦争は泥沼化し、日本では60年安保闘争が燎原の火のように広がる中、人々は総中流社会へ突入しようとしていた。ツイッギーが来日し空前のミニスカートブームが起こったイエイエの時代。世間が同質化していくと、そこに抗う異形なものが生まれる。ヒッピーやフーテン、シンナー遊び、そしてアングラもこの年の流行語だった。アングラ=アンダーグラウンドは、小さな小屋で前衛的、実験的な劇団として立ち上がった。寺山の天井桟敷を始め、唐十郎の状況劇場、鈴木忠志の早稲田小劇場などだ。既に寺山は歌人として成功を収めていて、「青少年のカリスマ」であったが、演劇では、既成の(おそらくは西洋)演劇に対するアンチテーゼを探るように、自らの出自である青森県の因習や土着性に満ちた世界を創りだした。そこには、生と死と、性があり、閉鎖的で排他的な村社会と家制度に縛られた私たちがいた。
この劇で描かれている、旧家の嫡男が下女を強姦して私生児を生ませたり、間引きされた赤子が川流れしてくるというおぞましい話は決して寺山の純然たる創作ではない。村八分が珍しくなかった日本の忌まわしい因習の中でかつて実際起こっていた話である。旅人に宿銭を取らない代わりに自らまぐわう未亡人。母と子の近親相姦はギリシャ悲劇を引き合いに出すまでもなく、それらはかつて暗い日本の一部だった。実に醜悪な物語なのに、どこか人間の、あるいは人間社会の滑稽なまでのダークサイドを撃っている。やはり寺山は天才だった。
こしばの演出と独自の読解力は実に見事で観客を暗闇に誘い込む。視覚だけではなく、薩摩琵琶、二胡、ジャンベの音色と舞台下手で隻眼の(せむしの)下男がずっと手汲みしている井戸の水音も実に効果的に響き合っている。強靭な役者陣についても惜しみない拍手を送りたい。以前、風蝕異人街のサミュエル・ベケット作「芝居」をあの地下劇場で観て、がっかりしたことがある。だが、さすが寺山はホームグラウンドだ。こうした“現代のアングラ”は、演劇のメーンストリームにはなれないだろう。だが、演劇をより豊かなものとするためには、演劇という背中に、今も瘤のように張り付いているだろう異形なる肉の墓を乗り越えていく演劇人たちもまた必要だと思うのだ。
寺山は60年安保に反対する文化人の運動に名を連ねた。今の世を見て、あの世の寺山は何というだろうか。「引き金を引け、言葉は武器だ」。だろうか。
何を隠そう、アングラ系の演劇作品を観るのは初めてだった。
寺山修司の短歌作品は良く知っている。著作もいくらかは読んだことがある。記憶はおぼろだが映画作品では、因習と美と醜悪さと奇抜とを混ぜ合わせた世界が展開されていたような…。
その程度の知識で観た今回の公演。どこまでが寺山で、どこからがこしばきこうの脚色なのか。脚本を読んでいないので判然としないけれど、「なるほど寺山演劇が目指したのはこのような奇妙さ・美しさ・陰湿さか」と思えるものを味わうことができた。そしてまた、「アングラ演劇とは確かに見世物なのだな」との実感も。
「創作の出発点」や「脚本の構造」などは問題ではないのだ。詩的な言葉はエッセンスかつ目眩ましであり、物語は見世物的な場面を作るための背景。考えるのではなく感じる、見て楽しむ。そう、コンテンポラリーダンスを観るときのように。
こしばきこう演出による本作、正直なところ、私がアングラ演劇に対して抱いていたイメージよりもマイルドな仕上がりだったし、歌謡曲?や一部のダンスは重たいと感じた。一方で、まさにコンテンポラリーダンス的にみせたいくつかの抽象的なシーンなどには凄みがあったし、ポンプの水音、ジャンベ、薩摩琵琶、二胡などの音は、土俗的な雰囲気と奇妙な目眩まし、双方の効果を上げていた。
何より、諸々をひっくるめて見世物としておもしろく感じられたのは、風蝕異人街の代表の三木美智代が公演チラシで宣言しているところの「基礎トレーニングで鍛えた、晒せる身体」のなせるところだろう。
奇っ怪に踊り回るシーンでひょいと登場する意外な跳躍力。延々と続く中腰歩き。錬られた声の抑揚。それぞれのシーンを創るための身体の溜めやねばり、ゆがみ。全出演者が高いレベルだったというわけではないが、主要メンバーがみせてくれたものと「挑む覚悟」のようなものが、作品全体を引っ張り上げていた。
もっと他の作品も観たい。次の公演でこの演劇集団がどれほど成長しているか、それを楽しみに待ちたい。そう感じさせてくれる作品だった。
寺山修司
とパソコンで打ったら、一発で変換できた(そりゃそうか)。でも、今、認知度はどのくらいなんだろう? 10代20代は知っているのか? 『書を捨てよ、町へ出よう』っていう言葉(書名)くらいは……知らないかな?
でも逆に、先入観なしでこの舞台を突然ドカンと観た方が、もしかしたらよっぽど楽しめるのかもしれない。かくいう僕も、実は全然くわしくない。過去に風蝕異人街の舞台「大山デブコの犯罪」(これは変換できなかった。そりゃそうか)を観たくらいだ。
で、今回、久しぶりに、寺山作品観ました。もう、圧倒的。冒頭、客入れの時からすでに、世界観への導入が始まっている(あの人はいったい何周したのだろう?)。そして、演劇シーズンのお知らせを語る人への無演出感! この舞台の美意識とは相容れない事務的連絡へはいっさい関わり合いを持たない、芝居の世界観とはバッサリ切り離してしまう思い切り!(背後ではあの人がまだ周っているというのに)
そうして、劇が始まって、思った。すごく、いい。1967年に初演されたということなので、ほぼ半世紀前の作品なのに、そうとは思えない新しさがある。柵を効果的に使った演出・場面転換、めまぐるしく変わるシーン、舞台両端の音楽組、流れ落ちる水の音。僕はこの舞台に、現代性をすごく感じた。
寺山修司を現代によみがえらせたとか、回顧したなんていうこととはまったく別の次元で、言ってしまえば、風蝕異人街が寺山修司をやるというよりも、風蝕異人街の方が寺山修司をまるごと飲み込んでしまったような作品だ。
だから初日、舞台が終わってから、しばらく拍手は鳴り止まなかった。僕も目頭が熱くなった。それだけの舞台だ。
もう1つ。この「青森県のせむし男」(←変換されない)を観終わったあと、これは極上のミステリーだなと思った。たぶん、探偵小説って言葉の方が似合うだろう。あ、ここからは観劇後の人のみ読んでください……
というわけで、この舞台はミステリーとして観ることができる。ある物事を追う主人公(女学生)は、しだいに深入りしていき、人知れず行われた罪を知ることになる。その真実がわかった時、物語はとても美しく、とても悲しい結末を迎える。そう、素晴らしいミステリーは常に悲劇で終わる。
真実がわかり、物語が終わる瞬間、幕は閉じない。むしろ開く。傷口のようにパックリ開いて、観客に、生々しい姿をさらけ出す。それは、光と闇、母と子、男と女、罪と罰、そして、生と死……そうだ、パックリ開いたのは、幕でも傷口でもなく、仏壇だった。
詩人の言葉が、鍛えられた役者の肉声で届く。さすが風蝕異人街は古典劇を得意とするだけあって、基礎がしっかりした女優たちが主役を固める。特に、背中を拭かれる松吉(三木美智代)の表情は圧巻。母親(堀紀代美)の狂気を帯びた表情もいい。松吉を思ういたいけな女子(私が観たバージョンでは柴田知佳)は、集中力をきらさず哀れを誘った。噂話をする村の女たちは、マクベスの魔女のよう。そして露わにした白塗りの肌、赤い肌襦袢からのぞく白い足、身をよじる女。おじさんでなくてもドキッとする。しかしそんなドキッやおどろおどろを、ストーリーの迫力と恐怖が上回る。琵琶、二胡、ジャンベの生演奏が、おどろおどろしい雰囲気を盛り上げる。
原作の「青森県のせむし男」という戯曲は45分もあれば上演できる。サービス精神旺盛な演出家は、敬愛する寺山修司の魅力を精一杯伝えたいという意図か、前半に寺山の短歌を使った前振りを付け加え、フィナーレの歌も付け加えた。劇団員が見事に応じている。ただ、やや後半から本編が展開していくと理解していた方が、わかりやすいかも知れない。
近親相姦や子殺しなどの親子テーマは、確かにギリシャ悲劇のオイディプス、エレクトラ、メディアにある。しかしソフォクレスにもエウリピデスにもこんな怨念の深さはなかった。怨念を背中のこぶに具現化するというような視覚の発想もなかった。シェークスピアには、奇形とされるリチャードIII世がいるが、こんな悲しみを背負ってはいなかった。彼は、むしろ身体的コンプレックスと憎悪を野心に変えて生きる力とした。本作は、嫁・姑、いじめ、家、といった因習深い日本社会を背景に、人が抱き得る凄まじい負のパワー、その裏側にある悲しみを、青森の神秘的な風土描写の中に描き出した。寺山修司は、ローカルでグローバルなイノベーターだ。
寺山修司の言葉は刺さる。彼の言う通り「言葉は武器だ。」
彼が17歳当時詠んだという句は、悲しみで胸が張り裂けている。しかし若さゆえか悲しみにエネルギーがある。何だかこの若き日の悲しみに彼の創作の源泉があるように思える。切なくて大胆で好きになったその句をご紹介。
「おもいきり泣かむ ここより前は海」
(7月20日(木)通し稽古を観劇)