在札幌米国総領事館職員 寺下ヤス子さん
札幌座 「秋のソナチネ」
2014年8月1日 19:30 初日
何も予習せずに観た。関係者から俳優や脚本についてちらりと聞いていた噂も忘れていた。
この夜、秘密結社めいたロケーションのシアターZOOは、階段を降りるといつになくドアは大きく開かれていた。演劇シーズンの初日なのだ。
札幌に来て2年になるが、初めて「札幌的」なものを感じる芝居を観た。地元ウケするネタが満載だから、というだけではない。
いわゆる「よそ者」である私としては、同じく本土からの移住者や転勤族の皆さんにもぜひ観ていただいて、感想を聞いてみたい。「札幌的」って何なのだろう。
うまく表現できないけれど、新たな開拓地として移住者を受け入れてきた土地柄がもつ、「寛容さ」は、ずば抜けているのではないかと思う。
両手を広げてハグするのは気恥ずかしい、しかし戸惑いながらも、ただそこにいることをありのまま受け入れてくれる。自分たちの色に染めようとはしない。
思いやりと無関心のバランス。とにかく、空間の余裕がある、物理的にも、精神的にも。
大体、関西人や東京人は、蕎麦屋で「今打ってますから」と言われて待てるのか?、とそんな県民性の違いはさておき、舞台上では蕎麦づくりがずっと行われており、
見事に終演時には、蕎麦が出来上がっているのが面白い。初日とあって俳優人のセリフもやや力が入っているように思ったが、チェロとピアノの生演奏が
とても柔らかい雰囲気を出してくれる。オリジナル曲だというから、俳優さんもさぞ練習が大変だったことだろう。チェロの土田英順氏あっての脚本だ。
また、出前を手伝う一郎役の存在も、シェークスピアに出てくる道化役のように、笑わせながらも、天と人の世をつなぐ霊的な存在を感じさせて面白い。
ゆっくり手打ち蕎麦屋で実演を見ながら待っている間に、周囲の人とおしゃべりしている、そんな気軽な気持ちで入り込める舞台だ。仕事帰りにぶらりと寄って、
蕎麦ができるのを待ちながら、「小さな暮らし」にこそある幸せを感じよう。そう、今日一番心に響いたのは、
「一緒に小さな暮らしをしていこう」という、由果子によって語られる順のプロポーズの言葉。
孤独死なんかへっちゃらさと思っている私だが、今夜は家族が恋しくなった。
特定非営利活動法人S-AIR代表 柴田尚さん
夫:52歳。美術系プロジェクトの企画者。現在、ほとんど芝居は観ないが、実は高校時代は演劇部。職業柄かストーリーには入り込まず、製作サイド的クールな視点でものを言う。
妻:46歳。一般企業事務員。芝居は夫に比べればよく観る方で、好きな作品は何度でもリピートできる。「二時間ドラマのラスト10分だけしか観てなくても泣ける」というくらい感情移入しやすいタイプ。
夫「男ってさ、なんで蕎麦屋にあこがれるんだろう。よく中年男が脱サラして蕎麦屋目指すって話があるけど、何がそうさせるのだろうと時々思う」
妻「そうね、私はお蕎麦を食べるの好きだけど、蕎麦屋になろうとは思わないわ。だけど、蕎麦打ちを見てるのは、なんとなく好き。だから茉由ちゃんの気持ちわかるわ。」
夫「・・・あ〜、蕎麦屋に来たお客さんね。蕎麦打ち作業のストイックな感じがいいのかね。感情を抑えてる雰囲気がかっこいいのかなあ」
妻「とにかく、みんな邪魔しないで篤哉さんに蕎麦を打たせてあげて!っと思った」
夫「ああ、店主の人ね。周りでいろんなことがあっても我慢しながら黙々と蕎麦を打ってる。でも、それが演技でなく、リアルに創ってるというところがこの芝居のすごいとこだね。全てこのそば打ちの時間に合わせて設計されてる。75分の意味はそこにあるんだろうな」
妻「前の席だと、そば粉やそばつゆの香りもするんだろな。芝居はもともと嘘の世界と現実の世界が混ざってるということをあらためて思い返すわ」
夫「もうひとつの柱である土田英順さんはどうだった?」
妻「私、実際にあんな親父がいたら、やっぱり怒るわ!」
夫「あ、それは役柄の順爺さんのことね。3年間も旅に出たままで、帰ってきたと思ったら、若い女と一緒。」
妻「まあ、その3年間もっていうのは、それだけ亡くなった奥さんのことが好きだったってことかなと思うと許せなくはないか。私は一郎君が印象に残ったな」
夫「あのおバカで要領が悪く、ものすごく煩いバイトの人」
妻「だけど、人としてちゃんとしてる・・・というか。だから、篤哉さんにはそこが見えているのよね」
夫「音楽はどう?」
妻「そうね。やっぱり生演奏って好き」
夫「土田英順さんは有名なチェリストだし、贅沢だよね。これ、音楽も脚本・演出の斎藤歩さんなんだよね」
妻「へえ〜・・・」
夫「ものを創るときにさ、同じジャンルのものに影響を受けるとパクリになるけど、他のジャンルからだとオリジナルになる・・・って説があるけど、十割とか二八、水回しにへそ出し、そろそろ茹でに入った・・・・とか蕎麦用語が芝居の製作過程にも置き換えられて飛び交ってるのを想像するな」
妻「蕎麦打ちも演奏も“生”の要素よね」
夫「その二つの生の要素を物語という事前に用意された虚構と織り交ぜている」
妻「それよりも私、お蕎麦食べたくなってきちゃった!これはリアルな話」
映画監督・CMディレクター 早川 渉さん
「映画的な芝居とは?」
7月23日に行われたプレビュー公演で、「札幌演劇シーズン2014-夏」幕開け作品の一つである札幌座の「秋のソナチネ」を観た。
観る者の想像力をかき立てる、余白たっぷりの佳作である。
そして、実に映画的な芝居だった。
前回、「札幌演劇シーズン2013年-冬」で公演された同じく札幌座の「西線11条のアリア」のゲキカン!で自分は、この作品が実に演劇的であると書いた。
文中で演劇的なるものを形作るキーワードとして「ライブ感」ということを挙げ、「西線11条のアリア」という作品がこの「ライブ感」を生かす工夫が隅々まで行き届いており、演劇の虚構性をライブ感たっぷりに実に見事に表現している・・・と述べている。
では「映画的」ということはどういうことか?
同じ文中では・・・「映画的」なものを形作る要素としては「カメラの技術」が重要になってくる。・・・と指摘している。しかし、「秋のソナチネ」が映画的だという理由に「カメラの技術」という要素をそのまま当てはめても仕方がない。そもそも、舞台にカメラなんてものが存在していないのだから。しかし、自分はこの芝居を自分だけの「カメラ」を使い、自分だけの「カメラワーク」を駆使して味わっていた。皆さんも経験がないだろうか?舞台全体を観客席から見ていたはずなのに、後からその芝居の印象的なシーンを思い浮かべると、なぜか役者の表情がクローズアップになっていたり、セリフだけで説明されていた情景が自分だけの想像でまざまざと現実化していたり。自分はよくある。もちろん映画監督という職業病的な部分も大きいのだろうが(笑)。
今回の芝居では、劇の始まりから主人公の蕎麦屋の店主が蕎麦を打ち始め、様々な登場人物が入れ替わり立ち替わり開店前の店に現れて、あるときは蕎麦打ちを手伝い、あるいは邪魔し、また構わず酒を飲み、ピアノやチェロを演奏する。その間も蕎麦打ちの作業は進み、店主を演じる佐藤健一の手が止まることはない。蕎麦が出来ていく過程とその他の登場人物らが進める物語が並行して進む。蕎麦打ちの行為自体はさほど物語に関わってくるわけではない。しかし、自分のカメラでは蕎麦打ちの手さばきは、真剣な店主の表情とともにクローズアップの映像として捉えられる。粉を振り、水を回し、練り、伸ばす・・・その過程は、時には父がつま弾くチェロと父が連れてきた女が弾くピアノの旋律をバックに様々なアングルで切り取られる。晩秋の小雪がちらつきそうな夕暮れの情景とオーバーラップする。手伝いの男が出前のどんぶりを取りに行くためにスクーターに乗り古いアパートに向かう移動撮影とカットバックする・・・。現実の舞台で行われている行為を、勝手に拡大し妄想の羽を広げて観ているのだ。自分なりのカメラを使って。
こんなイメージを観客席で持つことが出来る秘密は、この芝居が持つ「余白」にある。「秋のソナタ」という芝居では、極力説明的なセリフは排され、さりげなくささやかな人々の営みが描かれる。登場人物の心情や背景や真実の思いはすべて観客の想像力にゆだねられる。観客の想像力が試される余白がこの芝居の特徴かもしれない。観客は自分のように映画的に芝居を楽しむも良し。また、野暮な感想は心にしまい、75分の上演時間をただフワフワと漂い味わうも良し。いずれにせよ贅沢に味わいたい作品である。
ライター 岩﨑 真紀さん
『秋のソナチネ』は、舞台上で醸される情感を味わう芝居だ。
まずは「ピアノとチェロと蕎麦屋」が登場。「店主」が蕎麦を打つ傍らで家族の物語が提示され、やがてできあがった蕎麦を「客」が食べる。季節は流れて年末となり、「店員」が年越し蕎麦を届けに行き、持ち帰る。
いささか奇妙な設定の中で描かれているのは、いくつかの孤独と愛の断章、ささやかな温もりだ。それらを包み込むように、チェロとピアノによる演奏が繰り返される。
「小さなソナチネを奏でながら、小さな暮らしを始めよう」と、初老の男が身寄りのないバツイチ女に言う。
「だからあたし、ずっと十勝にいると思うよ」と、地元で暮らしている妹が、都会で暮らす兄に言う。「安心して働いてな」と。
「本当は婆さんに喰ってもらいたかったっすけど、オラ、喰いやっす」と、騒がしいばかりだった男が言い、涙をこぼす。
寄り添って暮らすことや、地方の街に住むこと・離れること、一人で迎える最期の有り様などに、淋しさから温もりを導き出した脚本家・斎藤歩の想いが、ぼんやりと見えるような気がする。
それが手触りとしては遠いのは、演出家・斎藤歩が今みせたいものが、コミュニティの中のやりとりや場面の楽しさのほうにあるからだろうか。
(ツァラトゥストラにも何らかの示唆があるのかもしれないが、それは含羞を込めて読み上げられた)
芝居に底流するもの、それをいくつものソナチネがすくいあげて増幅させ、豊かな情感の中に観客を誘い込む。そしてチェロの最後の響きが暗闇の中に消えるとき、観客は自分自身の「ささやかな温もりの記憶」を思い返している。
そうだ、この芝居は、むしろソナチネを聞かせるためのものなのかもしれない。日本が誇るチェリスト・土田英順の演奏なのだから、そう思ってしまうのは無理のないところだろう。披露された曲のうちのいくつかは、斎藤歩自身が作曲した「秋のソナチネ」なのだというし。
いやいや、もしくは、舞台上で蕎麦を打ってみせるために作られた芝居なのかもしれない。そのようなお遊びも、芝居の醍醐味だ。
(蕎麦のゆで時間と演奏時間はぴったりだった!)
ああ、でも、だったら蕎麦を、私たち観客にも振る舞ってほしい。
粉を量るところからの丁寧な工程をみせられて、観客はいつの間にか、舞台上の「客」以上に、蕎麦のできあがりをじれったく待つようになっている。
しまいには温かなつゆの匂いまで嗅がせておいて、目の前で蕎麦をすすってみせられるのは、実に殺生なことだ。
ほんのひとたぐりでいい、観客にも、蕎麦を。
そして『秋のソナチネ』は、「蕎麦を味わうための芝居」ということにしてしまおう。
NHKディレクター 東山 充裕さん
今回も、札幌座らしい、心地よい優しさに包まれた舞台である。
特に音楽が素晴らしい。
チェリストの土田英順さんによる生演奏は圧巻である。
土田さんの演奏を生で聞けるというだけで、この舞台は儲け物だ。
それにしても、ピアノを演奏する役の林千賀子が、ピアノを習ったことがないというのには驚いた。
しかも、作曲は演出家の斎藤歩氏によるものだというから、さらに驚いた。
そして、もう一つの見どころが「蕎麦打ちである。
舞台の冒頭から、実際に蕎麦粉をこね、延ばし、切り、茹でて、終幕でそれを食べる。
実に美味しそうだ。
今夜は蕎麦を食べに行こう、と間違いなく思うだろう。
前回もそうだったが、今回の斎藤歩氏の舞台も、音楽と食である。
でも、それが人生にとって大事な要素の二つであることは間違いない。
チェロと蕎麦と、その間に語られるささやかな人生の優しい物語、そんな舞台です。